- 1分でわかる忙しい人のための王基の紹介
- 王基の生涯を徹底解説!毌丘倹・文欽の乱と諸葛誕の乱を平定し、司馬師・司馬昭にも進言を重ねた名将
- 王基の出自と、叔父への孝行
- 王淩に重用され、朝廷への栄転を引き止められる
- 曹叡の宮殿建設を諫める
- 王粛との論争と管輅との議論
- 安豊太守として呉の侵攻を防ぐ
- 一時免官となるも、荊州刺史として呉を攻め戦果を挙げる
- 荊州の統治を整え、拙速な呉征伐に反対
- 司馬師に政治の心得を説き、賢臣の登用を勧める
- 毌丘倹・文欽の乱1:司馬師に進軍を進言
- 毌丘倹・文欽の乱2:命令を待たず南頓を確保し、反乱軍を破る
- 毌丘倹・文欽の乱3:平乱の功績と、叔父の恩に報いるための上奏
- 諸葛誕の乱1:朝廷の命令に反して守備位置を維持
- 諸葛誕の乱2:寿春包囲戦で諸葛誕を破り、司馬昭から称賛される
- 勝利に乗じた呉侵攻を止め、功績を部下に譲る
- 母の死と、征南将軍への転任
- 呉の鄧由による偽装降伏を見破る
- 王基の最期、司空・景侯の追贈
- 王基の家族と評価
- 参考文献
- 王基のFAQ
- 関連記事
1分でわかる忙しい人のための王基の紹介
王基(おうき)、字は伯輿(はくよ)、出身は東萊郡曲城県、生没年(190年~261年)
三国時代の魏に仕えた将軍で、政治や学問にも優れた人物だった。
若いころは青州の統治を補佐し、安豊太守や荊州刺史となってからは呉に対する防衛を担った。
軍事面では毌丘倹・文欽の乱や諸葛誕の乱の平定に貢献し、司馬師や司馬昭に対しても自らの判断を率直に述べた。
特に毌丘倹の乱では、慎重な進軍を求める命令に従わず、南頓を先に占拠して勝利につなげた。
一方、勝利に勢いづいた司馬昭が呉への侵攻を考えた際には、兵糧の不足や兵士の疲労を理由に反対している。
学問では鄭玄の説を守って王粛と論争し、叔父への孝行や部下に功績を譲る姿勢でも知られた。
景元二年(261年)に七十二歳で亡くなると、司空を追贈され、景侯の諡号を贈られた。
王基の生涯を徹底解説!毌丘倹・文欽の乱と諸葛誕の乱を平定し、司馬師・司馬昭にも進言を重ねた名将
王基の出自と、叔父への孝行
王基は初平元年(190年)、東萊郡曲城県に生まれた。
字を伯輿といい、幼いころに父の王豹を亡くしたため、叔父の王翁に引き取られた。
王翁は王基を我が子のように大切に育て、王基もその恩を忘れず、叔父に孝行を尽くした。
おかげで若いころから孝行者として評判になっていた。
十七歳になると郡府から官吏に招かれたが、自分の望む仕事ではないと判断して辞職した。
その後は琅邪へ向かって学問を学び、王修から才能を認められている。
王淩に重用され、朝廷への栄転を引き止められる
黄初年間(220年~226年)、王基は孝廉に推挙され、郎中となった。
当時、青州はようやく平定されたばかりで、刺史の王淩は王基の才能に目をつけ、わざわざ上奏して別駕に迎えた。
王基は王淩を補佐して青州の統治に励み、州内の政治を安定させた。
おかげで王淩の評判まで上がったのだから、上司にとってはありがたい部下だった。
優秀な人材は何もしなくても周りが放っておかない。
王基が朝廷から秘書郎に任じられると、王淩は手放すのが惜しくなり、青州へ戻すよう求めた。
さらに司徒の王朗が王基を自分の属官に招いたときも、王淩は赴任を認めなかった。
これには王朗も黙っていなかった。
王淩を弾劾する書状を送り、次のように批判した。
「優れた家臣は公府へ進み、公府の優れた臣下は朝廷に登用されるものです。
だからこそ、古代には諸侯が優秀な人材を朝廷へ推薦する制度がありました。
それなのに、州が朝廷の宿衛に仕える臣下を取り込み、秘書の仕事を担う官吏を引き留めるなど、聞いたことがありません」
つまり、優秀な部下を独り占めするなというのである。
しかし王淩は、そんな批判を受けても王基を手放そうとしなかった。
そもそも王淩が青州で高い評判を得られたのは、王基の働きによって州内がよく治まっていたからでもある。王朗の言い分はもっともだが、王淩としても、自分の評判を支えてくれる部下を簡単に手放せるはずがなかった。
その後、大将軍の司馬懿まで王基を招聘したが、王基は赴任する前に中書侍郎へ抜擢された。
王基は、本人が何か騒ぎを起こしたわけでもないのに、周囲が勝手に取り合いを始めるほどの人材となっていた。
曹叡の宮殿建設を諫める
明帝曹叡の時代、朝廷では宮殿の建設が盛んに行われていた。
皇帝が立派な宮殿を建てて喜んでいる一方で、工事に駆り出された民衆は疲労困憊である。
これを見かねた王基は、二つの故事を提示して、曹叡に上奏して民衆を酷使する危険性を説いた。
一つ目は、民衆を水に、君主を舟にたとえる有名な教えである。
「水は舟を浮かべることもできますが、舟を覆すこともできます。 民衆の上に立つ者は、このことを恐れ、慎まなければなりません。 民衆が安楽に暮らしていれば心も穏やかですが、苦しめば反抗を考えるようになります。 だからこそ昔の聖王は倹約を心がけ、災いが起こらないようにしたのです」と訴えた。
二つ目は、顔淵と東野子の故事である。
「東野子は馬を巧みに操っていたが、馬が疲れ果てても走らせ続けたため、顔淵は馬が逃げ出すと予見した」
最後に「今は労役があまりにも厳しく、男女が離れ離れになって暮らしています。 陛下には東野子の失敗を深く考え、舟と水のたとえを忘れず、馬の力が尽きる前に走るのをやめさせるように、民衆が疲れ果てる前に労役を軽減していただきたいのです」と進言した。
舟をひっくり返す水に、疲れ果てて逃げ出す馬の故事を二つも並べて、民衆を使い潰すような政治をやめろと訴えたわけである。
ところが、王基の心配は宮殿建設だけでは終わらなかった。
今度は前漢の賈誼が、文帝に対して同姓の諸侯の危険性を警告した故事を持ち出した。
そして王基は、魏の現状にも同じ危険があると指摘した。
「今は外敵がまだ滅んでおらず、強大な軍を率いる将軍たちもいます。
彼らを厳しく抑えれば外敵に対応できず、長く放置すれば後世に禍根を残すでしょう。
陛下の治世のうちにこの問題を解決しなければ、子孫が優れた人物でなかったとき、国家の危機となります。
もし賈誼が今の時代に生き返れば、以前にも増して厳しい警告を行うはずです」と訴えた。
外敵と戦うには強い将軍が必要だが、その将軍が強くなりすぎれば、今度は朝廷にとって危険な存在になる。しかも、今の皇帝が何とかできても、次の皇帝まで同じように対処できるとは限らない。
王基は宮殿建設の負担を減らせという話から、いつの間にか魏の将来そのものを心配し始めていた。
もちろん、王基が司馬氏の台頭を予見していたわけではない。
しかし、後に司馬氏が魏の実権を握っていったことを考えると、なかなか笑えない警告である。
王粛との論争と管輅との議論
王基は学問にも深く通じ、後漢の鄭玄の学説を重んじていた。
一方、散騎常侍の王粛は経書の注釈を著し、朝廷の儀礼についても議論を行い、鄭玄の従来の説を改めようとしていた。
これに対して王基は鄭玄の解釈を支持し、王粛とたびたび論争した。
王基は政治や軍事だけでなく、学問上の問題についても自分の考えを曲げなかった。
その後、王基は安平太守に昇進したが、公務上の事情によって官職を離れている。
安平太守だったころには、占いの名人として知られる管輅との交流も記録されている。
王基が管輅に占いを求めると、管輅は三つの奇怪な出来事を告げた。
一つ目は、女が産んだ子が生まれてすぐ竈に入って死ぬ。
二つ目は、寝台に大蛇が現れて筆をくわえる。
三つ目は、烏と燕が争い、燕が死ぬというものだった。
王基が驚いて吉凶を尋ねると、管輅は古い建物にまつわる怪異にすぎず、災いを心配する必要はないと説明した。
あれだけ気味の悪い話を並べておきながら、結論は心配無用である。それであれば、もっと穏やかな伝え方はなかったのだろうか。
ともあれ、その後も王基に災難は起こらなかった。
また、管輅の別伝によれば、王基は管輅と数日にわたって『易』について議論し、その才能を高く評価したという。
一方の管輅も、王基に対して怪異に心を奪われず、徳を養って自分の務めに励むよう勧めている。
安豊太守として呉の侵攻を防ぐ
大将軍の曹爽は王基を従事中郎に迎え、その後、安豊太守に任じた。
安豊郡は呉と国境を接する最前線だったが、王基は清廉かつ厳正な政治で住民の信頼を集め、さらに防衛体制まで整えた。
呉にしてみれば、なんとも迷惑な太守が赴任してきたせいで、安易に攻め込めなくなった。
こうした功績によって、王基には討寇将軍の号が加えられた。
正始八年(247年)、呉の孫権が建業に大軍を集め、魏の揚州方面へ攻め込む構えを見せた。
国境を守る側としては穏やかではない話だが、揚州刺史の諸葛誕から意見を求められた王基は、孫権が実際に大規模な侵攻を行うことはないと判断した。
王基は「孫権はかつて二度合肥を攻め、江夏にも出兵しました。
全琮は廬江へ、朱然は襄陽へ攻め込みましたが、いずれも成果を挙げられずに撤退しています。
今では陸遜らも亡くなり、孫権自身も高齢です。国内には優れた後継者も、政務を支える有能な謀臣もいません。
孫権が自ら出陣すれば国内の内紛が心配ですし、将軍を派遣しようにも古参の将軍は少なく、新しい将軍には十分な信頼がありません。
今回の動きは、国内の勢力をまとめ、自国を守るためのものにすぎないでしょう」と分析した。
呉に軍はあっても、将もいないし、孫権は年取って、攻め込む余裕がないと見抜いていたのである。
そして孫権は、結局出兵しなかった。
一時免官となるも、荊州刺史として呉を攻め戦果を挙げる
当時、魏の実権を握っていた曹爽は、好き勝手に政治を動かしていた。
王基はそんな曹爽政権を見て、『時要論』を著し、政治の乱れを批判した。
その後、王基は病気を理由に中央へ召還され、河南尹に任じられることになった。
ところが正始十年(249年)、着任する前に司馬懿が高平陵の変を起こし、曹爽が処刑された。
王基は曹爽の旧属官だったため、ほかの関係者と一緒に免官となった。
ところが正始十年(249年)、王基は早くも尚書に復帰した。
曹爽の関係者だから免官にしたものの、朝廷は王基ほどの人物を放っておくわけがなかった。
その後は荊州刺史に任じられ、揚烈将軍の号まで加えられた。
嘉平三年(251年)末、王基は征南将軍の王昶に従い、呉への攻撃に参加した。
王基は別働隊を率いて夷陵にいた歩協を襲撃したが、歩協は城門を閉ざして籠城した。
敵が来たので城に引きこもる。防衛側としては実に正しい対応である。
ただし、相手が王基だったのが運の尽きだった。
王基は夷陵城を攻めるふりをしながら、密かに兵を分けて雄父の軍需物資貯蔵施設を襲撃した。
そして米三十余万斛を奪い、呉の安北将軍・譚正を捕らえ、数千人を降伏させるという大戦果を挙げた。
王基は、降伏した住民を移住させて夷陵県を設置し、関内侯に封じられた。
荊州の統治を整え、拙速な呉征伐に反対
王基は荊州の防衛を強化するため、王昶に上奏して荊州の治所を江夏へ移すよう求めた。
これによって夏口に圧力をかけ、呉軍が気軽に長江を渡って魏へ攻め込めないようにした。
さらに制度を整え、軍備を充実させ、農業を振興し、学校まで整備した。
その統治は南方の人々から称賛され、荊州は王基のおかげで着実に整っていった。
そんなころ、朝廷では呉への大規模な出兵が議論されていた。
王基にも意見が求められたが、彼は準備不足の出兵に反対した。
王基は「軍を動かして成果がなければ、国外では威信を失い、国内では財政が疲弊します。勝利できる準備を整えてから軍を動かすべきです。水路を整え、兵糧を集め、水戦の準備をしなければ、長江沿いに大軍を並べても勝てるとは限りません。江陵には沮水と漳水があり、その周辺には肥沃な田畑が広がっています。安陸の周辺にも池や豊かな土地があります」と進言した。
ここから王基の話は、いよいよ具体的になっていく。
「まず水路と陸路を利用して農業を進め、軍需物資を蓄えるべきです。その後、江陵と夷陵へ軍を進め、夏口を分担して押さえ、沮水や漳水を利用して兵糧を運べば、長期戦が可能になります。呉軍は魏軍が長期戦の準備を整えたと知れば抵抗する意欲を失い、帰順を望む者も増えるでしょう。そこで周辺の蛮夷を味方につけて内側から攻め、精鋭部隊を外側から進めれば、夏口より上流の地域を奪えます。そうなれば呉と蜀の連携も断たれ、呉の攻略につながるでしょう。しかし、準備を欠いたまま出兵しても勝利は保証できません」と訴えた。
反対していたのかと思ったら、今じゃない、準備してから攻めろであった。
戦争を止めるための説明が、戦争を始める人間よりよほど具体的なのだから恐れ入る。
結局、朝廷は王基の意見を受け入れ、呉への出兵を取りやめた。
司馬師に政治の心得を説き、賢臣の登用を勧める
嘉平四年(252年)、司馬師が大将軍となり、魏の実権を握った。
すると王基は、さっそく司馬師に書状を送り、お祝いの言葉より先に政治の心得を説き始めた。
「天下は広く、政務は非常に多いため、常に慎重な姿勢を保ち、朝を待ちかねるほど熱心に政治へ取り組まなければなりません。志が正しければ邪悪な考えは生まれず、心が静かであれば物事を慌ただしく処理することもなくなります。十分に考えて判断すれば命令が煩雑にならず、忠義ある優秀な人物を登用すれば、遠近の人々も心を合わせるでしょう」
大将軍に就任したばかりの司馬師に、王基は理想の上司になるための心得を一通り叩き込もうとしていた。
しかも王基の指導は、精神論だけでは終わらなかった。
「人々をまとめるには、まず自分自身の心を正すことが大切です。許允、傅嘏、袁侃、崔贊はいずれも当代の正しい人物で、率直な性格を持ち、軽薄な考えに流されません。彼らとともに政務を行うのがよいでしょう」と進言した。
心構えを説いたと思ったら、人事で迷わないよう、採用候補者リストまで添えてくれる親切設計だった。
司馬師は王基のこの意見を受け入れた。
王基の人材発掘はこれだけではない。
魏の末期には、同じ東萊郡出身の劉毅を高く評価し、公府に推薦している。
王基は劉毅の正直さと誠実さ、他人に迎合しない姿勢を称賛し、郷里での孝行や平陽郡での厳正な仕事ぶりまで挙げて、その登用を訴えた。
よりによって推薦したのが、相手が誰であろうと遠慮なく正論をぶつける劉毅である。
王基自身も上司に平気で意見する男なのに、さらに同じような人材を朝廷へ送り込もうとしていた。
権力者にとっては、ありがたいような、少々ありがた迷惑なような推薦である。
正元元年(254年)、曹芳が廃されて曹髦が即位すると、王基は常楽亭侯に進封された。
毌丘倹・文欽の乱1:司馬師に進軍を進言
正元二年(255年)、毌丘倹と文欽が寿春で反乱を起こした。
司馬師が自ら討伐に向かうと、王基も行監軍・仮節となり、許昌の軍を率いて合流した。
曹爽の失脚以来、魏では司馬氏が実権を握っていたが、当然ながら面白く思わない人間もいる。
そして毌丘倹と文欽は、不満を抱くだけでは飽き足らず、とうとう軍隊まで動かしてしまったのである。
司馬師は王基に「毌丘倹らの動きをどう考えるか」と尋ねた。
王基は「官吏や民衆が自ら望んで反乱に加わったわけではありません。毌丘倹らに欺かれ、脅かされているだけの寄せ集めです。大軍を差し向ければ、たちまち崩壊するでしょう」と答えた。
反乱軍を率いる二人に対して、ずいぶん容赦のない評価である。
司馬師はこの意見を認め、王基を軍の前方に配置した。
ところが諸将は毌丘倹と文欽の軍を恐れ、正面から戦うのは難しいと考えていた。
朝廷からも王基に進軍停止の命令が届いた。
王基が毌丘倹らが寄せ集めと言ったのに、味方が寄せ集めで何しに来たのかわからない。
王基は当然、反対した。
「毌丘倹らの兵は反乱の口実が嘘と知れ渡ったせいで、大軍を率いているのに、長く動けなくなっています。
今こそ魏軍の威勢を示すべきなのに、砦にこもって動かなければ、敵を恐れているように見えてしまいます」と訴えた。
さらに「ぐずぐずしている間に反乱軍が住民を略奪し、兵士の家族を人質に取れば、嫌々従っている者まで後戻りできなくなります。そこへ呉まで便乗してきたら、淮南どころか譙、沛、汝南、豫州まで巻き込まれます。敵が勝手に自滅しかけているのに、わざわざ立ち直る時間を与えてどうするのですか」と畳みかけた。
そして王基は、進軍先として南頓を提案した。
「南頓には堅固な城があり、軍の四十日分に相当する兵糧を蓄えた大きな施設もあります。先に南頓を占拠して食糧を確保すれば、敵の戦意を奪うことができます。これこそ反乱を平定するための重要な方策です」と述べた。
将軍たちが敵の勇猛さにビビっている横で、王基はすでに食糧倉庫の中身を数えていたのだった。
毌丘倹・文欽の乱2:命令を待たず南頓を確保し、反乱軍を破る
王基が何度も進軍を求めた結果、司馬師はようやく㶏水まで前進することを認めた。
ところが、㶏水に到着すると、今度は諸軍が集結するまで待てと言い出した。
王基は「戦争では、準備が多少不十分でも素早く動いたほうが勝てる場合があります。何もかも完璧に整うまで待っていたら、敵まで準備を整えてしまいます。外には呉がいて、内には反乱軍がいるのです。のんびりしている場合ではありません」と進言した。
さらに王基は、慎重論を唱える諸将にも噛みついた。
「慎重に行動すべきだという意見はもっともです。しかし、慎重というのは何もしないことではありません。敵に隙を見せずに前進するのが本当の慎重さです。こちらが砦に引きこもっている間に、敵は食糧を蓄え、我々は遠くから兵糧を運び続けることになります。いったい誰のために時間を稼いでいるのですか」
慎重という言葉を盾にして動こうとしない将軍たちに、王基はその盾ごと殴りかかったのである。
それでも司馬師は進軍を認めなかった。
そこで王基は、とうとう最後の一線を踏み越える。
「戦場の将軍には、君主の命令であっても従わないことが認められる場合があります。南頓は敵が取れば敵に有利となり、我々が取れば我々に有利となる重要な城です。そんな場所を目の前にして、許可が出るまで待っている場合ではありません」
そして王基は、司馬師の許可を待たずに南頓へ進軍を開始する。
一方、毌丘倹らも南頓の重要性には気づいていた。
項から兵を進め、南頓を奪おうと十余里ほど進軍したが、王基がすでに占拠したと聞いて引き返した。
そのころ、兗州刺史の鄧艾は楽嘉に駐屯していた。
毌丘倹は文欽に兵を率いさせ、鄧艾を攻撃させたが、王基は反乱軍が二手に分かれた隙を見逃さず、項へ進軍した。
その結果、毌丘倹の軍は敗れ、文欽らの反乱も平定された。
毌丘倹・文欽の乱3:平乱の功績と、叔父の恩に報いるための上奏
毌丘倹・文欽の乱を平定した功績により、王基は鎮南将軍・都督豫州諸軍事となり、豫州刺史を兼ね、安楽郷侯に進封された。
ところが王基は、ここで自分の出世とは別のことを考えていた。
幼いころに父を亡くした王基を育ててくれた、叔父の王翁である。
王基はその恩を忘れておらず、自分が与えられた食邑のうち二百戸を王翁の子である王喬に分け、関内侯の爵位まで与えてほしいと上奏した。
自分が偉くなったのだから、育ててくれた叔父の家にも恩返しをしたいというのである。
朝廷はこの願いを特別に認めた。
王翁も、まさか甥を育てたことがこれほど壮大な親孝行ならぬ叔父孝行につながるとは、思いもしなかっただろう。
諸葛誕の乱1:朝廷の命令に反して守備位置を維持
甘露二年(257年)、今度は諸葛誕が寿春で反乱を起こした。
王基は従来の官職を保ったまま鎮東将軍の職務を代行し、揚州と豫州の軍を率いて討伐に参加した。
前回は司馬師の命令を無視して反乱を平定したが、今回も王基には朝廷と意見が食い違う場面が待っていた。
当初、魏の大軍は項に駐屯していたが、諸葛誕の軍が精強だったため、朝廷は王基に兵をまとめて堅固な陣地を守るよう命じた。
ところが王基は進撃を主張し、何度も攻めるよう求めた。
やがて呉の朱異が諸葛誕を救援するため、軍を率いて安城に到着した。
すると朝廷は、王基に現在の陣地を離れ、北山の険しい地形へ移動するよう命じた。
ところが今度は、王基が動くなと言い出した。
王基は諸将に「せっかく包囲陣地が堅固になり、兵馬も集まっているのです。
今やるべきことは敵の脱出を防ぐことでしょう。
それなのに陣地を捨てて山へ移れば、諸葛誕に好き勝手動く機会を与えてしまいます。
そうなってから慌てても、どんな知恵者にも手の施しようがありません」と説いた。
さらに朝廷へも「今は敵と向かい合っているのですから、山のように動かないことが重要です。 すでに深い堀と高い塁を築き、将兵の心も定まっています。今さら陣地を移せば、かえって兵士が動揺します」と上奏した。
朝廷は王基の意見を認め、守備位置を維持することになった。
諸葛誕の乱2:寿春包囲戦で諸葛誕を破り、司馬昭から称賛される
大将軍の司馬昭が丘頭に進駐すると、魏軍は担当区域を分けて寿春を包囲した。
王基は城の東側と南側を担当し、二十六軍を指揮することになった。
司馬昭は軍吏に対し、王基の担当区域に入って勝手に命令を出してはならないと命じ、その指揮権を尊重した。
包囲が長引くと、寿春の城内では食糧が底をつき始めた。
追い詰められた反乱軍は昼夜を問わず魏軍の陣地へ攻撃を仕掛けたが、王基はそのたびに撃退した。
食糧はない、逃げ道もない、おまけに何度攻めても勝てない。
諸葛誕にとっては、どちらを向いても絶望しかない状況だった。
やがて寿春は陥落し、諸葛誕の反乱は平定された。
すると司馬昭は王基に書状を送り、その判断を絶賛した。
司馬昭は「当初は軍を移動させるべきだという意見が多く、現地を見ていなかった私もそれが正しいと思っていた。 だが、将軍は利害を見極め、ただ一人自分の判断を貫いた。 上は朝廷の命令に逆らい、下は諸将の意見を退け、見事に敵を制圧したのだ。 古人の功績と比べても、これ以上のものはあるまい」と称賛した。
勝利に乗じた呉侵攻を止め、功績を部下に譲る
諸葛誕の乱を平定すると、司馬昭は勝利の勢いを利用し、少数の精鋭部隊を呉の領内へ進めようと考えた。
さらに、降伏した呉の将軍唐咨らの家族も迎え入れて、敵国内を動揺させようと考えたのである。
うまくいけば、そのまま呉を滅ぼせるかもしれない、とまで考えていた。
ところが、ここで王基が待ったをかけた。
「諸葛恪は東関で勝って調子に乗り、新城で兵士の半数以上を失いました。
姜維も洮水方面で勝った勢いで深入りし、兵糧が尽きて上邽で敗れています。
今回は十万もの敵兵を捕らえ、首謀者も討ち取りました。曹操でさえ官渡で勝った後は深追いしなかったのです。欲張ってせっかくの勝利を台無しにしてどうするのですか」と訴えた。
司馬昭は王基の意見を受け入れ、呉への進軍を取りやめた。
戦場では命令に逆らい、戦後は上司の侵攻計画を潰す。
それでも司馬昭が耳を傾けるのだから、王基の発言には相当な重みがあった。
その後、王基は征東将軍・都督揚州諸軍事に転任し、東武侯に進封された。
ところが王基は恩賞を固辞し、今回の勝利は部下たちの働きによるものだと上奏した。
その結果、長史や司馬をはじめとする七人の部下が侯に封じられた。
母の死と、征南将軍への転任
諸葛誕の乱を平定した年、王基の母が亡くなった。
朝廷は王基にその知らせを伝えないよう命じ、父の王豹の遺体を迎えて洛陽で母と合葬させた。
また、王豹には北海太守の官職が追贈された。
甘露四年(259年)、王基は征南将軍・都督荊州諸軍事に転任した。
その後、曹奐が皇帝に即位すると、王基の食邑は千戸加増され、以前の分と合わせて五千七百戸となった。また、前後して二人の息子にも、それぞれ亭侯と関内侯の爵位が与えられた。
呉の鄧由による偽装降伏を見破る
景元二年(261年)、襄陽太守の胡烈から、呉の将軍鄧由らが魏に降伏したがっているという報告が届いた。
司馬昭はこれを聞いて、さっそく王基の指揮下にある軍を動かそうとする。
ところが王基は、またしても待ったをかけた。
司馬昭が呉に手を出そうとするたびに王基が止めに入る。もはや恒例行事である。
しかし王基は、鄧由らの降伏が偽装であることを疑い、急いで司馬昭へ書状を送った。
王基は「嘉平年間以来、国内では反乱が繰り返されています。今なすべきことは国家を安定させ、民衆を安心して暮らせるようにすることであり、外部の利益を求めて軍を動かすべきではありません」と進言した。
この一件については、司馬彪の『戦略』にも詳しい記録が残されている。
同年三月、胡烈は鄧由や李光ら十八屯の兵が降伏を計画しており、張呉と鄧生を使者として送り、人質を差し出したうえで、魏軍に長江のほとりまで迎えに来てほしいと申し入れたと報告した。
司馬昭は征南将軍の王基に軍を配置させ、胡烈には一万人を率いて沮水へ進ませるよう命じた。
さらに荊州や義陽の軍を宜城の南へ配置し、鄧由らが約束どおり現れた場合は、その機会に呉を動揺させようとした。
王基は敵が魏軍を誘い出すために偽りの降伏を申し出た可能性を考え、駅馬を走らせて司馬昭に計画の中止を求めた。
「夷陵へ向かう東の道は、赤岸まで進まなければ平坦な土地へ渡れません。西の道も箭谿口を抜けなければならず、どちらも山が険しく、竹や木が密生しています。敵が要害を押さえれば、弩や騎兵を十分に展開することもできません。
今は弩の材料となる筋や角の状態も悪く、大雨が降る時期にあたります。農作業の盛んな時期に兵を動かし、成功するか分からない利益を求めるのは危険です」と訴えた。
つまり、敵に案内された場所へノコノコ出かけたら、山の中で袋叩きにされかねないというのである。
王基の説教はまだ終わらない。
「以前、子午道へ進軍した際には長雨で道や橋が壊れ、兵糧まで腐りました。姜維も補給を待たずに深入りして上邽で敗れています。文欽や唐咨も寿春で利益を求めた末に命を落としました。失敗例なら、わざわざ遠くまで探しに行かなくても山ほどあります。
今は農業を重んじ、民衆をいたわり、国内を落ち着かせるべきです。敵が本当に降伏しても大した利益にはなりませんが、失敗すれば国家の威信に傷がつきます」と念を押した。
司馬昭もさすがに迷い始め、すでに出発した軍には、その場で停止して次の命令を待つよう指示した。
ところが王基は、それでも安心しなかった。今度は歴史の授業まで始めたのである。
「かつて劉邦は酈食其の進言を信じて六国の子孫を王に封じようとしましたが、張良に誤りを指摘され、用意した印を急いで処分しました。私に張良ほどの知恵はありませんが、襄陽で酈食其のような間違った進言が行われることを恐れています」と訴えた。
間違った判断なら今からでも撤回してくださいという話である。しかも劉邦を引き合いに出しているので、司馬昭も引き返すことを恥とは思わずに済む。
こうして司馬昭は出兵を取りやめた。
そして肝心の鄧由らは、結局いつまで待っても降伏してこなかった。
王基はまたしても上司の計画を止めることに成功したのである。
王基の最期、司空・景侯の追贈
景元二年(261年)四月二十四日、王基は七十二歳で亡くなった。
朝廷はその功績を称え、司空を追贈し、景侯の諡号を贈った。
爵位は息子の王徽が継いだが、王徽も早くに亡くなった。
その後、咸熙年間に五等爵が設けられると、朝廷は王基の長年の功績を改めて評価し、孫の王廙に爵位を継がせた。
さらに東武侯の残りの食邑を使い、別の息子にも関内侯の爵位を与えている。
泰始元年(265年)、司馬炎が魏から帝位を譲り受け、西晋を建国した。
すると司馬炎は、王基の清廉さを称える詔を出した。
司馬炎は「故司空の王基は徳も功績も備えていたが、暮らしは質素で、私財を蓄えようとしなかった。長年にわたって重職を務めながら、家にはろくに財産も残っていない。亡くなった今も、その清廉さは人々の手本となる」と称賛した。
そして王基の家に奴婢二人を与えるよう命じた。
王基の家族と評価
王基の息子には、爵位を継いだ王徽のほか、王沖や王振らがいた。
『晋太康起居注』には、王沖が尚書郎中を務め、後に治書侍御史へ任じられたことが記録されている。
『三国志』の陳寿は、王基の学識と品行が堅固で清廉だったことを称賛している。
また、徐邈、胡質、王昶とともに地方や軍事の重職を担って功績を残し、国家を支えた良臣であり、当代を代表する優れた人物だったと高く評価している。
この時代で西の陳泰、東の王基と呼びたくなるほどの名将なのに、どうにも地味な男である。
政治も学問も戦争もできて、清廉潔白で孝行者。上司に逆らっても、王基が正しい。
三国志には才能と同じくらい問題を抱えた人物が山ほどいるのに、問題がないことが問題なのである。
人間としては実に立派だが、人物紹介を書く側としては、もう少し何かやらかしてほしかった。
参考文献
- 三國志 : 魏書二十七 : 王基傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十一 : 王脩傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十一 : 管寧傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十九 : 管輅傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷076 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷077 – 维基文库,自由的图书馆
- 晉書 : 帝紀第二 世宗景帝 太祖文帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 全三國文/卷56 – 维基文库,自由的图书馆
- 太平御覽 : 職官部十三 – 中國哲學書電子化計劃
- 北堂書鈔 : 北堂書鈔卷第四十八 – 中國哲學書電子化計劃
- 王基 (三國) – 维基百科,自由的百科全书
王基のFAQ
王基の字(あざな)は?
王基の字は伯輿(はくよ)です。
王基はどんな人物?
三国時代の魏に仕えた将軍で、軍事、政治、学問に優れた人物です。
清廉で慎重な判断力を持ち、司馬師や司馬昭に対しても遠慮なく意見を述べました。
王基の最後はどうなった?
景元二年(261年)四月二十四日、七十二歳で亡くなりました。
死後は司空を追贈され、景侯の諡号を贈られました。
王基は誰に仕えた?
魏の曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐の時代に官職を務めました。
また、司馬懿から招聘を受け、司馬師や司馬昭のもとでは軍事上の重要な役割を担い、政治や戦略について進言しています。
王基にまつわるエピソードは?
毌丘倹・文欽の乱では、司馬師が軍の集結を待とうとするなか、王基は南頓の確保が重要だと主張し、命令を待たずに進軍しました。
その結果、反乱軍に先んじて南頓を占拠し、平乱につなげました。
また、諸葛誕の乱では守備位置を変更する命令に反対し、寿春の陥落後には司馬昭からその判断を高く称賛されています。

コメント