1分でわかる忙しい人のための廖立の紹介
廖立(りょうりつ)、字は公淵(こうえん)、出身は武陵郡臨沅県、生没年(?~?)
劉備に仕えて三十歳になる前に長沙太守へ抜擢され、諸葛亮から龐統と並ぶ「楚の良才」と高く評価された人物である。
しかし本人は自らを諸葛亮に次ぐ才能と考え、李厳らより下の地位に置かれたことへ不満を募らせた。
やがて劉備の用兵や関羽をはじめ、向朗・文恭・郭攸之・王連らを次々と批判し、諸葛亮から先帝と群臣を誹謗したとして弾劾された。
庶民へ落とされて汶山郡へ流された後も意気は衰えず、姜維からその言論を評価されたが、復帰することなく流刑先で生涯を終えた。
廖立(りょうりつ)の生涯を徹底解説!諸葛亮に才能を認められながら、劉備と群臣を批判し、汶山へ流刑となった蜀の官僚
諸葛亮から「楚の良才」と評される
廖立は武陵郡臨沅県の出身で、劉備が荊州牧を兼ねていた頃に従事として仕え、三十歳になる前には長沙太守にまで昇っている。
劉備が蜀へ入り、諸葛亮が荊州を守っていた頃のことである。
孫権が諸葛亮のもとへ使者を送り、荊州には国家を支えられるほどの人物がいるのかと尋ねた。
そこで諸葛亮が名前を挙げたのが、龐統と廖立だった。
「龐統と廖立は楚の良才であり、大業を興す助けとなる人物です」
若い頃から劉備に取り立てられ、国家の大業を助けられる人物だと諸葛亮からも将来を期待されていた。
長沙を失っても重用される
建安二十年(215年)、孫権は呂蒙に兵を与え、長沙・零陵・桂陽の三郡を奪いにかかった。
呂蒙は先に三郡へ降伏を勧める書状を送る。
ここで「楚の良才」の廖立は、「敵が来た!逃げろ」と抵抗せずに長沙を捨て、そのまま益州にいる劉備のもとへ身一つで逃げだした。
同時期に桂陽も孫権に帰順したが、零陵太守の郝普は城に籠もって抵抗した。
廖立の華々しい経歴はここで終了するかと思われたが、劉備は廖立を見捨てなかった。
長沙を失ったことを理由に処罰することもなく、今度は巴郡太守に任命している。
建安二十四年(219年)、劉備が漢中王になると廖立は中央へ召されて侍中となり、劉禅が即位すると長水校尉へ転任した。
諸葛亮に次ぐ自負から官位への不満を募らせる
長沙を失っても出世コースから外れなかった廖立だが、本人はそんな自分の扱いにまるで納得していなかった。
廖立の自己評価では、自分ほどの才能と名声があれば諸葛亮の次あたりで当然だったのである。
ところが現実には、自分より上には李厳などがいる。
廖立にしてみれば、周囲は自分という人材の価値を正しく理解していない。そんな思いが日に日に膨らんでいった。
劉禅が即位し、臣下たちの官職や称号が広く加増された時も、廖立は黙っていなかった。
諸葛亮のところへ行き、「どうして私は諸将軍と同じ扱いなのですか。卿にしてくれないのであれば、せめて五校より上に置くべきでしょう」と自分から訴えた。
これに対して諸葛亮は、「将軍というのは皆との兼ね合いで任命したものだ。卿については正方、つまり李厳ですらまだ卿になっていない。今は五校にいるのがよい」と説明した。
しかし廖立が欲しかったのは「今はそこで我慢しろ」という説明ではなく、自分にふさわしい地位だった。
劉備・関羽・蜀の重臣たちを批判
あるとき丞相掾の李邵と蔣琬が廖立のもとを訪れると、廖立は二人に向かってこう語った。
「これから軍は遠征に出ることになるが、その結果をよく見ておけ。
先帝(劉備)は漢中を取らず、呉と荊州南部三郡を争った。
役人や兵を散々疲れさせた挙句、三郡を呉へ渡し、何も得られないまま引き揚げている。
そのうえ漢中を取られていたため、夏侯淵と張郃には巴の奥まで攻め込まれ、危うく一州まるごと失うところだった。
その後になって漢中へ兵を進めても、関羽は死に、上庸まで失っている。
関羽は武勇と名声を頼みにするばかりで、軍の率い方を知らず、自分の考えで突っ走って何度も兵を失った。
向朗と文恭も大した人物ではない。文恭は治中でありながら統治を引き締められず、向朗は以前、馬良兄弟を聖人とまで持ち上げ、今では長史の座に収まっているだけだ。
郭攸之も人について回るだけで、大事を任せられる人物ではない。
それなのに侍中にしている。国に余裕がないのに、こんな三人を使っている場合ではない。
王連も財貨をかき集めて百姓を苦しめた。今の有様を招いたのも、そのせいなのだ」
よくもまあ、丞相府の人間を二人並べてここまで言えたものである。
何よりまずかったのは、劉備の戦略を失敗扱いし、ついでに関羽まで無能扱いしてしまったことだった。
劉備への批判を諸葛亮に弾劾される
李邵と蔣琬は、廖立から聞いた話を諸葛亮へ報告した。
これを聞いた諸葛亮は劉禅へ上表し、廖立を弾劾した。
「長水校尉の廖立は自分を高く見積もり、群臣を好き勝手に品定めしています。 口を開けば、この国には人を見る目がなく、あほな連中ばかり出世させ、軍を率いる者まで若輩者ばかりだと言いたい放題です。
それだけならまだしも、先帝にまでケチをつけ、そのついでに臣下までまとめてこき下ろしています。 ある者が軍は精鋭で部隊も整っていると話せば、腹を立てて屋根を見上げ、『それがどうした』と吐き捨てました。 掘ればまだまだ出てきます。
たった一匹の羊でも群れを引っかき回せば迷惑なのに、廖立はそれなりの地位にいる人間です。 このまま好き勝手に語らせていては、人々は何が正しく何が間違っているのか分からなくなります。」
さらに諸葛亮は別の上表でも、廖立の過去の行いを並べている。
「廖立には先帝に対する忠孝の心がありません。長沙を任されたときには城を開いて敵へ渡し、巴郡を治めたときにも政務をきちんと行わず、大将軍に従ってからも誹謗や批判を繰り返しました。
先帝の棺に付き添った際には、刃物を手にして棺のそばで人の首を斬っています」
劉禅は「三苗が政治を乱したときも、虞舜は殺さず流刑にした。廖立の言動は正気の沙汰ではないが、処刑するには忍びない」として死罪にはしなかった。
廖立はすべての官職を失って庶民へ落とされ、そのまま汶山郡へ送られた。
諸葛亮の死に涙した廖立の最期
庶民となった廖立は妻子を連れて汶山郡へ移り、自ら畑を耕して暮らした。
かつて劉備と諸葛亮から高く評価された廖立だったが、再び官職へ戻ることはなかった。
建興十二年(234年)、諸葛亮が亡くなったという知らせが届くと、廖立は涙を流し、「私はとうとう左衽の民になってしまうのか」と嘆いた。
自分を庶民に落とした張本人ではあるが、同時に自分の才能を誰より高く評価していたのも諸葛亮である。
その諸葛亮が死んだとなれば、廖立も「これでもう官職に戻ることはないな」と泣きたくなったのだろう。
延熙十年(247年)、監軍の姜維が偏軍を率いて汶山を通った際、廖立のもとを訪ねた。
姜維は廖立について、「意気はまったく衰えておらず、話しぶりも昔と変わっていなかった」と評している。
変わらないのなら、あの清々しいほどの廖立節批判をもう一度聞いてみたかったが、残念ながら話の内容までは記録に残っていない。
結局、廖立が再び蜀の朝廷へ呼び戻される日は来なかった。
そのまま汶山で生涯を終え、廖立の死後、妻子は蜀へ帰っている。
『三国志』の陳寿は廖立について、彭羕とともに才能によって抜擢された人物として挙げながら、その行動を振り返れば、災いを招き罪を得た原因はいずれも自らにあったと評している。
これといった功績を残さず、最後には劉禅から「正気の沙汰ではない」とまで言われた廖立。
ここまで来ると、「楚の良才」と絶賛した諸葛亮の見る目を疑ったほうがいい。
参考文献
廖立のFAQ
廖立の字(あざな)は?
字は公淵(こうえん)です。
廖立はどんな人物?
廖立は自負心が強く、自らを諸葛亮に次ぐ才能の持ち主だと考えていた人物です。
廖立の最後はどうなった?
廖立は諸葛亮から弾劾されて庶民となり、汶山郡へ流されました。
その後も汶山で暮らし続け、流刑先で死去しました。
廖立は誰に仕えた?
廖立は劉備に仕え、三十歳になる前に長沙太守へ抜擢されました。
劉禅の時代まで蜀の官僚として活動しました。
廖立にまつわるエピソードは?
自らの官位への不満を募らせ、劉備や関羽、蜀の重臣たちを批判したことで庶民へ落とされました。

コメント