劉毅:司馬炎に臆さない剛直な名臣が三公に届かなかった理由【すぐわかる要約付き】

劉毅
劉毅

1分でわかる忙しい人のための劉毅の紹介

劉毅(りゅうき)、字は仲雄(ちゅうゆう)、出身は東萊郡掖県、生没年(216年~285年)

魏から西晋にかけて活躍した官僚で、若いころから清廉で剛直な人物として知られ、平陽郡では百人以上の役人を整理し、司隷校尉となってからは都の豪族や高官の不正を厳しく取り締まった。

司馬炎に対しても遠慮せず、売官による収入を私的に使っていることを理由に、後漢の桓帝・霊帝にも及ばないと批判している。

また、魏以来の九品中正制には八つの重大な弊害があると指摘し、その廃止を求めた。
公正さを徹底するあまり妻子の過失にも容赦せず、その厳格な性格と、によって三公への昇進は果たせなかった。
太康六年(285年)に七十歳で亡くなると、司馬炎は生前に三公へ登用できなかったことを悔やみ、儀同三司を追贈した。

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劉毅の生涯を徹底解説!皇太子を止め、羊琇を弾劾し、九品中正制の廃止に挑んだ西晋の名臣の最期までを追う

劉毅の出自と若き日の孝行、平陽郡で百人以上の役人を罷免

劉毅は東萊郡掖県の出身で、前漢の城陽景王劉章の子孫にあたる。
父の劉喈は丞相属を務めていた。

劉毅は幼いころから親孝行で、成長すると清廉潔白で筋を曲げない人物となった。
ただし、人の善し悪しを遠慮なく批判するため、王公や高官たちでさえ劉毅の名前を聞くだけで恐れたという。

その後、劉毅は平陽郡に移り住み、太守の杜恕に招かれて功曹となった。
すると劉毅は、職務にふさわしくない郡吏を百人以上も容赦なくクビにしてしまった。

これほど厳しい人事を行いながら、その働きは三魏の人々から称賛された。
当時は「劉功曹の名は聞くが、杜府君の名は聞かない」とまで言われ、太守の杜恕よりも部下の劉毅のほうが有名になってしまったのである。

河南尹の弾劾を阻まれ、上司に反論して辞職

魏の末期、劉毅は郷里の東萊郡から孝廉に推挙され、司隷校尉の都官従事となった。
官吏の不正を取り締まる仕事に就くと、都の役人たちも劉毅を恐れ、態度を改めるようになった。

あるとき劉毅は、河南尹の不正を弾劾しようとした。
ところが上司の司隷校尉はこれを認めず、「大物を捕まえる優秀な犬なら、小さな鼠くらい見逃してやれ」と言い出した。

しかし劉毅は「猛獣を捕らえることもでき、鼠も殺せるのであれば、犬にとって何の問題があるのですか」と反論し、官職を捨てて立ち去ってしまった。

そんな劉毅を高く評価していたのが、同じ東萊郡出身の王基だった。
王基は劉毅を公府に推薦し、正しく誠実で、権力者にも迎合せず、自分の信念を曲げない人物だと称賛した。

さらに王基は、劉毅が平陽郡で百人以上の役人を罷免した実績や、郷里での孝行、三魏で示した忠義を挙げ、その能力を高く評価した。

そして、孫陽が呉阪で名馬を見いだした故事や、秦の穆公が商人の間から百里奚を登用した故事を挙げ、劉毅も優れた人物を見抜く者に出会えば、その才能を存分に発揮できると訴えた。

その後、太常の鄭袤も劉毅を博士に推薦した。

司馬昭の招聘を拒否し、殺されかけてようやく出仕

景元四年(263年)、司馬昭が相国になると、劉毅を相国掾(司馬昭の属官)として招いた。
ところが劉毅は「病気なので無理です」と言って断った。
「治ったか?」と聞いても「まだ病気です」と、いつまで経っても出仕しなかった。

当時の人々は、劉毅が魏王朝への忠義を守ろうとしているのだと受け止めた。
しかし、司馬昭は、劉毅が情勢をうかがって出仕をためらっていることに激怒し、「いい加減、殺すよ?」と最後通告を出す。これには、劉毅も恐れをなし、ついに招聘に応じた。

こうして円満に劉毅は相国掾となり、その後は主簿に転任した。

泰始元年(265年)、司馬炎が魏から帝位を譲り受けて西晋を建国すると、劉毅は尚書郎、駙馬都尉となった。
さらに散騎常侍、国子祭酒へと昇進し、司馬炎から諫官を統括する役目まで任された。

その後も城門校尉、太僕、尚書を歴任したものの、ある事件によって免官となった。
しかし咸寧年間の初めには復帰し、散騎常侍、博士祭酒を務めている。

厳しい取り締まり1:皇太子の一行も止める

咸寧四年(278年)、劉毅は司隷校尉となった。
都の役人や豪族の不正を取り締まる役職だが、よりによって劉毅を任命してしまったのである。

当然ながら劉毅は容赦しなかった。
相手が有力者だろうが豪族だろうが、不正を見つければ徹底的に追及する。
京師の役人たちは身を引き締め、司州の地方官に至っては「劉毅を恐い」と官印を返上して逃げ出す者まで続出した。
その厳しさは、前漢で容赦のない取り締まりを行った諸葛豊や蓋寛饒に匹敵すると評された。

しかし劉毅にとっては、地方官や豪族など序の口だった。
あるとき、皇太子の司馬衷が朝廷へ参内し、音楽を奏でる鼓吹の一行が東掖門へ入ろうとした。
すると劉毅が宮門に入る際の礼儀に反すると判断して一行を門の外で止めてしまった。

周囲が皇太子殿下だと慌てようが、劉毅には関係ない。
それどころか、保傅(皇太子の教育や補佐を担う役割)をはじめとする東宮の官僚たちをまとめて弾劾したのである。
結局、皇帝の司馬炎が赦免の詔を出すことになり、それでようやく一行は宮門を通ることができた。

劉毅が司隷校尉になった以上、皇太子であろうと特別扱いはしてもらえなかった。

厳しい取り締まり2:司馬炎の寵臣・羊琇を弾劾

劉毅の取り締まりは、皇太子を門前払いした程度では終わらなかった。
次に標的となったのは羊琇で、司馬炎を司馬昭の後継者にするために尽力した、皇帝にとっては恩人ともいえる人物だった。

羊琇は皇帝の寵愛をいいことに贅沢三昧で、法すら平気で破っていた。
もちろん、劉毅にそんな事情は通用せず、罪を追及し、いきなり死刑を要求したのである。

これには司馬炎も困ってしまった。
自分の寵臣を助けたいが、相手はあの劉毅である。皇帝が直接頼んだところで、素直に聞いてくれる保証などない。そこで司馬炎は、弟の斉王・司馬攸を通じて羊琇の助命を頼むことにした。
劉毅もさすがに人格者の司馬攸の頼みは聞き入れ、いったん追及を取り下げた。

これで羊琇も命拾いしたかと思いきや、話はまったく終わっていなかった。

今度は劉毅の部下である都官従事の程衛が、中護軍の軍営に乗り込んで羊琇の配下の官吏たちを逮捕したのである。
取り調べによって、羊琇の悪事が次々と明らかになった。

程衛から報告を受けた劉毅は、再び司馬炎へ弾劾の上奏を行った。

一度は弟まで使って助けた司馬炎だったが、ここまで証拠を突きつけられては、さすがにかばいきれない。
結局、羊琇は免官となり、皇帝の寵臣という最強の肩書も、劉毅の前では何の役にも立たなかった。

司馬炎の売官を諫めた痛烈な直言

あるとき司馬炎は、南郊での祭祀を終えたあと、劉毅にこんな質問をした。
「私を漢の皇帝にたとえるなら、誰にあたると思うか」
呉を滅ぼして天下を統一した皇帝である。前漢の文帝か武帝か、あるいはもっと立派な皇帝の名前が出てくると思ったのかもしれない。

ところが劉毅は、何の遠慮もなく「桓帝と霊帝でしょう」と答えた。
よりによって桓帝と霊帝である。
後漢の衰退期に君臨し、売官などによって政治を腐敗させた皇帝たちだった。

さすがの司馬炎も納得できず、「私は古代の聖人ほど立派ではないが、自分を律して政治を行ってきた。しかも呉を平定して天下を統一したのだ。それなのに桓帝や霊帝と同じだというのか。それはあまりにもひどくないか」と反論した。

しかし劉毅は、ここで引き下がるどころか、さらに厳しいことを言い放った。

「桓帝と霊帝は官職を売りましたが、その金は国庫に入りました。陛下も官職を売っていますが、その金は陛下の私的な財産になっています。この点では、陛下は桓帝や霊帝にも及びません」

桓帝や霊帝の売官も褒められたものではない。だが、少なくとも収入は国庫に入っていた。
それに対して司馬炎は、官職を売って得た金を自分の懐に入れている。劉毅に言わせれば、天下を統一したからといって、その不正が帳消しになるわけではなかった。

皇帝本人を目の前にして、桓帝や霊帝よりひどいと断言したのである。
聞いていた臣下たちも、さぞ肝を冷やしたことだろう。

ところが司馬炎は怒らなかった。それどころか大笑いして、「桓帝や霊帝の時代には、このようなことを言う臣下はいなかった。今の私には、こうして直言してくれる臣下がいる。そこは違うだろう」と答えた。

このやり取りを聞いていた散騎常侍の鄒湛は、司馬炎の寛大さを称賛した。
「世間では陛下を前漢の文帝にたとえる者もおります。しかし、劉毅のあれほど厳しい言葉を聞いても怒らず、むしろ喜ばれました。これは文帝をも上回る徳でございます」

ところが司馬炎は、今度は鄒湛の褒め方に納得しなかった。
「私は天下を平定しても封禅を行わず、贅沢な雉頭裘を焼き捨て、質素な服装で礼を行ってきた。それなのに、お前は今まで何も言わなかった。なぜ今のような小さなことで、そこまで褒めるのだ」

これに対する鄒湛の返答も、なかなか見事だった。

「野原に猛獣が現れれば、武器を持って立ち向かうことは普通の人にもできます。しかし、袖の中から突然蜂や蠍が出てきたら、勇敢な者でも驚くでしょう。思いがけないことだからです。君主と臣下には身分の上下があり、臣下の言葉にも君主に従うものと逆らうものがあります。先ほど劉毅が発言したとき、私たち臣下はみな顔色を変えました。ところが陛下は、誰も予想しなかった寛大なお言葉を返されました。私たちが喜び、称賛するのも当然ではありませんか」

劉毅は天下統一という大功績を認めながらも、皇帝の不正を見逃さなかった。
一方の司馬炎も、自分を桓帝や霊帝以下と評した臣下を処罰せず、その直言を受け止めた態度も、この逸話で見逃せないところである。

龍の出現を吉兆と認めず、祝賀に反対

司隷校尉として六年間、都の役人たちを震え上がらせた劉毅は、太康五年(284年)に尚書左僕射となった。

あるとき、武庫の井戸の中に龍が現れた。
司馬炎は自ら見物に出かけて喜び、朝廷の官僚たちも吉兆として祝賀しようとしたが、劉毅だけは反対した。

劉毅は「かつて鄭の城門の外に龍が現れたとき、子産は祝賀しませんでした。
また、夏王朝の宮廷に現れた龍の唾液が保存され、後に周の幽王の時代になって災いが起こった故事もあります。『易』にも『潜龍勿用、陽在下也』とあり、古い典礼を調べても、龍の出現を祝う礼はありません」と上奏した。
皇帝が喜んでいるのに、めでたいどころか災いの前例まで持ち出した。

しかし司馬炎は怒らず、「私の徳はまだ十分ではなく、吉兆を受けるにふさわしいとは言えない。
劉毅の上奏を読んで身の引き締まる思いがした。祝賀については古い典礼を調べ、慎重に判断するように」と答えた。

これで話が収まるかと思いきや、今度は尚書郎の劉漢らが黙っていなかった。
「現れた龍は青い体に白い模様があり、西晋が武力を収めて文治を興す吉兆と考えられます。それなのに劉毅は、衰退した王朝の災いを持ち出して現在の吉兆を疑っています。さらに、姿をはっきり現した龍を『易』の潜龍に当てはめていますが、潜龍とは人目に触れず隠れている龍のことです。これも解釈を誤っています」と主張した。

劉毅は過去の潜龍の故事を引き合いに出して吉兆と認めず、劉漢らは「今回の龍は大勢で見物しているんだから、そもそも潜龍じゃないだろう」と反論した。

劉漢らは劉毅を処罰するよう求めたが、司馬炎は認めなかった。

その後、陰気がいったん散って再び集まるという異変が起こった。
すると劉毅は「朝廷には徒党を組んで皇帝を欺く臣下がいるのに、処罰すべき者が処罰されていないからです」と上奏した。

龍が現れても喜ばず、異変が起これば朝廷の不正を指摘する。
劉毅にとって天の現象は、皇帝を喜ばせるための材料ではなく、政治を正すための警告だったのである。

九品中正制の廃止を訴える

劉毅が厳しく批判した制度の一つが、魏の時代に設けられた九品中正制だった。
劉毅は、この制度が優秀な人材の登用に役立っておらず、かえって政治や社会にさまざまな弊害をもたらしていると考えた。

そこで劉毅は、九品中正制には八つの重大な弊害があると指摘し、制度そのものの廃止を求める長大な上奏文を提出した。
上奏文の冒頭では、人材登用には人物の才能を見抜くこと、好き嫌いによる偏りを防ぐこと、真実と偽りを見分けることという三つの難しさがあると述べた。

劉毅は、人物の評価を中正の判断に委ねることで、皇帝や朝廷が持つべき権限が損なわれ、人々が徳行を磨くよりも高い品位を得ることに熱中していると批判した。
さらに、陳平や韓信、屈原や伍子胥の故事を挙げ、一時の評判だけで人物の才能や価値を判断する危険を説いた。

九品中正制とは、各州や郡に置かれた中正という役人が人物を九つの等級に評価し、その結果を官僚の登用に利用する制度だった。

劉毅が指摘した九品中正制の八つの弊害を、わかりやすくまとめるとこうなる。

  1. 役人の好き嫌いや賄賂、コネで評価が決まる。
  2. 人物評価をめぐって地方も朝廷も揉めまくる。
  3. 有能な人間が冷遇され、無能な人間が出世する。
  4. 評価する役人の権限が強すぎて、誰も止められない。
  5. 実力よりも噂や評判がものを言う。
  6. 仕事で成果を出しても、名声がなければ評価されない。
  7. 九つの等級にこだわり、適材適所ができない。
  8. 評価の理由すら不明で、真面目に働くよりゴマすりが得になる。

劉毅が指摘した八つの弊害は、次のようなものだった。長いので飛ばしていい。

第一の弊害は、中正の好き嫌いや利害関係によって人物の評価が決まることである。
気に入った人物には実態のない名声を与え、嫌いな人物には細かな欠点を探して低い評価を下す。
賄賂や人脈によって出世する者がいる一方、正しい道を守る者が不遇となり、寒門の出身者は上品に上がれず、有力な家柄の者は下品に落ちない状況が生まれていた。

第二の弊害は、人物評価をめぐる争いが州内や朝廷にまで広がることである。
劉毅は刁攸、劉良、石公らをめぐる評価の対立を挙げ、中正の判断が本来その職務を担わない人物の意向に左右されていると批判した。
さらに、桑の木をめぐる争いが呉と楚に災いを及ぼした故事や、闘鶏をきっかけに魯で争乱が起きた故事を引用し、人物評価をめぐる対立が大きな政治的混乱を招く危険を指摘した。

第三の弊害は、優秀な人物が低く評価され、劣った人物が高く評価されることである。
中正が自分に都合のよい基準を作るため、本来は才能や徳によって決まるはずの人物の序列が逆転してしまうと批判した。

第四の弊害は、中正に大きな権限を与えながら、不当な評価を防ぐ仕組みがないことである。
不満を訴えることを認めれば争いが絶えず、訴えを禁じれば中正の横暴を止められなくなる。
その結果、不当な評価を受けた者の声が封じられ、皇帝にも実情が届かなくなると警告した。

第五の弊害は、人物の実際の行いや能力よりも、噂や評判が重視されることである。
かつては郷里の長老が善行を記録し、官吏の勤務成績も調べられていたが、今の中正は州内の人々を十分に知らないまま、中央での評判や流言によって評価を決めていると批判した。

第六の弊害は、官職での実績よりも、人物の品位や名声が優先されることである。
職務を果たして功績を挙げても低く評価される一方、実績のない人物が高い評価を得るため、朝廷による勤務成績の評価が意味を失い、見せかけの名声や朋党を重んじる風潮が強まると訴えた。

第七の弊害は、九つの等級が人物の能力や適性に合った登用を妨げることである。
官職によって必要な能力は異なるのに、人物の品位が優先されるため、適任者を選べなくなる。
しかも中正は、親しい人物の短所を隠し、疎遠な人物の長所を削って評価するため、実際の才能を正しく把握することもできないという。

第八の弊害は、評価の理由が明らかにされず、善行を褒め、悪行を戒める働きが失われたことである。
高く評価された人物の長所も、低く評価された人物の欠点も示されず、中正の好き嫌いだけで判断される。
そのため、人々は徳行を磨くよりも、有力者との関係を築くことに力を注ぐようになっていた。

劉毅は、こうした弊害が親族の間にまで怨恨や疑念を生み、その影響は本人だけでなく子孫にも及ぶと警告した。
そして、魏以来の九品中正制は優秀な人材を登用する成果を上げず、むしろ風俗を乱しているとして、中正と九品の制度を廃止し、新しい時代にふさわしい人材登用制度を設けるよう訴えた。

上奏を受けた司馬炎は、劉毅に丁重な詔を返した。
その後、司空の衛瓘らも九品中正制を見直し、古い郷里での人物選抜に戻すよう求めたが、司馬炎は最後まで制度を廃止しなかった。

妥協を許さない剛直な性格と、三公に届かなかった理由

劉毅は公務に熱心で、夜を徹して仕事を続け、そのまま朝まで座って朝会を待つこともあった。
意見を述べるときも遠慮など一切なく、相手が皇帝だろうが権力者だろうが、言いたいことをズバズバ言う。
その剛直さは朝廷内外から尊敬されたが、あまりにも融通が利かないため、結局は三公に昇進できなかった。

しかも劉毅の厳しさは、職場だけで終わらなかった。
家に帰っても劉毅は劉毅だったのである。

あるとき、祭祀に備えて身を清める斎戒中に劉毅が病気になり、心配した妻が見舞いに訪れた。
普通ならありがたい話だが、劉毅は妻を処罰するよう上奏し、自分も斎戒を解く許可を求めた。

病気の夫を見舞いに行ったら、夫から処罰を要求されるのである。家族にとってはたまったものではなかっただろう。

そんな劉毅は、私腹を肥やすこととも無縁だった。
清貧な生活を送っていることを知った司馬炎は、銭三十万を与え、さらに毎日米と肉を支給するよう命じた。

向雄との確執

劉毅には、向雄という人物との確執も記録されている。

劉毅と呉奮が侍中、向雄が黄門侍郎だったころ、向雄は二人と口を利こうとしなかった。
ただし、何が原因で仲が悪くなったのか、詳しい事情はわかっていない。

これを知った司馬炎は、向雄に仲直りするよう命じた。
皇帝直々の命令である。さすがに向雄も無視するわけにはいかず、劉毅を訪ねて再拝した。

ところが向雄は「陛下から命令を受けましたが、私たちの君臣関係はとっくに終わっています。今さらどうしろというのですか」と告げ、そのまま帰ってしまった。

仲直りどころか、わざわざ本人の前で絶縁を宣言したのである。

これには司馬炎も激怒し、「私は君臣の関係を修復するよう命じたのに、なぜ関係を絶ったのか」と問いただした。

すると向雄は「昔の君子は、人を登用するときも退けるときも礼を尽くしました。ところが今は、登用するときには膝の上に乗せるほど可愛がり、用がなくなれば深い川へ突き落とすように扱います。河内の劉氏が私に敵対しないだけでも十分に幸いなのに、どうしてまた君臣関係を結ばなければならないのですか」と反論した。

向雄は、かつての扱いに相当な不満を抱いていたのである。
結局、司馬炎もその言い分を認め、仲直りを強制することはなかった。

劉毅からすれば、向雄が突然やって来て絶縁宣言だけして帰ったのである。
何が何だかわからなかったろう。

七十歳での引退と、青州大中正への登用をめぐる論争

太康六年(285年)、七十歳になった劉毅は、ついに引退を願い出た。
司馬炎もこれを認め、劉毅は光禄大夫の身分で邸宅へ戻ることになった。
さらに、門前には行馬という通行を制限する柵を設けることが許され、退職金として銭百万まで与えられた。

ようやく静かな老後を迎えると思ったが、簡単には休ませてくれなかった。

司徒の魏舒が、引退したばかりの劉毅を青州大中正に推薦したのである。
しかも、九品中正制の廃止を訴えていた劉毅を、よりによって青州大中正に推薦したのである。

しかし尚書は「いやいや、劉毅はもう引退したでしょう。今さら細かな仕事まで押しつける必要はありません」と反対した。

これで劉毅の老後も守られるかと思いきや、今度は陳留相の孫尹が反論した。
「魏舒や司隷校尉の厳詢も劉毅と年齢が近く、かつてはともに散騎常侍を務めていましたが、今も重い職務を担っています。厳詢は四十万戸を抱える州を管轄して多くの官僚を監督し、魏舒も広い範囲の政務に加えて十六州の人物評価に関わっています。それなのに、劉毅が一州の人物を評価するだけで負担が重すぎるというのは、劉毅を優遇しすぎ、魏舒や厳詢には厳しすぎるのではありませんか。かつて光禄大夫の鄭袤は司空に任じられ、鄭の武公も八十歳を超えて周の司徒となりました。高齢だからという理由だけで、能力ある人物を退けるべきではありません。人物を見抜くことは皇帝にとっても難しい仕事ですが、宰相の重任を任せられる人物に、人材の評価だけを任せられないというのも納得できません」

同じくらいの年齢の魏舒や厳詢はバリバリ働いているのに、劉毅だけ年寄り扱いして休ませるのはおかしいというのである。

しかも孫尹は、劉毅がなぜ重用されないのかという問題にまで踏み込んだ。
「劉毅は司隷校尉だったころ、多くの高官を遠慮なく弾劾しました。剛直な臣下には味方が少ないもので、前漢の汲黯や董仲舒も能力がありながら十分に重用されませんでした。劉毅には風疾があり、体の一部に不自由を抱えていますが、精神や判断力は衰えていません。もし朝廷が劉毅の厳しい人物評価を嫌い、仕事から遠ざけようとしているのであれば、それこそ公正な人材登用を妨げる行為です」

ここで孫尹が言いたかったのは、単に劉毅を働かせろという話ではなかった。
病気や年齢を口実にして、権力者にも容赦しない劉毅を遠ざけようとしているのではないか、と朝廷の姿勢を疑ったのである。

さらに光禄勲の石鑒らも、劉毅を青州大中正にするよう上奏した。
「青州には斉や魯の時代から徳や礼節を重んじる風習が残っており、劉毅はその土地の人々が模範とすべき人物です。郷里では孝行を尽くし、朝廷では忠実に職務を果たし、公私を混同することもありませんでした。高齢で病気を抱えていても、人物の評価を任せるにはふさわしい人物です」

こうして、本人が引退を願い出ているのに、年寄り扱いするなだの、不当に遠ざけるなだの、挙げ句には病気でも頭はしっかりしているから問題ないと、本人の体調すら無視した議論が繰り広げられ、劉毅は青州大中正として再び働くことになってしまった。

いざ仕事を始めると、期待通りにさっそく身分の高い者や皇帝に近しい者から評価を下げ始めた。
働かされる劉毅も気の毒だが、評価される側にとっても災難だった。

劉毅の死後の待遇

太康六年(285年)、劉毅は亡くなる。青州大中正になったばかりであった。
知らせを聞いた司馬炎は、几に手を置いて驚き、「我が名臣を失ってしまった。生きているうちに三公にしてやれなかった」と悔やんだ。

皇太子の一行を門前払いにして、皇帝に噛みつき、寵臣を死刑にしようとした劉毅だったが、司馬炎にとっては失いたくない名臣だったのである。

司馬炎は劉毅に儀同三司(三公ではない人物に、三公に準じる格式や待遇を与える称号)を追贈し、使者を派遣して葬儀を監督させた。
生前は三公に昇進できなかった劉毅も、死後になってようやく三公に準じる待遇を与えられたわけである。

ところが、死んでからも劉毅の待遇をめぐって一悶着が起こった。

羽林左監で北海出身の王宮が、劉毅にも諡号を贈るべきだと上奏したのである。
「陛下が劉毅の忠義と功績を評価し、儀同三司を追贈されたことは、まことに立派なご判断です。しかし、功績と徳行の両方を備えた劉毅に諡号が贈られないのは、道理に合いません。『春秋』の考え方では、諡号は爵位ではなく、生前の行いによって決めるべきものです。ところが漢や魏では、列侯の爵位がなければ、どれほど優れた人物でも諡号を贈られず、三公に列するほどの賢臣でさえ、戦場で功績を立てた武将より軽く扱われてきました。そこで、爵位によって諡号の授与を制限する従来の制度を改め、人物の功績と徳行を正しく評価するべきです。もし制度をすぐに改めることが難しいのであれば、劉毅には城を攻め落とすような武功こそないものの、忠義と国家への貢献を評価して爵位を与えることもできるはずです」
王宮はさらに、劉毅の功績と徳行をまとめた資料まで提出した。

要するに、爵位がないから諡号を贈れないというのなら、その決まりを改めるか、もし無理なら功績を評価して爵位を与えればいいというのである。

司馬炎はこの上奏を八坐(尚書台の高官たち)に審議させると、多くの者が王宮の意見に賛成した。
これなら劉毅にも諡号が贈られるかと思いきや、結局、上奏は採用されず、諡号が贈られることはなかった。

二人の子について

劉毅には劉暾と劉総という二人の息子がいた。
劉暾は父に似て剛直な性格で、右光禄大夫となり、太子少傅を兼ねる地位にまで昇進した。

しかし永嘉の乱に巻き込まれ、石勒の部下に殺害された。

もう一人の劉総は、字を弘紀といい、学問を好み、正直で誠実な人物で、北軍中候にまで昇進した。

劉毅の評価

『晋書』の史臣は、劉毅が皇帝に対しても遠慮なく直言を行い、司馬炎の寛容によって受け入れられたことに言及している。

また、賛では、劉毅が官職に就いた当初から忠義に厚く、朝廷で率直な意見を述べたことを称賛している。
さらに、その厳正な職務ぶりを前漢の諸葛豊になぞらえ、司馬炎を後漢の桓帝・霊帝にたとえて批判した逸話を取り上げている。

劉毅は、前漢の袁盎を思わせる人物である。
皇帝にも皇族にも遠慮なく意見し、自分の信念を曲げずに直諫を繰り返したところがよく似ている。
権力者に嫌われることなどお構いなしで、言うべきことは言う。

袁盎が文帝から景帝の時代まで仕えたように、劉毅も司馬衷の時代まで生きていてくれたらと思わずにはいられない。こういう人物が朝廷にいるのは頼もしい。

参考文献

劉毅のFAQ

劉毅の字(あざな)は?

劉毅の字は仲雄(ちゅうゆう)です。

劉毅はどんな人物?

東萊郡掖県の出身で、前漢の城陽景王劉章の子孫にあたります。
権力者にも遠慮せず、豪族や高官の不正を取り締まり、九品中正制の廃止を求めたことで知られています。

劉毅の最後はどうなった?

太康六年(285年)、七十歳で亡くなりました。
司馬炎は劉毅を生前に三公へ昇進させられなかったことを悔やみ、儀同三司を追贈しました。
諡号を贈るよう求める上奏もありましたが、実現しませんでした。

劉毅は誰に仕えた?

魏の時代には司馬昭に仕え、西晋成立後は初代皇帝の司馬炎に仕えました。
司隷校尉や尚書左僕射などを歴任し、司馬炎に対しても率直に意見を述べました。

劉毅にまつわるエピソードは?

司馬炎から自分は漢のどの皇帝に匹敵するかと尋ねられた際、劉毅は桓帝と霊帝を挙げました。
さらに、二帝は官職を売った金を国庫に入れたのに、司馬炎は私的に使っているため、二帝にも及ばないと批判しました。
しかし司馬炎は怒らず、このような直言をする臣下がいる点では自分は二帝と違うと笑って答えています。

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