1分でわかる忙しい人のための昌豨の紹介
昌豨(しょうき)、他に昌霸(しょうは)など、出身は泰山郡、生没年(?~206年)
臧霸らとともに泰山の勢力を形成し、陶謙、呂布、曹操らの間を渡り歩いた人物である。
呂布滅亡後には曹操へ帰順したが、建安五年(200年)には劉備に呼応して反乱し、その後も何度も曹操に背いた。
官渡の戦い後に再び反乱した際には、夏侯淵や張遼に包囲され、張遼の説得を受けて降伏している。
建安十一年(206年)にも再び反乱したが、于禁、臧霸、夏侯淵らに追い詰められ、最後は旧知の于禁へ降伏したが、軍法を優先した于禁に処刑された。
昌豨の生涯を徹底解説!曹操を困らせるほどの勢力を持ち、旧友・于禁に斬られた最期
泰山の群雄として臧霸とともに勢力を築く
昌豨は泰山郡の人物とされるが、史料によって昌狶、昌霸、昌務と名前が変わる。
後に何度も立場を変える男だが、名前の段階ですでに落ち着きがない。
黄巾の乱が起こると、昌豨は臧霸(臧覇)とともに陶謙に従い、その後は徐州方面で活動した。
興平元年(194年)に陶謙が死去すると、臧霸は孫観、呉敦、尹礼らと独自の勢力を築き、昌豨もそこへ加わる。
ここから泰山周辺には、中央の都合など知らんという連中が、それぞれ自前の兵を抱えて並ぶことになった。
昌豨も臧霸の後ろで旗を持っていただけではない。
この時期には彭城王の劉和を攻撃した記録が残っており、自分の兵を持ち、自分で動ける地方勢力の一人だった。
建安二年(197年)になると、そろって呂布側につき、劉備との戦いにも関わった。
その看板を預けた呂布が滅亡した後の建安三年十二月(199年)、昌豨は臧霸らとともに曹操へ帰順した。
曹操に帰順するも、劉備に呼応して再び反乱する
呂布が滅亡した翌年の建安三年十二月(199年)、昌豨は臧霸らとともに曹操へ帰順した。
この少々扱いに困りそうな泰山勢力を厚く遇し、そのまま青州・徐州方面の支配を任せる。
『臧霸伝』には、臧霸は琅邪相、呉敦は利城太守、尹礼は東莞太守、孫観は北海太守、孫康は城陽太守に任じられている。
ところが昌豨だけは役職が書かれておらず、一人だけ完全に仲間外れである。
そして建安五年(200年)正月、劉備が曹操に反旗を翻すと、その昌豨がさっそく動いた。
曹操へ帰順してから、まだ一年ほどしか経っていない。役職がもらえなかった仕返しばりに劉備側へ飛び出している。
昌豨が動くと周辺の郡県まで次々と曹操に背き、集まった兵は数万人にまで膨れ上がった。
裏切り方はともかく、それだけの人間を一緒に引っ張っていける勢力を持っていたのである。
『先主伝』には、この反乱を「東海昌霸反」と記している。ここに登場する昌霸は昌豨を指し、曹操は東海郡から昌慮郡を分けて新たに設置している。
先ほど『臧霸伝』の人事表から昌豨だけ消えていたが、こうした状況から昌豨は昌慮郡太守だった可能性があり、東海一帯でかなりの勢力を持っていたことがうかがえる。
しかし数万人まで膨らんだ反乱も、曹操が自ら劉備を攻め始めると長くは続かなかった。
曹操は劉備を破り、下邳の関羽を降伏させると、そのまま昌豨の反乱は平定され、彼は早くも行き先を失った。
官渡の戦い後にまた反乱し、張遼の説得で降伏する
建安五年(200年)の官渡の戦いが終わると、曹操に反乱を鎮圧されたばかりなのに、昌豨はまた反乱した。
今度は夏侯淵が討伐に向かい、張遼もこれに従って昌豨を包囲した。
ところが昌豨はしぶとく、数か月にわたって包囲されても粘り続け、翌建安六年(201年)になっても落ちなかった。
そして先に音を上げかけたのが、昌豨ではなく曹操軍の兵糧だった。
このままでは腹のほうが先に陥落する。諸将からも「一度撤退して態勢を整え直そう」という意見が出始めた。
だが張遼は、城の中にいる昌豨の様子を見ていた。
何度も張遼のほうを眺め、矢を放ってくる数も減っている。これを見た張遼は、昌豨が本気で最後まで殴り合うつもりではなく、降伏するきっかけを探していると判断した。
そこで張遼は、軍勢を突っ込ませるのではなく、自分一人で昌豨のもとへ向かった。
そして「曹操は武力だけでなく徳によって天下を懐柔している。先に帰順した者には大きな恩賞が与えられる」と説得する。
数か月包囲して落ちなかった昌豨を、最後は張遼が一人で口説きに行ったのである。
すると昌豨は、この説得を受け入れて降伏した。
張遼はさらに一人で三公山へ入り、ついさっきまで包囲していた敵将の家族のもとまで訪ねている。
昌豨も、そこまで自分を信用して踏み込んできた張遼の誠意には折れた。
最後の反乱で于禁・臧霸・夏侯淵に追いつめられる
張遼の説得を受けて降伏した昌豨だったが、そのまま曹操のもとで大人しく暮らすような男ではなかった。
『後出師表』には「曹操五攻昌霸不下」とあり、昌霸、つまり昌豨は曹操が五度攻めても落ちなかったと記されている。
建安十一年(206年)、そんな昌豨がまた反乱した。
曹操は于禁を討伐に向かわせ、かつて同じ泰山勢力として活動していた臧霸も加わったが、それでも昌豨を攻め落とすことができなかった。
于禁と臧霸でも片づかないため、曹操はさらに夏侯淵まで援軍として投入した。
夏侯淵が于禁と力を合わせて攻撃すると、さすがの昌豨も十余りの拠点を次々と失い、とうとう逃げ場を削られていく。
降伏するも軍法によって斬られる
追い詰められた昌豨は、旧交のある于禁のもとへ自ら出向いて、何度目になるのかわからない降伏をした。
何度も反乱しては生き残ってきた昌豨だったが、最後に頼った旧友は、友情で軍法を曲げてくれるような男ではなかった。
周囲の者たちは、昌豨を曹操のもとへ送り、処分を仰ぐべきだと考えた。
しかし于禁が持ち出したのは、「包囲された後に降伏した者は赦さない」という軍法だった。
昔からの知り合いだろうが何だろうが、昌豨だけ特別扱いするつもりはなく、自ら処刑することを決めた。
とはいえ、于禁も旧友の首を平然と斬れるほど割り切ってはいなかった。
別れに涙を流し、それでも軍法を優先して昌豨を処刑した。
曹操もこの知らせを聞くと、昌豨が自分ではなく于禁のもとへ降伏したことを嘆いたという。
昌豨の死後、曹操は昌慮郡を廃止し、再び東海郡へ編入した。
于禁に戻ってきたブーメラン
この于禁の決断に後世から猛烈に噛みついたのが裴松之である。
「包囲された後に降伏した者は赦さない」という軍法は認めつつも、昌豨を曹操のもとへ送って判断を仰ぐ道は残されていたと指摘した。
しかも相手は旧友で、助ける方法が残っているのに、それを選ばず自分で斬ってしまった。
裴松之はここを見逃さず、于禁には「好殺の心」があったとまで書いた。
そして裴松之は、于禁のその後まで持ち出した。
昌豨を軍法によって斬った于禁自身が、後には敵へ降伏し、死後には「厲侯」という悪い諡まで与えられている。
裴松之はそこまで引き合いに出して、昌豨への処置を厳しく批判した。
旧友の降伏を許さず、自らの手で斬った于禁。
昌豨は旧友に命を預けたつもりが、とんでもなく時間差のあるブーメランまで預けて死んだ。
参考文献
- 三國志 : 魏書十八二 : 臧霸傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十七 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書九 : 夏侯淵傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書一 : 武帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十八二 : 呂虔傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書二 : 先主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書/卷72 – 维基文库,自由的图书馆
- 後漢書/卷50 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷065 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷071 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:昌豨 – Wikipedia
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