1分でわかる忙しい人のための荀顗の紹介
荀顗(じゅんぎ)、字は景倩(けいせん)、出身は潁川郡潁陰県、生没年(205年~274年)
荀彧の六男であり、魏から晋にかけて活躍した政治家である。
幼くして父を失い、姉婿の陳羣に養育され、若い頃から学識と孝行で知られ、司馬懿にも才能を認められた。
魏では何晏らから傅嘏を救い、毌丘倹・文欽の反乱の討伐にも参加した。
司馬昭のもとで尚書や僕射を務め、王沈・阮籍と『魏書』の編纂にも携わった。
蜀の滅亡後には晋の礼制整備を担当し、晋建国後は司徒、太尉などの高官を歴任して皇太子・司馬衷の教育にも携わった。
一方、賈充の娘・賈南風を皇太子妃に推薦したことは批判され、『晋書』も荀勗や賈充に取り入る姿勢を厳しく指摘している。
泰始十年(274年)に七十歳で死去し、司馬炎から康公と諡された。
学識と孝行で評価されながら、政治姿勢には厳しい批判も残された人物である。
荀顗(じゅんぎ)の生涯を徹底解説!荀彧の六男が晋の太尉に出世した功績と賈南風の皇太子妃推薦への批判
荀彧の六男・荀顗の若き日
荀顗は潁川郡潁陰県の出身で、あの曹操の名参謀として知られる荀彧の六男として生まれた人物である。曾祖父は後漢で朗陵侯相を務めた荀淑、兄には荀惲、弟には荀粲がいる。
さらに姉は魏の重臣である陳羣に嫁いでおり、その息子の陳泰は荀顗の甥に当たる。
荀顗は幼い頃に父の荀彧を亡くすが、姉婿の陳羣が引き取って育てた。
荀顗は幼少期から親孝行で知られ、学問にも熱心で、物事を深く考えることのできる聡明な少年だったという。
養育した陳羣もその才能を高く評価しており、まだ髪を束ねるほどの年頃から世間に名を知られていた。
そもそも、父親は荀彧、養父が陳羣というビッグネームだけで、世間に認知されるだろう。
司馬懿に認められた荀顗の才能と学識
魏の黄初年間末期、荀顗は父の荀彧の功績によって中郎に任命され、官僚としての人生を歩み始めた。
司馬懿が政権を補佐するようになると、荀顗の才能に感心し、さすが荀令君の息子だと称賛している。
さらに司馬懿は、以前に会った袁渙の息子である袁侃も引き合いに出し、荀顗と袁侃はどちらも父親の風格を受け継いでいると高く評価した。
その後、荀顗は散騎侍郎に抜擢され、さらに侍中へと昇進した。
魏の少帝である曹芳に経書を講義する役目まで任され、騎都尉の官職と関内侯の爵位も授かっている。
鍾会が『易経』の解釈に用いられる互体という考え方を否定すると、荀顗はこれに異議を唱え、堂々と議論を交わした。
また、扶風王の司馬駿とは、仁と孝のどちらを優先すべきかという問題について議論している。
こうした議論を通じて荀顗の名声はますます高まり、学識豊かな人物として世間から称賛されるようになった。
曹爽政権での傅嘏救出と毌丘倹・文欽の反乱
曹爽が魏の実権を握っていた頃、それを後ろ盾に調子に乗っていた何晏らは太常の傅嘏を陥れようとしていた。
しかし、荀顗が傅嘏を救うために働きかけたことで、傅嘏は危害を免れた。
その後、曹髦が魏の皇帝に即位すると、荀顗は司馬師に対してある進言を行った。
「今回の皇帝の即位は通常とは異なる経緯によるものです。速やかに使者を各地へ派遣して皇帝の徳を広めるとともに、地方の将軍たちの動向を探るべきでしょう」と述べた。
そもそも曹髦の即位は、司馬師によって曹芳が廃位された結果であった。
皇帝が代わりましたので、皆さんよろしくお願いしますと通達したところで、地方の将軍たちが全員おとなしく従うわけがない。
正元二年(255年)、警戒した通り毌丘倹と文欽が司馬師に反発して兵を挙げ、反乱を起こした。
この反乱に際して荀顗も討伐に参加し、功績を挙げている。
その働きが認められたことで万歳亭侯に昇進し、食邑四百戸を与えられた。
司馬昭を支えた荀顗と陳泰の後任としての政治手腕
司馬昭が魏の実権を握るようになると、尚書に昇進した。
甘露二年(257年)、司馬昭が諸葛誕の討伐に出征した際には、荀顗を後方に残して守備を任せている。
司馬昭が安心して遠征に出かけられたのも、留守を任せられる彼のような人物がいたからだろう。
その後、甥の陳泰が死去すると、荀顗は後任の僕射に任命され、官吏の人事を担当する吏部も統括することになった。
ここで彼は任命を四度も辞退したが、最終的には引き受けている。
実際に就任した荀顗は、陳泰の施政を受け継ぎながら、官吏の評判と実際の働きが一致しているかを細かく調べた。
評判だけの人物に惑わされず、実績を見極めて人事を行ったことで、官界の風紀を正している。
学問に詳しいだけでなく、人を見る目も備えていたのだから、荀顗が司馬氏から重用されたのも納得できる話である。
蜀滅亡後の礼制整備
景元四年(263年)に蜀が滅亡すると、魏では官職や法律、礼儀に関する制度の改革が進められた。
法律は賈充、官職制度は裴秀が担当し、礼儀制度の整備には荀顗が抜擢された。
荀顗は羊祜、任愷、庾峻、応貞、孔顥らを推薦し、彼らとともに古い文書を整理して礼制の編纂を進めた。
また、荀顗は王沈や阮籍とともに『魏書』の編纂にも参加している。
ところが、こちらは権力者への忖度が行き届きすぎたのか、都合の悪い事実を隠した記述が多く、後に陳寿が編纂した『三国志』には及ばないと評価されている。
こうした功績もあって、荀顗は咸熙元年(264年)の初めに臨淮侯に封じられ、同年三月丁丑には尚書左僕射から司空へと昇進し、郷侯の爵位も授けられた。
母への孝行
荀顗は仕事ができるだけでなく、六十歳を過ぎても母親への孝養を欠かさず、親孝行な人物としても知られていた。
母は荀彧の側室であり、咸熙元年(264年)、九十歳ほどで亡くなった。
母の死を受けて官職を辞して喪に服した。
母親を失った悲しみは尋常ではなく、身体が衰弱して以前の面影がなくなるほど痩せ細り、 幼い子供のように泣き続けた姿は、周囲の人々をも悲しませ、その孝行ぶりは天下に知られた。
司馬昭も荀顗の孝行ぶりを高く評価しており、後漢の太傅だった胡広が母親を亡くした際の前例にならって、荀顗にも司空に相応する儀仗や護衛を与えるべきだと奏上している。
司馬昭にへりくだる荀顗と礼節を守る王祥
咸熙元年(264年)、司馬昭が晋公から晋王に昇格すると、魏の太尉・王祥、司徒・何曾、司空・荀顗がそろって司馬昭のもとを訪れた。
荀顗は「晋王の地位は非常に尊いものです。何曾殿をはじめ、朝廷の臣下たちもすでに十分な敬意を示しています。今日、我々もそろって拝礼すべきであり、ためらう必要はありません」と述べた。
要は「我々は三公だけど、そんなこと気にしないで晋王に拝礼しましょうよ。」ということだ。
やはり、礼制の専門家の荀顗は権力者が喜びそうな礼儀にも詳しい。
ちなみに、拝礼とは、膝を地面につき、両腕を前に伸ばして手をつき、上体を深く伏せて頭を下げる礼である。
ところが、王祥はそんな荀顗の提案に待ったをかけた。
王祥は「晋王の地位と権勢が尊いことは確かだ。しかし、あくまで魏の宰相であり、我々も魏の三公である。公と王の爵位の差は一階級にすぎず、朝廷での地位も大きく変わらない。それなのに、天子に仕える三公が、どうして軽々しく他の臣下に拝礼できようか。そんなことをすれば魏の朝廷の威信を損ない、かえって晋王の徳を傷つけることになる。君子は礼をもって人を敬うものだ。私は拝礼しない」と反論した。
いくら司馬昭が偉くなったとはいえ、魏の皇帝が存在する以上、司馬昭も形式上は臣下にすぎない。
同じ臣下に対して三公がそろってひれ伏してしまえば、いったい誰が皇帝なのかわからなくなってしまうということだった。
そして、いよいよ司馬昭の前に出ると、荀顗は膝をついて丁寧に拝礼した。
一方の王祥は、立ったまま両手を組んで頭を下げる長揖の礼にとどめた。
司馬昭は、拝礼しなかった王祥に向かって「今日になって初めて、あなたが私をどれほど大切に思ってくれているのかがわかった」と語った。
王祥の対応は魏の朝廷の格式と司馬昭自身の立場を守ることになった。
晋建国に貢献した荀顗と司徒・太尉への昇進
泰始元年(265年)、司馬炎が魏の皇帝から禅譲を受けて晋を建国すると、荀顗は臨淮侯から臨淮公に昇格し、食邑千八百戸を与えられた。
司馬炎は詔を出し、古代の禹が九官を任命し、契が五教を広めた故事を引き合いに出して、天下を安定させるには政治だけでなく、人々を正しく教え導くことが必要だと説いた。
そして荀顗について、「道理に明るく誠実で、思慮深く遠くまで見通し、先帝を補佐したうえで私の政治も支えてきた。建国を助け、政治を導いた功績がある」と称賛し、教化を担当する司徒に任命した。
その後も荀顗の出世は止まらず、侍中を加えられたうえ、太尉・都督城外牙門諸軍事に昇進し、司馬と親兵百人まで与えられた。
さらに司馬炎は再び詔を出し、荀顗について「温厚で礼儀正しく、忠実で誠実であり、行いは申し分なく、古典にも広く通じている。高齢になっても衰えを見せない」と称賛した。
そして侍中と太尉の地位はそのままに、皇太子の教育を担当する太子太傅の職務まで代行させている。
司馬炎の評価を並べてみると、荀顗は頭良くて、先見の明があり、誠実で礼儀正しく、学問にも政治もOKで、尽くしてくれて、衰えを知らないという、文化系の欠点はないように見える。
ところが、ここで荀顗の経歴に大きな汚点がつくことになる。
荀顗は賈充とともに司馬炎の息子である暗愚であることが分かっていても司馬衷を皇太子に推した。 さらに皇太子妃を選ぶ際には、賈充の娘で粗暴で傲慢な性格のうえ、残忍な行動でも知られる賈南風を荀勗と共に推薦した。
しかも、彼女については「容姿も徳も優れており、皇太子妃の候補にふさわしい」と褒めちぎったのである。
時の有力者・賈充の権力フィルターは、荀顗の人物評価眼をもおかしくしてしまった。
礼楽の整備中に迎えた最期と司馬炎による厚い追悼
荀顗は礼制だけでなく、朝廷の音楽制度の整備も任されていた。
当時、『正徳』『大豫』の雅頌が十分に整っていなかったため、司馬炎は荀顗にその改訂を命じている。
しかし、完成を待たずして泰始十年四月己未(274年6月19日)、荀顗は七十歳で死去した。
司馬炎は荀顗の死を深く悲しみ、皇太子も葬儀に参列した。
さらに皇帝と皇太子の両宮から弔慰の品が贈られるなど、その待遇は通常よりも手厚いものだった。
司馬炎は詔を出し、「荀顗は清らかな徳を備え、忠実で誠実に朝廷に仕えた。朝廷の内外で多くの功績を挙げ、皇太子の教育にも尽力し、その優れた行いは広く知られている。始めから終わりまで職務を全うした人物であり、その死を私は深く悲しんでいる。温明秘器、朝服一具、衣服一襲を贈り、諡号を康とする」と述べた。
しかも司馬炎は、荀顗が立派な邸宅をすら持っていなかったことを知ると、再び詔を出している。
「荀顗は自分の家の利益を顧みず、住居となる立派な邸宅さえ持っていなかった。その清廉な姿勢は死後いっそう明らかになった。遺族に二百万銭を与え、邸宅を建てさせよ」と命じたのである。
太尉まで昇り詰め、皇帝から絶大な信頼を寄せられていた人物でありながら、自分の邸宅すら満足に構えていなかったというのだから、荀顗の清廉さは本物だったようだ。
さらに咸寧年間初期には、晋の建国に貢献した功臣たちの功績が改めて調べられ、荀顗ら十二人を宗廟に配享するよう奏上された。
こうして荀顗は死後も晋の功臣として高く評価され、その功績を後世に伝えられることになった。
賈充に迎合した荀顗への評価
荀顗は『三礼』に精通し、朝廷の重要な儀礼をよく理解していた。
しかし『晋書』は、その学識を認める一方で、率直に正しい意見を貫く節操がなく、荀勗や賈充の意向に迎合していたと厳しく評価している。
また、『晋書』の巻末にある賛では、荀顗の孝行や礼制の整備を評価しながらも、皇位継承や皇太子妃の選定への関与を批判している。
さらに、父の荀彧が後漢から魏への移り変わりに関わり、息子の荀顗が魏から晋への移り変わりに関わったとして、二人の荀氏が王朝の興亡に影響を与えたと論じている。
南宋の王応麟は、荀顗と何曾の孝行が曾参や閔子騫に比べられたことに触れながら、親に孝行であっても君主に忠義を尽くさなければ真の孝行とはいえないと批判した。
そして荀顗は魏にも晋にも忠義を尽くさず、その罪は何曾より重いと述べた。
何曾の奢侈が一族に害を及ぼしたのに対し、荀顗の奸悪な追従は天下に害を及ぼしたと評価している。
近代の歴史家・呂思勉も、晋初の元老である石苞、鄭沖、王祥、荀顗、何曾、陳騫らを挙げ、彼らは信念を持たずに世間に迎合する人物か、権力に従う人物であったと批判した。
そして、このような人物たちに幼い君主の補佐や国家の将来を託せるのかと疑問を呈している。
荀顗の子孫と臨淮公の継承
荀顗には実子がいなかったため、従孫の荀徽が後継者となった。
その後、東晋の中興初期には荀顗の兄の玄孫に当たる荀序が後継者となり、臨淮公に封じられた。
しかし荀序が亡くなると、後継者が絶えてしまった。
そこで東晋の孝武帝は、荀序の息子である荀恒を荀顗の後継者に任命した。
荀恒の死後は息子の荀龍符が爵位を継承したが、やがて宋が晋から禅譲を受けると、臨淮公の封国も廃止された。
荀顗は優秀な官僚だった。しかし、どれほど頭がよくても、権力者の顔色をうかがうようになれば、その判断力も当てならない。
参考文献
- 晉書 : 列傳第九 王沈 荀顗 荀勗 馮紞 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第四 孝惠帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第十 賈充 楊駿 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十一 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書四 – 中國哲學書電子化計劃
- 荀顗 – 维基百科,自由的百科全书
荀顗のFAQ
荀顗の字(あざな)は?
景倩(けいせん)です。
荀顗はどんな人物?
荀彧の六男で、魏から晋にかけて活躍した政治家です。
学識と孝行で知られ、晋では司徒や太尉などの高官を務めましたが、賈充らへの迎合を批判された人物でもあります。
荀顗の最後はどうなった?
泰始十年(274年)、朝廷の音楽制度を整備している途中で七十歳で死去しました。
死後、康公の諡号を贈られました。
荀顗は誰に仕えた?
魏の朝廷に仕え、司馬懿・司馬師・司馬昭のもとで重用されました。
晋の建国後は初代皇帝の司馬炎に仕えました。
荀顗にまつわるエピソードは?
母親が亡くなった際、深い悲しみから容貌が見分けられないほど衰弱し、幼い子供のように泣き悲しみました。
その姿は周囲の人々をも悲しませ、孝行ぶりが天下に知られました。
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