1分でわかる忙しい人のための司馬攸の紹介
司馬攸(しばゆう)、字は大猷(たいゆう)、出身は河内郡温県、生没年(246年~283年)
小字は桃符といい、司馬昭の次男で、西晋の初代皇帝司馬炎の同母弟にあたる。
子のいなかった伯父の司馬師の養子となり、その後継者として舞陽侯の爵位を継承した。
幼いころから聡明で、温和な性格と優れた才能を備え、祖父の司馬懿からも高く評価されていた。
その人望は兄の司馬炎を上回り、父の司馬昭も司馬攸を後継者にすることを考えていた。
しかし、後を継ぎ皇帝となったのは司馬炎であり、司馬攸は斉王に封じられて朝廷を支える立場となった。
司馬炎の晩年、皇太子司馬衷の能力に疑問が持たれると、朝廷では司馬攸への期待が高まった。
これを恐れた荀勗と馮紞の進言によって封国への赴任を命じられた司馬攸は、憤りから病に倒れる。
太康四年(283年)に亡くなり、その死は司馬炎を深く悲しませた。
司馬攸の生涯を徹底解説!司馬師の養子から斉王への封爵、皇太子司馬衷をめぐる後継者問題と荀勗・馮紞による排斥
司馬攸の出自と才能、司馬師の養子となる
司馬攸の父は司馬昭、母は王元姫である。
祖父は司馬懿、伯父は司馬師で、西晋の初代皇帝となる司馬炎は同母兄にあたる。
司馬攸は幼いころから聡明で、成長すると穏やかで公平な性格となり、賢人との交際を好み、困っている人には惜しみなく施しをした。
経書を愛読し、文章を書くことにも優れていたが、特に書簡の作成が巧みで、その文章は当時の人々から模範とされた。
しかも才能と人望は兄の司馬炎を上回り、祖父の司馬懿からも高く評価されていた。
ところで、司馬懿の長男である司馬師には、跡継ぎとなる息子がいなかった。
そこで司馬昭の次男だった司馬攸が養子に迎えられ、司馬師の家を継ぐことになった。
嘉平二年(251年)、太尉の王淩が反乱を企てたことが発覚すると、司馬懿は討伐のために出兵した。
まだ幼かった司馬攸も祖父の軍に従い、戦後には長楽亭侯に封じられた。
正元二年(255年)、司馬師は毌丘倹・文欽の反乱を平定したものの、病気によって亡くなった。
このとき司馬攸はまだ十歳だったが、養父の死を深く悲しみ、その姿は周囲の人々を感動させ、大いに称賛された。
司馬攸は養父の爵位を継いで舞陽侯となった。
また、司馬師の妻である景献皇后羊氏を別邸で養い、孝行を尽くしたことでも知られるようになった。
その後は散騎常侍や歩兵校尉を歴任し、十八歳のころには軍営の兵士たちを統率する立場となった。
若くして兵士たちを預かることになったが、部下をよく慰撫する一方で軍紀もしっかり守らせ、その威厳と恩恵によって信頼を集めた。
司馬昭が後継者に望んだ司馬攸と、兄弟の不和を案じた両親
咸熙元年(264年)、魏で五等爵の制度が設けられると、司馬攸は安昌侯に改封され、衛将軍へ昇進した。
兄の司馬炎には小字(幼いころの愛称)が伝わっていないが、弟の司馬攸には「桃符」という小字が伝に残されている。
父の司馬昭はこの次男をことのほかかわいがり、司馬攸を見るたびに寝台をなでながら「ここは桃符の座だ」と語っていた。
後継者問題があがると、司馬昭は、天下は本来兄の司馬師のものであり、自分はその地位を預かっているだけなのだから、いずれは司馬師の養子となった司馬攸に大業を譲るべきだとまで語っていた。
このように司馬炎の方が不利であったが、羊琇、山濤、賈充、何曾、裴秀といった家臣の後押しもあり、最終的には長男の司馬炎が選ばれた。
後継者は決まった。しかし、司馬昭には気がかりなことがあった。
重病になった際には、前漢の淮南厲王劉長と魏の陳思王曹植の故事を司馬炎に語り、涙を流した。
劉長は兄の文帝に対して不遜な振る舞いを重ね、曹植は兄の曹丕と後継者の座を争った人物である。
司馬昭は、自分の死後に司馬炎と司馬攸の間でも同じような問題が起こることを恐れていた。
そして臨終には司馬攸の手を取り、司馬炎に弟を託した。
母の王元姫も、兄弟の関係を気にかけていた。
かつて王元姫が重い病気から回復したとき、司馬炎と司馬攸は祝いの酒を勧めたことがあった。
すると司馬攸は、母の病状が一時は危険だったことを思い出し、すすり泣きながら涙を流した。
これを見た司馬炎は、自分の振る舞いを恥じたという。
また、司馬炎が病気になった際にも、司馬攸は常に心配そうな表情を見せ、その兄を思う姿は人々から称賛された。
母親が助かったことを喜ぶ兄と、母親を失いかけたことを思い出して泣く弟。
同じ母親を思う気持ちでも、兄弟の振る舞いにはずいぶん違いがあった。
しかし、王元姫は孝行者として評判の司馬攸にも、心配なところがあると感じていたらしい。
臨終の際には、司馬炎に涙ながらに語りかけた。
「桃符は気性が激しく、お前は兄として慈愛が足りない。 もし私がこのまま死んでしまえば、二人はきっとうまくやっていけないだろう。 だから桃符をお前に託す。私の言葉を忘れてはならない」
父の司馬昭も母の王元姫も、司馬攸の将来を案じ、司馬炎に弟を託して亡くなった。
しかし、両親が心配していた兄弟の関係は、後に皇位継承をめぐる問題へと発展していく。
司馬昭の死と孝行をめぐる逸話
咸熙二年(265年)、実父の司馬昭が亡くなった。
司馬攸は悲しみのあまり衰弱し、杖がなければ立ち上がれないほどになってしまった。
周囲の者たちは、乾燥させた米飯に理中丸という薬を混ぜて食べさせようとした。
しかし、「飯と薬は別々に出せよ。」と思ったのか、司馬攸は泣いて受け取ろうとしなかった。
これを心配した母の皇太后王元姫は、自ら司馬攸のもとへ赴き、 「このうえ別の病気まで患ったら、どうするつもりですか。先のことも考えなければなりません。一つの思いだけにとらわれてはいけません」と諭した。
母親が直々に説得しても、司馬攸はなかなか食事を取ろうとしない。
王元姫はその後も人を遣わして食事を勧めたが、どうにも言うことを聞かなかった。
そこで今度は、司馬の嵇喜が司馬攸を諫めることになった。
嵇喜は「悲しみのために命を失ってはならないというのが、聖人の教えです。大王は皇室と最も近しい血縁にあり、国家を補佐する重い責任を担っておられます。普通の人でさえ祖先や家のために命を大切にするのですから、天下の大業を受け継ぎ、皇室を支える立場にある大王が、際限なく悲しみに身を任せてよいはずがありません。顔回や閔子騫と孝行を競うようなことをして、賢人に笑われ、愚かな者を喜ばせてはいけません」と忠告した。
要するに、孝行のしすぎで死んだら元も子もない、何事も限度ってものがあると釘を刺したのである。
嵇喜が自ら食事を差し出すと、さすがの司馬攸も断りきれず、無理に食べることにした。
嵇喜が退出した後、司馬攸は側近たちに「嵇喜は、私に喪に服する者としての節度を忘れさせず、この身を保たせようとしたのだ」と語った。
斉王に封じられた司馬攸、諸王の特権を辞退する
咸熙二年(265年)、兄の司馬炎が魏から禅譲を受けて西晋を建国すると、司馬攸は斉王に封じられた。
建国したばかりの朝廷では軍事全般を統括し、内外の人々を慰撫して秩序を保ったため、多くの人々から慕われるようになった。
このころ司馬炎は、各地に封じた諸王が、自分の封国内の長官を自由に選任できる制度を検討していた。
皇族にとっては、自分の領地の人事まで決められるという、なかなかありがたい特権である。
ところが、斉王となった司馬攸は、この方針に反対して上奏した。
司馬攸は「古代の聖王が諸侯を封じたのは、君主が長く土地を治めることで人々の心と風俗を安定させるためでした。父の司馬昭も国家の将来を考えて五等爵を設け、徳のある者や功績を立てた者に爵位を与えました。陛下も親族を諸王に封じ、封国内の官吏を自ら選任させようとしていますが、晋はまだ建国したばかりで、制度も十分に整っていません。蜀の旧領はすでに従っていますが、呉はいまだ帰順していないため、天下が平和になってから古い制度の復活を議論するべきです」と進言した。
まだ呉も滅ぼしていないのに、皇族の特権を増やしている場合ではないというのである。
司馬攸は同じ趣旨の上奏を三度も行ったが、司馬炎は認めなかった。
その後、斉国の相から長官の欠員が報告され、担当官が司馬攸に「誰か探して任命して」と人選を求めてきた。
しかし司馬攸は、それは朝廷の仕事でしょ?と、次のように述べている。
「私は厚い恩遇を受けながら、それに見合う働きができないことを心配している。官吏の才能を評価して任命するのは朝廷の仕事であり、封国が勝手に決めるべきではない」
三度の上奏が聞き入れられなかったからといって、司馬攸も簡単には引き下がらなかった。
また、当時は皇族の衣食に必要な費用を宮廷の財政から支給していたが、司馬攸は封国の租税収入だけで十分に生活できるとして、支給の辞退を申し出た。
こちらは十回以上も上奏したが、司馬炎はやはり認めなかった。
司馬攸自身は洛陽にとどまり、斉国へ赴任することはなかったが、封国の租税収入を文官や武官、一般の兵士にまで分配し、その生活を支えた。
病人や死者が出た場合にも、金品を与えて援助した。
さらに斉国で洪水や干ばつが起きると、被災した民衆に物資を貸し与え、豊作の年になってから返済させることにした。
しかも返済額の二割を減免したため、斉国の人々は司馬攸の救済によって生活を支えられた。
自分が受け取る特権や金銭は辞退しようとする一方で、封国の人々には惜しまず施しをする。
司馬攸が多くの人々から慕われたのも、こうした振る舞いによるものだった。
軍紀を重んじながらも、兵士から深く慕われた司馬攸
司馬攸は驃騎将軍に昇進し、自ら属官を招くことができる開府の権限を与えられ、三公に準じる礼遇を受けた。
これほどの高官になっても偉ぶることはなく、周囲の人々には謙虚で誠実な態度を貫いていた。
司馬攸は官吏をむやみに取り調べたり処罰したりすることを好まなかった。
しかし、軍隊を預かる以上、規律を無視するわけにもいかない。 軍紀を守らせるため、劉氏と程氏に命じて処罰の基準を検討させた。
ところが、調査を進めるうちに、司馬攸は古代の故事を思い出した。
かつて鄭国の子産が刑罰の条文を鋳造した際には叔向が批判し、范宣子が刑罰の制度を定めた際にも孔子が非難していたのである。
こうした故事を踏まえ、司馬攸は新しい規則を設けることも、従来の規則を削ることもやめ、これまでの制度を維持することにした。
規則だけでは判断できない問題が起きた場合には、その都度事情を調べ、適切に対処する方針を取った。
また、官吏には公のために働けと命じ、自分に問題があれば遠慮なく指摘するよう求めた。
上司へのダメ出しまで公認したおかげで、部下たちも職務に励んだという。
その統率ぶりをよく表しているのが、驃騎将軍の軍営を解散することになったときの逸話である。
軍営に所属していた兵士たちは解散を命じられたが、数千人もの兵士が司馬攸のもとを離れようとしなかった。
それどころか、兵士たちは京兆尹のもとへ押しかけ、司馬攸の軍に残りたいと訴えたのである。
この事情を知った司馬炎は兵士たちの希望を認め、引き続き司馬攸のもとに置くことを許可した。
飢饉への対策と農業振興、奢侈の禁止を訴えた司馬攸
司馬攸は朝廷で重要な問題が議論されるたびに、積極的に意見を述べていた。
相次ぐ飢饉によって国家の財政が苦しくなり、支出を減らす方法が議論された際にも、司馬攸は農業の立て直しを訴えた。
司馬攸によれば、農業は国家の根本であり、戦乱が収まった今こそ兵士たちに休暇を与え、田畑を耕させるべきだという。
ところが、地方の長官たちは農業にろくに関心を払わず、せっかくの土地も十分に活用されていなかった。
そこで司馬攸は、前漢の宣帝が地方長官の能力を重視し、功績に応じて賞罰や昇進・降格を行ったことを引き合いに出した。
当時は耕せる土地を放置する者が多く、農業をしていると偽る者までいたため、こうした不正を取り締まり、地方官の働きぶりを厳しく評価するよう求めた。
また、司馬攸は都市で農業もせずに暮らす者が増え、凝った品物や派手な服装を求める風潮にも苦言を呈した。
金持ちの贅沢は魏の時代から続いており、そのために大量の財貨や穀物が浪費されていたのである。
そして、従来の禁止令を徹底して奢侈を抑え、農作業の時期を妨げず、人々が耕作に専念できるようにするべきだと主張した。
そうして国の倉庫に十分な穀物を蓄えることができれば、人々の暮らしが安定して礼節も育まれ、国家の政治を本来の姿に戻せると訴えた。
贅沢ばかりしていないで、ちゃんと働けよ、そうすれば暮らしも安定し、礼節が育まれ、政治もまともになるという、すごくまともなことを言っているだけであった。
皇太子司馬衷の教育と太子太傅としての諫言
司馬攸はその後、鎮軍大将軍に転任し、侍中を兼任したほか、羽葆や鼓吹を与えられた。
さらに太子少傅の職務を代行し、数年後には太子太傅となって、皇太子司馬衷の教育を任されることになった。
このとき司馬攸は、皇太子への戒めを記した『太子箴』を献じた。
その内容は、へつらう家臣や讒言に惑わされず、親族を大切にし、私欲を抑えて政治に励めというものだった。
『太子箴』は文章としても優れていると評価され、当時の人々から称賛された。
昔、古代の聖王たちは国家を建て、君主を立てるにあたり、天の動きを仰ぎ見て、地の理を観察した。
そして王朝の基礎を築き、正しい道を広め、人々を安んじて祖先の祭祀を受け継いだ。
王朝の命運を長く保ち、その統治を確実に継承するため、皇太子を立てたのである。
皇太子を尊い地位に置くのは正しい道を広めさせるためであり、君主の後継者として国の基盤を固めるためでもある。
徳を備えた後継者が定まってこそ、国家は頼るべき存在を得られる。
仁徳ある人物を親しめば功績を成し遂げられるが、へつらう者を近づければ国家は傾く。
だからこそ、皇太子を補佐する者には、必ず賢明な人物を選ばなければならない。
かつて周の成王には、周公旦と召公奭が教育役として仕えた。
外では明らかな徳によって君主を補佐し、内では親族を大切にすることで国家の基盤を固めた。
徳は道義によって支えられ、親族の結びつきは自然の情愛によって保たれるのである。
秦は皇族を軽んじたため、山が崩れるように滅亡した。
一方、漢は皇族の子弟を各地に封じたことで、王朝の命運を長く保った。
楚では費無極が騒乱を引き起こし、宋では伊戾が災難を招いた。
前漢の張禹は巧みにへつらい、ついには強大な漢王朝を危うくした。
補佐する臣下が忠実でなければ、災いはその身に及ぶ。
いや、本人だけでは済まず、国家までも滅ぼしてしまうのである。
親子の仲が引き裂かれることなどないと思ってはならない。かつて前漢には江充がいた。
最も近しい親族が背くはずはないと思ってもならない。潘崇のような人物が現れることもある。
へつらいの言葉は真実を乱し、巧妙な讒言は親族の仲を引き裂く。
驪姫の讒言によって、晋の献公が太子申生を疑ったことを忘れてはならない。
親族との結びつきは正しい道理によって固めるべきであり、恩愛だけに頼ってはならない。
自分の身は慎み深く修めるべきであり、身分の高さに頼ってはならない。
自分の利益を抑える者には余裕が生まれるが、自分の利益ばかり求める者は、ますます判断が鈍くなる。
国家のさまざまな政務をおろそかにしてはならず、根本となる道理を軽んじてもならない。
滅びた国を見て危険を戒め、平和な時代を見ても、その安定を保つ方法を考えなければならない。
皇太子は道義を守る責任を負っている。
私はあえて、この戒めを皇太子に申し上げる。
咸寧二年(276年)八月、賈充が司空から太尉に昇進すると、司馬攸が後任の司空に就任した。
侍中と太子太傅の職務も引き続き務め、朝廷の重臣として司馬炎を補佐した。
荀勗・馮紞の進言と司馬攸の青州赴任命令
司馬炎の治世では、皇位継承が朝廷の大きな問題となっていた。
司馬炎の息子たちはまだ若く、肝心の皇太子司馬衷の能力にも疑問の声が上がっていた。
そこで次の皇帝として期待されたのが、司馬炎の弟である司馬攸だった。
司馬攸は人望も厚く、朝廷には皇太子よりも司馬攸に皇位を継いでほしいと考える者が少なくなかった。これでは困るのが、中書監の荀勗と侍中の馮紞である。
この二人は司馬炎におべっかを使って出世してきた人物で、司馬攸は以前からその態度を嫌っていた。
当然ながら荀勗と馮紞もそれを知っている。もし司馬攸が皇帝になれば、自分たちがどんな目に遭うかわかったものではない。
そこで荀勗は、司馬炎にとんでもないことを言い出した。
「陛下が亡くなられた後、皇太子は皇帝になれないでしょう。」
司馬炎が理由を尋ねると、
荀勗は「朝廷の官僚たちがみな斉王司馬攸を支持しているため、皇太子の即位は難しい。 試しに斉王へ封国に帰るよう命じてみてください。きっと朝廷の人々がこぞって反対するでしょう。
そうなれば私の申し上げたことが証明されます」と説明した。
さらに荀勗は、馮紞を通じて司馬炎に働きかけた。
馮紞は、諸王を封国へ赴任させて五等爵の制度を完成させるのであれば、まず皇帝に最も近しい親族から始めるべきだと進言した。
そして、その最も近しい親族こそ弟の司馬攸なのだから、まずは斉国へ帰すべきだと主張した。
へつらいコンビの嫌らしい作戦である。
荀勗は皇太子の将来を心配するふりをして司馬攸を遠ざけようとし、馮紞は制度を整えるというもっともらしい理由を持ち出した。
司馬炎はこの進言を受け入れ、太康三年(282年)十二月甲申日、司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命し、斉国へ赴任させることを決めた。
詔では司馬攸の徳と功績を大いに称え、皇帝の同母弟として朝廷を支えてきた人物だからこそ、地方の重要な軍事を任せるのだと説明した。
侍中の官職はそのままに、仮節の権限を与え、従来の軍営から兵士千人を同行させることになった。
親騎や帳下司馬、大車なども従来どおりとされ、鼓吹一部が追加されたほか、官騎は二十人に増やされ、騎司馬五人も置かれた。
これだけ見れば、皇帝の弟にふさわしい厚遇だが、肝心の司馬攸本人にとってはありがた迷惑な話だった。そんな司馬攸を慰めようとしたのが、主簿の丁頤である。
丁頤は、かつて太公望が斉に封じられ、斉の桓公も諸侯をまとめて功績を立てたことを挙げ、司馬攸も封国で十分に能力を発揮できると説いた。
洛陽の朝廷にいなくても、国家のために働くことはできるというのである。
これに対して司馬攸は「私には時勢を正す力などない。そこまで言うことはないだろう」と答えた。
斉国でいくら頑張ったところで、洛陽の政治を変えられるわけではない。
太公望のように活躍しろと言われても、まず自分を追い出そうとしている連中をどうにかしてほしいところである。
司馬攸の発病と急死
太康四年(283年)、司馬炎は司馬攸に対し、改めて斉国への赴任を命じた。
詔では、晋が魏から天命を受けて東方に斉国を設けたことを説き、国家と宗廟を末永く守るよう求めた。
さらに済南郡を斉国に加え、司馬攸の息子司馬寔を北海王に封じた。
太常には特別な礼遇を検討させ、軒懸の音楽に六佾の舞、黄鉞まで用意し、車列も皇帝のものに準じるという大盤振る舞いである。
司馬攸は、荀勗と馮紞が自分を朝廷から遠ざけようとしていることを知っていた。
その憤りから病に倒れ、亡き母の王元姫らの陵墓を守る役目に就きたいと願い出たが、司馬炎は認めなかった。
司馬炎は弟の病状を確かめるため、宮廷の医師たちを派遣した。
ところが医師たちは皇帝が聞きたそうな診断結果を優先し、司馬攸は病気ではないと報告してしまった。
司馬攸の病状は悪化する一方だったが、朝廷からは斉国へ早く出発するよう催促が続いた。
そこで司馬攸は無理を押して司馬炎のもとへ赴き、別れの挨拶をすることにした。
司馬攸は普段から礼儀や身だしなみを重んじており、病で衰弱していても衣冠を整え、いつもどおりの態度で兄に挨拶した。
これがまずかった。
司馬炎は弟のきちんとした姿を見て、やっぱり病気ではないのだと思い込んでしまったのである。
司馬攸は兄に別れを告げた後、わずか二日ほどで吐血した。
太康四年(283年)三月癸丑日(4月27日)、三十八歳で亡くなった。
なお、『晋書』には享年三十六歳と記されているが、司馬師が亡くなった正元二年(255年)に司馬攸は十歳だったとされているため、ここでは三十八歳を採用した。
司馬攸の病をめぐる真相と、司馬炎の涙を止めた馮紞
司馬攸の死を知った司馬炎は、激しく泣いて悲しんだ。
そこへ、司馬攸を洛陽から追い出すよう進言した張本人の馮紞が信じがたい言葉を口にした。
「斉王は実力以上の名声を得て、人々から慕われていました。
今こうして亡くなったのは晋にとって幸いなことです。陛下はなぜそれほど悲しまれるのですか」
司馬炎は、この言葉を聞くと涙を収め、泣くのを止めた。
司馬炎がなぜ馮紞の言葉で泣くのを止めたのか、その理由は記録されていない。
司馬攸を朝廷から遠ざけると決断し病気を疑って斉国への赴任を急がせたのは、ほかならぬ司馬炎自身だった。
斉王の死が、皇帝自身の下した判断の延長にある以上、弟の死を嘆き続ければ、自らの決断が誤りだったと認めるように受け取られ、その権威を損なうおそれがある。
馮紞はそこを突き、司馬炎に皇帝としての立場を思い起こさせることで、涙を止めさせたのかもしれない。
その後、司馬炎が司馬攸の葬儀に赴くと、息子の司馬冏が、御医たちが父の病気を診察しながら、病気ではないと偽って報告したことを訴えた。
ここでようやく真相を知った司馬炎は、虚偽の報告をした医師たちを処刑した。
司馬炎は司馬攸の葬礼を安平王司馬孚の先例に従って行うよう命じ、霊廟には軒懸の音楽を設け、太廟への配享も認めた。
司馬攸には「献」の諡号が贈られ、斉献王と呼ばれるようになった。
斉王の地位は息子の司馬冏が継ぎ、司馬冏は後に八王の乱に参加することになる。
なお、司馬攸には司馬冏のほか、司馬蕤、司馬賛、司馬寔という息子がいた。
司馬攸の人物像と『晋書』に残された評価
司馬攸は礼儀を重んじ、自分の行動を厳しく律していたため、生涯を通じて過失が少なかった。
他人から書物を借りると、内容に誤りがないか調べ、間違いを見つければ自ら訂正して返していたという。
また、感情が豊かで涙もろく、司馬師や司馬昭の死を深く悲しんだほか、母の病気を思い出して泣くこともあった。
兄の司馬炎でさえ司馬攸を敬い、同席するときには発言を慎んでいたという。
『晋書』の史臣は、司馬攸が朝廷の重臣として高い名声を持ち、天下の人々から期待されていたことを称賛している。
しかし、皇位に近い立場にいたことがかえって疑いを招き、優れた人柄や教養まで非難の対象となった。
史臣は、荀勗と馮紞の邪悪な策略だけでなく、息子を愛するあまり二人の進言を受け入れた司馬炎にも責任があると批判した。
さらに、もし司馬攸が長生きし、皇帝の遺命を受けて後継者を補佐していれば、八王の乱で諸王が争い、五胡が勢力を競うような事態も防げたのではないかと述べている。
そして『詩経』の言葉を引用し、優れた人物を失えば国家が衰えるという一節を司馬攸に、讒言で国を乱す者という一節を荀勗と馮紞に当てはめた。
『晋書』の賛もまた、司馬攸が文武に優れ、群を抜いた人物だったと称えている。
その最後は、次の言葉で締めくくられている。
「木は秀でているために折られ、蘭は香り高いために焼かれる」
司馬攸は能力が足りなかったから排斥されたのではない。
優れていたからこそ皇位を脅かす存在と見なされ、朝廷から追い出されたのである。
参考文献
- 晉書 : 列傳第八 宣五王 文六王 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第三 世祖武帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第九 王沈 荀顗 荀勗 馮紞 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷078 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷080 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷081 – 维基文库,自由的图书馆
- 司馬攸 – 维基百科,自由的百科全书
司馬攸のFAQ
司馬攸の字(あざな)は?
字は大猷(たいゆう)です。
司馬攸はどんな人物?
司馬昭の次男で、司馬炎の同母弟にあたる西晋の皇族です。
司馬師の養子となり、斉王に封じられた後は軍事や政治を支え、優れた才能と人望によって高く評価されました。
司馬攸の最後はどうなった?
荀勖と馮紞の進言によって斉国への赴任を命じられ、憤りから病気になりました。
太康四年(283年)4月27日、赴任を目前にして38歳で亡くなりました。
司馬攸は誰に仕えた?
魏では司馬昭のもとで官職を歴任し、西晋の建国後は兄の司馬炎に仕えました。
斉王に封じられ、驃騎将軍、鎮軍大将軍、太子太傅、司空などを務めました。
司馬攸にまつわるエピソードは?
司馬攸は驃騎将軍を務めていた際、軍営の兵士数千人から深く慕われていました。
軍の解散が決まっても兵士たちは司馬攸のもとを離れようとせず、司馬炎も兵士たちを引き続き司馬攸の配下に置くことを認めました。


コメント