2分でわかる忙しい人のための劉備の紹介
劉備(りゅうび)、字は玄徳(げんとく)、出身は涿郡涿県、生没年(161年~223年)。
後漢の皇族である中山靖王劉勝の子孫で、のちに蜀の初代皇帝となった人物である。
幼いころに父を亡くし、母とともに草鞋や筵を売って暮らしたが、盧植のもとで学び、公孫瓚とも交友を結んだ。
黄巾の乱を機に兵を率い、各地で戦いながら官職を歴任したものの、幾度も敗北や勢力の喪失を経験した。
陶謙から徐州を譲られたが、呂布に奪われ、曹操と協力して呂布を滅ぼした後には、曹操とも決裂した。
その後は袁紹を頼り、さらに荊州の劉表のもとへ身を寄せ、諸葛亮を迎えて勢力拡大の方針を定めた。
曹操の南下によって長坂で敗走したが、孫権と同盟して赤壁の戦いで曹操軍を破り、荊州南部の四郡を平定した。
さらに益州へ進出し、劉璋を降伏させて成都を獲得すると、漢中争奪戦では夏侯淵を討ち、曹操軍を退けた。
建安二十四年(219年)には漢中王となり、延康元年(220年)に曹丕が後漢の皇帝から帝位を譲り受けると、翌章武元年(221年)に劉備も皇帝へ即位した。
しかし、関羽の敗死と荊州の喪失を受けて呉に出兵し、夷陵の戦いで陸遜に大敗した。
劉備の戦歴一覧
以下の表では、黄巾の乱から夷陵の戦いまで、劉備本人や配下の武将が参加した主な戦闘を年代順にまとめている。
なお、劉備本人が直接指揮していない戦闘も含まれており、勝敗は個々の戦闘や軍事行動の結果を示したものである。戦闘が行われなかった場合や勝敗が明確でない場合は、その内容に応じて区別している。〇:勝ち ×:負け △:引き分け
| 年代 | 対戦相手 | 勝敗 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 184年 | 黄巾軍 | 〇 | 鄒靖に従って黄巾軍を討伐し、軍功を挙げた |
| 187年頃 | 張純の反乱軍 | × | 『典略』では、野戦で負傷して死んだふりをし、救出された。 のち軍功で安喜尉となった |
| 189年頃 | 下邳の賊 | 〇 | 毌丘毅に同行して賊を撃退し、下密県丞となった |
| 191年頃 | 高唐を攻めた賊 | × | 賊に敗れ、公孫瓚を頼った |
| 191年頃 | 袁紹軍 | 〇 | 田楷とともに袁紹に対抗し、たびたび軍功を挙げた |
| 193年 | 曹操 | × | 陶謙の援軍として、曹豹と一緒に戦う。 徐州の郯の東で曹操軍に敗れた |
| 196年 | 袁術 | △ | 盱眙・淮陰方面で約一か月戦い、双方に勝敗があった |
| 196年 | 呂布 | × | 呂布に下邳を奪われ、妻子を捕らえられた |
| 196年 | 袁術 | × | 広陵へ進んで再び戦ったが敗北した |
| 197年 | 楊奉・韓暹 | 〇 | 徐州・揚州の間で迎撃し、両者を討った |
| 197年頃 | 呂布 | × | 小沛で一万人余りの兵を集めたが、呂布に攻められて敗走した |
| 198年 | 高順・張遼ら | × | 夏侯惇が援軍、小沛が陥落し、劉備の妻子が再び捕らえられた |
| 198年 | 呂布 | 〇 | 曹操とともに下邳を攻略し、呂布を捕らえた |
| 199年 | 劉岱・王忠 | 〇 | 曹操が派遣した二人の攻撃を退けた。 |
| 200年 | 曹操 | × | 徐州の曹操の親征によって敗走し、小沛を失い、妻子と関羽を捕らえられた。 |
| 200年 | 曹操 | × | 延津の戦いで敗れ、文醜が討ち死にした。 |
| 200年 | 曹仁 | × | 劉辟と許の周辺を攻めたが、曹仁に敗れて袁紹のもとへ撤退した。 |
| 201年 | 蔡陽 | 〇 | 汝南で龔都と一緒に曹操軍を破り、蔡陽を討ち取った。 |
| 201年 | 曹操 | × | 曹操の南征を受け、汝南を離れて劉表のもとへ逃れた。 |
| 202年 | 夏侯惇・于禁 | 〇 | 博望で撤退を装い、追撃してきた曹操軍を伏兵で破った。 |
| 208年 | 曹操 | × | 長坂の戦いで曹操の精鋭騎兵五千に追いつかれて敗走し、多くの人員や輜重を失った。 |
| 208年 | 曹操 | 〇 | 赤壁の戦いで孫権と連合し、曹操軍を破る。 |
| 208年 | 荊州南部四郡の太守 | 〇 | 武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を平定した。 |
| 212年 | 劉璋 | 〇 | 涪を占拠し、劉璝・冷苞・張任・鄧賢らを破って綿竹へ退かせた。 |
| 213年 | 劉循 | 〇 | 雒城を1年あまり包囲して陥落させた。包囲戦中に龐統が戦死した。 |
| 214年 | 劉璋 | 〇 | 成都を包囲し、劉璋を降伏させて益州を平定した。 |
| 215年 | 呂蒙 | △ | 荊州の領有をめぐって対峙し、湘水を境に領土を分けた。 |
| 219年 | 夏侯淵 | 〇 | 定軍山で夏侯淵・趙顒を討ち取る。 |
| 219年 | 曹操 | 〇 | 曹操を撤退させ、漢中を確保。 |
| 221年 | 孫権 | 〇 | 巫・秭帰方面で呉班・馮習らが李異らを破り、秭帰まで進軍した。 |
| 222年 | 陸遜 | × | 夷陵・猇亭の戦いで大敗し、劉備は永安まで退却した。 |
劉備の生涯を徹底解説!黄巾の乱から徐州・荊州・益州を経て漢中王となり、蜀の皇帝に即位するまでと夷陵の敗戦、白帝城での最期
劉備の出自と各地での転戦(161年~193年)
劉備の出自と漢王室の血筋
劉備は涿郡涿県の酈亭楼桑里に生まれた。
漢景帝の子、中山靖王劉勝の子孫であり、れっきとした漢王室の一族ということになっている。
ただし、この血筋は少々怪しい。
劉勝の子である劉貞が元狩六年(前117年)に陸城亭侯となり、後に酎金の問題で爵位を失ったところまでは分かる。ところが、そこから劉備の祖父である劉雄までの系譜がごっそり抜けている。
さらに『典略』では、劉備を臨邑侯の一族としている。
漢王室の一族であることまで疑う必要はないだろうが、本当に中山靖王劉勝の子孫だったのかとなると、なんとも微妙である。
祖父の劉雄は孝廉に推挙されて范県令を務めたが、父の劉弘は劉備が幼いころに亡くなった。
草鞋売りの少年と桑の木の下での発言
父を早くに亡くした劉備は、母とともに草鞋を売り、筵を織って暮らしていた。
そんな劉備の家には高さ五丈余りという巨大な桑の木があり、枝葉が大きく広がった姿は、遠くから見ると車の天蓋のように見えた。
そのあまりに立派な姿から、近所では、この家から貴人が出るのではないかと噂されていた。
ある日、劉備は同族の子供たちと桑の木の下で遊びながら、
「俺もいつか、こんな羽飾りのついた天蓋の車に乗るぞ」
と言い出した。
子供の夢としてはなかなか壮大である。ところが叔父の劉子敬は、
「そんなことを軽々しく口にするな。一族を滅ぼすことになるぞ」
と劉備を叱った。高貴な者が乗る車に自分も乗るというのだから、皇帝のいる時代には洒落にならない発言だったのである。
そしてこの草鞋売りの少年、本当に後で皇帝になってしまう。
公孫瓚と共に盧植に学ぶ
十五歳になると、母が勉強しに行けというので、劉備は郷里を離れ、盧植のもとで学ぶことになった。
盧植は同じ涿郡出身で、九江太守を務めたこともある人物である。
そこには同族の劉徳然や、遼西出身の公孫瓚もいた。
せっかく盧植の門下に入っても、そもそも母親に言われて来ただけなので、劉備自身は読書にあまり興味がなかった。
好きなのは犬や馬、音楽、そして派手な衣服である。
そんな劉備を気に入ったのが、劉徳然の父である劉元起だった。
実の息子と同じように劉備へ金を出し続けるので、妻から「家が別なのに、どうしていつまでも同じように援助するのですか」と文句を言われている。
しかし劉元起は「我が一族のこの子は、大物になるぞ」と答え、援助をやめなかった。
また、劉備は年上の公孫瓚を兄のように慕っていた。
後に行き場を失った劉備が頼ることになる相手だが、この二人の付き合いは盧植の門下にいたころから始まっている。
豪侠との交流と挙兵の基盤
劉備は身長七尺五寸、腕を下ろすと手が膝より下まで届き、振り返れば自分の耳が見えるほどだった。
あまり喋らず、感情を表に出すこともなく、それでいて人には偉ぶらずに接していた。
その一方で豪侠たちと付き合うのが好きで、いつしか地元の若者たちが劉備の周りに集まるようになっていった。
牽招も若いころから劉備と親しく、河朔の地で互いのためなら命を惜しまない刎頸の交わりを結んでいた。
のちに牽招は曹操の陣営に仕え、劉備が蜀で漢の皇帝となった際には、かつての交友が問題にならないよう言動を慎んだ。
このころ、中山の大商人だった張世平と蘇双らが、馬を売るため涿郡までやって来た。
そこで劉備と出会い、こいつは将来何かやりそうだと思ったのか、金や物資をたっぷり援助してくれた。
金があれば人を集められる。こうして劉備は、自分の兵を持つための元手を手に入れた。
黄巾討伐と督郵への暴行
中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、各地の州郡で黄巾討伐のための義兵が集められた。
劉備も簡雍・関羽・張飛・牽招らを引き連れて校尉の鄒靖に従い、黄巾討伐に参加する。
ここで軍功を挙げた劉備は安喜尉に任命され、ようやく役人としての一歩を踏み出した。
あるとき、役人を監察する督郵が安喜県を訪れたので劉備は面会を求めたのだが、会ってもらえなかった。
すると劉備は督郵のいるところへ押し入り、その身を縛り上げ、杖で二百回もぶん殴った。
さらに官印の紐を督郵の首に掛け、馬をつなぐ杭に縛りつけ、そのまま官職を捨てて逃亡している。
『典略』では、以下のように書かれている。
張純が反乱を起こしたとき、平原の劉子平は劉備の武勇を知っていたため、青州から討伐にやって来た従事に劉備を推薦した。
劉備はその軍に加わったものの、戦いの中で負傷してしまう。そこで死んだふりをしてやり過ごし、賊が去ったところを知人に車で救い出された。
なかなか酷い目に遭っているが、その後の軍功によって安喜尉に任命された。
ところが当時、軍功だけで役人になった者を整理する命令が出ていた。
劉備も自分がクビになるのではないかと考え、安喜県へやって来た督郵に会いに行く。ところが督郵は病気を理由に面会を拒否した。
ここで劉備は諦めて帰るような男ではない。吏卒を連れて再び宿舎へ向かうと、「太守の密命で督郵を捕らえる」と嘘をつき、そのまま部屋へ押し入った。
そして寝台にいた督郵を縛り上げ、県境まで連行すると、今度は木にくくりつけて百回余り鞭打った。
しかも劉備は鞭だけでは収まらず、そのまま殺そうとした。督郵が必死に命乞いしたのでようやく解放し、劉備はそのまま逃亡した。
場所も回数も事情も違っているが、殴って退職という、最初の役人生活はなかなか豪快な終わり方をした。
下密・高唐での任官と公孫瓚への帰属
この頃、大将軍何進が都尉の毌丘毅を丹楊へ送り、兵を集めることになり、劉備もこれについていった。
途中の下邳で賊と戦って手柄を立て、今度は下密県丞に任命される。ところが劉備は、せっかく手に入れたこの官職をさっさと辞めてしまった。
次に高唐尉となり、初平二年(191年)には高唐令にまでなったが、今度は賊に負けて居場所を失う。そこで頼ったのが、盧植のもとで一緒に学んだ公孫瓚だった。
昔は兄のように慕っていた公孫瓚も、このころには中郎将となっている。
公孫瓚は転がり込んできた劉備を別部司馬にすると、青州刺史の田楷とともに冀州牧の袁紹と対抗させた。
ここで劉備はたびたび手柄を立て、まず平原令を試しに任され、やがて平原相となった。
なお『英雄記』には少し違った経歴も残っている。
霊帝の末年(184~189年ごろ)、劉備は洛陽に滞在した後、曹操と一緒に沛国へ向かって兵を集め、霊帝の死後には董卓討伐にも加わったという。
平原の統治と袁紹・公孫瓚の争い
平原相となった劉備だったが、当時の平原では飢饉が起こり、住民が集団で略奪に及ぶこともあった。
劉備は外からの賊の侵入を防ぎ、内では財物や食糧を蓄えて人々に分け与えた。
身分の低い者でも同じ席に座らせ、同じ器で食事を共にするなど、相手を選り好みすることもなかった。
こうした待遇によって、多くの人々が劉備のもとに集まったという。
初平三年(192年)前後には劉備も田楷のもとで高唐方面に入り、袁術側と協力して袁紹・曹操側と戦った。
戦いは袁紹・曹操側の勝利に終わり、初平四年(193年)には劉備も田楷とともに東へ移り、斉国にいた。
孔融の救援
黄巾軍の残党を率いる管亥が北海を包囲すると、北海相の孔融は太史慈を包囲の外へ脱出させ、劉備のもとへ救援を求めに行かせた。
太史慈は劉備に、自分は孔融の親族でも昔からの友人でもないが、孔融には日頃から目をかけてもらっているので、この窮地をなんとか救いたいと事情を説明した。
そして孔融は、劉備が困っている人を助ける人物だと聞いて、その力を頼りにしているのだと伝えた。
これを聞いた劉備は「孔融殿が、この世に劉備という者がいると知っていたとは」と驚いた。
孔融といえば孔子の子孫として知られる名士である。その孔融が自分の名前を知っている。劉備にとっては、救援を頼まれたことより、そっちのほうが驚きだった。
劉備はすぐに精兵三千人を太史慈につけて北海へ向かわせた。援軍が来たと知った黄巾軍は散り散りになり、孔融は無事に包囲から救い出された。
その後、袁紹が公孫瓚を攻めたため、劉備は田楷とともに引き返し、今度は公孫瓚の救援へ向かった。
陶謙への加勢
初平四年(193年)、曹操が徐州へ攻め込むと、徐州牧の陶謙は田楷に助けを求め、田楷と劉備はその救援に向かった。
このとき劉備が自前で持っていた兵は千人余り。そこに幽州の烏丸などの騎兵と、食うに困って集まってきた数千人の飢民を加えて軍勢を作っていた。
劉備は陶謙の部将である曹豹とともに郯の東へ布陣したが、曹操軍には敗れてしまった。
ところがその最中、兗州で張邈と陳宮が曹操に反旗を翻し、呂布を迎え入れるという大事件が起こった。
曹操は自分の本拠地が大変なことになったので徐州どころではなくなり、慌てて軍を引き返した。劉備たちは負けたものの、結果として徐州は助かった。
その後、陶謙は劉備に丹楊兵四千人を与えたため、劉備は田楷のもとを離れ、陶謙に属することになった。
陶謙は劉備を豫州刺史に推挙し、小沛に駐屯させた。
このころ劉備のもとを去ったのが田豫である。
田豫は劉備が公孫瓚を頼ったころから付き従っており、劉備もその才能を高く買っていた。しかし年老いた母のため故郷へ帰ることになり、別れのときには劉備も涙を流した。
「君と一緒に大事業を成し遂げられないのが残念だ」
後に田豫は曹操に仕えて各地で活躍することになる。
徐州争奪と荊州での再起(194年~207年)
陶謙の遺命と徐州牧への就任
興平元年(194年)、徐州牧の陶謙が病に倒れた。
死期を悟った陶謙は別駕従事の糜竺(麋竺)に「劉備でなければ、この州を安定させることはできない」と言い残して亡くなった。
そこで糜竺は徐州の人々を率いて劉備を迎え、今度はあなたが徐州を治めてくれと頼んだが、すぐには引き受けなかった。
下邳の陳登が「今は漢王室が衰え、天下が乱れています。功績を立てるなら今です。徐州は豊かで人口も百万に及びます。どうかこの州を治めてください」と劉備を説得した。
それでも劉備は「袁術の家は四代にわたって五人の三公を出し、天下の人望も集まっている。徐州は彼に任せればいい」と袁術を推した。
しかし陳登は「袁術なんて偉そうにしているだけで、この乱世をどうにかできるような男ではありません。
私があなたのために歩兵と騎兵十万人を集めましょう。上手くいけば皇帝を助けて民を救い、春秋の五覇に並ぶ功績を立てることができます。それが無理でも徐州を守り、名を後世に残すことはできるでしょう。それでも受けないというなら、私もその判断には従えません」と劉備に迫った。
さらに北海相の孔融まで「袁術が国のために働くような男だと思いますか。四世三公の名門だろうが、そんなものは今となっては墓の中の枯れ骨です。徐州の人たちがあなたにやってほしいと言っているんです。ここで断ったら、あとで後悔しますよ」と勧めてきた。
みんな袁術への評価が酷い。
ただし、全員が賛成したわけではない。
陳羣は「袁術はまだ強大なので徐州を取れば衝突することになります。そこへ呂布まで背後から襲ってきたら、せっかく徐州を手に入れても維持できません」と反対した。
かなり具体的な警告だったが、劉備は陳羣の意見を採らず、ついに徐州牧となった。
『献帝春秋』では、陳登らは袁紹にも使者を送り、陶謙の死後に徐州が混乱しないよう、旧平原相の劉備を新たな主として迎えたと報告している。
袁紹も「劉玄徳は度量が広く、信義のある人物だ。徐州の人々が喜んで戴くのは、まことに期待にかなう」と歓迎した。
こうして劉備は徐州の人々に推され、周囲の有力者にも認められる形で一州の主となった。
徐州牧になったからといって、徐州が丸ごと劉備のものになったわけではない。
琅邪には蕭建や臧覇、東海には昌豨らが勢力を持ち、広陵は袁術が押さえており、劉備が実際に支配できたのは、主に彭城と下邳であった。
呂布の受け入れと袁術との戦い
興平二年(195年)、曹操に兗州から叩き出された呂布が、劉備を頼って徐州にやって来た。
劉備は呂布を受け入れ、小沛に住まわせることにした。
『英雄記』には、このときの二人の会見について詳しい記録がある。
呂布は劉備を敬い、「私もあなたも北方の辺境の出身だ。
私は関東の諸侯が董卓を討とうと兵を挙げたのを見て、董卓を殺した。
ところが東へ向かうと、関東の諸将は誰も私を受け入れず、かえって殺そうとしたのだ」と語った。
さらに呂布は劉備を陣中に招き、自分の妻に挨拶させ、酒食を振る舞ったうえで、劉備を弟と呼んだ。
劉備も表向きは付き合ったが、内心では「なんだこいつ」と不快に思っていたらしい。
建安元年(196年)、袁術が徐州へ攻め込むと、劉備は盱眙や淮陰で迎え撃った。
このころ曹操の上表によって鎮東将軍となり、宜城亭侯にも封じられている。
劉備と袁術は一か月にわたって対峙したが、劉備が袁術と睨み合っている間に、留守番していた呂布が下邳を襲った。
しかも下邳を守っていた曹豹まで呂布に通じてしまい、城だけでなく劉備の妻子まで呂布に奪われる始末だった。
留守になったとたん、自称兄に家を奪われ、劉備は海西へ逃れることになった。
『英雄記』には、下邳が奪われた詳しい経緯が記されている。
劉備は張飛を下邳の守備に残し、自ら兵を率いて淮陰の石亭で袁術と戦っており、戦況は一進一退を繰り広げていた。
その間に、張飛と陶謙の旧将である曹豹が揉め、張飛に殺されそうになった曹豹は、兵を集めて陣営を固め、よりによって呂布に助けを求めた。
呂布がやって来ると、張飛は敗走し、下邳はあっさり奪われてしまった。
劉備は知らせを聞いて慌てて戻り、下邳の北まで来たものの、今度は自分の軍まで崩れてしまった。
仕方なく散らばった兵をかき集めて広陵へ向かい、そこで袁術ともう一度戦ったが、また負けてしまう。
呂布との和睦と再戦
建安元年(196年)、下邳を奪われた劉備は広陵から海西へと逃れた。
しかし軍には食べるものがなく、飢えた将兵の中には互いの肉を食べる者まで現れたという。
妻子を奪われ、城を失い、兵まで飢える。徐州牧となってからわずか二年で、劉備はほとんど何もかも失ってしまった。
そんな劉備を助けたのが糜竺だった。
糜竺は自分の妹を劉備に嫁がせただけでなく、奴客二千人と金銀・財貨まで差し出した。
食糧にも事欠いていた劉備にとって、この援助は大きかった。糜竺のおかげで、劉備はどうにか軍を立て直すことができた。
建安二年(197年)には、徐州と揚州の間を荒らしていた楊奉と韓暹を攻め、これを討った。
二人は以前、呂布の命令を受けて劉備の領内から麦を取り立てたこともあり、劉備にとっては因縁のある相手だった。
そして劉備は、自分から呂布に和睦を申し入れた。
下邳を奪われ、妻子まで捕らえられた相手だが、今の劉備には呂布と争い続ける余裕がない。
呂布もこれを受け入れ、今度は袁術に一緒に対抗しようということになった。
しかも呂布は刺史にふさわしい車馬や従者まで用意し、泗水のほとりまで劉備の妻子と部下たちの家族を送り届けている。
つい先日まで城と妻子を奪い合っていた二人は、こうしてまた仲間に戻った。
ところが呂布の部下たちは、この和睦を危険だと考えていた。
劉備は何度も態度を変えているので、このまま放っておけばいずれ災いになる。今のうちに始末したほうがいいと呂布に進言したのである。
呂布は自分のことを言われていると思ったのかは分からないが、この意見を聞き入れなかった。
それどころか、部下たちがそんなことを言っていると劉備本人に教えてしまった。
それを聞いた劉備は身の危険を感じ、小沛に移りたいと願い出た。呂布もこれを許した。
劉備は関羽を下邳に残し、自分は小沛へ移って再び兵を集め、軍勢は一万人余りにまで膨れ上がった。
今度はその勢力を呂布が警戒し、自ら軍を率いて劉備を攻撃した。劉備は敗れ、ついに徐州を離れて曹操のもとへ逃げ込むことになった。
曹操はやって来た劉備を手厚く迎え、豫州牧としたうえで兵と軍糧まで与えた。
こうして劉備は、今度は曹操の力を借りて呂布と戦うことになる。
呂布の最期
建安三年(198年)春、呂布は河内で馬を購入するため金を運ばせたが、その資金を劉備の兵が奪った。
これに怒った呂布は中郎将の高順と北地太守の張遼らを小沛へ送り、劉備を攻撃させた。
曹操も夏侯惇を援軍として向かわせたものの、高順には勝てず、九月には小沛が陥落した。そして劉備の妻子は、また呂布に捕まった。
小沛から逃げ出した劉備は、そのまま曹操の軍と合流した。
十月になると曹操が自ら呂布を討つため徐州へ向かい、劉備も梁国との境まで出迎えて、その軍に加わった。
こうして今度は曹操と劉備が下邳を包囲する側となり、追い詰められた呂布はついに生け捕りとなった。
捕まった呂布は、曹操に自分を使ってくれと命乞いをした。
自分が騎兵を率い、曹操が歩兵を率いれば天下を平定できるというのである。曹操もこれを聞いて少し心を動かした。
すると劉備が「いけません。曹操殿は、呂布が丁建陽や董太師に仕えていたときのことをお忘れですか」と口を挟んだ。
曹操は呂布を助けず、呂布は絞殺された。
劉備は捕らえられていた妻子を取り戻したが、徐州の統治権を回復したわけではなかった。
曹操の英雄評と劉備の離反
呂布が滅びると、劉備は曹操とともに許へ戻り、左将軍に任命された。
曹操からの待遇もかなり良く、出かけるときには同じ車に乗り、宴席でも同じ席に座るほどだった。
しかし曹操の部下たちは、劉備をただの客将とは見ていなかった。
程昱は劉備を見て、この男は才能も人望もあるので、いつまでも誰かの下で大人しくしているような人物ではないと見抜いていた。
そして曹操に、今のうちに劉備を殺しておくべきだと進言した。
だが曹操は「今は天下の英雄を集めるべきときだ。一人の劉備を殺したために、天下の人心まで失うわけにはいかない」と答え、程昱の意見を退けた。
『魏書』では、曹操が郭嘉にも劉備をどうするべきか尋ねている。
郭嘉は劉備が英雄として名を知られていることを認めたうえで、窮地に陥って頼ってきた人間を殺せば、曹操は賢者を殺す人物だと思われてしまうと反対した。
そんな評判が立てば、これから曹操を頼ろうとする優秀な人材まで来なくなってしまう。
「一人の災いを除くために、天下の人々の期待を失ってはなりません」と言われた曹操は、「君の言うとおりだ」と笑って答えた。
建安四年(199年)、献帝の親族で車騎将軍の董承が、曹操を討つよう命じる密詔を受けたとして動き始めた。
董承は長水校尉の种輯、将軍の呉子蘭、王子服らを仲間に加え、曹操を倒す計画を進めていたが、この時点で劉備はまだ参加していなかった。
そんなある日、曹操は劉備と一緒に食事をしていた。
その席で曹操が突然、「今、天下で英雄と呼べるのは君と余だけだ。袁紹など数えるほどの人物ではない」と言い出した。
曹操のところで大人しくしていた劉備にとって、いきなり自分を天下の英雄と名指しされたことになる。劉備は驚き、持っていた匙と箸を落としてしまった。
『華陽国志』によれば、その瞬間、ちょうど雷が鳴ったという。
すると劉備は「聖人でさえ激しい雷や風には顔色を変えるといいます。私が雷に驚いたとしても不思議ではないでしょう」と言い、劉備はその場をやり過ごした。
その後、劉備は董承たちが進めていた曹操討伐の計画に加わった。
やがて袁術が徐州を通って北へ向かい、袁紹を頼ろうとした。
曹操はこれを阻止するため、劉備に朱霊と路招らをつけて袁術を迎え撃たせることにした。
劉備にとっては許を離れる絶好の機会だった。こうして堂々と曹操のもとを離れたが、劉備たちが到着する前に袁術は病死してしまった。
一方、胡沖の『呉歴』には、これとは違った話も残されている。
劉備は曹操から疑われないように門を閉ざし、蕪菁を育てながら大人しく暮らしていた。ところが曹操が人を送って劉備の様子を探らせたため、いよいよ疑われていると感じたという。
そこで関羽と張飛に「俺は畑仕事をするためにここにいるんじゃない。曹操は俺を疑っている。もうここにはいられない」と話し、その日の夜には曹操からもらった衣服などを封じて残し、軽騎だけを連れて小沛へ向かったとされている。
ただし裴松之は、この話には無理があるとしている。
曹操が劉備に朱霊や路招をつけ、袁術を迎え撃つために出陣させたことは明らかなので、畑仕事をしていた劉備が曹操の目を盗んで突然逃げ出したという『呉歴』の話とは噛み合わない。
そのため裴松之は、この記録を事実ではないと退けている。
関羽が進言した曹操暗殺
劉備が曹操のもとにいたころ、曹操の狩猟に関羽も同行したことがあった。
『蜀記』によれば、狩りの途中で周囲にいた人々が散り、曹操のそばから人がいなくなる瞬間があったという。
これを見た関羽は、劉備に曹操を殺すよう勧めた。
絶好の機会だったが、劉備は関羽の進言を聞き入れず、そのまま曹操を生かしている。
それから九年後の建安十三年(208年)、劉備たちは曹操に追われ、夏口まで逃げることになる。
ここで関羽が昔の話を持ち出した。
「あのとき私の言うとおり曹操を殺していれば、こんなことにはならなかったでしょう」
九年前に殺せるところを見逃した相手に、今度は自分たちが追い回されている。関羽が怒るのも無理はなかった。
すると劉備は「当時は国家のために曹操のような人物を惜しんだのだ。それに天が正しい者を助けてくれるなら、今の苦しみが福に変わらないとも限らない」と答えた。
曹操への再挙兵と敗北
建安四年(199年)、袁術を迎え撃つため徐州へ出た劉備だったが、袁術が南へ引き返し、朱霊や路招が許へ戻っても、劉備だけはそのまま徐州に残った。
そして徐州刺史の車冑を殺害すると、関羽を下邳に置いて太守の仕事を任せ、自分は小沛へ戻って反旗を翻した。
すると東海の昌豨も曹操に背き、徐州の郡県も次々と劉備についた。軍勢は数万人にまで膨れ上がり、劉備はさらに袁紹へ使者を送って連携を図った。
曹操は司空長史の劉岱と中郎将の王忠を送り込んだが、二人では劉備を倒せなかった。
劉備も「お前たちが百人で攻めてきても、私をどうすることもできない。ただ、曹操殿が自分で来たらどうなるかは分からない」と二人に語っている。
強気な発言はいいが、フラグが発動した。
そして建安五年(200年)、本当に曹操本人が来た。
曹操はこれから袁紹との大きな戦いを控えていたが、その前に劉備を放っておけば後々の災いになると考え、自ら軍を率いて徐州へ向かった。郭嘉も劉備を先に叩くことに賛成した。
『魏書』によれば、劉備は曹操が袁紹への対応で手いっぱいなので、本人がわざわざ徐州まで来ることはないと考えていたという。
ところが斥候から「曹操が来ています」と知らされる。劉備はそれでも信じられず、数十騎を連れて自分の目で確かめに行った。
そして曹操軍の旗を見つけると、そのまま軍勢を置いて逃げた。
曹操軍に攻め込まれた劉備は大敗し、小沛を失った。
兵だけでなく妻子まで曹操に捕らえられ、下邳を守っていた関羽も生け捕りとなった。このとき夏侯博も捕らえられている。
せっかく取り戻した徐州と軍勢、そして家族まで再び失い、無事フラグを回収して青州へ逃げることになった。
袁紹陣営に身を寄せる
青州まで逃げてきた劉備を迎えたのが、青州刺史の袁譚だった。
袁譚は以前、劉備から茂才に推挙されたことがあり、わざわざ歩兵と騎兵を率いて出迎えている。
さらに劉備が来たと聞いた袁紹も、鄴から二百里のところまで自ら迎えに出た。『魏書』によれば、袁紹父子は劉備をかなり丁重にもてなしたという。
劉備が袁紹のもとで一か月ほど過ごしていると、曹操との戦いで散り散りになっていた兵たちも少しずつ戻ってきた。
また『英雄記』によれば、劉備は以前に曹操からこっそり聞かされていた話を袁紹に教え、曹操が袁紹に対して何か企んでいることを知らせたという。
これを知った曹操は激怒し、自分の軽率な発言を戒めるため、自ら舌をかんで血を流したとされている。
建安五年(200年)、曹操と袁紹の戦いが本格的に始まった。
白馬の戦いでは、曹操のもとに残っていた関羽が袁紹軍の顔良を斬った。続く延津の戦いでは、今度は劉備が文醜とともに五、六千騎を率いて曹操軍へ向かったが敗北し、文醜も討ち死にした。
劉備は袁紹のもとへ、関羽は曹操軍にいて袁紹の顔良を斬っており、主君と部下が敵味方に分かれて戦うことになった。
その後、汝南では黄巾軍の残党を率いる劉辟らが曹操に背き、袁紹に味方した。
袁紹は劉備に兵を与えて汝南へ向かわせ、劉辟らと一緒に許の周辺を攻撃させた。
しかし曹操が曹仁を送り込むと劉備は敗れ、再び袁紹のところへ戻ることになった。
このころ、曹操のもとにいた関羽も劉備のもとに帰ってきている。
一方の劉備は、袁紹のもとに長くいるつもりはなく、荊州牧の劉表と手を組み、南北から曹操に対抗することを袁紹に提案した。
袁紹がこれを認めると、劉備は自分の兵を率いて再び汝南へ向かった。
龔都らと合流すると、軍勢は数千人にまで増えた。曹操は蔡陽を送って劉備を攻撃させたが、劉備はこれを破り、蔡陽を討ち取った。
建安五年(200年)十月、官渡の戦いで袁紹が曹操に大敗した。
劉表を頼り新野に駐屯と博望の戦い
劉備は官渡の戦いの後も汝南で活動を続けていたが、建安六年(201年)九月、とうとう曹操本人が南へやって来たため、汝南を離れて荊州の劉表を頼ることにした。
劉備は先に糜竺と孫乾を送って話を通し、劉表もわざわざ郊外まで迎えに出て、劉備を上客として迎えた。そして兵を増やしてやり、新野に駐屯させた。
ところが劉備が新野に腰を落ち着けると、荊州の豪傑たちが次々とそのもとへ集まり始めた。
劉表としては曹操に対する備えとして劉備を置いたはずだが、次第に警戒するようになり、ひそかに備えを固めるようになった。
建安七年(202年)、劉備は博望で夏侯惇や于禁らの曹操軍と戦った。
劉備はあらかじめ兵を伏せておき、自分たちの陣営に火を放つと、そのまま逃げるふりをした。
これを見た夏侯惇と于禁が追いかけてくると、待ち構えていた伏兵で襲いかかり、曹操軍を破った。
ここまで曹操本人が来るたびに逃げていた劉備だが、曹操がいなければ意外と強い。
建安十二年(207年)、曹操が北方の烏丸を討つため遠征し、さらに袁尚や袁熙らを追って北へ向かった。
劉備はこれを好機と見て、今のうちに許を攻めるよう劉表に勧めた。しかし劉表は動かなかった。
『漢晋春秋』によれば、曹操が柳城から戻ってくると、劉表は「あのとき君の言うことを聞かなかったせいで、せっかくの機会を逃してしまった」と劉備に話したという。
これに対して劉備は「天下は分裂し、戦いもまだ終わっていません。機会がこれ一度きりというわけでもないでしょう。次に来た機会を逃さなければ、今回のことを悔やむ必要はありません」と答えた。
逸話:髀肉の嘆と的盧の脱出
荊州での劉備は、劉表のもとで何年もこれといった動きがないまま過ごしていた。
『九州春秋』によれば、ある日、劉表と一緒に酒を飲んでいた劉備が厠へ行くと、自分の太腿に肉がついていることに気づいた。
そして突然泣き出した。
席へ戻ってきても様子がおかしいので、劉表がどうしたのかと尋ねた。
すると劉備は「昔はいつも馬に乗っていたので、太腿に余計な肉なんてつきませんでした。ところが今は馬に乗らなくなったので、こんなに肉がついてしまいました。月日はどんどん過ぎて、もう老いも迫っています。それなのに何の功績も残せていない。それが悲しいのです」と答えた。
この逸話が「髀肉復生」、日本名「髀肉の嘆」の故事となった。
『世語』によれば、劉備が樊城にいたころ、劉表の宴席に招かれた。ところが蒯越と蔡瑁が劉備を殺そうとしていることに気づき、厠へ行くふりをして宴席から逃げ出したという。
劉備はそのまま馬を走らせたが、今度は乗っていた的盧が襄陽城西の檀渓にはまり、動けなくなってしまった。
暗殺から逃げている最中に、今度は馬まで動かない。
そこで劉備が「的盧よ、今日は本当に危ないんだ。頑張ってくれ」と声をかけると、的盧は一気に三丈も跳び上がり、檀渓を脱出したという。
ただし孫盛は、もし劉表の部下が劉備の暗殺を企てたのであれば、その後も劉備が劉表のもとで平穏に過ごせたはずがないとして、この逸話を事実ではないと批判している。
逸話:陳登の評価と許汜への批判
荊州にいたころ、劉備は許汜とともに劉表の宴席に参加し、天下の人物について話していた。
そこで許汜が陳登の話を持ち出し、「陳元龍は豪気のある男ですが、どうにも尊大なところが抜けません」と評した。
これを聞いた劉備は、劉表に「許汜殿の言っていることは正しいと思いますか」と尋ねた。
劉表は「間違っていると言いたいところだが、許汜殿ほどの人物が理由もなく人を悪く言うとも思えない。しかし正しいと言うには、陳元龍の名声は天下に知られている」と答えた。
そこで劉備は、今度は許汜本人に「では、どうして陳元龍をそんなふうに言うのですか」と尋ねた。
許汜は「以前、戦乱を避けて下邳を通ったとき、陳元龍を訪ねたことがあります。ところが彼は客を迎えるような態度を見せず、長い間ろくに話もしませんでした。それどころか、自分は大きな寝台で寝て、客である私には小さな寝台を使わせたのです」と不満をぶちまけた。
すると劉備は「あなたには国士としての名声がある。天下が乱れ、皇帝も安住の地を失っている今こそ、国を憂えて家のことを忘れ、世を救う志を持つべきではないか。ところが、あなたは田畑や屋敷を手に入れることばかり考え、語るべき話もなかった。それは陳元龍が嫌うところだ。どうしてあなたと話をする必要があるのか。
私なら百尺の楼上で寝て、あなたには地面で寝てもらう。大きな寝台か小さな寝台かという程度の違いでは済まない」と言い返した。
意訳すれば、自分のことしか考えないお前を陳登が相手にするわけないだろ。俺ならもっと酷い扱いをしてるわ。であった。
これを聞いた劉表は大笑いした。
劉備はさらに「陳元龍ほど文武の才能と胆力を備えた人物を探そうと思えば、古人の中から探すしかないでしょう。今の世で簡単に肩を並べられる人物ではありません」と陳登を高く評価している。
かつて徐州でともに過ごした陳登を、劉備がどれほど高く評価していたのかが分かる逸話でもある。
諸葛亮との出会いと三顧の礼
荊州にいた劉備は、司馬徽に天下の情勢について尋ねたことがあった。
すると司馬徽は「その辺の儒者に、どうして時勢が分かるでしょう。本当に分かっているのは優れた人物だけです。この辺りには臥龍と鳳雛がいます」と答えた。
劉備が「それは誰ですか」と尋ねると、「諸葛孔明と龐士元です」と教えられた。
またこのころ、徐庶が新野の劉備を訪ねてきた。
劉備は徐庶を高く評価し、その徐庶から諸葛亮という人物を推薦された。そこで劉備が連れてきてくれと頼むと、徐庶は「この人は、こちらから会いに行かなければなりません。呼びつけて来るような人物ではありません。将軍ご自身で訪ねてください」と答えた。
そこで建安十二年(207年)、劉備は自ら諸葛亮を訪ねた。
しかし、一度では会えず、三度も足を運んでようやく話をすることができた。
劉備は諸葛亮に「後漢の皇室は衰え、権臣が政権を握り、天子も苦しい立場に置かれています。私は天下に大義を行き渡らせたいと思ってきましたが、力も知恵も足りず、失敗ばかりして今に至りました。それでも、この志を捨てたわけではありません。これから私はどうすればいいのでしょうか」と尋ねた。
すると諸葛亮は、曹操とは正面から争わず、孫権とは同盟を結び、まず荊州と益州を手に入れるべきだと説いた。
そして荊州と益州を基盤として力を蓄え、天下に変化が起きたときには二方面から北へ進み、曹操の勢力を倒して漢王室の再興を目指すという構想を示した。
これが有名な天下三分の計である。
「董卓以来、各地で豪傑が立ち上がり、州や郡をまたいで勢力を築いた者は数え切れません。
曹操は袁紹に比べれば名声も低く、兵力も少なかったのですが、ついには袁紹を破り、弱い立場から強大な勢力を築きました。
これは天運だけでなく、人の知略によるものです。
今や曹操は百万の軍勢を擁し、天子を奉じて諸侯に命令しています。正面から争うべき相手ではありません。
一方、孫権は江東を支配して三代を経ており、土地は守りに適し、民衆も従い、優れた人材が力を尽くしています。孫権とは同盟を結ぶべきであり、攻め取ろうとしてはなりません。
荊州は北に漢水と沔水を押さえ、南海の利益を得られ、東は呉郡・会稽郡、西は巴郡・蜀郡へ通じています。軍事上の要地でありながら、今の主には守り切ることができません。
これは天が将軍に与えようとしている土地ではないでしょうか。将軍には、この地を得るお考えがありますか。
益州は険しい地形に守られ、千里にわたる豊かな土地が広がっています。漢の高祖もこの地を基盤として帝業を成し遂げました。
ところが劉璋は暗愚で弱く、北には張魯がいます。民衆は豊かで国には財産があるのに、劉璋は人々を十分にいたわろうとしません。そのため、知恵と才能のある者たちは、優れた君主が現れることを望んでいます。
将軍は漢の皇室の子孫であり、信義は天下に知られ、英雄たちを迎え入れ、賢者を求めてやまない方です。
もし荊州と益州を手に入れ、その険しい地形を守り、西の諸民族と和を結び、南の夷越を安んじ、外では孫権と同盟し、内では政治を整えることができれば、天下に変化が起きたとき、一人の大将に荊州の軍勢を率いさせて宛・洛陽へ進ませ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川へ出撃するのです。
そうなれば、人々は食べ物や飲み物を用意して将軍を迎えるでしょう。
この方策が実現すれば、覇業を成し遂げ、漢王室を再興することができるのです」
劉備はこの話を聞いて大いに喜び、それから諸葛亮と親しく付き合うようになった。
ところが、突然やって来た若い諸葛亮を劉備があまりにも重く扱うので、古くから劉備についてきた関羽や張飛は面白くなかったらしい。
そこで劉備は二人に「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ。もう何も言わないでくれ」と話した。
そこまで言われると関羽と張飛も黙るしかなく、それ以降は不満を口にしなくなった。
劉備が諸葛亮のもとへ三度も足を運んだこの話は、後に三顧の礼として知られるようになった。
曹操に負け、袁紹を頼り、劉表のもとで何年も過ごしていた劉備だったが、ここでようやく自分が進むべき道を示してくれる人物と出会った。
また何宇度の『益部談資』には、劉備が荊州にいたころ、南陽の豪族である晁氏から軍費として銭一千万を借り、その保証人を諸葛亮が務めたという話も残っている。
しかも、そのときの借用証書は宋代まで残っていたという。
赤壁の戦いから荊州・益州の獲得へ(208年~214年)
劉琮の降伏と荊州からの南下
建安十三年(208年)、曹操が荊州へ向けて南下を始める中、劉表が死去し、その子の劉琮が後を継いだ。
ところが劉琮は曹操に降伏することを決めながら、樊城にいた劉備には何も知らせなかった。
劉備がその事実を知ったのは、曹操軍が宛まで迫ってからだった。劉備は兵や人々を率いて南へ退くことになった。
劉備が襄陽を通るとき、諸葛亮は劉琮を攻めて荊州を奪ってしまうよう勧めた。
しかし劉備は「私にはそれができない」と断った。
そして襄陽の城下で馬を止め、劉琮に会おうと呼びかけたものの、劉琮は恐れて姿を見せなかった。一方で劉琮の側近や荊州の人々の多くは劉備についていった。
『典略』には、劉備が劉表の墓を訪れ、別れを告げて涙を流したとも記されている。
劉備が南へ進むほど、その後ろについてくる官吏や民衆は増え続けた。
当陽に着くころには十万人余り、荷車も数千両にまで膨れ上がっていた。
当然これだけの人数を連れて素早く逃げられるはずもなく、一日に進める距離はわずか十余里だった。
そこで劉備は関羽に数百隻の船を率いさせ、先に江陵へ向かわせて、そこで合流することにした。
配下からは「こちらの兵は少ないのですから、民衆を置いて急いで江陵へ向かうべきです。このまま曹操軍に追いつかれれば戦うこともできません」と進言された。
しかし劉備は「大事を成し遂げるには、人を根本としなければならない。これだけの人たちが私を頼ってついてきているのに、どうして見捨てることができるだろうか」と答えた。
結局、劉備は十万人を超える人々を連れたまま南下を続けた。
なお、劉表の最期については別の記録も残っている。
『英雄記』では、病に伏せた劉表が劉備を荊州刺史にするよう上表したとされ、『魏書』では「自分の息子には荊州を任せられない」と劉備に後を託そうとしたことになっている。
これに対して劉備は「ご子息は立派です。まずは病を治すことをお考えください」と断った。周囲から受け入れるよう勧められても、これまで厚遇してくれた劉表への信義を失うことはできないとして応じなかったという。
ただし裴松之は、この話を事実ではないとしている。劉表夫妻は以前から劉琮を可愛がり、嫡子を差し置いて後継者にすることまで決めていた。それなのに死ぬ直前になって突然、劉備へ荊州を譲ろうとするのはおかしいというのである。
『漢魏春秋』によれば、劉備は劉琮が曹操に降伏すると知ると、人を送って本当なのか確かめさせた。
すると劉琮は宋忠を遣わし、曹操に降伏することを伝えてきた。
これを聞いた劉備は激怒し、「どうしてもっと早く知らせなかったんだ。災いが目の前まで来てから教えるなんて、あまりにも酷いじゃないか」と宋忠を責めた。
怒りの収まらない劉備は刀を抜いて宋忠に向けたが、「今ここでお前の首を斬ったところで、俺の怒りは収まらない。それに、別れ際にお前たちを殺したとなれば、立派な男として恥ずかしい」と言って、そのまま帰した。
その後、劉備が配下と今後について話し合うと、劉琮や荊州の官吏、兵士たちを捕らえ、そのまま強引に江陵まで連れていくよう勧める者もいた。
しかし劉備は「劉荊州は亡くなる間際に、残された子供や家族を私に託した。その信頼を裏切って、自分だけ助かるようなことはできない。そんなことをして、死んだ劉荊州にどうやって顔向けできるというんだ」と言って退けた。
長坂の敗走と孫権との同盟
江陵には劉表が蓄えていた大量の軍需物資があり、曹操はそれが劉備の手に渡ることを恐れた。
そこで輜重を置いて身軽になると、軍を率いて襄陽へ急行した。しかし劉備はすでに通過していたため、今度は精鋭騎兵五千を選んで追跡させた。
曹操軍は一昼夜で三百余里を駆け抜け、建安十三年(208年)、ついに当陽の長坂で劉備たちに追いついた。
曹操軍に襲われると、劉備の軍勢と一緒に逃げていた人々は一気に崩れ、多くの人や荷車、物資が奪われた。
劉備も妻子を残し、諸葛亮、張飛、趙雲ら数十騎だけを連れて脱出した。張飛は二十騎ほどを率いて後方に残り、追ってくる曹操軍を食い止めた。
このとき劉備の二人の娘は曹純に捕らえられたが、甘夫人と劉禅は趙雲によって救い出されている。
『雲別伝』によれば、敗走の途中で趙雲の姿が見えなくなると、「趙雲は北へ向かいました。曹操に降ったのでしょう」と告げる者がいた。
すると劉備は、その者に手戟を投げつけ、「子龍が私を見捨てて逃げるはずがない」と言ったという。
また、この戦いでは徐庶の母も曹操軍に捕らえられた。
徐庶は劉備に「本当なら、この胸にある思いをもって将軍と大業を成し遂げたかった。しかし母を失って心が乱れ、これではもうお役に立てません」と告げ、劉備と別れて曹操のもとへ向かった。
このころ孫権は、劉表の二人の子を弔問し、さらに劉備との関係を結ぶため、魯粛を荊州へ向かわせていた。
ところが魯粛が南郡まで来たころには、劉琮はすでに曹操に降伏し、劉備も長坂で敗れて南へ逃げていた。
そこで魯粛はそのまま劉備を追いかけ、当陽の長坂で会うことができた。
『江表伝』によれば、魯粛が「これからどこへ行くおつもりですか」と尋ねると、劉備は「蒼梧太守の呉巨とは昔からの付き合いがあるので、彼を頼ろうと思っています」と答えた。
すると魯粛は「凡人の呉巨なんて、どうせ誰かに滅ぼされるだけです。頼っても意味がありません」と、なかなか酷いことを言った。
そのうえで、江東には六郡を支配し、兵も食糧もあり、優れた人物を厚く迎えている孫権がいるとして、こちらと手を組むよう勧めた。
劉備はこの話を喜んで受け入れた。
劉備は当陽から南東の漢津へ向かい、先に船で進んでいた関羽の水軍と合流して沔水を渡った。
さらに江夏太守で劉表の長子でもある劉琦が一万余りの兵を率いて迎えに来たため、その軍勢とともに夏口へ向かい、その後は鄂県の樊口へ移った。
そして劉備は諸葛亮を魯粛とともに孫権のもとへ送り、曹操と戦うための同盟を求めた。
赤壁の戦い
建安十三年(208年)、劉備と手を組んだ孫権は、周瑜と程普らに数万の水軍を率いさせ、曹操軍を迎え撃つことにした。
劉備は樊口に駐屯し、孫権からの援軍を待った。
『江表伝』によれば、諸葛亮が戻ってくるより先に曹操軍が迫ってきたため、劉備は気が気ではなく、毎日のように兵を川辺へ出して孫権軍が来ていないか確かめさせていた。
やがて「周瑜の船が見えました」と報告が入ったが、劉備は「それが青州や徐州から来た曹操軍の船じゃないと、どうして分かるんだ」と念を押した。兵が船の様子から間違いないと答えると、劉備は使者を送り、周瑜の到着をねぎらった。
すると周瑜からは、軍務があるのでこちらから出向くことはできない、劉備のほうから来てもらえるとありがたいと返事が来た。
劉備は関羽と張飛に「こちらから同盟を求めておいて、向こうが来たのに会いに行かないわけにはいかないだろう」と話し、小舟一隻で周瑜のもとへ向かった。
周瑜に会った劉備は、曹操と戦うという判断に賛成したうえで、兵がどれほどいるのか尋ねた。
周瑜が「三万人です」と答えると、劉備は「それでは少ないのが残念だ」と心配したが、周瑜は「これだけいれば十分です。私が曹操軍を破るところを見ていてください」と言い切った。
劉備が魯粛たちも呼んで一緒に話そうとすると、周瑜は「私は命令を受けて軍を預かっているので、勝手に持ち場を離れることはできません。魯粛に会いたければ、そちらから訪ねてください。諸葛亮も二、三日すれば戻ってくるでしょう」と答えた。
劉備は周瑜の態度に驚いたが、それでも周瑜が必ず勝つとは信じ切れず、関羽や張飛とともに二千人を率いて後方に陣取り、戦況を見ながら動けるようにしていた。
ただし孫盛は、この『江表伝』の記述を疑っている。滅亡寸前まで追い込まれ、孫権に救援を求めてようやく援軍を得た劉備が、そんな余裕のある立ち回りをするとは考えにくく、呉側の功績を大きく見せるための記録ではないかと批判している。
同年冬、曹操は江陵から長江を下り、劉備と孫権の連合軍は赤壁でこれを迎え撃った。
戦いが始まると曹操軍の船は焼かれ、曹操軍は大敗した。
劉備も呉軍とともに水陸から曹操軍を追いかけ、そのまま南郡まで進んだ。
曹操軍では疫病による死者も相次いでおり、曹操は曹仁と徐晃らを江陵に、楽進を襄陽に残し、自らは北へ引き揚げた。
荊州南部四郡の平定と配下の配置
赤壁の戦いが終わると、劉備は劉表の長男である劉琦を荊州刺史に推薦し、自らは長江を渡って荊州南部へ進軍した。
武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度を相手に四郡を平定し、いずれも劉備の勢力下に入った。
『三輔決録注』には、金旋だけ劉備の攻撃を受けて死亡したと記されている。
廬江の雷緒も、数万人もの配下を引き連れて劉備に帰順した。
こうして建安十三年(208年)のうちに荊州南部四郡を手に入れ、劉備はようやくまとまった領地を持つことになった。
翌建安十四年(209年)に劉琦が病死すると、配下から荊州牧に推戴され、公安を新たな拠点とした。
領地を手に入れれば、今度はそれを治める人間が必要になる。
劉備は諸葛亮を軍師中郎将とし、零陵・桂陽・長沙三郡から租税を集めて軍需に充てる仕事を任せた。
関羽は蕩寇将軍・襄陽太守として長江北岸に置かれた。ただし、この時点で劉備が襄陽を支配していたわけではない。
張飛は征虜将軍・宜都太守として南郡方面に置かれ、趙雲は偏将軍となり桂陽太守を兼ねた。
さらに廖立を長沙太守、郝普を零陵太守とし、向朗には秭帰・夷道・巫県・夷陵の四県を任せ、その軍事と民政を監督させた。
孫権との婚姻と益州をめぐる駆け引き
荊州で劉備の勢力が大きくなると、孫権もその存在を警戒するようになった。
そこで孫権は関係を深めるため、自分の妹を劉備に嫁がせた。
劉備も京口まで出向いて孫権と会い、両者は婚姻関係を結んだ。
このとき劉備の妻となった孫権の妹が、孫夫人である。
建安十五年(210年)、孫権は劉備に使者を送り、一緒に益州を攻め取ろうと持ちかけた。
劉備の周囲には、この話に乗っても呉軍だけで荊州を越えて益州まで支配するのは難しいので、最終的には自分たちが益州を手に入れられると考える者もいた。
しかし荊州の主簿であった殷観は、「もし呉軍の先鋒となって益州を攻め、攻略できなければ、退却するときに呉軍から攻撃され、もはや打つ手がなくなります。
今は孫権の益州攻略に賛成する姿勢を見せながら、こちらは南方の諸郡を得たばかりで、まだ軍を動かせないと説明するのがよいでしょう。
呉軍も我々の領地を越えて、単独で益州を攻め取ることはできません。
そうすれば呉との関係を壊さず、こちらも益州を狙える立場を残すことができます」と進言した。
劉備は殷観の進言を採用し、孫権は益州攻略を中止した。
劉備はこの働きを評価し、殷観を別駕従事に昇進させた。
『献帝春秋』には、このとき孫権と劉備がどのようなやり取りをしたのか、さらに詳しい話が残っている。
孫権は使者を通じて、劉備に次のように伝えた。
「米賊の張魯は巴郡と漢中に勢力を構え、曹操の耳目となって益州を狙っています。
劉璋には武勇がなく、自分の領地を守ることもできません。
もし曹操が蜀を手に入れれば、荊州も危険にさらされます。
そこで、まず劉璋を攻め取ってから張魯を討ち、互いの領土を結びつけて呉と楚を一つにすれば、曹操が十人いても恐れる必要はありません」
これに対して、自分でも益州を狙っていた劉備は、「益州は豊かで地形も険しいので、劉璋が弱くても簡単には落ちません。
張魯が必ず曹操につくとも限りませんし、遠く離れた益州や漢中まで大軍を送り込んで、必ず勝てるほど簡単な話でもありません。
それに曹操は赤壁で負けたとはいえ、すでに天下の三分の二を手にしています。これからも領土を広げようとするでしょう。
そんな曹操がいるのに、同盟している我々が争って隙を見せるべきではありません」と断った。
要するに孫権は「曹操に取られる前に益州を取ろう」と言い、劉備は「曹操相手に荊州あけたらダメ」と返したのである。
しかし孫権は諦めず、孫瑜に水軍を率いさせて夏口まで進ませた。
すると劉備は呉軍を通そうとせず、「あなたが蜀を取ろうというのなら、私は髪をほどいて山中に入ろう。
天下に対する信義を失うわけにはいかない」と孫瑜に告げた。
さらに関羽を江陵、張飛を秭帰、諸葛亮を南郡に配置し、自らも孱陵に駐屯して進路を塞いだ。
ここまでされると孫権も進軍を続けることはできず、孫瑜を呼び戻した。
このころ劉備は、荊州の名士である龐統や馬良らも配下に加え、兵馬を整えていた。
荊州の大部分に勢力を広げた劉備は、孫権との同盟を保ちながら、さらに勢力を広げる機会をうかがっていた。
劉璋の招請と龐統による益州攻略の進言
建安十六年(211年)、曹操が鍾繇らを漢中へ送り、張魯を討とうとしているという知らせが益州に届いた。
これを聞いた益州牧の劉璋は、曹操が張魯を倒した勢いで、そのまま益州まで攻めてくるのではないかと恐れた。
そこで別駕従事の張松が、「曹操の軍は強大です。張魯を降して、そのまま益州へ攻め込まれたら防ぐことはできません。
劉備はあなたと同じ漢王室の一族で、曹操とも敵対しています。劉備を呼んで張魯を討たせれば、必ず勝つことができるでしょう。
そうなれば益州も強くなり、曹操も簡単には攻めてこられなくなります」と進言した。
劉璋はこの案を受け入れ、法正と副使の孟達に四千人をつけて劉備のもとへ向かわせた。
さらに前後して巨額の財物まで劉備に贈っている。
ところが劉璋の使者としてやって来た法正は、劉備に張魯を討ってもらうどころか、その劉備に益州を取るよう勧めた。
『呉書』によれば、劉備は以前から張松と面識があり、法正がやって来ると二人を手厚くもてなした。
そして益州の広さや地形、兵器や倉庫、兵馬の数から各地の要害までの道のりまで、かなり細かく聞き出している。
張松と法正も一つ一つ答え、山川や要地の位置まで地図に描いて教えたため、劉備は益州へ入る前から、その内情を詳しく知ることができた。
『九州春秋』によれば、龐統も劉備に益州を取るよう勧めている。
龐統は「荊州は長い戦乱で荒れ果て、人材も少なくなっています。
しかも東には孫権、北には曹操がいるので、荊州だけを頼りに天下を三分するのは難しいでしょう。
それに対して益州は豊かで民も多く、人口は百万に達し、兵馬や軍需物資も揃っています。外から財貨を集める必要もありません。
今こそ益州を手に入れ、これを使って大業を成し遂げるべきです」と説いた。
しかし劉備は、「今、私と正反対のことをしているのが曹操だ。
曹操が厳しくするなら私は寛大にし、曹操が暴虐なら私は仁をもって接し、曹操が策略を使うなら私は誠実に振る舞う。いつも曹操と反対のことをしてきたからこそ、私はここまでやってこられた。
それなのに目先の利益のため、天下への信義を失うようなことはしたくない」と答えた。
劉璋に招かれて益州へ入り、そのまま益州を奪ってしまうことには抵抗があったのである。
すると龐統は、「状況が変われば、こちらもやり方を変えなければなりません。一つのやり方にこだわる必要はないでしょう。
弱い勢力を併合し、暗愚な者を攻めることは、昔の覇者たちもやっています。
今は武力で益州を取っても、その後に道義をもって治め、すべてが落ち着いてから劉璋に大国を与えれば、信義に背いたことにはなりません。
ここで益州を取らなければ、いずれ他人に取られるだけです」と説得した。
つまり、取ってからちゃんとすればいいという話である。
劉備も最終的には龐統の進言を受け入れ、益州へ進軍することを決めた。
益州入りと劉璋との会見
劉備は諸葛亮や関羽らを荊州の守備に残し、自ら数万の歩兵を率いて益州へ向かった。
軍師中郎将の龐統もこれに同行し、黄忠、魏延、卓膺らも劉備に従った。
一方、劉封、孟達、馬良らは荊州に残っている。
劉備が涪まで進むと、劉璋も自ら出迎えにやって来て、二人はそこで会見した。
すると張松と法正は、今なら劉璋を捕まえられると劉備に勧めた。龐統も「せっかく向こうから来てくれたんです。ここで捕まえてしまえば、戦わずに益州が手に入ります」と進言した。
しかし劉備は「まだ益州に来たばかりだ。いきなり劉璋を捕まえるのはやめておこう」と断った。
実際、劉備はまだ益州の人々から十分な支持を得ているわけではなく、この場で劉璋に手を出すことはしなかった。
会見を終えると、劉璋は劉備を行大司馬・領司隷校尉に推し、劉備も劉璋を行鎮西大将軍・領益州牧に推した。
さらに劉璋は劉備に兵を与え、白水軍まで指揮させて張魯を討たせることにした。
これによって劉備の軍勢は三万余人にまで増え、車両や武具、軍需物資まで十分に揃った。
劉備は葭萌まで軍を進めたが、張魯には手を出さず、そこで動きを止めた。
そして周囲の人々を味方につけるため、葭萌に腰を据えて恩を売っていった。
劉璋との決裂と楊懐の処刑
建安十七年(212年)、曹操が孫権を攻めると、孫権は劉備に救援を求めた。
劉備は劉璋に使者を送り、孫権とは互いに助け合う約束をしており、さらに楽進が青泥で関羽と対峙しているので、荊州へ戻らなければならないと伝えた。
張魯は自分の領地を守っているだけなので後回しにしても問題ない。それより荊州を助けるほうが先だとして、劉璋に一万の兵と軍需物資を要求した。
しかし劉璋が認めたのは四千人の兵だけで、その他の物資も要求の半分にとどまった。
『魏書』によれば、「私は益州のために強敵と戦い、兵士たちは疲れ切って休む暇もない。
それなのに劉璋は財物を倉にため込み、功績への褒賞を惜しんでいる。
これで士人に命を懸けて戦わせることができるだろうか」と配下に不満をぶちまけたという。
劉璋から兵と物資をもらって益州へ入り、張魯とは戦わず葭萌に留まり、さらに追加で一万の兵と物資を要求して、半分しかもらえなかったのに怒っている。カツアゲしてるのに金額が少ないと言ってるのと同じである。
このとき張松は、劉備が本当に益州から出ていくつもりだと思い、劉備と法正に「せっかくここまで来たのに、どうして全部捨てて帰ってしまうのですか」と書き送った。
ところが張松の兄で広漢太守の張粛は、このままでは自分まで巻き込まれると考え、劉璋に計画をばらしてしまった。
劉璋は張松を捕らえて処刑し、各地の関所や守備隊にも劉備との文書のやり取りを禁じた。
これで劉備と劉璋の関係は完全に決裂した。
すると劉備は白水軍を率いていた楊懐を呼び出し、無礼だったという理由で斬ってしまった。
劉璋と揉めた結果、なぜか最初に斬られたのは楊懐である。
記録によっては楊懐だけでなく高沛も一緒に処刑されている。
劉備はそのまま黄忠と卓膺に兵を率いさせ、今度は自分を益州へ招いた劉璋との戦いを始めた。
楊懐の処刑については、別の記録もある。
『零陵先賢伝』によれば、劉璋の将軍である楊懐は、劉備のせいで主君の劉璋が判断を誤っていると考え、何度も諫言していた。
劉備が劉璋に招かれたとき、劉璋の子である禕と楊懐を招いて酒宴を開いた。酒が進むと、劉備は楊懐が腰に差していた匕首(短剣)に目をつけた。
すると劉備は自分の匕首を取り出し、「将軍の匕首はよいものだな。私も持っているが、見せてもらえないか」と尋ねた。
楊懐が匕首を渡すと、劉備は「お前のような若造が、どうして私と劉璋の兄弟のような親しい関係を裂こうとするのか」と責めた。
楊懐が劉備を罵り終わらないうちに、劉備はそのまま斬り殺したという。
劉璋との決裂後に楊懐を処刑したとする『先主伝』本文とは、かなり経緯が違っている。
ただ、どちらの記録でも最後は楊懐を斬っている。督郵を縛り上げてぶん殴っていた若いころから、劉備はこういうところだけは変わっていない。
涪・綿竹の攻略と雒城の長期包囲
劉備は白水軍のいる関所へ進むと、そこにいた諸将や兵士の妻子を人質として押さえた。
そのまま黄忠や卓膺らとともに涪へ進軍し、城を占領した。
劉璋も黙って見ていたわけではなく、劉璝、冷苞、張任、鄧賢、呉懿らを送り出して劉備を迎え撃たせた。
しかし劉璋軍は敗れ、劉璝、冷苞、張任、鄧賢らは綿竹まで後退した。
呉懿は、そのまま劉備に降伏して討逆将軍に任じられた。
そこで劉璋は李厳を綿竹へ送り、敗れて集まってきた諸軍をまとめて劉備を食い止めようとした。
ところが、各地から敗残兵を集めて李厳に預けたのに、その李厳が兵ごと劉備に降伏してしまった。おまけに費観も一緒に降伏している。
劉備は李厳と費観を裨将軍に任じ、さらに増えた兵を各地へ送り、周辺の県を次々と平定していった。
劉備はさらに荊州にいた諸葛亮、張飛、趙雲、劉封らにも出陣を命じ、兵を率いて益州へ向かわせた。
諸葛亮らは長江をさかのぼり、白帝、江州、江陽などを攻略しながら劉備との合流を目指した。
その後は軍を分け、諸葛亮は涪江方面から徳陽を経て成都へ向かい、張飛は墊江から巴西郡の閬中へ、趙雲は江陽から犍為郡の武陽へ進んだ。
一方、荊州の守備は関羽に任され、馬良、糜芳(麋芳)、士仁、廖化らが残った。
建安十八年(213年)、劉備はさらに雒城へ進んだが、ここでは劉璋の子である劉循が城に籠もって激しく抵抗した。
『益部耆旧雑記』によれば、張任も劉循とともに雒城を守り、雁橋まで出て劉備軍と戦ったが、敗れて捕らえられた。
劉備は張任が忠義に厚く勇敢な人物だと聞き、降伏するよう説得させた。
しかし張任は「老臣は二人の君主に仕えることはない」と拒み、そのまま処刑された。劉備は張任の死を惜しんだという。
ここまで順調に進んできた劉備軍だったが、雒城では一年近く足止めされた。
しかも包囲戦の途中で、軍師中郎将の龐統が流れ矢に当たって戦死する。
それでも攻撃を続け、建安十九年(214年)夏、ようやく雒城を陥落させた。
劉備はそのまま成都へ向けて軍を進めた。
劉璋の降伏で成都に入る
このころ馬超は漢中の張魯のもとを離れようとしており、劉備は李恢を派遣して馬超との連絡を取らせた。
馬超が味方につくと、劉備はさらに兵を与えて軍勢を大きく見せ、そのまま成都の北へ進ませた。馬超ほどの武将が大軍を率いて現れたように見せ、城内の劉璋たちに圧力をかけるためである。
劉備も成都を数十日にわたって包囲し、劉璋を追い詰めた。
劉備は簡雍を城内に送り、劉璋に降伏を勧めさせた。
劉璋はこれを受け入れ、簡雍と同じ車に乗って城を出て劉備に降った。
こうして劉璋に代わって劉備が益州を支配することになり、劉備は自ら益州牧を兼ねた。
『傅子』には、劉備の益州攻略について交わされた趙戩と傅幹の議論が記録されている。
丞相掾の趙戩は、劉備は用兵が下手で戦うたびに敗れ、逃げ回るのに精いっぱいなのだから、四方を険しい地形に囲まれた蜀を奪うのは難しいと評した。
これに対して傅幹は、劉備には寛大さと仁愛があり、人々を命がけで働かせることができると反論した。
さらに政治に通じて状況の変化にも対応できる諸葛亮がおり、勇敢で義を重んじ万人の敵とされた関羽と張飛までいる。この三人が劉備を支えているのだから、成功できないはずがないと述べた。
益州牧となった劉備の人材登用と統治
成都を手に入れた劉備は酒宴を開き、ここまで戦ってきた兵士たちをねぎらった。
さらに成都にあった金銀を取り出して将兵に分け与え、その一方で穀物や絹布は元の所有者へ返している。
こうして益州を手に入れた劉備は、今度は新しい領地を治めるための体制を作り始めた。
劉備は諸葛亮を股肱の臣として頼り、法正には軍略を任せ、関羽・張飛・馬超を武将として重く用いた。
許靖・糜竺・簡雍は賓客として厚遇している。
ここまでは以前からの仲間や、益州攻略で味方になった人物なので分かりやすい。
しかし劉備が使ったのは、自分についてきた者だけではなかった。
ついさっきまで劉璋に仕えていた董和・黄権・李厳を登用し、劉璋と婚姻関係にあった呉懿や費観にも仕事を与えた。
さらに劉璋から嫌われていた彭羕まで引っ張り上げ、以前から劉備と折り合いの悪かった劉巴にも高い地位を与えている。
劉璋側だったか、以前に仲が悪かったかはあまり関係なく、使える人物ならそのまま使った。
こうして益州の人材を次々と自分の政権へ組み込んでいったことで、戦争が終わった後も大きな混乱を起こさず、益州を治める体制を整えていった。
ただし、戦勝の勢いで話が行きすぎたこともある。
『雲別伝』によれば、益州を平定した後、成都城内の家屋だけでなく、城外の庭園や桑畑まで諸将に分け与える話が持ち上がった。
これに反対したのが趙雲だった。
「霍去病は匈奴を滅ぼしていないのに、家を構えてどうするのかと言いました。今の国敵は匈奴だけではありません。まだ安住している場合ではないでしょう。
それに益州の人々は戦乱に遭ったばかりです。田畑や家屋は元の持ち主に返し、まず安心して暮らせるようにするべきです。
生活が落ち着いてから労役や租税を求めれば、人々もこちらを支持してくれるでしょう」と進言した。
劉備もこれを聞き入れ、家屋や田畑を諸将へ分配する案は取りやめた。
漢中争奪戦から漢中王即位、蜀の建国へ(215年~221年)
孫権との荊州争奪と湘水での和議
益州を手に入れた劉備だったが、ここで以前から抱えていた孫権との荊州問題が再び表面化する。
話は建安十五年(210年)までさかのぼる。周瑜が死去すると、孫権は魯粛の進言を受け入れ、南郡の江陵を劉備に貸し与えていた。
ただし、これはあくまで呉側が「貸した」とする話であり、劉備は以前から荊州を治める権限を求めていたため、そもそも両者の認識からして一致していなかった。
そして建安二十年(215年)、劉備が益州を手に入れると、孫権は使者を送り、約束どおり荊州を返すよう求めた。
ところが劉備は「涼州を手に入れたら、荊州を渡そう」と答えた。
一緒に益州を取ろうと誘ったときは止めてきたくせに、その益州を劉備一人で取ったのである。そこで荊州を返してくれと言ったら、今度は「涼州を取ったらね」と言い出した。
当然これにブチ切れた孫権は呂蒙を送り込み、長沙・零陵・桂陽の三郡を奪わせた。
呂蒙は長沙と桂陽を降伏させ、零陵太守の郝普は抵抗していたが、偽の情報を使って降伏させている。
ちなみに、長沙太守の廖立はさっさと劉備の下へ逃げている。
劉備も黙ってはおらず、自ら五万の兵を率いて公安へ向かい、関羽にも益陽へ兵を進めさせた。
こうして荊州をめぐって、ついに劉備と孫権の軍が直接対峙することになった。
ところが、ここで劉備には孫権と争っている場合ではない事情ができた。
同じ建安二十年(215年)三月、曹操が張魯を討つため漢中へ進軍し、七月には陽平関で張魯の弟である張衛らを破った。
張魯は南鄭を捨てて巴中へ逃れ、曹操が南鄭を占領。さらに十一月には張魯も曹操に降伏し、漢中は曹操の支配下に入った。
荊州で孫権と睨み合う中、益州の北から曹操が迫ってくる。
劉備は孫権との争いを収めるため使者を送り、孫権も諸葛瑾を通じて交渉に応じた。
両者は湘水を境に荊州を分け、江夏・長沙・桂陽の三郡を孫権側、南郡・零陵・武陵の三郡を劉備側とすることで決着した。
孫権は占領していた零陵と元太守の郝普を劉備へ返し、劉備も軍を江州へ引き揚げた。
曹操の漢中進攻を受け、黄権は劉備に対し、漢中を失えば三巴が動揺し、益州の手足を切り離されるような危機に陥ると進言した。
劉備は黄権に兵を与えて巴中へ向かわせ、逃れてきた張魯を迎えようとしたが、すでに張魯は曹操に降伏した後だった。
曹操は夏侯淵と張郃らに巴方面への攻撃を繰り返させた。
劉備はこれに張飛を向かわせ、宕渠へ進軍させた。
張飛は瓦口で張郃らと戦って大いに破り、敗れた張郃は残った兵をまとめて南鄭へ退いた。
曹操も翌年、夏侯淵と張郃を漢中の守備に残して鄴へ戻り、劉備も成都へ帰還した。
漢中争奪戦、定軍山で夏侯淵撃破
建安二十二年(217年)、劉備は法正の進言を受け、曹操が支配する漢中を奪いに動き出した。
翌建安二十三年(218年)には劉備自身も出陣し、諸将を率いて漢中へ進軍した。
軍には法正が加わり、趙雲・黄忠・魏延・張飛・馬超・呉蘭らも従った。
諸葛亮は成都に残り、益州から前線を支えることになった。
まず劉備は呉蘭や雷銅らを武都方面へ送り込んだが、曹洪・曹休軍に敗れて呉蘭と雷銅は戦死した。
出だしからつまずいた劉備だったが、そのまま陽平関まで進み、漢中を守る夏侯淵・張郃らと向かい合った。
続いて劉備は漢中へ通じる道を押さえるため、陳式に十余の軍営を任せて馬鳴閣道へ向かわせた。
しかし今度は徐晃に襲われて敗れ、陳式の兵は逃げ場を失い、谷へ飛び降りる者まで続出した。
なかなか漢中を崩せない劉備はさらに兵と物資を必要とし、益州へ急いで増援を送るよう書簡を出した。
これを受けた諸葛亮が従事の楊洪に意見を求めると、楊洪は「漢中は益州の喉元に当たり、存亡を左右する場所です。漢中を失えば蜀も保てず、家の門前に災いが迫るのと同じです。今は男が戦い、女が輸送を担うべきときです。兵を出すのに何をためらう必要があるのでしょう」と答えた。
諸葛亮はこの意見を高く評価し、益州からさらに兵を送り込んだ。
建安二十四年(219年)春、劉備は陽平関の南から沔水を渡り、定軍山の険しい場所に陣を構えた。
夏侯淵と張郃もこれを奪おうと兵を率いて進み、走馬谷に陣取った。
黄権の進言を受けた劉備は、夜になると曹操軍の防御柵である鹿角に火を放たせた。
夏侯淵は張郃に東側を守らせ、自分は南側の守りについた。
劉備軍が張郃の陣地へ攻めかかると、張郃軍は次第に押され始める。夏侯淵はこれを助けるため、自分の兵を半分に割って張郃のもとへ送った。
その動きを見ていた法正が「攻撃するなら今です!」と進言すると、劉備は黄忠に攻撃を命じた。
黄忠は高所から一気に駆け下り、鬨の声を上げながら夏侯淵の軍へ突っ込んだ。
そのまま曹操軍を大破し、夏侯淵を討ち取った。
曹操が益州刺史に任じていた趙顒も、この戦いで戦死した。
曹操の漢中進攻と漢中掌握
建安二十四年(219年)三月、夏侯淵を討ち取られた曹操は、自ら漢中へ乗り込んできた。
長安から大軍を率い、褒斜谷を通って漢中へ進軍する。
しかしこれを知った劉備は「曹操が来たところで、もうどうにもできない。漢中は必ず私のものになる」と強気だった。
実際に曹操が到着すると、劉備は兵を険しい場所に集めて守りを固め、そのまま出てこなかった。
せっかく曹操本人が大軍を率いてやって来たのに、劉備は相手をしてくれない。
曹操軍は何か月経っても劉備の陣を崩せず、やがて逃げ出す兵まで日に日に増えていった。
その間も成都の諸葛亮は兵や物資を送り続け、前線の劉備を支えた。
そして同年五月、曹操は漢中を諦めて撤退した。
定軍山で夏侯淵を討ち取り、最後は自ら乗り込んできた曹操まで追い返した。
何度も曹操に敗れて逃げてきた劉備にとって、これが人生で初めて曹操に勝った戦いとなった。
漢中を確保した劉備は、そのまま東へ勢力を広げていく。
まず宜都太守の孟達を秭帰から北上させて房陵を攻めさせ、房陵太守の蒯祺は孟達の軍に殺害された。
さらに劉備は養子の劉封を漢中から沔水沿いに下らせ、孟達の軍をまとめて上庸へ向かわせた。
上庸太守の申耽は軍勢を率いて降伏し、妻子や一族を成都へ送った。
劉備は申耽を征北将軍に任じ、そのまま上庸太守を続けさせ、弟の申儀も建信将軍・西城太守に任じた。
こうして漢中だけでなく、房陵・上庸方面まで劉備の勢力下に入っていった。
漢中王への即位
建安二十四年(219年)秋七月、漢中を獲得した劉備を漢中王に推戴するため、配下の百二十人が後漢の献帝へ上表した。
上表には、平西将軍・都亭侯の馬超、左将軍長史・鎮軍将軍の許靖、営司馬の龐羲、議曹従事中郎・軍議中郎将の射援、軍師将軍の諸葛亮、蕩寇将軍・漢寿亭侯の関羽、征虜将軍・新亭侯の張飛、征西将軍の黄忠、鎮遠将軍の頼恭、揚武将軍の法正、興業将軍の李厳らが名を連ねていた。
百二十人は、劉備を漢中王に封じ、大司馬として諸軍を統率させるよう求め、次のように訴えた。
『献帝から正式な命令をもらえる状況ではないので、こちらで劉備を漢中王にします。勝手に決めた責任は後で自分たちが取ります』
「昔、聖人と称された尭の朝廷にも四凶が存在し、賢明な周の成王の時代にも四国が反乱を起こしました。
呂后が政治を執ったときには呂氏一族が権力を奪い、幼い昭帝の時代には上官氏が反逆を企てました。
いずれも朝廷での寵愛や権力を利用して悪事を重ね、国家を滅亡寸前に追い込んだものです。
しかし、大舜、周公、朱虚侯、博陸侯のような人物が現れ、悪人を追放・討伐したことで、国家の危機を救うことができました。
陛下は生まれながらに優れた徳を備え、天下を治めるべきお方ですが、不幸にも困難な時代に遭われました。
董卓が反乱の先駆けとなって都とその周辺を荒廃させ、続いて曹操が災いを重ね、朝廷の権力を奪いました。
曹操は皇后や皇太子を殺害し、天下を乱して人々を傷つけ、長年にわたって陛下を苦境に置いてきました。
陛下は実権を奪われ、ひっそりとした場所に閉じ込められ、皇帝の命令も天下に行き渡らなくなっています。曹操は皇帝の権威を覆い隠し、帝位を奪おうとしているのです。
左将軍・領司隷校尉・豫州牧・荊州牧・益州牧・宜城亭侯の劉備は、朝廷から官爵を授かった者として、国家の危難に力を尽くそうとしてきました。
曹操の野心を察知すると激しく憤り、車騎将軍の董承とともに曹操を討伐し、国家を安定させ、旧都の平和を取り戻そうとしました。
しかし董承の計画が漏れたことで曹操を討つことができず、かえって曹操は悪事を重ね、天下を荒廃させました。
私たちは、王室が秦の二世皇帝のように殺害される大きな災難や、孺子嬰のように帝位を奪われる事態に陥るのではないかと、昼夜を問わず恐れています。
秦では趙高が閻楽に命じて二世皇帝を殺害し、前漢の末には王莽が孺子嬰を廃して定安公としました。
そのような災難を防ぐためにも、漢王室を支える者が必要です。
古くは『尚書』に九族を親しく秩序立てることが説かれ、周王朝も先代の王朝に学んで同族を諸侯に封じました。
漢の高祖も天下を平定すると各地に皇族を封じ、その力によって後の呂氏一族の反乱を鎮め、王朝の基盤を守ることができました。
劉備は陛下と血縁でつながる漢王室の一員であり、国家を守るべき宗室の支えです。劉備もまた、国家の安定と反乱の鎮圧を願っています。
漢中で曹操を破って以来、各地の英雄たちは劉備のもとへ次々と集まっています。
それにもかかわらず、その爵位や称号は功績に見合ったものではなく、九錫も与えられていません。これでは国家を守り、漢王室の威光を後世に示すには不十分です。
私たちは朝廷から遠く離れた地で命令を奉じておりますが、正式な詔命を受ける道は絶たれています。
かつて後漢の再興に際し、河西太守の梁統らは山河によって朝廷と隔てられ、互いの官位や権限も同等で統率者を定められなかったため、竇融を推戴して軍をまとめました。
その結果、竇融は功績を立て、隗囂の勢力を打ち破ることができました。
今の漢王室の危機は、そのときの隴・蜀の情勢よりも切迫しています。
曹操は外では天下を併呑し、内では朝廷の臣下を傷つけ、宮廷の内部にまで危険が迫っています。それなのに国家を守るための体制は整っていません。
そこで私たちは、古い制度に従って劉備を漢中王に封じ、大司馬に任じ、六軍を統率させて同盟者を集め、曹操らの反逆者を討伐させることにしました。
漢中・巴・蜀・広漢・犍為の五郡を漢中王の領地とし、官吏の任命や配置については漢の初めの諸侯王の制度に従うものとします。
国家の利益となるのであれば、緊急の事情に応じて独自に措置を取ることも許されるはずです。
こうして国家の危機を救い、功業が成し遂げられた後には、私たちは勝手に官爵を定めた罪を受ける覚悟です。たとえ死刑となっても悔いはありません」
劉備は配下の推戴を受け、沔陽に祭壇を設けた。
兵士を整列させ、群臣が列席する中で上表文を読み上げ、劉備に王冠を戴かせて漢中王の位に就けた。
これは献帝から正式な任命の使者が派遣されたものではなく、配下の者たちが劉備を推戴して漢中王としたものである。
漢中王となった劉備は、その後、自ら献帝へ上奏した。
その上奏では、国家の危機を救えなかった責任を述べるとともに、漢中王の位を受けた理由と今後の決意を次のように説明した。
『自分には漢中王になるほどの功績はなく断るつもりだったが、配下から国家を救うために必要だと強く求められたので、漢王室のため仕方なく引き受けました』
「私は平凡な臣下としての才能しか持たないにもかかわらず、大将の任務を受けて三軍を統率し、朝廷の命令を奉じて各地で戦ってまいりました。
しかし反逆者を討ち払い、漢王室を安定させることができず、長い間、陛下の徳による政治が衰え、天下の混乱が収まらない状況を招いてしまいました。
私は常にこれを憂え、頭を病むような思いでおります。
かつて董卓が乱を起こして以来、多くの凶悪な者たちが各地に現れ、天下の人々を傷つけてきました。
しかし陛下の徳と威光によって臣下たちは立ち上がり、忠義の士が討伐に励み、ある者は天罰を受け、反逆者たちは次第に滅びていきました。
ところが曹操だけはいまだに討ち取られず、長年にわたって朝廷の権力を奪い、思うままに悪事を重ねています。
私は以前、車騎将軍の董承とともに曹操を討つ計画を立てましたが、秘密が漏れて董承は殺害され、私も各地を流浪することになり、忠義を果たせませんでした。
そのため曹操の悪事を止めることができず、皇后は殺害され、皇子も毒殺される事態となりました。
私は同盟者を集め、曹操を討つために力を尽くそうとしてきましたが、武力が足りず、長年にわたって成果を挙げられませんでした。
いつも国家への恩に報いることなく死んでしまうのではないかと恐れ、昼夜を問わず嘆いております。
今、私の配下の者たちは、古くから皇族を重んじ、その力によって国家を支えてきた制度を根拠として、私を漢中王・大司馬に推戴しました。
『尚書』には九族を親しく秩序立てることが説かれています。これは多くの人々を整え、皇帝を支える臣下として働かせるという意味でもあります。
この制度は五帝の時代から受け継がれ、周王朝では同族の諸侯を各地に封じ、晋や鄭の補佐によって王室を支えました。
漢の高祖も天下を平定すると子弟を諸王として九国に封じ、その力によって呂氏一族を滅ぼし、漢王室を安定させました。
今、曹操は忠義の士を憎み、悪事を働く者を多数集め、帝位を奪う野心を隠し持っています。その簒奪の意図はすでに明らかです。
一方で漢王室の力は衰え、宗室の者たちには国家を支えるだけの地位がありません。
そのため配下の者たちは古い制度を参考にし、緊急の事情に応じた措置として、私を大司馬・漢中王に推戴したのです。
しかし私は自らを繰り返し省みて、国家から厚い恩を受け、一方の軍事を任されながら、まだ十分な功績を立てていないと考えております。
それなのに、すでに受けた恩賞は過分であり、さらに高い地位に就けば、かえって非難と罪を重ねることになります。
そのため私は、このような地位に就くべきではないと考えていました。
ところが配下の者たちは、国家に対する大義をもって私に強く受諾を求めました。
私も、反逆者が討たれず国家の危機が続き、宗廟と社稷が滅亡寸前にあることを考えました。
この危機を救う責任を果たすためであれば、状況に応じて行動を変え、たとえ水火の中へ身を投じることになっても辞退するわけにはいきません。
そこで私は、後日の非難を恐れてためらうことなく、配下の者たちの意見に従い、漢中王・大司馬の印璽を受けることにしました。
この爵位は極めて高く、陛下から受ける恩寵も厚いものです。
私はその恩に報いる責任の重さを考えると、深い谷の縁に立つような恐れを感じています。
今後は誠意を尽くして六軍を励まし、義を重んじる人々を率い、天の時に従って反逆者を討伐し、漢の社稷を安定させることで、陛下の恩に少しでも報いたいと考えております」
劉備はこの上奏文を駅伝によって献帝へ送り、それまで朝廷から授かっていた左将軍および宜城亭侯の印綬を返上した。
こうして漢中王となった劉備は、後漢の臣下という立場を保ちながら、曹操の討伐と漢王室の再興を掲げた。
劉備はその後、成都へ戻って政務を執った。
漢中の守備には魏延を抜擢し、漢中太守に任じるとともに、その地の軍事を統括させた。
また『典略』によれば、劉備は成都から白水関までの間に館舎や亭障を四百余か所築いた。
関羽の敗死と荊州喪失
建安二十四年(219年)、劉備が漢中王となったころ、荊州を任されていた関羽は江陵から北上し、曹仁が守る樊城へ攻め込んだ。
曹操は于禁に七軍を率いさせて救援へ向かわせたが、八月の大雨で漢水が氾濫し、于禁の軍は水に飲まれた。
関羽は于禁を捕らえ、最後まで降伏しなかった龐徳を処刑する。
樊城の曹仁を追い詰め、関羽の勢いは大きく広がったが、その一方で関羽が北へ兵を進めたことで、荊州南部の守りは薄くなっていた。
そこを狙ったのが孫権だった。
孫権は呂蒙を送り込み、関羽の背後から荊州を攻めさせた。
呂蒙は関羽軍が設置していた烽火台を押さえて西へ進み、公安を守っていた士仁は降伏。続いて江陵を守っていた糜芳も孫権軍に降った。
前では曹操軍と戦い、後ろでは孫権軍に本拠地を奪われ、関羽は戻る場所まで失った。
関羽は軍を引いて当陽から麦城へ退いたが、その途中でも兵士たちは次々と離れていった。
そして建安二十四年(219年)十二月、逃走を続けていた関羽は孫権配下の潘璋の部将である馬忠に捕らえられ、そのまま殺された。
孫権は関羽の首を曹操のもとへ送った。
糜芳の兄である糜竺は、弟が関羽を裏切り、荊州を失う原因になったことを深く恥じた。
自ら身体を縛って劉備の前へ出ると、弟の罪について謝罪した。
しかし劉備は、兄弟だからといって罪まで一緒に背負う必要はないと糜竺を慰め、それまでと変わらず厚遇した。
それでも糜竺は恥と怒りを抱え続け、病に倒れて一年余りで亡くなった。
関羽が樊城を攻撃していたころ、劉備の養子である劉封と孟達は上庸方面にいた。
関羽は二人に何度も援軍を求めたが、劉封と孟達は上庸などを手に入れたばかりで、まだ足元が固まっていないとして兵を出さなかった。
結局、援軍が来ることはないまま関羽は敗死した。
その後、劉封との関係が悪化していた孟達は魏へ降伏し、今度は魏軍とともに上庸へ攻め込んできた。
劉封はこれに敗れて成都まで逃げ帰った。
劉備は孟達を追い詰めて魏へ走らせたことや、関羽から救援を求められながら兵を出さなかったことを責めた。
さらに諸葛亮も、劉封は剛勇であり、劉備の死後には制御できなくなる恐れがあるとして処分を勧めたため、劉備は劉封に自害を命じた。
曹操との直接対決に初めて勝ち、漢中王となった建安二十四年(219年)は、劉備にとって長い流浪がようやく報われた年でもあった。
しかしその同じ年に、長年ともに戦ってきた関羽を失い、荊州も孫権に奪われる。劉備の人生で最大の勝利と、あまりにも大きな喪失が同時に訪れた一年だった。
曹操の死と曹丕による後漢の簒奪
建安二十五年(220年)正月、長年にわたって劉備の前に立ちはだかってきた曹操が死去した。
『魏書』によれば、劉備は掾の韓冉に弔問の書状と贈り物を持たせ、曹操のもとへ送っている。
ところが曹丕は、父の喪に乗じて劉備が友好関係を結ぼうとしていると受け取り、これを嫌った。荊州刺史に韓冉を斬るよう命じ、使者の往来まで断ってしまった。
『典略』では少し話が違っている。
韓冉は錦や布とともに弔書を携えていたが、病気になったため上庸に留まり、書状だけが届けられたという。
さらに曹丕が帝位に就く時期と重なって返書が出され、これを受け取った劉備も皇帝として命令を発するようになったと記されている。
同年、曹丕は献帝から帝位を譲り受けて魏の皇帝となり、黄初元年(220年)と改元した。
ここに後漢は滅亡した。
劉備のもとには、献帝が殺されたという間違った知らせが届いた。
実際の献帝は生きていたのだが、それを知らない劉備は喪服を着て葬礼を行い、孝愍皇帝という諡号まで贈った。
さらにこの年には、漢中攻略で劉備を支えた法正と、定軍山で夏侯淵を討ち取った黄忠も亡くなっている。
皇帝即位と漢の再興
建安二十五年(220年)、曹丕が後漢に代わって皇帝となると、今度は劉備の周囲で皇帝への即位を求める動きが強まった。
議郎・陽泉侯の劉豹、青衣侯の向挙、偏将軍の張裔と黄権、大司馬属の殷純、益州別駕従事の趙莋、治中従事の楊洪、従事祭酒の何宗、議曹従事の杜瓊、勧学従事の張爽、尹黙、譙周らは、瑞祥や讖緯を根拠として次のように上表した。
『予言にも天文にも劉備が皇帝になると出ています。ここまでそろっているのだから、もう皇帝になってください』
「私たちは、河図・洛書や五経の讖緯には、孔子が選び定めた、遠い将来の出来事を予告する言葉があると聞いております。
『洛書甄曜度』には、赤の徳が三日間栄え、九世を経て備に至り、帝位に結びつくとあります。
『洛書宝号命』には、天の定める帝王の道において備が皇帝と称し、天命の証しを握って事業を成し遂げるとあります。
また『洛書録運期』には、諸侯や豪傑が命運を争い、人々が苦しみ、道には死者があふれる乱世に、新たな主が現れることが記されています。
『孝経鉤命決録』にも、帝位と備を結びつける予言があります。
私たちの父祖の世代から、西南の方角には数丈もの高さに立ち上る黄色い気が幾度も現れ、長年にわたって観測されてきました。
そのころには美しい雲や穏やかな風が現れ、天の星の動きに応じるような現象も起こりました。
さらに建安二十二年(217年)には、旗のような形の気が西から東へ、空の中央を横切ることがたびたびありました。
河図や洛書には、そのような気が現れた方角から必ず天子が出ると記されています。
また、その年には太白・熒惑・填星が歳星を追うように動きました。
かつて漢が興ったときにも五つの惑星が歳星に従うように集まったといいます。
歳星は義をつかさどり、漢の地位は西方にあるため、漢では歳星の動きによって君主の運命を占ってきました。
これらは、この益州から聖なる君主が現れ、漢を再興する兆しであると考えられます。
当時はまだ献帝が存命であったため、私たちは軽々しく口にすることを控えていました。
ところが最近、熒惑が再び歳星を追い、胃・昴・畢の星宿に現れました。
昴と畢は天の秩序を示す星宿であり、経書には、そこに帝星が位置すれば邪悪なものは消滅するとあります。
大王のお名前と天文の兆し、予言に記された時期は幾度も一致しており、その例は一つではありません。
聖なる王は天の時に先んじて行動しても天意に背かず、天の時に従って行動するときには、その命を奉じるものです。
どうか大王には天命に応じて民衆の願いに従い、速やかに帝位に就き、天下を安定させていただきたいと存じます」
さらに太傅の許靖、安漢将軍の糜竺、軍師将軍の諸葛亮、太常の頼恭、光禄勲の黄柱、少府の王謀らも、劉備に即位を求めて上表した。
『曹丕が後漢を滅ぼした以上、漢王室の血を引く劉備が皇帝となって漢を継ぐべきであり、瑞祥もこれでもかというほど出ています』
「曹丕は漢王室の帝位を奪い、皇帝の権威を盗み取って忠良の臣下を脅かし、残酷で道に外れた政治を行っています。
人々は皆これに憤り、劉氏による統治を望んでいます。
今、天下には仰ぐべき天子がおらず、人々は不安を抱えています。
これまでに群臣が瑞祥について上奏した数は八百人余りに上り、河図や讖緯にも帝位を受けるべき兆しが明らかに示されています。
最近、武陽の赤水に黄龍が現れ、九日間とどまった後に姿を消しました。
『孝経援神契』には、徳が深い泉にまで及ぶと黄龍が現れるとあり、龍は君主の象徴です。
『易経』の乾の九五には『飛龍在天』とあり、これは大王が龍のように昇って帝位に就くことを示しています。
また、以前に関羽が樊城と襄陽を包囲した際、襄陽の張嘉と王休が玉璽を献じました。
その玉璽は漢水の深みに潜んでいたもので、光を放ち、天に届くほどの輝きを現したといいます。
漢という国号は、高祖が天下を統一する際に用いたものです。
大王も先帝の事業を受け継ぎ、漢中を拠点として興隆されました。
天子の玉璽が襄陽の漢水から現れたことは、その流れを受け継ぐ大王に帝位が授けられることを示しています。
これらの瑞祥は、人の力によって作り出せるものではありません。
昔、周王朝が興るときにも鳥や魚の瑞祥が現れ、人々はこれを喜ばしい兆しとしました。
漢の高祖と光武帝が天命を受けた際にも、河図や洛書はその前兆を示していました。
今も天が瑞祥を示し、多くの学者たちが河図・洛書や孔子の讖記を調べ、それらの兆しがそろっていると述べています。
大王は孝景皇帝の子である中山靖王の子孫であり、代々続く漢王室の血筋を受け継いでおられます。
天は大王に福を授け、優れた資質と武勇、深い仁徳を備えさせました。
大王は人々を慈しみ、優れた人物を大切にしてこられたため、四方の人々が心を寄せています。
河図や讖緯にも大王のお名前が明らかに示されています。
どうか帝位に就き、高祖と光武帝の事業を受け継ぎ、漢王室の祭祀を継承していただきたいと存じます。
私たちは博士の許慈、議郎の孟光とともに即位の礼儀を整え、吉日を選んで皇帝の尊号を奉りたいと考えております」
もちろん、勧められたからといって「では皇帝になります」とすぐに受けるわけにはいかない。
こういうときは一度辞退するのがお約束なので、劉備も最初は群臣の推戴を受け入れなかった。
そこで諸葛亮は、かつて耿純が光武帝劉秀に即位を勧めた故事を持ち出して劉備を説得し、劉備もついに皇帝への即位を受け入れた。
建安二十六年(221年)四月丙午、劉備は成都の武担山の南に設けられた祭壇へ登り、皇帝の印璽を受けた。
武担山について裴松之は、成都の西北に位置する山であり、古くから西北を乾の方角とする考え方に基づいて、即位の場所に選ばれたのだろうと述べている。
劉備は即位の儀式で、皇天上帝や后土、神々に向けて次のように告げた。
『自分には皇帝になるほどの徳はないが、曹丕が漢を滅ぼし、みんなが漢を復興しろと言うので、天命に従って皇帝になります』
「建安二十六年(221年)四月丙午、皇帝劉備は黒い牡牛を供え、天と地の神々に謹んで申し上げます。
漢は天下を治め、その命運は限りなく続くはずでした。
かつて王莽が帝位を奪ったときには、光武帝がこれを討ち、漢の社稷を再興しました。
しかし今、曹操は兵力を頼みに残虐な行いを重ね、皇后を殺害し、天下を大いに乱して天の道理を顧みませんでした。
その子の曹丕も父の悪事を受け継ぎ、皇帝の位を奪いました。
群臣や将士たちは、漢の社稷が損なわれた今、私がこれを復興し、高祖と光武帝の事業を継いで、天に代わって逆賊を討つべきだと申しております。
私は徳が足りず、皇帝の位を汚すことを恐れています。
そこで民衆に問い、さらに異民族の首長たちにまで意見を求めたところ、皆が『天命に応じないわけにはいきません。祖先の事業をいつまでも絶やしてはなりません。天下に君主がいないままであってはなりません』と申しました。
天下の人々が私一人に期待を寄せています。
私は天の明らかな命令を畏れ、また漢という国家が地上から消え去ることを恐れています。
そこで吉日を選び、百官とともに祭壇に登り、皇帝の印璽を受けました。
ここに天と地の神々へ祭祀を行い、漢王室に福を授け、天下を永く安定させてくださるよう願い申し上げます」
劉備が立てた国号は漢であり、章武元年(221年)と改元した。
同年四月には大赦を行い、諸葛亮を丞相、許靖を司徒に任じ、百官を置いて宗廟を設け、漢の高祖以下を祭った。
裴松之は、劉備が景帝の子孫を称しながら、世代が遠く隔たっているため、どの皇帝を始祖として宗廟を立てたのか史料からは明らかでないことを惜しんでいる。
同年五月には呉氏を皇后とし、劉禅を皇太子に立てた。
六月には劉永を魯王、劉理を梁王に封じ、皇帝としての体制を整えていった。
また『零陵先賢伝』には、劉巴と主簿の雍茂が劉備に即位を急ぐことを諫め、劉備が別の理由で雍茂を殺したため、遠方の人々が来なくなったという記述も残されている。
劉備最後の戦い、夷陵の大敗と白帝城での最期(221年~223年)
夷陵の戦い1:劉備の呉征伐開始
皇帝となった劉備は、関羽を襲って荊州を奪った孫権を討つ意志を変えなかった。
『雲別伝』によれば、趙雲は「討つべき国賊は曹操であり、孫権ではありません。曹操が死に、曹丕が帝位を奪った今こそ、人々の心に従い、早く関中へ進軍して魏を討つべきです。魏を滅ぼせば、呉も自然に服従するでしょう。魏を放置して先に呉と戦えば、いったん戦いが始まった後で容易に終わらせることはできません」と諫めた。
しかし劉備は趙雲の進言を聞き入れなかった。
そして呉への出兵を目前にして、劉備はもう一人、長年ともに戦ってきた張飛まで失うことになる。
張飛は以前から部下への刑罰が厳しく、劉備は「お前は人を殺しすぎるし、兵士を毎日のように鞭打っている。それなのに、その連中を自分のそばに置いている。そんなことをしていたら、いつか身を滅ぼすぞ」と何度も注意していたが、張飛は改めなかった。
劉備が呉を討つことを決めると、張飛は一万の兵を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。
ところが出発を目前にして、張飛は配下の張達と范彊に殺され、二人はその首を持って長江を下り、孫権のもとへ逃げた。
その後、張飛の陣営から劉備のもとへ報告が届いた。
劉備は張飛の陣営から報告が来たと聞いただけで「ああ、張飛が死んだか」と察したという。
以前から張飛のやり方ではいつか災いを招くと注意していただけに、その予想が最悪の形で当たってしまった。
章武元年(221年)秋七月、劉備は自ら諸軍を率いて呉へ出兵した。
関羽に続いて張飛まで失ったが、それでも孫権を討つ意志は変わらなかった。
孫権は劉備に書状を送って講和を求めたが、劉備は激怒して応じない。
さらに孫権は諸葛亮の兄である諸葛瑾にも劉備を説得させたが、劉備は講和を受け入れなかった。
呉の陸遜、李異、劉阿らは巫・秭帰に駐屯し、迫ってくる劉備軍に備えた。
これに対して劉備軍の呉班と馮習は巫から進軍し、李異らを破って秭帰まで兵を進めた。
さらに武陵の五渓に住む人々も劉備のもとへ使者を送り、出兵を求めた。
夷陵の戦い2:猇亭での劉備軍の快進撃
章武二年(222年)春正月、劉備軍は秭帰へ戻ると、呉班と陳式が率いる水軍を夷陵へ進ませ、長江の両岸に展開した。
二月には劉備自身も秭帰を出発。諸将を率いて山沿いに進み、尾根を越えながら次々と陣営を築き、夷道の猇亭まで進出した。
さらに劉備は佷山から武陵へ通じる道を開き、侍中の馬良を五渓へ派遣した。
馬良は現地の人々に黄金や錦帛を配り、官職や爵位を与えて味方につけていく。これに五渓の人々も次々と応じ、劉備軍への協力を約束した。
一方、長江の北岸では鎮北将軍の黄権に諸軍をまとめさせ、夷陵道で呉軍と対峙させた。
劉備軍はそのまま進撃を続け、夷陵から宜都郡の中心地である夷道まで進出。宜都郡と、呉が設置していた固陵郡の大部分を奪い返した。
劉備は廖化を宜都太守に任じ、奪った土地に次々と陣営を築いて兵を配置していく。
その陣営は数百里にわたって連なり、五渓の人々も劉備軍に加わった。さらに荊州南部の桂陽と零陵でも呉に対する反乱が発生する。
長沙だけは歩騭が呉軍を率いて駐屯していたため動かなかったが、劉備の進軍に合わせて荊州各地が揺れ始めていた。
俺は曹操にも勝った劉備様だぞ。呉の犬ども、覚悟しろ。といった勢いで、ここまでは完全に攻める側だった。
劉備はさらに呉班へ数千の兵を与え、あえて平地に陣を築かせて呉軍を挑発した。
呉の諸将もこれを見て出撃しようとしたが、陸遜だけは動かなかった。
劉備軍は勢いに乗っており、高所や険しい地形もしっかり押さえている。ここで正面からぶつかる必要はないと判断し、軍を夷陵・猇亭方面の有利な場所に置いたまま守りを固めた。
劉備軍は何度も戦いを仕掛けたが、陸遜は出てこない。孫桓も夷道に籠もったまま守り続けた。
そのまま両軍の睨み合いが長引き、さすがの劉備軍にも疲れが見え始める。
そこで劉備は呉軍を引っ張り出すため、山谷に八千の伏兵を隠し、わざと守りを緩めてみせた。
これを見て呉軍が飛び出してくれば、伏兵で一気に叩くつもりだった。
しかし陸遜はこれにも乗ってこない。
結局、劉備は隠していた八千の兵を山谷から引き揚げさせた。
夷陵の戦い3:陸遜の火計で大敗
劉備軍は勢いに乗って進撃していたものの、いくら挑発しても陸遜は出てこなかった。
伏兵を使って誘い出そうとしても引っかからず、劉備軍が攻めあぐねている間に、陸遜は反撃の機会を待ち続けていた。
章武二年(222年)夏六月、秭帰から十余里にわたって、幅数十丈もの黄色い気が現れたと記されている。
そしてその十余日後、ついに陸遜が動いた。
陸遜はまず劉備軍の陣営の一つを攻撃したが、この攻撃は失敗した。
呉の諸将からは兵を無駄にしたと不満が出たが、陸遜は「敵を破る方法はもう分かった」と答えた。
劉備軍の陣営が木の柵などで築かれているのを確認した陸遜は、火を使って一気に焼き払うことにした。
呉軍は劉備軍の陣営へ火を放ち、そのまま長江の水上交通や夷陵の要路を押さえながら総攻撃を開始した。
陸遜は各軍を四方から攻め込ませ、劉備が数百里にわたって築いていた陣営を次々と突破。四十余りの陣営が一気に陥落した。
あれだけ長く連なっていた劉備軍の陣営が、今度はまとめて燃やされることになった。
ここから劉備軍は一気に崩れた。
将軍の馮習と張南が戦死し、五渓の人々を率いて参戦していた沙摩柯も戦死。五渓との交渉をまとめた馬良も命を落とした。
さらに傅肜や程畿も戦死し、杜路や劉寧らは呉軍に降伏した。
そんな中、向寵が率いていた部隊だけは敗戦後も軍勢を崩さず、そのまま帰還している。
劉備軍の戦死者は数万人に及び、船や武器をはじめ、陸軍と水軍が運んできた軍需物資もほとんど失った。
戦死者の遺体が長江を塞ぐほどだったとも記されており、壊滅的な損害を受けた。
永安への退却と孫権との和解
夷陵で大敗した劉備は猇亭から秭帰へ戻り、散り散りになった兵を集めると、船を捨てて陸路から魚復まで退却した。
劉備は魚復県を永安と改め、そのままここに留まった。
呉の李異と劉阿らは劉備軍を追って南山まで進み、劉備側も八月には兵をまとめて巫へ戻した。
さらに趙雲が白帝城まで進み、巴西太守の閻芝も馬忠に五千人を率いさせて援軍を送った。
一方、長江北岸の軍を任されていた黄権は、呉軍と対峙していたため、劉備軍が敗れたことで帰り道を完全に塞がれてしまった。
もはや劉備のもとへ戻ることができず、黄権はやむを得ず魏へ降伏した。
すると劉備のもとでは、裏切った黄権の家族を捕らえるべきだという意見が出た。
しかし劉備は「私が黄権に対して申し訳ないことをしたのであって、黄権が私を裏切ったのではない」と言って退けた。
劉備は黄権の妻子にも罪を問わず、それまでと変わらずに扱った。
章武二年(222年)には司徒の許靖も亡くなった。
同年十月には劉備が諸葛亮に命じ、成都に南北の郊祀を行うための施設を設けさせている。
一方、夷陵で勝った孫権にも安心している暇はなかった。
章武二年(222年)、今度は魏が三方面から呉へ攻め込み、孫権は魏軍への対応を迫られた。
しかも劉備は成都へ帰らず、白帝城に留まったままだった。孫権は劉備が再び攻めてくることを警戒し、改めて講和を求めた。
劉備もこれを受け入れ、太中大夫の宗瑋を呉へ派遣して返答させた。
同年十二月には孫権も太中大夫の鄭泉を白帝城へ送り、両者の間で使者の往来が再開された。
関羽を殺されてから決裂していた劉備と孫権だったが、夷陵での大敗を経て、再び手を結ぶことになった。
白帝城での託孤と劉備の最期
章武二年(222年)、夷陵の戦いに敗れた劉備は成都へ戻らず、そのまま永安に留まっていた。
同年十二月、漢嘉太守の黄元は劉備の病状が重いと聞くと、兵を挙げて反乱を起こした。
翌章武三年(223年)二月、劉備は諸葛亮を永安へ呼び寄せ、諸葛亮は劉永と劉理を伴って成都を出発した。
その翌月、黄元は臨邛県へ攻め込み、町を焼いた。
益州治中従事の楊洪はこの反乱を劉禅に報告し、将軍の陳曶と鄭綽が討伐へ向かった。
黄元は敗れて川を下って逃げたものの、途中で配下に捕らえられ、成都へ送られて処刑された。
一方、永安では劉備の病がさらに重くなっていた。
劉備は諸葛亮に自分の死後を託し、尚書令の李厳をその副役に定めた。
そして諸葛亮に「あなたの才能は曹丕の十倍もある。必ず国を安定させ、最後には大事業を成し遂げることができるだろう。劉禅が補佐するに足る人物なら補佐してほしい。もし才能がなければ、あなた自身で判断してよい」と告げた。
諸葛亮は涙を流しながら「私は力を尽くして忠義を守り、死ぬまで務めを果たします」と答えた。
劉備はさらに劉禅らにも、諸葛亮を父のように敬い、ともに国政に当たるよう命じた。
劉備が劉禅に残した遺詔は、裴松之が引用した『諸葛亮集』に残されている。
死期を悟っていた劉備は、まず自分の病状から説明した。
「初めは下痢だけだったが、その後ほかの病も重なり、もはや回復は難しい。
人は五十歳を過ぎれば早死にとはいわない。私はすでに六十歳を超えているのだから、今さら死を恨んだり、自分の身を嘆いたりはしない。
ただ、お前たち兄弟のことが気がかりなのだ。
射君が来て、丞相がお前の知恵と思慮が大きく成長し、期待以上になったと感心していたことを伝えてくれた。
本当にそうであるなら、私に何の心配があろうか。
励みなさい。励みなさい。
小さな悪だからといって行ってはならず、小さな善だからといって行わないでいてはならない。
人を従わせることができるのは、賢さと徳があってこそだ。
お前の父は徳が薄かった。私をまねてはならない。
『漢書』『礼記』を読み、暇があれば諸子の書物や『六韜』『商君書』にも目を通して、知恵と思慮を深めなさい。
丞相が『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を書き写し終えたものの、まだ届けられないうちに道中で失われたと聞いている。
自分で改めて求め、学ぶようにしなさい」
劉備の残した言葉は、私の意志を継いで魏を倒せではなく、ちゃんと勉強しろ。小さな悪でもやるな。小さな善でもやれ。徳を身につけろ。
皇帝としてではなく、一人の父親として息子の行く末を心配するものだった。
また劉備は臨終に際して魯王の劉永を呼び、「私が死んだ後、お前たち兄弟は丞相を父のように敬いなさい。お前は丞相とともに仕事をすればよい」と言い残した。
自分の死後の蜀と息子たちを、劉備は諸葛亮に託した。
章武三年(223年)夏四月、劉備は永安宮で死去した。
享年六十三歳だった。
劉備の死後、諸葛亮は先帝の徳をたたえ、遺詔に従って喪礼を行うよう劉禅に上表した。
同年五月、劉備の棺は永安から成都へ運ばれ、昭烈皇帝の諡号が贈られた。
そして秋八月、劉備は恵陵に埋葬された。
劉備にまつわる逸話集
劉備を暗殺しようとした劉平と刺客の逸話
初平二年(191年)、平原相となった劉備だったが、誰もが新しい上司を歓迎してくれたわけではない。
平原郡の住民である劉平は以前から劉備を見下しており、その支配下に置かれることを恥じていた。
そこで刺客を送り込み、劉備を殺そうとした。
ところが肝心の刺客は劉備を殺すことができず、自分はあなたを殺すために来たのだと白状し、そのまま帰ってしまった。
『魏書』によれば、劉備は相手が刺客だとは知らず、手厚くもてなしていたという。
殺しに来た相手から親切にされてしまった刺客は、自分が暗殺のために来たことを明かして立ち去ったという。
どちらの説にせよ、訪ねてきた男に「実は刺客でした」と告白して帰られて、劉備は「??」状態だっただろう。
その後、劉平がどうしたのかは記されていない。
張飛ではなく魏延を選ぶ
建安二十四年(219年)、劉備が漢中王になると、漢中を誰に守らせるかが問題になった。
誰もが張飛が選ばれると思い、張飛本人もそのつもりだったが、劉備が抜擢したのは魏延だった。
魏延は漢中の各地に防御拠点を築き、それぞれを連携させる「重門の計」で漢中を守った。
この守りは魏延の死後も受け継がれ、延熙七年(244年)には王平が利用し、十万余りで攻めてきた曹爽の魏軍から漢中を守り切っている。
長年苦楽を共にした張飛ではなく、周囲の予想を裏切って魏延を選ぶ。
その人事は劉備の死後二十年以上経っても蜀を守っていた。
劉備の人を見る目にも、舌を巻く話である。
人材にまつわる逸話
劉備は人材を大切にする一方で、気に入らない言動にはかなり厳しいところもあった。
場合によっては官職を奪い、それでも済まなければ処刑まで命じている。
広漢太守の張存は、以前から龐統を高く評価していなかった。
その龐統が戦死し、劉備がその死を惜しんで褒めたところ、張存は「龐統が忠義を尽くしたことは惜しむべきですが、その行いは立派な人物としての道理に反しています」と口を挟んだ。
これに劉備は「龐統は命を捨てて仁を成し遂げた。それでも間違っていたというのか」と激怒し、張存を免官した。
張存はその後まもなく病死している。
益州の張裕とは、お互いの容姿をネタにしてやり合ったことがある。
張裕が髭の薄い劉備をからかえば、劉備も張裕の顔立ちをネタにして言い返す。ここまではただの悪口合戦だった。
しかしその後、張裕は漢中をめぐる戦いについて予言し、さらに王朝の交替に関わる発言までしてしまう。
劉備はこれを問題視して張裕の処刑を命じた。諸葛亮も助命を求めたが、劉備は認めなかった。
髭の悪口だけなら笑って済んだが、その先は笑って済ませてくれなかった。
口の悪い劉備
建安十七年(212年)、荀彧の死を知った劉備は「あの老賊が生きている限り、天下の混乱は終わらない」と語った。
もちろん老賊とは曹操のことである。
この頃の劉備が曹操をどう見ていたのか、非常に分かりやすい一言である。
劉備の妻と子供
劉備には複数の妻妾があり、正室をたびたび失ったため、妾であった甘夫人が家の内事を取り仕切っていた。
劉備の妻妾
- 糜夫人:糜竺の妹。劉備が豫州方面で苦境に陥っていたとき、糜竺によって劉備に嫁いだ。その後の消息は明らかでない。
- 孫夫人:孫権の妹。劉備と孫権の関係を結ぶために婚姻した。劉備の入蜀後、孫権に呼び戻され、その後の消息は資料に記されていない。
- 甘夫人(昭烈皇后):沛の出身で、劉禅の生母。妾として劉備の家の内事を取り仕切った。建安十三年(208年)の長坂の敗走では曹操軍に追われたが、趙雲に救い出された。その後病死し、皇思夫人の諡号を贈られ、さらに昭烈皇后と追諡されて劉備と合葬された。
- 呉夫人(穆皇后):呉懿の妹で、もとは劉瑁の妻。劉瑁の死後、劉備が益州を得てから夫人に迎えられ、漢中王となると王后、章武元年(221年)には皇后となった。劉禅の即位後は皇太后となり、長楽宮と称された。延熙八年(245年)に病死し、劉備と合葬された。
なお、孫夫人以前に正室であった女性たちのうち、糜夫人以外の名前や身元は明らかでない。
劉備の子供
- 劉封(養子):もとの姓は寇。劉備に将軍として用いられたが、関羽への援軍を拒んだことや、孟達との対立によって上庸などを失ったことが問題となり、諸葛亮の進言を受けた劉備から自害を命じられた。
- 劉禅(長男):字は公嗣、幼名は阿斗。甘夫人の子。章武元年(221年)に皇太子となり、劉備の死後、皇帝に即位した。
- 劉永(次男):字は公寿。章武元年(221年)に魯王となり、のち甘陵王に改封された。劉禅の側近である黄皓と不仲になって劉禅から遠ざけられた。蜀の滅亡後は洛陽へ移り、奉車都尉となって郷侯に封じられた。
- 劉理(三男):字は奉孝。馬超の娘を妻とした。章武元年(221年)に梁王に封じられ、のち安平王となったが、若くして亡くなり、悼王と諡された。
- 娘二人(名前不明):建安十三年(208年)、長坂の戦いで劉備が敗走した際、曹操軍の曹純に捕らえられた。
劉備の評価
『三国志』の陳寿は、劉備を次のように評している。
劉備は大きな志と不屈の精神を持ち、寛大で情け深く、人の才能を見抜いて優れた人物を厚く遇した。
その姿には漢の高祖を思わせる風格があり、まさしく英雄の器量を備えていた。
とりわけ、国のすべてを諸葛亮に託しながら、少しも疑いを抱かなかったことは、君主と臣下が私心なく向き合った姿であり、古今を通じて模範とすべき優れた行いである。
ただし、状況に応じた策略や物事を成し遂げる手腕では曹操に及ばず、そのため築き上げた領土も狭かった。
それでも劉備は、挫折してもくじけず、最後まで他人の下に立とうとはしなかった。
それは相手の器量を見極め、自分を受け入れることはないと判断していたからであり、単に利益を争っただけではなく、自らに及ぶ危害を避けるためでもあった。
改めて陳寿の評価を読むと、なるほどと思うことばかりである。
人を見る目があり、認めた人間は大切にする。戦略では曹操に及ばず、何度負けても懲りずにまた立ち上がる。そして誰かを頼っても、結局その人の下には収まらない。
私の考察なんて、陳寿がだいたい書いていた。
初期の頃は会ってくれないだけで督郵を二百回殴ったのに、諸葛亮には三回も会いに行っている。
田豫や徐庶が去るときは送り出し、黄権が魏へ降伏しても責めない。人を見る目もかなりあるのに、廖立や彭羕のようなのも混じっている。戦では負けて逃げているようで、意外と強い。
劉備は知れば知るほど面白い。後に『三国志演義』で主役になったのも納得である。
参考文献
- 三國志 : 蜀書二 : 先主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十 : 荀彧傳 – 中國哲學書電子化計劃
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劉備のFAQ
劉備の字(あざな)は?
字は玄徳(げんとく)です。
劉備はどんな人物?
後漢末の戦乱で各地を転戦し、荊州から益州へ勢力を広げ、漢中王を経て蜀の皇帝となった人物です。
劉備の最後はどうなった?
章武二年(222年)、夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗し、永安の白帝城まで退却しました。
病が重くなると諸葛亮と李厳に後事を託し、章武三年(223年)に永安宮で六十三歳で亡くなりました。
死後は昭烈皇帝と諡され、成都の恵陵に埋葬されました。
劉備は誰に仕えた?
劉備は初め公孫瓚を頼り、その後は徐州牧の陶謙に属しました。
陶謙の死後に徐州を引き継ぎましたが、呂布に敗れ、曹操のもとに身を寄せました。
その後、曹操と敵対して袁紹を頼り、さらに荊州の劉表に迎えられました。
のちに益州を平定して独自の勢力を築き、漢中王を経て皇帝に即位しました。
劉備にまつわるエピソードは?
曹操から「天下の英雄は君と私だけだ」と言われた際、劉備が驚いて箸を落としたという逸話があります。
また、死の直前には息子の劉禅に対し、「小さな悪だからといって行ってはならず、小さな善だからといって行わないでいてはならない」と教えています。
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