閻圃(えんほ):張魯を二度止めた参謀、曹操も認めた漢中の知恵者

一般文官2

閻圃の生涯は?張魯の漢寧王即位を止め、曹操への降伏を導いた功曹

張魯の漢寧王即位を止める

閻圃(えんほ)は益州巴西郡安漢県の出身で、生年は不明で、没年は230年代頃とみられる。
後漢末、漢中を支配していた張魯に仕え、功曹を務めていた。

当時、後漢の朝廷は漢中の張魯を討伐することができず、仕方がないので鎮民中郎将、漢寧太守に任命し、貢物を納めさせることでその支配を認めていた。
そんな漢中で地中から玉印が出てくる。すると人々は大いに盛り上がり、「これはもう王になるしかない」と張魯を漢寧王へ推戴しようとした。

土地はある。民もいる。朝廷も手を出せない。そこへ地面から玉印まで出てきた。
王になる材料が向こうから勝手に揃い始めたところで、閻圃だけが「ならなくていい」と止めた。

閻圃は張魯に、漢川には十万戸の民が暮らし、土地は豊かで、四方を守るにも都合がいいと説いた。
そのうえで、「天子を助けるなら斉の桓公や晋の文公のようにもなれるし、そこまでいかなくても竇融のように富貴を保つことはできる。すでに人を任命し、物事を決められるだけの力があるのだから、わざわざ王を名乗って災いの先頭に立つ必要はない」と進言した。

要するに、もう王みたいなことができているのだから、王という名前だけ取りに行って余計な敵を増やすなという話である。
張魯はこれを受け入れ、地中から玉印まで出てきたのに漢寧王にはならなかった。

曹操の漢中侵攻と降伏策

建安二十年(215年)、今度は玉印ではなく曹操がやってきた。
曹操は張魯を討つため自ら軍を率い、散関から武都へ入り、陽平関まで進軍する。張魯は降伏しようとしたが、弟の張衛がこれを拒み、数万の兵を率いて陽平関へ入った。

やがて陽平関が陥落すると、張魯は再び曹操への降伏を考えた。
すると閻圃が降伏するのも止めたのである。

閻圃は、「ここまで追い詰められてから降伏しても、軍功は軽く見られる。まず杜濩や朴胡を頼って曹操に抵抗し、そのあとで降伏すれば軍功は大きくなる」と進言した。
降伏すること自体には反対しない。ただ、今すぐ降伏するのはもったいないので、もう少し抵抗してから降伏しろというのである。

張魯はまたしても閻圃の言うことを聞き、すぐには降伏せず、杜濩や朴胡を頼って巴中へ退いた。
その後、曹操が南鄭へ入り、使者を送って帰順を呼びかけると、張魯は家族を連れて戻って降伏した。

すると曹操は張魯を鎮南将軍に任命し、賓客に対する礼で迎え、さらに閬中侯へ封じた。
張魯はかなり立派な待遇で曹操陣営へ着地し、横で降伏を遅らせていた閻圃まで列侯となり、平楽郷侯に封じられた。

しかも閻圃への待遇は爵位だけでは終わらず、曹操は董氏まで与えている。
董氏はもともと馬超の庶妻で、馬超が劉備へ帰順した際、漢中に置いていかれた女性だった。

黄初年間(220~226年)には閻圃の爵邑が加増され、それまでと合わせて五百戸となった。
さらに朝議に参加できる待遇まで与えられている。
それから十余年後、閻圃は病死した。

閻圃の死後は子の閻璞が爵位を継いだ。父親は曹操から侯に封じられ、さらに爵邑まで加増されているのだから、閻氏はかなり厚遇された側である。
ところが閻璞は呉に仕え、南方の牂柯太守となった。父は魏で厚遇され、息子は呉にいる。

一方、孫の閻纘は北方の河南にある新安に住み、西晋に仕えて西戎司馬、漢中太守を務めた。

参考文献

関連記事

張魯:漢中を支配した五斗米道の教祖【すぐわかる要約付き】
1分でわかる忙しい人のための張魯の紹介張魯(ちょうろ)、字は公祺(こうき)、出身は沛国豊県、生没年(?~216年、異説あり)張魯は後漢末に漢中を支配し、祖父の張陵、父の張衡から受け継いだ五斗米道を統治に取り入れた人物である。もとは劉焉に仕え…

コメント

タイトルとURLをコピーしました