裴秀:司馬炎を支えた名臣、制図六体と中国地図学の祖【すぐわかる要約付き】

裴秀
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1分でわかる忙しい人のための裴秀の紹介

裴秀(はいしゅう)、字は季彦(きげん)、出身は河東郡聞喜県、生没年(224年~271年)

裴秀は魏から西晋にかけて活躍した政治家・地図学者である。
毌丘倹の推薦で曹爽に仕え、その失脚後は司馬昭の信任を得て、諸葛誕の反乱鎮圧や官制改革に携わった。

司馬炎を司馬昭の後継者に推し、晋の建国後には司空まで昇進した。
また、『禹貢地域図』十八篇を編纂し、地図を正確に描くための六つの原則「制図六体」を提唱した。
この原則は後世の中国の地図製作に大きな影響を与え、裴秀は中国科学地図学の祖として知られる。

裴秀は泰始七年(271年)、48歳で亡くなった。
死後には呉の討伐を進言する上奏文の草稿が発見され、司馬炎は病中も国家を忘れなかった裴秀の忠義を称賛した。

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裴秀(はいしゅう)の生涯を徹底解説!司馬昭・司馬炎に重用された政治家の功績と『禹貢地域図』、制図六体の誕生について

名門に生まれ、幼くして才能を認められた裴秀

裴秀は河東郡聞喜県の出身で、祖父の裴茂は後漢の尚書令、父の裴潜は魏の尚書令を務めており、代々高官を輩出する名門の生まれだった。
さらに岳父の郭配は、魏の名将として知られる郭淮の弟にあたる。

そんな家柄に生まれた裴秀だが、本人も幼いころから相当に優秀だった。
学問を好み、品格と節操を備え、わずか8歳で文章を書くことができたという。

裴秀の叔父にあたる裴徽も名声の高い人物で、その家には多くの賓客が訪れていた。
ところが裴秀が10歳を過ぎるころになると、叔父に会いに来たはずなのに、帰りには甥の裴秀のところにも顔を出すほど、すでに大人たちから一目置かれる存在になっていた。

一方、裴秀の生母は身分が低く、嫡母の宣氏からも丁重に扱われていなかった。
あるとき宣氏が裴秀の生母に命じ、客たちに料理を運ばせたところ、なんとその場にいた人々が一斉に立ち上がったのである。

これには生母も驚いたらしく、自分のような身分の低い者にまで礼を尽くしてくれるのは、きっと息子のおかげなのでしょう、と述べたという。
つまり、裴秀の評判があまりにも高かったため、客たちはその母親にまで敬意を払ったわけだ。

この話を聞いた宣氏は、それ以降、裴秀の生母に同じようなことをさせなくなったという。

そんな裴秀を、当時の人々は「後進の領袖に裴秀がいる」と称賛した。
つまり、まだ官職にも就いていない少年が、すでに若い世代を代表する人物として評価されていたのである。

毌丘倹の推薦で曹爽に仕え、黄門侍郎に昇進

裴秀の評判はますます高まり、やがて渡遼将軍の毌丘倹が、大将軍の曹爽に彼を推薦した。

毌丘倹によると、裴秀は生まれながらに優れた才能を備え、成長してからも落ち着いた性格で、物事の道理を深く理解していたという。
さらに学識が広く、記憶力にも優れ、さまざまな文章に精通していた。郷里では親孝行で友人にも誠実な人物として知られ、その評判は遠方にまで広まっていたという。

しかも毌丘倹の称賛は、これだけでは終わらなかった。
裴秀は若くして才能を発揮した子奇や甘羅にも匹敵し、さらには孔子の弟子である顔回、冉有、子游、子夏の美点まで兼ね備えているというのである。

ここまで褒められると、もはや欠点を探すほうが難しそうだが、毌丘倹はそれほど裴秀の才能を買っていた。
そして曹爽の補佐役として政治を助けるのにふさわしい人物だと推薦した。

曹爽はこの推薦を受け入れ、裴秀を掾(属官)として召し抱えた。
正始五年(244年)には父の爵位である清陽亭侯を継承し、その後は黄門侍郎に昇進した。

こうして裴秀は、幼いころから高く評価されていた才能を認められ、本格的に政治の世界へと足を踏み入れたのである。

曹爽の失脚で免官されるも、司馬昭の信任を得て復帰

正始十年(249年)正月、裴秀の出世街道に思わぬ落とし穴が待っていた。
仕えていた曹爽が高平陵の変で処刑され、その側近たちは次々と処刑されていく。

しかし、曹爽の配下にいた裴秀は免官だけで済んだ。
しばらくすると裴秀は廷尉正に任命され、再び朝廷で働くことになる。

司馬昭が安東将軍や衛将軍を務めるようになると、その司馬として仕え、軍事や政治に関する重要な仕事に参加した。
裴秀の意見は司馬昭から厚く信頼され、しばしば採用されるようになり、散騎常侍にも昇進した。

甘露二年(257年)、諸葛誕が司馬昭に反旗を翻すと、司馬昭は討伐軍を率いて鎮圧に向かった。
裴秀も尚書僕射の陳泰、黄門侍郎の鍾会とともに行台として従軍し、作戦の立案に参加している。

諸葛誕の反乱が平定されると、裴秀は尚書に転任し、その功績によって魯陽郷侯に進封された。
さらに食邑も千戸加増され、司馬昭のもとで着実に地位を高めていった。

曹奐の擁立と魏末の官制改革、五等爵位制の復活

甘露五年(260年)、司馬昭の専横にブチ切れた皇帝・曹髦が、司馬昭を排除するために挙兵した。
皇帝が臣下を討つために挙兵しなければならない時点で、すでに何かがおかしいのだが、さらに皇帝自身が殺害されるという大事件が起きた。世にいう甘露の変である。

ともかく皇帝が殺されてしまった以上、新たな皇帝を迎えなければならない。
そこで裴秀は、常道郷公の曹奐を擁立する方針の決定に参加した。

この功績によって裴秀は郷侯から県侯に進封され、食邑を七百戸加増された。
さらに尚書僕射へ昇進し、朝廷の重要な政務を担当するようになった。

咸熙年間の初め(264年頃)、魏では官職や法律、礼儀に関する制度の改革が進められていた。
荀顗が礼儀制度、賈充が法律の改正を担当し、裴秀は官職制度の改革を任されたのである。

このとき裴秀が提案したのが、西周の時代に由来する五等爵位制の復活だった。
これは公・侯・伯・子・男という五つの爵位を設ける制度で、裴秀の提案によって騎督以上の六百人余りに爵位が与えられることになった。
その結果、司馬氏を支持する多くの人物が封爵されている。

裴秀自身も済川侯に封じられ、封地は方六十里、食邑は千四百戸となった。
さらに高苑県の済川墟が、裴秀の侯国とされた。

こうして裴秀は、魏から晋へと政権が移り変わる時期に、政治の世界で出世していただけではなく、新しい国家の仕組みを作る仕事にも深く関わっていたのである。

司馬炎を後継者に推し、鉅鹿郡公となる

司馬昭は後継者をまだ決めておらず、長男の司馬炎ではなく、次男の司馬攸を後継者にすることも考えていた。
司馬攸は、男子のいなかった司馬昭の兄・司馬師の養子となっていた人物である。

もともと司馬氏の実権は、司馬懿から長男の司馬師へと引き継がれ、司馬師の急死によって弟の司馬昭が継承していた。
しかし司馬昭は、兄の司馬師こそ司馬氏の正統な後継者であり、いずれはその家系に権力を戻すべきだと考えていたのである。

そんな事情もあって、長男の司馬炎は自分が後継者になれないのではないかと、気が気ではなかった。

そこで司馬炎は裴秀に「人の顔つきから、その人物の将来を判断することはできるだろうか」と尋ね、自分の特異な容貌を示した。
裴秀は司馬炎の意図を察し、その容貌も後継者に推すための説得材料になると考えたのだろう。

後継者問題をめぐっては、山濤が兄を差し置いて弟を立てることは礼に反すると述べ、賈充も司馬炎には君主となる徳があるとして、司馬炎を支持した。

しかし、何曾や裴秀らは「中撫軍の司馬炎は聡明で武勇に優れ、世に抜きん出た才能を備えています。人々からの信望も厚く、あの生まれつきの容貌も、臣下にとどまる人物のものではありません」と進言した。
山濤は礼を説き、賈充は君主の徳を説いたが、何曾や裴秀らは才能や人望だけでなく、容姿まで持ち出したのである。
こうした重臣たちの進言を受け、司馬昭は司馬炎を世子に定めた。

やがて司馬炎が晋王の位を継ぐと、裴秀は尚書令に任命され、右光禄大夫を加官された。
さらに御史大夫の王沈、衛将軍の賈充とともに開府を許され、給事中を加官された。

泰始元年(265年)、司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝に即位し、西晋が成立した。
この禅譲に際して、裴秀は朝廷の重要な政務を取りまとめ、儀礼に反することなく適切に処理した。

晋の成立後、裴秀には左光禄大夫が加官され、さらに鉅鹿郡公に封じられて、食邑は三千戸となった。

司馬昭の陵墓参拝での進言

咸熙二年(265年)、司馬昭が亡くなると、臣下や民衆は特例として簡略化された喪の制度に従い、三日で喪服を脱いだ。
葬儀が終わると司馬炎も喪服を脱いだが、その後も白い冠をかぶり、質素な食事をとるなど、深い悲しみを示していた。

泰始二年(266年)八月、司馬炎は父の眠る崇陽陵への参拝を計画した。
群臣は、まだ残暑が厳しく、悲しみのあまり体を損なうのではないかと心配したが、司馬炎は「父の陵墓に参拝できれば、かえって体調もよくなるだろう」と答えた。

さらに司馬炎は「漢の文帝が天下の人々に長く喪に服することを求めなかったのは、帝王としての謙譲の心によるものだ。私は父の陵墓を参拝するのだから、喪服を着て行きたい。そのことについて協議せよ。群臣は従来の制度に従えばよい」と命じた。

要するに、「他の人はいいから、自分だけ喪服を着て行きたい。」ということである。

これに対し、尚書令の裴秀は「陛下はすでに喪服を脱がれたのに、再びお召しになることには礼制上の根拠がありません。また、君主だけが喪服を着て臣下が着ないというのも、私どもとしては安心して従うことができません」と進言した。

すると司馬炎は「私が心配しているのは、父を慕う気持ちを十分に尽くせないことだけだ。衣服など、どうでもよいことではないか。しかし、諸君がこれほど熱心に進言してくれるのだから、むやみに逆らうつもりはない」と答えた。

つい先ほどまで喪服を着たいと言っていたのに、反対されると衣服などどうでもよいと言い出した。
ともかく司馬炎は裴秀らの進言を受け入れ、喪服を着て陵墓に参拝することを取りやめた。

二つの事件で明らかになった司馬炎の裴秀への厚い信頼

晋の朝廷で高い地位に就いていた裴秀だったが、あるとき思わぬ理由で免官を求められることになった。

安遠護軍の郝詡が、知人への手紙に「私は尚書令の裴秀と親しいので、便宜を図ってもらえると思っている」と書いたのである。
郝詡は裴秀との交友関係を勝手に持ち出していたが、これを問題視した担当官は裴秀の免官を上奏した。

しかし司馬炎は「他人が自分について何も言わないようにすることは、古人にも難しかったことである。人間関係を利用して便宜を求めたのは郝詡の罪であり、尚書令の裴秀がどうしてそれを防げるだろうか」と述べ、裴秀については追及しないよう命じた。

別の事件では、司隷校尉の李憙が、騎都尉の劉尚が裴秀のために官有の稲田を占有したと訴え、裴秀を禁錮処分にするよう求めた。
今度は単なる名前の乱用ではなく、公有地を勝手に使わせていたという問題である。

これに対して司馬炎は、裴秀が朝廷の政治を支え、晋王室に功績を立ててきたことを重視した。
小さな過失によって大きな功績や徳を覆い隠すべきではないと判断し、劉尚の罪を調査して正す一方、裴秀への禁錮処分を解除するよう命じた。

最初の事件では他人の言動の責任を負わせず、二つ目の事件では過失よりも功績を重く見た。
いずれも司馬炎が裴秀を厚く信頼していたことを示す出来事である。

司空に昇進し、晋の朝廷制度を整える

泰始四年(268年)正月辛未日(2月3日)、司馬炎は裴秀を司空に任命した。
司空は三公の一つで、国家の政治を補佐する重職である。

任命に際して司馬炎は、三公はふさわしい人物がいなければ、形式だけで地位を埋めるべきではないと述べた。
そのうえで裴秀について、度量が広く学識も豊かで、物事を深く考える人物だと称賛した。先帝の司馬昭に登用されて以来、魏の朝廷で重要な仕事を担い、晋の成立後も功績を挙げてきたことを評価し、古代の賢臣にも比肩するとして司空に任命したのである。

裴秀は儒学に広く通じ、晋の朝廷の儀礼制度を整えるとともに、刑罰や政治制度についても幅広く意見を述べた。
裴秀が整えた制度の多くは採用され、その後の朝廷の慣例となった。

裴秀は司空を四年間務め、当時を代表する名公として評価された。

『禹貢地域図』と制図六体、中国地図学に残した功績

裴秀は政治家として活躍する一方、地図の製作にも大きな功績を残した。
司空となった裴秀は、土地や地理に関わる職務に携わる中で、古い地理書に記された山川や地名と、当時の実際の地理が一致しない問題に取り組んだ。

その成果として編纂したのが、中国で記録に残る最古の地図集とされる『禹貢地域図』十八篇で、完成した地図集を朝廷に献上した。

裴秀はその序文で地図製作の六つの原則「制図六体」を提唱し、従来の天下の大地図を縮小した方丈図も製作した。
制図六体は、縮尺や方位、距離だけでなく、山の高低や道の曲がり具合まで考慮し、立体的な地形を平面の地図に正確に表すための条件を六つの原則として整理した点で画期的だった。
現代のカーナビでも、目的地までの直線距離だけわかっても、実際の道のりや高低差がわからなければ役に立たない。
裴秀は180年も前に、そうした地図の問題に取り組んでいたのである。
詳しい研究内容は、後半の「王蕃が残した学問の詳細」で紹介する。

地図そのものは現存していないが、こうした考え方は現代の地図製作にも通じるもので、後の唐の賈耽や宋の沈括も裴秀の原則を地図製作の参考にした。
制図六体は後世の中国の地図製作に大きな影響を与え、裴秀は中国科学地図学の祖と位置づけられている。

寒食散と冷酒が招いた裴秀の最期

裴秀は寒食散を服用していた。
寒食散を服用した後には熱い酒を飲む必要があったが、ある日、誤って冷たい酒を飲んでしまった。

そして泰始七年(271年)三月丙戌日(4月3日)、48歳で亡くなった。

司馬炎は裴秀の死を深く悲しみ、詔を出して 「司空は道徳と知恵を備え、儒学の教養と優れた品格を持ち、晋の建国に大きな功績を挙げた。 これからも朝廷の制度を整え、世の模範となることを期待していたが、残念ながら亡くなってしまった。その死を深く悲しんでいる」と述べた。

さらに葬儀のため、秘器、朝服一式、衣服一組、銭三十万、布百匹を下賜した。
裴秀には元公という諡号が贈られた。

死後に発見された呉討伐の上奏文

裴秀は生前、尚書の三十六曹が担当する仕事の分担基準が明確でないことを問題視し、諸卿にそれぞれの職務を担当させる改革を考えていた。
しかし、この改革案を上奏する前に亡くなってしまった。

また、裴秀の死後、友人が遺された文書を整理していたところ、呉の討伐を進言する上奏文の草稿が見つかった。

裴秀はその草稿で
「孫皓は残酷で暴虐な政治を行っています。
陛下が聖明な君主として天下を治めておられる今、弱い敵を併合し、暗愚な者を討つ機会を逃して、そのまま子孫の代まで放置すれば、将来は呉を臣従させることができなくなるでしょう。
時勢には良い時期も悪い時期もあり、現在の有利な状況が永遠に続くわけではありません。」
と述べていた。

要するに、孫皓が生きている今がチャンスということである。

さらに裴秀は、以前から何度も呉の討伐を進言していたものの、いまだ正式な方針が決まっていないことを指摘した。
そして、自分の病が重く回復の見込みもないため、改めて意見を申し上げるとして、司馬炎に早期の呉征伐を願っていたのである。

この草稿を読んだ司馬炎は「司空が亡くなった悲しみは、今も心から離れない。さらにこの上奏文の草稿を見て、病が重い中でも王室を忘れず、忠義を尽くして国家のことを案じていたと知り、いっそう悲しくなった。この件については諸賢とともに議論しよう」と述べた。

咸寧元年(275年)、裴秀は石苞らとともに王公として宗廟に配享された。

裴秀には裴浚と裴頠という二人の息子がいた。
裴浚が爵位を継承し、散騎常侍まで昇進したが、早くに亡くなった。

裴浚の庶子である裴憬には知的な障害があったと記されており、別に高陽亭侯へ封じられた。
そのため、裴浚の弟にあたる裴頠が爵位を継承した。

参考文献

裴秀のFAQ

裴秀の字(あざな)は?

字は季彦(きげん)です。

裴秀はどんな人物?

魏から西晋にかけて活躍した政治家・地図学者です。
司馬昭・司馬炎に重用され、官制改革や地図製作に大きな功績を残しました。

裴秀の最後はどうなった?

泰始七年(271年)、寒食散を服用した際に誤って冷たい酒を飲み、48歳で亡くなりました。

裴秀は誰に仕えた?

魏の曹爽や司馬昭に仕え、その後は西晋の司馬炎に仕えました。
晋の建国後には尚書令や司空を務めました。

裴秀にまつわるエピソードは?

裴秀は二度にわたって処罰を求められましたが、司馬炎はいずれも裴秀を擁護しました。
特に劉尚の事件では、裴秀の功績を高く評価し、小さな過失で大きな功績を覆い隠すべきではないとして、裴秀への処分を解除しました。

裴秀が残した地図学の詳細

ここでは『禹貢地域図』十八篇の編纂から制図六体の具体的な内容、方丈図の製作を詳しく紹介する。

古代の地図と、その問題点

裴秀は土地や地理に関わる職務を担当する中で、古い地理書『禹貢』に記された山川や地名を調べ直した。
『禹貢』の成立から長い年月が経ち、山川や地名には多くの変化が生じていた。
さらに、後世の注釈者の中には、古い地名を当時の土地に無理に結びつける者もおり、地理の理解は次第に不明確になっていた。

そこで裴秀は古い文献を調べ、記述を取捨選択しながら地理情報を整理した。
疑わしい箇所については無理に断定せず、古代には名前があっても当時すでに存在しない地名については、それぞれの事情に応じて注記した。

裴秀は『禹貢地域図』の序文で、地図は非常に古くから作られてきたと説明している。
夏・殷・周の三代には地図を管理する官職が置かれ、国家の史官がその仕事を担当していた。
また、漢が咸陽を攻め落とした際には、丞相の蕭何が秦の地図や文書をすべて収集したという。

しかし、裴秀の時代には、宮廷の書庫に古代の地図も蕭何が収集した地図も残っていなかった。
残されていたのは、漢代の『輿地』や『括地』などの地図だけだった。

これらの地図には縮尺が定められておらず、方位や位置関係も正しく確認されていなかった。
有名な山や大きな河川についても記載が不十分で、土地のおおまかな形は描かれていても正確さに欠け、信頼できる資料として利用することはできなかった。
中には遠方の土地について荒唐無稽な話を記したものもあり、裴秀は事実に合わない情報を採用すべきではないと述べている。

晋による蜀の平定と地理資料の調査

晋による天下統一の事業が進められる中、司馬昭は担当官に命じ、呉と蜀の地図を集めて調査させていた。
蜀の平定後には、軍が実際に通過した地域について、土地同士の距離、山川の険しさ、進軍経路の曲がり具合などを地図や記録と照合し、食い違いがないことを確認した。

裴秀は『禹貢』に記された山や海、河川の流れ、平野や低湿地、池や沼などを調べ、古代の九州と当時の十六州について地理情報を整理した。
さらに、郡国や県邑、各地の境界や集落、古代の国名、諸侯が会盟した場所の旧名、水路や陸路の道筋なども調査した。

こうして裴秀は『禹貢地域図』十八篇を編纂し、朝廷に献上した。
完成した地図集は宮廷の秘府に収蔵された。

制図六体とは何か?裴秀が示した六つの地図製作原則

裴秀は『禹貢地域図』の序文で、地図を正確に製作するためには六つの原則があると説明している。
それが分率、准望、道里、高下、方邪、迂直であり、後に「制図六体」と呼ばれるものである。

第一の「分率」は、土地の広さや距離を地図上でどの程度の長さに表すかを定めるもので、縮尺にあたる。
第二の「准望」は、地点同士の方向や位置関係を正しく定めるための原則である。
第三の「道里」は、地点間を移動する道のりの距離を確定するものである。

第四の「高下」、第五の「方邪」、第六の「迂直」は、それぞれ土地の状況に応じて用いるもので、平坦な場所と険しい場所の違いを補正するための原則である。

裴秀は、地図に土地の形が描かれていても、分率がなければ実際の距離の違いを正確に判断できないと説明した。
また、分率があっても准望がなければ、ある地域では正しく描けたとしても、別の方向にある土地では位置関係に誤りが生じるという。

六つの原則を組み合わせる意味

准望があっても道里がなければ、山や海によって隔てられた地域同士の距離や位置関係を正しく結びつけることができない。
さらに、道里がわかっていても、高下、方邪、迂直による補正を行わなければ、道路に沿って測った距離と土地同士の実際の遠近が一致しなくなり、方位や位置関係にも誤りが生じてしまう。

そのため、裴秀は六つの原則を組み合わせて検討する必要があると述べた。
土地の遠近は分率によって、地点相互の関係は道里によって定められ、距離や長さの正確な数値は高下、方邪、迂直の計算によって求められると説明している。

こうした方法を用いれば、高く険しい山や広大な海によって隔てられた土地でも、遠く離れた地域でも、その位置や距離を正確に求めることができる。
また、登り下りのある道や複雑に曲がりくねった経路についても、地形の違いを考慮して正しく定めることができるという。

裴秀は、准望の方法が正しく定められれば、道の曲がり具合や土地の遠近も正確に把握できると論じた。

方丈図の製作と天下の地理を把握するための工夫

裴秀は『禹貢地域図』十八篇のほかに、古い天下の大地図を縮小した「方丈図」も製作している。

もともとの天下の大地図は、絹布を八十匹も使うほど大きなものだった。
そのため、全体を見渡すことが難しいうえ、記載内容にも不正確なところがあった。

そこで裴秀は、この大地図を縮小して方丈図を製作した。
その際には、一分を十里、一寸を百里とする縮尺を用い、縮尺に従って距離を計算した。

方丈図には、有名な山々や都市なども詳しく記載された。
これによって君主は、宮殿から出ることなく天下各地の地理を把握できるようになったという。

中国では裴秀以前から地図が作られていたため、裴秀が地図製作そのものを始めたわけではない。
裴秀は『禹貢地域図』で縮尺や方向、距離、地形の違いを考慮する六つの原則を示し、さらに方丈図では大きな地図を縮小して、天下の地理を把握しやすくした。

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