1分でわかる忙しい人のための王戎の紹介
王戎(おうじゅう)、字は濬沖(しゅんちゅう)、出身は琅邪郡臨沂県、生没年(234年~305年)
魏から西晋にかけて活躍した政治家で、竹林の七賢の最年少である。
幼い頃、道端の李の木に多くの実が残っていることから、食べずに苦い実だと見抜いた。
阮籍にも才能を認められ、清談や人物鑑識で名声を得た。
晋の呉征伐で軍功を挙げ、安豊侯に封じられ、後には司徒にまで昇進した。
一方で、巨万の富を築きながら、娘に貸した金の返済にこだわり、売り物の李の種に穴を開けるほどのケチな人物でもあった。
八王の乱では斉王司馬冏に権力を手放すよう進言し、怒った側近から処刑を求められたが、薬の作用を装って便所に転げ落ち、危機を逃れた。
その後も戦乱に巻き込まれ、永興二年(305年)、72歳で死去した。
王戎の生涯を徹底解説!呉征伐の軍功、司徒への昇進、八王の乱と巨万の富にまつわる逸話
王戎の出自と幼少期の逸話
王戎は魏晋の名門士族である琅邪王氏の出身で、琅邪郡臨沂県の生まれである。
小字は阿戎といい、祖父の王雄は魏の幽州刺史、父の王渾は涼州刺史を務め、貞陵亭侯に封じられていた。
なお、父の王渾は、後に晋の呉征伐で活躍する同名の王渾とは別人である。
王戎は太保王祥と同族であり、後に司徒となった王衍とは従兄弟の関係にあった。
王戎は幼い頃から頭の回転が速く、容姿や立ち居振る舞いにも優れていた。
体格こそ小柄だったが、その目は澄み切っており、太陽を直視しても目がくらまなかったという。
裴楷はそんな王戎の目を見て、「岩陰で光る稲妻のようだ」と評している。
王戎が6、7歳の頃、宣武場で見世物を見ていたときのことである。
檻の中にいた猛獣が地面を震わせるほど激しく吠えたため、周囲の人々は驚いて一斉に逃げ出した。
ところが王戎だけは逃げない。
その場に立ったまま、表情ひとつ変えずに猛獣を見ていた。
楼閣の上からこの様子を見ていた魏の明帝・曹叡は、幼い王戎の落ち着きぶりに感心したという。
また、王戎が子供たちと道端で遊んでいたとき、たくさんの実をつけた李の木を見つけたことがあった。
ほかの子供たちは我先にと李を採りに走ったが、王戎だけはその場から動こうとしなかった。
なぜ採りに行かないのかと尋ねられると、王戎は「道端にある木なのに、これほど多くの実が残っている。きっと苦い李なのだろう」と答えた。
誰でも簡単に採れる場所に、大量に残っているなら、採らない理由があるはずだと考えたのである。
実際に採って食べてみると、その李は王戎の言った通り苦かった。
後に人物鑑識で名を馳せる王戎だが、人や物事をよく観察して考える性格は、すでに子供の頃から出来上がっていたようである。
阮籍との交流と竹林の七賢の逸話
王戎の父である王渾は、阮籍と親しい間柄だった。
王戎が15歳の頃、父に従って郎舎にいたところ、20歳以上も年上の阮籍と親しく付き合うようになった。
阮籍は王渾を訪ねても、父親との話はさっさと切り上げ、その後は息子の王戎のところへ行って長々と語り合っていた。
そして王渾に、「濬沖(王戎)の見識は、あなたとは比べものにならない。あなたと話すより、阿戎と語り合う方がよい」と告げた。
息子を褒めているのだが、本人を目の前にして、お前より息子と話した方が楽しいと言われた王渾の気持ちはどうだったのだろう。
こうして王戎は阮籍や嵇康、阮咸、山濤、向秀、劉伶と交流するようになり、竹林の七賢と呼ばれた。
その中で王戎は最も若かった。
あるとき、竹林での集まりに王戎が遅れてやって来ると、阮籍は「また俗物が来て、せっかくの気分を台無しにするのか」とからかった。
すると王戎は笑いながら、「あなた方の気分も、ずいぶん簡単に台無しになるものですね」と言い返した。
清談と人物鑑識で高めた名声
王戎は形式的な威厳を取り繕わず、飾らない振る舞いをする人物だった。
清談に優れ、話題を切り出すことが巧みで、議論の要点を的確に捉えていた。
さらに人の才能や性格を見抜く鑑識眼にも優れ、当時の名士たちから高く評価されていた。
上巳の節句に、朝廷の名士たちが洛水で禊を行ったときのことである。
後日、その日の談論について尋ねられた王済は、張華については『史記』と『漢書』を巧みに語り、裴頠については古人の言行を尽きることなく論じ、どちらも聞き応えがあったと答えた。
そして王戎については、張良と季札について語り、その議論は世俗を超えた奥深いものだったと評している。
何を話していたのか詳しい内容まで残してほしかったところだが、とにかく王戎の話は一段違っていたらしい。
鍾会もまた、裴楷を「清通」、王戎を「簡要」と評している。
王戎は長々と話を広げるのではなく、簡潔な言葉で物事の要点を捉えることに長けていた。
そんな王戎の見識を頼った人物の一人が鍾会である。
景元四年(263年)、鍾会が蜀征伐へ出発する際、わざわざ王戎のもとを訪れ、別れを告げるとともに、今後どのように行動すべきか尋ねた。
王戎は道家の言葉を引き、「物事を成し遂げても、その功績を自分のものとして頼みにしてはならない。成功することが難しいのではなく、その成功を保つことが難しいのだ」と忠告した。
そして鍾会は蜀を滅ぼすという大功を立てた後、成都で反乱を起こして敗死した。
王戎が出発前にわざわざ教えてくれたことを、鍾会は見事なくらい実演して死んだ。
鍾会の死後、人々は王戎の言葉が的確だったと改めて評価した。
司馬昭への仕官と荊州・豫州刺史への昇進
父の王渾が亡くなると、王戎は貞陵亭侯の爵位を継承した。
その後、司馬昭に招かれて相国掾となり、本格的に官僚としての道を歩み始める。
吏部黄門郎、散騎常侍、河東太守などを歴任し、中央だけでなく地方でも経験を積んでいった。
咸寧二年(276年)、王戎は荊州刺史に任命された。
ところがここで、部下に命じて自分の庭園や邸宅を造営させたことが問題となり、免官に相当する罪を問われてしまう。
結局、皇帝の詔によって免官は免れ、金銭を納めて罪を償うことになった。
咸寧四年(278年)には豫州刺史に転任し、さらに建威将軍の号を加えられた。
晋の呉征伐と王戎の軍功
咸寧五年(279年)11月、晋の武帝・司馬炎は呉の征伐を開始した。
晋は各方面から一斉に呉へ攻め込み、豫州刺史だった王戎もこの戦いに参加することになる。
王戎は参軍の羅尚と劉喬を先鋒として派遣し、武昌へ進軍させた。
すると呉の将軍楊雍、孫述、江夏太守劉朗が、それぞれ配下の兵を率いて降伏した。
さらに王戎自身も大軍を率いて長江へ進出すると、今度は呉の牙門将孟泰が蘄春県と邾県を率いて降伏した。
戦って勝つというより、進んだ先で次々と相手が降伏してくる。
王戎の軍は武昌方面から呉の支配を崩し、晋の呉征伐に貢献したのである。
そして太康元年(280年)、晋軍の侵攻によって呉は滅亡した。
王戎はこの軍功によって安豊侯に昇進し、封邑を6,000戸加増され、さらに絹6,000匹を賜った。
なお、王戎が後世に「王安豊」とも呼ばれるのは、このとき与えられた安豊侯の爵位に由来している。
呉の旧臣石偉の推薦と荊州統治
呉が滅亡すると、王戎は長江を渡り、新たに晋の支配下に入った人々の慰撫にあたった。
晋の威徳と恩恵を広く示し、長年にわたって敵国だった呉の人々を、新しい統治へと馴染ませていったのである。
そんな王戎が目をつけたのが、呉の旧臣である石偉だった。
石偉は光禄勲まで務めた人物だったが、公正で率直な性格だったため、孫皓の朝廷では受け入れられず、病気を理由に官職を辞していた。
孫皓に気に入られなかったというだけで、なんとなく信用できそうな気がしてくる時代である。
王戎も石偉の清廉な節操を高く評価し、晋の朝廷へ推薦した。
これを受けて石偉は議郎に任命され、さらに生涯にわたって二千石相当の俸禄を与えられることになった。
こうした統治によって荊州の人々は晋に心服したという。
太康三年(282年)、王戎は侍中に任命され、荊州を離れて中央へ召還された。
劉肇からの贈賄事件
王戎が中央へ戻った後、南郡太守の劉肇が贈物を届けようとしたことがあった。
ところが王戎は、この贈物を受け取らなかった。
しかし、司隷校尉の劉毅は、この一件を問題視して王戎を弾劾し、王戎を檻車に乗せて廷尉へ送り、二度と官職に就けないようにするべきだと主張した。
贈物を受け取っていないのに、いきなり官僚人生終了の危機である。
『晋陽秋』によれば、劉肇から贈物について知らせる書状が、まだ王戎のもとへ届いていなかったため、最終的に処罰を免れたという。
武帝も王戎を弁護し、「王戎の行動を考えれば、私利を求めて不正な利益を得ようとするはずがない。ただ周囲と異なる行動を取りたくなかっただけだ」と朝臣たちに説明した。
つまり王戎は賄賂が欲しかったわけではなく、周囲の人間がやっていることから、自分だけ外れようとしなかったというのである。
弁護しているはずなのに、あまり格好よく聞こえない。
結局、王戎は処罰されなかったものの、清廉で慎み深い行動を重んじる人々から批判を受け、その名声を損なうことになった。
母の死と王戎の孝行
太康五年(284年)、王戎は光禄勲に昇進した。
さらに太康十年(289年)には吏部尚書となったが、母が亡くなったため、官職を辞して喪に服したと『晋書』は記している。
ただし『晋陽秋』では、母の死は王戎が豫州刺史を務めていた時期の出来事とされている。
劉毅が王戎の服喪について発言した記録があり、劉毅は太康六年(285年)に死去しているため、母の喪の時期については『晋書』と『晋陽秋』の記述に相違がある。
王戎は非常に親孝行な人物だったが、服喪の礼法に厳格に従うことはなかった。
母の喪中にも酒を飲み、肉を食べ、ときには囲碁を観戦していた。
しかしその顔はひどく憔悴し、身体も衰弱して、杖がなければ立ち上がれないほどだった。
裴頠が弔問に訪れた際には、王戎の姿を見て、「悲しみのあまり人が本当に身体を損なうというなら、濬沖は悲嘆で命を失うほどだろう」と語った。
同じ頃、尚書の和嶠も父の死によって喪に服していた。
和嶠は礼法を厳格に守り、決められた量の米を食べ、粗末な敷物で寝起きしていた。
しかし、その身体の衰弱は王戎ほどではなかった。
武帝が劉毅に「和嶠は礼法を超えるほど悲しんでいる。心配なことだ」と話すと、劉毅は「和嶠は草のむしろに寝て粥を食べていますが、これは『生孝(生きて果たす孝行)』です。
王戎に至っては、いわゆる『死孝(死に至る孝行)』であり、陛下はまず王戎を心配なさるべきです」と答えた。
王戎は以前から嘔吐する病気を患っており、母の喪に服している間に症状がさらに悪化した。
武帝は医師を派遣して治療させ、薬を与えるとともに、客人の訪問も禁止した。
司馬繇への忠告
太熙元年(290年)4月、武帝が死去して恵帝が即位すると、永熙と改元された。
同年8月、政権を握っていた楊駿は王戎を太子太傅に任命した。
翌永平元年(291年)3月、楊駿の一族が誅殺されると、今度は賈皇后(賈南風)が実権を握り、元康と改元された。
この政変後に大きな権力を持ったのが、東安公司馬繇である。
司馬繇は刑罰や恩賞を独断で決めるようになり、その権勢は朝廷内外を圧倒した。
王戎はそんな司馬繇に、「大きな事件の後なのだから、物事をもっと慎重に考えるべきだ」と忠告した。
しかし司馬繇は聞き入れなかった。
そして同年、兄の司馬澹から権力の乱用を告発され、免官されたうえで帯方郡へ流されている。
甲午制の導入と傅咸による弾劾
王戎は中書令に転任し、光禄大夫の官位を加えられ、恩信50人を与えられた。
さらに同年6月には尚書左僕射に昇進し、吏部尚書を兼任して官吏の人事を担当することになった。
このとき王戎が新たに設けたのが、「甲午制」と呼ばれる官吏登用の制度だった。
候補者にまず民政を担当させ、実際の働きを確認したうえで正式な任用を決める仕組みである。
人物を見る目に定評があった王戎らしく、官吏についてもそれぞれの適性を見極め、適切に配置したという評価が残されている。
ところが、この甲午制に猛然と噛みついたのが司隷の傅咸だった。
傅咸は上奏文で『書経』の言葉を引用し、次のように訴えた。
「『書経』には、三年ごとに功績を調べ、三度の考課によって優劣を判断するとあります。
ところが現在は、中央と地方の官吏が任期を終えないうちに、王戎によって交代させられています。
これでは能力の優劣も判断できず、前任者を送り出し後任者を迎える人々が道に絶えません。
巧妙な不正が生まれ、農業を害し、政治を乱しています。
王戎は堯や舜の教えに従わず、浮薄な風潮を助長し、社会の風俗を損なっています。
利益がないだけでなく、大きな害をもたらしているのです。
王戎を免官して風俗を正すべきです」
要するに、人間の能力を見極めるための制度なのに、その前に官吏を交代させてしまっているというのである。
しかも、王戎本人を免官しろとまで言っている。
甲午制が気に入らないという意思だけは、これ以上ないほど伝わってくる上奏だった。
しかし王戎は賈氏や郭氏と姻戚関係にあったため、この弾劾によって処罰されることはなかった。
それどころか元康七年(297年)9月には、三公の一つである司徒にまで昇進している。
政治の混乱を生き抜く王戎の処世術
王戎は晋の政治が次第に崩れていく様子を見て、古代の蘧伯玉の生き方を慕うようになった。
蘧伯玉のように時勢を見ながら進退を決め、政治について強く諫言することを避け、周囲に合わせて身を処するようになったのである。
王戎は官吏の人事でも、寒門(名門以外)出身者を積極的に登用することも、名声だけの人物を退けることもなく、波風を立てずに家柄や門地を基準として、時勢に合わせた人事を行った。
司徒となってからも、王戎は政務の多くを部下に任せていた。
ときには小馬に乗って便門から外出することもあり、その姿を見ても三公の一人だとはわからなかったという。
また、高官でありながら田園などの所有地を見回る際には、手巾を腰に差し、従者も連れずに一人で出歩いた。
かつての部下が出世して高官となり、道で出会うことがあっても、王戎の方から道を避けた。
権力をひけらかすこともなければ、自分から政治の中心に立とうともしない。
竹林の七賢だった王戎も、この頃には晋の朝廷で目立たずに生きる方法を身につけていた。
元康九年(299年)、愍懐太子が廃位された際にも、王戎は一言も諫言しなかった。
王戎はすでに65歳を超えていたが、このあと晋は八王の乱へと突入する。
八王の乱と趙王司馬倫の政変
永康元年(300年)4月、趙王司馬倫が挙兵して賈皇后を幽閉した。
この政変では司空張華、尚書僕射裴頠、侍中賈謐らが殺害された。
王戎の娘は裴頠に嫁いでいたため、王戎も連座して官職を免じられた。
永寧元年(301年)1月、司馬倫は恵帝から帝位を奪い、自ら皇帝となった。
しかし同年3月には斉王司馬冏が許昌で挙兵し、成都王司馬穎らもこれに呼応したことで、司馬倫を討つ戦いが始まった。
このとき孫秀は王戎を洛陽城内に留め置き、司馬倫の子で皇太子となった司馬荂は、王戎を軍司に任じようとした。
ところが博士王繇が、「濬沖(王戎)は策略に富む人物です。どうして若者(司馬荂)の思い通りに動くでしょうか」と忠告したため、王戎の軍司への任命は取りやめとなった。
若造には王戎は扱えないという、なかなか失礼な話だが、この評価が王戎を救うことになる。
そして同年4月、司馬冏らの軍が勝利して司馬倫は殺され、恵帝が皇帝の位に復帰した。
その間、王戎は何もしていないのに危機を回避した。
斉王司馬冏への進言と危機
太安元年(302年)5月、王戎は再び司徒に任命された。
同年12月、河間王司馬顒は成都王司馬穎と連携し、斉王司馬冏を討伐しようとした。
司馬顒から檄文が届くと、司馬冏は王戎に対応策を尋ねた。
司馬冏は「孫秀が反逆し、天子が幽閉されたとき、私は義兵を集めて悪人を討ち、臣下としての節義を明らかにした。
ところが二王は讒言を信じて大きな争いを起こそうとしている。
忠義ある者の知恵によって争いを収めたい。
よい策を考えてほしい」と語った。
王戎は「あなたが最初に義兵を挙げ、国家の大業を正した功績は、これまでに例のないものです。
しかし論功行賞は功労者に十分行き渡らず、朝廷内外の人々は失望し、心が離れています。
今や二王は百万の大軍を率いており、その勢いには対抗できません。
政権から身を引けば、従来の爵位を失わずに済むでしょう。
権力を手放して謙譲の姿勢を示すことが、安全を得る方法です」と進言した。
もう勝ち目がないから権力を捨てて生き残れという発言に司馬冏の謀臣葛旟は激怒した。
「漢や魏の時代以来、権力を手放して私邸に退いた王公が、妻子まで無事に保てたことがあっただろうか。
このような進言をする者は斬るべきだ」と叫んだ。
献帝、劉禅、曹奐、孫皓と、探してみればわりといる。
ともかく、その場にいた百官は恐怖に震えた。
ここで王戎が選んだのは反論でも命乞いでもない。
服用していた薬が突然効いたように装い、そのまま便所へ転げ落ちたのである。
先ほどまで国家の行く末について話していた司徒が、突然便所に落ちた。
しかし効果は抜群で、王戎はそれ以上追及されることなく災難を免れた。
そして王戎が命懸けで勧めた撤退策を受け入れなかった司馬冏は、まもなく長沙王司馬乂に敗れて殺された。
その司馬乂も後に敗れ、やがて東海王司馬越が政権を握ることになる。
八王の乱を生き抜くには、便所に落ちることも必要だった。
黄公の酒場で振り返った竹林の日々
そんな王戎も、年を取ってからは若き日の竹林を振り返ることがあった。
あるとき黄公の酒場の前を通りかかると、後ろの車にいた客へ「昔、私はここで嵇康や阮籍と心ゆくまで酒を飲んだ。竹林の集まりにも、その末席に加わっていた」と語った。
さらに「嵇康と阮籍が亡くなってから、私は世の中のしがらみに縛られるようになった。今こうしてこの場所を見ると、かつての日々は近いようでいて、山河を隔てたほど遠く感じる」と続けた。
竹林の七賢では最年少だった王戎も、嵇康や阮籍を見送った後は晋に仕え、政変をくぐり抜けながら三公にまで上り詰めた。
黄公の酒場は変わらずそこにあっても、竹林で酒を飲んでいた頃にはもう戻れなかった。
蕩陰の敗戦と王戎の最期
永安元年(304年)7月、東海王司馬越は恵帝を奉じて成都王司馬穎を討伐するため、北征を開始した。
王戎も百官とともに、この遠征に従った。
しかし成都王司馬穎の部将石超が蕩陰で恵帝側の軍を撃破した。
戦いは凄惨なものとなり、恵帝自身も顔に傷を負い、体には三本の矢が刺さった。
敗れた恵帝は石超によって司馬穎の本拠地である鄴へ連れて行かれ、王戎もこれに従った。
一方、東海王司馬越は自らの封国である東海へ逃れた。
この混乱に乗じて、関中にいた河間王司馬顒は部将張方を洛陽へ進駐させた。
さらに同年8月には成都王司馬穎が、東瀛公司馬騰と安北将軍王浚の軍に敗北する。
司馬穎は恵帝を伴って鄴から洛陽へ逃れ、王戎もこれに従った。
ところが洛陽を支配していた張方は、恵帝と司馬穎をさらに西の長安へ移した。
蕩陰で敗れて鄴へ連れて行かれたと思えば、今度は洛陽へ戻され、さらに長安へ移される有様である。
王戎はこの混乱から離れ、郟県へ逃れた。
王戎は敵の刃が身近に迫るような状況でも、平然と談笑を続け、恐れる表情を見せなかったという。
幼い頃、猛獣を前にしても平然としていた王戎は、70歳を過ぎてもその胆力だけは変わらなかった。
郟県へ移ってからは親族や客人を招き、日々酒を飲んで過ごす。
竹林で阮籍や嵇康らと酒を酌み交わしていた若者は、晋の最高官まで上り詰め、王朝が崩れていく中でも最後まで宴席を離れなかった。
永興二年(305年)6月4日(305年7月11日)、王戎は郟県で死去した。
享年72歳で、諡号は「元」とされた。
王戎の嫡長子である王万は、若くして評判のよい人物だったが、幼い頃から非常に太っていた。
王戎は息子を痩せさせようと糠を食べさせたものの、かえってさらに太ってしまい、19歳の若さで亡くなった。
王戎には庶子の王興もいたが、王戎は彼を自分の子として認めなかった。
そのため、従弟で陽平太守を務めた王愔の子を後継者として迎えている。
また長女の王氏は尚書僕射裴頠に嫁いでおり、この姻戚関係によって王戎は裴頠の処刑時に連座して免官となった。
巨万の富を築いた王戎の吝嗇な逸話
王戎は財産を増やすことを好み、各地に田園や水碓を所有し、京城でも屈指の資産家となった。
自ら象牙の計算棒を手にして昼夜を問わず財産を計算し、それでもまだ足りないかのように振る舞っていた。
その一方で、王戎は非常にケチな人物で、自分自身の生活にもほとんど金を使わなかった。
人々はその極端なケチぶりを、治すことのできない重い病気になぞらえて「膏肓の疾」と呼んだ。
『世説新語』の「儉嗇篇」には9つの逸話が収録されているが、そのうち4つが王戎に関するものである。
王戎は夜になると、妻とともにろうそくの明かりの下で計算棒を並べ、財産を数えていた。
王戎の家には、非常においしい李の実をつける木があった。
王戎はその実を売っていたが、購入者が種子を手に入れて同じ李を育てることを恐れ、売る前に種子へ穴を開けていた。
裴頠に嫁いだ娘には数万銭を貸していた。
娘がなかなか返済せず、実家へ帰って来ても王戎は不機嫌な顔をしていた。
娘が借金を返すと、ようやく機嫌を直して喜んだ。
甥が結婚したときには単衣を一着贈った。
しかし結婚式が終わると、その単衣を返すよう要求した。
こうした振る舞いによって、王戎は世間からたびたび批判された。
ただし、どんな金でも惜しんだわけではない。
父の王渾が亡くなった際には、かつての部下たちが贈った数百万銭もの弔慰金を受け取らなかった。
また八王の乱の混乱の中では、郟県令華譚が民衆を救済していることを知ると、その行動を評価して穀物300斛を提供している。
妻とのやりとり、故事成語「卿卿我我」の由来
妻との間には少し違った意味で有名な逸話が残っている。
当時の礼法では妻は夫を「君」と呼び、「卿」は夫が妻を呼ぶときに使う言葉だったが、王戎の妻は夫を「卿」と呼んでいた。
王戎が「妻が夫を卿と呼ぶのは礼儀に反する。これからはやめなさい」と注意すると、妻は「あなたを親しく思い、愛しているから卿と呼ぶのです。私があなたを卿と呼ばずに、誰がそう呼ぶというのですか」と答えた。
王戎はそれ以降、妻が「卿」と呼ぶのを認めた。
人を見る目には自信があった王戎だが、妻との議論では素直に引き下がったらしい。
男女が親しく愛し合う様子を表す「卿卿我我」という言葉は、この逸話に由来する。
人物鑑識と名士たちとの交流
王戎は人の才能や性格を見抜くことに優れ、多くの人物について独自の評価を残している。
山濤については「まだ磨かれていない玉や金のような人物である。誰もがその価値を認めるが、どのような器になるかまではわからない」と評した。
王衍については「その姿は玉の木々が並ぶ林のように美しく、自然と世俗を超えた人物である」と評価した。
また裴頠については長所を十分に活用するのが苦手だと述べ、荀勗については短所をうまく利用する人物だと評している。
陳道寧については、細長い竿を束ねたような人物だと表現した。
王戎の族弟である王敦は高い名声を得ていたが、王戎は彼を嫌っていた。
王敦がたびたび訪ねてきても、王戎は病気を理由に面会を断り続けた。
後に王敦が東晋に対して反乱を起こしたことから、『晋書』は王戎が早くから王敦の人物を見抜いていた例として、この逸話を挙げている。
もっとも、王戎の人物評価がすべて後世から見て正しかったわけではない。
王戎と王衍は征南大将軍羊祜と以前から仲が悪く、羊祜は荊州にいた頃、軍法によって王戎を処刑しようとしたことがあり、王衍についても風俗を乱す人物だと批判していた。
当然ながら王戎と王衍も羊祜を嫌い、その悪口をたびたび口にした。
当時は「二王が国を動かすようになれば、羊公には徳がないということになる」という諺まで生まれたという。
孫秀との関係では、王戎の人物を見る目が自分自身を救うことになった。
孫秀がまだ琅邪郡の郡吏だった頃、郷里の人物評価で品級を得ようとしたが、王衍はこれを認めようとしなかった。
しかし王戎は王衍に、孫秀を評価して品級を与えるよう勧めた。
その後、趙王司馬倫と孫秀が権力を握ると、孫秀は以前から恨みを抱いていた朝廷の官吏たちを次々と殺害した。
しかし王戎と王衍は災難を免れている。
王戎の評価
『晋書』本伝には、王戎は官職にあって特別に優れた才能を発揮したわけではないが、担当する政務は整えられていたと記されている。
『晋書』の史臣は、王戎と王衍が朝廷の高官に昇りながら、王戎は清談を重んじ、世間に迎合して財産を蓄え、王衍は自分の身を守ることを優先し、朝廷の秩序が乱れる一因となったと批判している。
賛では、王戎について「談優務劣(清談には優れていたが、政務には劣っていた)」と評している。
『晋諸公賛』は王戎について、性格は簡潔で、威厳を整えることに関心がなく、生活も質素だった一方、財産があまりにも多かったため、高官としての威望が十分ではなかったと評している。
『晋陽秋』には、王戎が多くの財産を蓄えながら常に不足しているように振る舞ったことについて、世間から自分の本心や能力を隠すためだったという見方も記されている。
東晋の戴逵も『竹林七賢論』で、王戎は危険な時代に自らを目立たせず、災難を免れたと評価した。
一方、余嘉錫は王戎のケチぶりは本来の性格だったと考え、戴逵の評価は名士同士がかばい合ったものであり、公平な議論ではないと批判している。
王戎は竹林の七賢の中で最後まで生き残り、晋の高官にまで昇りつめた。
竹林の七賢の一人である山濤は、高官となってからも人材の推薦などに力を尽くしたが、王戎は政治の混乱が深まるにつれて保身を優先するようになった。
かつて嵇康や阮籍と酒を飲んだ黄公の酒場の前を通りかかった際、王戎は二人が亡くなってから世の中のしがらみに縛られるようになったと語っている。
自由に振る舞っていた頃の自分と、世俗に身を置くようになった自分の違いを、王戎自身も感じていたのだろう。
かつての仲間たちがいなくなった後、「近い場所なのに、山河を隔てたように遠い」と語った言葉には、もう戻れない日々を振り返る思いが感じられる。
参考文献
- 晉書 : 列傳第十三 山濤 王戎 樂廣 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷081 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷082 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷083 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷084 – 维基文库,自由的图书馆
- 世說新語/雅量 – 维基文库,自由的图书馆
- 世說新語/儉嗇 – 维基文库,自由的图书馆
- 世說新語 : 惑溺 – 中國哲學書電子化計劃
- 王戎 – 维基百科,自由的百科全书
王戎のFAQ
王戎の字(あざな)は?
字は濬沖(しゅんちゅう)です。
王戎はどんな人物?
竹林の七賢の最年少として阮籍や嵇康らと交流し、清談や人物鑑識で名声を得た政治家です。
巨万の富を築きながら、極端に金を惜しむ人物としても知られています。
王戎の最後はどうなった?
八王の乱で恵帝に従って出征しましたが、蕩陰で敗北した後、郟県へ逃れました。
郟県では親族や客人を招いて宴飲を楽しみ、永興二年(305年)6月4日(西暦305年7月11日)に亡くなりました。
王戎は誰に仕えた?
魏の司馬昭に招かれて仕官し、西晋の成立後は武帝司馬炎、恵帝司馬衷に仕えました。
荊州刺史、吏部尚書、尚書令、司徒などの官職を歴任しました。
王戎にまつわるエピソードは?
売り物の李の種に穴を開けたり、娘に貸した金が返されるまで不機嫌になったり、甥に贈った結婚祝いの衣服を取り返したりしたケチだった話が残っています。
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