公孫瓚:白馬義従で異民族を圧倒、袁紹に敗れ易京で死す【すぐわかる要約付き】

公孫瓚
公孫瓚

1分でわかる忙しい人のための公孫瓚の紹介

公孫瓚(こうそんさん)、字は伯珪(はくけい)、出身は遼西郡令支県、生没年(?~199年)

公孫瓚は後漢末、幽州を中心に一大勢力を築いた群雄である。
母の身分が低かったため郡の小吏から出発し、若い頃には盧植のもとで学んだ。
後に公孫瓚のもとへ身を寄せる劉備も盧植に学んでおり、二人は同門にあたる。

その後は数十騎で数百騎の鮮卑に突撃して包囲を突破するなど、北方の異民族との戦いで勇名を上げた。
白馬に乗る精鋭「白馬義従」を率い、初平二年(191年)には青州・徐州の黄巾軍三十万を迎え撃って大破し、その威名を轟かせた。

やがて劉虞を倒して幽州を掌握し、袁紹と北方の覇権をめぐって激突したが、次第に人心を失い、易京へ籠って守りを固めるようになる。
建安四年(199年)、袁紹軍に追い詰められ、最後は袁紹軍に斬られた。
小吏から北方の群雄へとのし上がり、異民族を恐れさせた公孫瓚は、袁紹との長い抗争の末に易京で滅亡した。

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公孫瓚の生涯を徹底解説!黄巾軍撃破から劉虞・袁紹と争い、易京で迎えた最期まで

母の身分から小役人へ、太守に才能を見出された公孫瓚

公孫瓚は遼西郡令支県の出身で、家は代々二千石の官人を出していた。
しかし、母の身分が低かったため、その家柄をそのまま受け継ぐことはできず、郡の小役人から人生を始めた。

公孫瓚は、見た目がよく、声も大きく、頭の回転も速かった。
『典略』によれば、複数の部署にまたがる案件をまとめて報告しても、忘れたり間違えたりすることがなかったという。

そんな公孫瓚を太守も放っておかなかった。
その才能を気に入って自分の娘を嫁がせると、さらに涿郡の盧植のもとへ送り、経書を学ばせている。

そして盧植のもとには、劉備も学び(遊び?)に来ていた。
公孫瓚は劉備と親しくなり、年上だったことから、劉備は公孫瓚を兄のように慕っていた。

後に行き場を失った劉備が頼ることになるのも、この公孫瓚である。
二人の付き合いは、まだ何者でもなかった頃から始まっていた。

護送される太守に付き従う

公孫瓚が仕えていた太守の劉氏(名は不明)が事件に連座し、罪に問われた。
劉氏は罪を裁かれるため、檻車に乗せられて洛陽の廷尉へ送られることになった。

規則では、公孫瓚が罪に問われた太守の劉氏に付き従うことは許されていなかった。 そこで、公孫瓚は従卒に変装し、劉氏の世話をして洛陽まで同行した。
部下がついて行ってはダメなら、一般市民になれば問題ないということらしい。

劉氏は、遠く南方の日南郡へ流刑を言い渡された。
公孫瓚自身は罪人でも何でもないのだが、それでも劉氏に付き従って日南郡まで行くつもりだった。

日南郡は瘴気の多い土地であり、生きて帰れない可能性もあった。
そこで公孫瓚は北芒で先祖を祭り、「昔は人の子だったが、今は人に仕える身となった。これから日南へ行かなければならないが、あの地には瘴気があり、生きて帰れないこともある。だから、ここで先祖に別れを告げておく」と語った。

公孫瓚は涙を流して再拝すると、本当に劉氏とともに日南郡へ向かった。
しかし道中で劉氏が赦免されたため、死を覚悟した公孫瓚の日南行きもそこで終わり、そのまま帰還している。

その後、公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史に任命された。

張純・丘力居を追討、管子城で二百余日の包囲を受ける

中平四年(187年)、車騎将軍の張温が涼州の反乱を討つことになると、公孫瓚は幽州の烏桓突騎三千人を率いることになった。
ところが軍が薊へ到着すると、漁陽の張純が遼西烏丸の丘力居らを誘って反乱を起こした。
『九州春秋』によれば、張純は「弥天将軍・安定王」を自称した。

公孫瓚は率いていた兵で張純らを追討し、その功績によって騎都尉へ昇進した。
その後、張純と丘力居らが漁陽・河間・勃海を荒らして平原へ侵入すると、公孫瓚はこれを追撃し、遼東属国の石門で大破した。
張純らは妻子を捨てて塞外へ逃走し、公孫瓚は彼らに捕らえられていた人々を奪還した。

しかし、公孫瓚はそのまま敵地へ深く入り込んだため後続がなく、逆に丘力居らによって遼西の管子城で包囲された。
包囲は二百余日に及び、食糧が尽きると馬を食べ、馬も尽きると、ついには弩や盾を煮るほどの窮状に陥った。
力戦しても敵を破ることができず、公孫瓚は兵士たちと別れを告げ、それぞれ分散して脱出することになった。

折から雨や雪も多く、谷や穴に落ちるなどして、兵の十人に五、六人が死亡した。
一方の丘力居らも飢えに苦しみ、遠く柳城まで退いた。

このころ、属国烏丸の貪至王が部族を率いて公孫瓚に降伏した。
『三国志』では、公孫瓚は中郎将となって都亭侯に封じられ、属国へ進駐したと記されている。
一方、『後漢書』では降虜校尉に任命されて都亭侯に封じられ、遼東属国長史を兼任したと記されている。

異民族を恐れさせた公孫瓚の精鋭「白馬義従」

公孫瓚はその後も北方の異民族との戦いを続け、その期間は五、六年に及んだと記されている。
敵襲の知らせを聞くたびに顔色を変えて怒り、仇敵へ向かうように激しく追撃し、時には夜になっても戦い続けた。
異民族はその勇猛さを恐れ、公孫瓚に立ち向かおうとしなくなった。

公孫瓚は弓に優れた者を数十人選び、全員を白馬に乗せて左右の翼とし、「白馬義従」と称した。
やがて烏桓の間では「白馬長史を避けろ」と言い交わされるほど、公孫瓚と白馬の騎兵は恐れられるようになった。

烏桓は公孫瓚の姿を描いた標的まで作り、馬上からこれを射て、命中すると万歳を唱えたという。
それほどまでに公孫瓚を恐れた異民族は、やがて遠く塞外へ逃れていった。

劉虞との異民族政策の対立

公孫瓚と幽州牧の劉虞は、異民族への対応をめぐって真っ向から対立した。
公孫瓚は武力で徹底的に叩いて服従させようとしたのに対し、劉虞は恩徳と信義を示し、自ら帰順させようとした。

劉虞が異民族に帰順を呼びかけると、烏桓の丘力居らは通訳を務める者を劉虞のもとへ送り、帰順の意思を示した。
しかし公孫瓚は、これでは劉虞の功績になってしまうと考え、その使者を捕らえて殺そうとした。
これを知った異民族側は公孫瓚を避け、密かに劉虞のもとへ使者を送り、帰順した。

さらに公孫瓚は、朝廷から劉虞を通じて異民族へ与えられる賞賜をたびたび奪った。
劉虞は異民族への略奪を禁じようとしたが、公孫瓚はこれに従わず、両者の関係は次第に悪化していった。

黄巾軍三十万を二万の兵で迎撃、公孫瓚が二度にわたり大破する

初平二年(191年)、青州・徐州の黄巾軍三十万が勃海郡へ入り、黒山軍と合流しようとした。
これに対して公孫瓚は歩兵と騎兵二万を率い、東光の南で黄巾軍を迎え撃った。
公孫瓚軍は黄巾軍を大破し、三万余の首を斬った。

敗れた黄巾軍は数万両に及ぶ車や荷物を捨て、河を渡って逃走した。
公孫瓚は黄巾軍が河を渡っている途中を攻撃し、再びこれを大破して数万人を討ち取った。
死者の血によって河の水が赤くなったと記されるほどの大敗となり、公孫瓚は七万余を捕虜としたほか、車や甲冑、財物など数え切れないほどの戦利品を手に入れた。

黄巾軍三十万を相手に二度にわたって大勝したことで、公孫瓚の威名は大いに高まった。
この功績によって奮武将軍に任命され、薊侯に封じられた。

公孫越の戦死をきっかけに、袁紹との全面対決へ

このころ、献帝は長安から脱出するため、献帝のもとにいた劉和(劉虞の子)を幽州の劉虞のもとへ送り、救援の兵を求めようとした。

ところが劉和が袁術のもとを通過すると、袁術は劉虞の兵力を自分の軍として利用しようと考え、劉和を引き留めた。
そして劉虞の兵が到着すれば一緒に献帝を迎えに行くと約束し、劉和に父への手紙を書かせた。

これを信じた劉虞は、数千騎を袁術のもとへ送ろうとした。
しかし公孫瓚は袁術には別の思惑があると見抜き、劉虞に兵を送らないよう止めた。

ところが劉虞が聞き入れなかったため、今度は袁術から恨まれることを恐れ、従弟の公孫越に千余騎を率いさせて袁術のもとへ送り、自らも関係を結んだ。
さらに公孫瓚は密かに袁術へ、劉和を捕らえてその兵を奪うよう勧めている。

その後、袁術は公孫越を孫堅に従わせ、袁紹配下の周昕を攻撃させた。
公孫越はこの戦いで流れ矢を受け、そのまま戦死した。

袁術が援軍をそのまま自軍へ取り込む思惑があると分かっていながら、自ら千余騎と公孫越を袁術へ渡し、いいように使われた末に公孫越は戦死した。
公孫瓚の怒りは袁術へ向かいそうなものだが、なぜか袁紹に激怒した。

公孫瓚は軍を率いて盤河に駐屯し、袁紹への報復に乗り出した。

さらに公孫瓚は朝廷へ上疏し、袁紹には十の罪があるとして激しく糾弾した。

「臣が申し上げますに、古より君臣の道は明らかにされ、礼によって人を導き、刑によって暴虐を禁じてまいりました。
しかし車騎将軍の袁紹は、先祖から受け継いだ名声によって高い爵位と重い任務を与えられながら、その性質は乱れて軽薄です。

かつて司隷校尉であったころ、天下が乱れ、何太后が朝政を執り、何進がこれを補佐していました。
袁紹は正しい者を登用して悪しき者を退けることもなく、邪悪な者たちを招き寄せて国家を混乱させ、丁原が孟津を焼き、董卓が乱を起こす原因を作りました。これが第一の罪です。

董卓が礼を失い、皇帝を脅かしたときにも、袁紹は策を講じて陛下をお救いすることなく、節や伝を捨てて逃亡しました。
朝廷から与えられた爵位と使命を辱め、主君に背いたのです。これが第二の罪です。

袁紹は勃海太守となり董卓を討とうとしながら、ひそかに兵馬を集めて父兄には知らせず、そのため太傅をはじめ一族をそろって死なせました。
不仁にして不孝であり、これが第三の罪です。

袁紹は兵を挙げてから二年が経っても国難を救おうとせず、自らの勢力を広げることばかり考えました。
大量の物資や兵糧を集めて急を要さないことに使い、際限なく百姓から取り立てたため、人々は苦しみ、怨み嘆いております。これが第四の罪です。

韓馥を追い詰めて冀州を奪い、勝手に金玉を刻んで印璽を作り、命令を出すたびに袋へ封をして詔書と称しました。
かつて王莽も僭越を重ねた末に帝位を奪いましたが、袁紹の行いを見るに、これもまた乱へ至る道です。これが第五の罪です。

袁紹は星を見る者に吉凶を探らせ、財貨を与えて親しく交わり、期日を定めて郡県を襲撃しました。
これは大臣の行うべきことではありません。これが第六の罪です。

かつて虎牙都尉であった劉勲は袁紹とともに最初から挙兵し、張楊を降伏させるなど幾度も功績を立てました。
それにもかかわらず、袁紹はわずかな恨みから不当に酷い仕打ちを加え、讒言する邪悪な者を信用して無道を助長しました。これが第七の罪です。

かつて上谷太守であった高焉と甘陵相であった姚貢に対しては、貪欲にも金銭を要求しました。
それをすべて用意できなかったため、二人とも命を失いました。これが第八の罪です。

『春秋』の義では、子は母の身分によって尊ばれると申します。袁紹の母は太傅家の婢女であり、その身分は低いものでした。
それにもかかわらず袁紹は高い官職に就き、厚い待遇を受けながら、さらに出世を求め、身を退こうという心もありません。これが第九の罪です。

また長沙太守の孫堅は、以前に豫州刺史を兼ね、董卓を追い払い、荒らされた陵廟を掃き清め、漢王室のために尽くしました。その功績は極めて大きなものです。
それにもかかわらず袁紹は配下の将を送り込んでその地位を奪わせ、孫堅への兵糧を断って進軍を妨害しました。
そのため孫堅は深く攻め込むことができず、董卓を長く討ち取ることができませんでした。これが第十の罪です。

かつて周王朝の力が衰え、天子が都を移され、諸侯が背くようになると、斉の桓公は柯で会盟を行い、晋の文公は践土で諸侯を集めました。
さらに楚を討って王室への貢物を納めさせ、曹や衛を討って無礼を正しました。

臣は取るに足らない者であり、その名も昔の賢人には及びません。
しかし朝廷の恩を受け、重い任務を背負い、軍を率いて罪ある者を討つ立場にあります。ゆえに諸将や州郡とともに袁紹らを討つ所存です。
この戦いに勝利して罪人を捕らえることができれば、斉の桓公や晋の文公が王室へ尽くした忠義に続くことができると存じます」

この上疏とともに公孫瓚が袁紹との対決姿勢を鮮明にすると、冀州の諸城は次々と袁紹に背き、公孫瓚へ従うようになった。

三州刺史を任命、界橋・龍湊・巨馬水で袁紹と激突

公孫瓚の勢力が急速に拡大すると、袁紹はこれを恐れ、自らが持っていた勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟である公孫範に与えて和解を図った。
しかし公孫範は袁紹に従わず、勃海の兵を率いて公孫瓚に加わった。

勢いに乗った公孫瓚は、自ら配下を各州の刺史に任命した。
厳綱を冀州刺史、田楷を青州刺史、単経を兗州刺史とし、さらに各郡県にも太守や県令を配置して勢力を広げた。

青州刺史となった田楷は斉へ進出し、袁紹勢力と対峙した。
公孫瓚は劉備も田楷のもとへ送り、袁紹を防がせている。
また、公孫瓚のもとに仕えていた趙雲も劉備に従って青州へ向かい、主騎として仕えるようになった。

初平二年(191年)冬、公孫瓚は袁紹と界橋で激突した。
公孫瓚は三万余の歩兵を方陣に組み、その左右に一万余の騎兵を配置して戦いに臨んだ。
これに対して袁紹軍の麴義は八百の精兵と千張の強弩を前面に出し、公孫瓚軍を迎え撃った。

公孫瓚の騎兵は麴義の兵が少ないのを見て一斉に攻撃したが、麴義は盾の下に伏せて接近を待ち、敵が数十歩まで迫ったところで一斉に立ち上がった。
強弩を放ちながら大声を上げて突撃すると、公孫瓚軍は大敗し、冀州刺史に任じられていた厳綱も戦死した。

初平三年(192年)、公孫瓚は再び袁紹と戦い、龍湊まで進んだが、ここでも敗れて薊へ退いた。
その後、袁紹は崔巨業に数万の兵を率いさせて故安を包囲させたが、一月余り攻めても陥落させることができず、崔巨業は撤退した。

公孫瓚は歩兵と騎兵三万を率いてこれを追撃し、巨馬水で袁紹軍を大破して七、八千人を討ち取った。
さらにその勢いに乗って南下し、各地の郡県を攻略しながら平原まで進出した。

田楷・劉備が青州で袁紹勢力と争う

袁紹も青州方面へ数万の兵を送り込み、田楷との戦いは二年間に及んだ。
長期戦によって双方の食糧は尽き、兵士たちは疲弊し、互いに百姓から略奪するようになった。
ついには「野に青草なし」と記されるほど、戦場となった地域は荒廃した。

初平四年(193年)、曹操が徐州へ侵攻すると、徐州牧の陶謙は田楷に使者を送り、救援を求めた。
田楷は劉備とともに徐州へ向かい、陶謙を救援した。
劉備はそこで陶謙から丹陽兵四千人を与えられると田楷のもとを離れ、陶謙に仕えることになった。

建安元年(196年)、袁紹の長男である袁譚が青州刺史として青州へ進出した。
袁譚は北へ進んで田楷を排除し、さらに東へ向かって北海相の孔融を攻撃した。
田楷は青州から退き、公孫瓚による青州方面への勢力拡大も後退することになった。

劉虞を破って幽州を掌握、易京へ本拠を移す

一方、時間を初平四年(193年)まで戻すと、幽州では公孫瓚と劉虞の対立がついに武力衝突へ発展していた。

劉虞は十万余の兵を率いて公孫瓚を攻撃した。
対する公孫瓚は、兵を各地へ送り出していたため、手元に残っていたのは数百人で、百倍どころではない兵力差である。

さすがの公孫瓚もこれでは戦争にならないと、逃走を考えた。
しかし劉虞は「公孫瓚だけを討ち、ほかの者には危害を加えてはならない」と命じ、民家への放火も禁止していたうえ、率いていた兵も戦いに慣れていなかった。
そのため大軍を擁しながら攻めきることができず、戦いは長引いた。

これを見た公孫瓚は逃げるのをやめ、精鋭数百人を集めると、風に乗じて火を放って劉虞軍へ突撃した。
劉虞軍は大敗し、劉虞は居庸県へ逃れた。

公孫瓚はそのまま劉虞を追撃し、三日後に居庸を攻略して劉虞とその妻子を捕らえた。
劉虞を捕らえた公孫瓚は、そのまま薊へ連行して拘禁した。

その後、朝廷から使者の段訓が派遣され、劉虞の封邑を増やすとともに、公孫瓚を前将軍に任じ、易侯に封じる詔書が届けられた。
しかし公孫瓚は、劉虞が袁紹らと共謀して皇帝を僭称しようとしていたと訴え、段訓を脅して劉虞を処刑させた。

処刑の日、公孫瓚は劉虞を市場に引き出し、「もし劉虞が本当に天子になるべき人物なら、天は風雨を起こして救うはずだ」と言った。
しかし当時は日照りが続いており、雨は降らなかった。
劉虞はそのまま薊の市場で斬られ、その首は都へ送られた。

劉虞を排除した公孫瓚は、幽州でさらに勢力を広げた。
当時、「燕の南端、趙の北際、その中央には大きな砥石ほどの隔たりがあり、ただこの中だけが世を避けられる」という童謡があり、公孫瓚は易の地がそれに当たると考えた。

そこで公孫瓚は本拠を易へ移し、易河に臨んで大規模な営塁を築いた。
さらに営塁の中には数十もの高楼を築き、後に袁紹との戦いで最後の拠点となる易京を形成していった。

劉虞殺害で反発が拡大、鮮于輔・閻柔らに大敗する

劉虞を殺害した公孫瓚に対し、劉虞に従っていた鮮于輔らは州兵を集め、公孫瓚への報復に動き始めた。
さらに鮮于輔は、以前から異民族や漢人の間で信望を集めていた燕国の閻柔を烏桓司馬に推した。

閻柔が呼びかけると、烏桓や鮮卑などの異民族と漢人が集まり、その数は数万に達した。
かつて白馬義従を率いて異民族を恐れさせた公孫瓚だったが、今度はその異民族が敵として押し寄せてきた。
閻柔は公孫瓚軍の漁陽太守の鄒丹と潞北で戦い、鄒丹ら四千余を斬った。

さらに劉虞の恩徳を慕っていた烏桓の峭王も、配下の者たちと鮮卑七千余騎を率いて鮮于輔らに加わった。
そして南へ向かって劉虞の子である劉和を迎え、袁紹配下の麴義とも合流すると、その軍勢は十万に達した。
全米が泣いたならぬ、全北が敵に回った状態である。

興平二年(195年)、公孫瓚は鮑丘でこの連合軍と戦ったが大敗し、二万余の兵を失った。
さらに代郡・広陽・上谷・右北平でも、公孫瓚が配置した長吏が殺され、人々は鮮于輔や劉和の軍へ合流していった。

追い詰められた公孫瓚は易京へ退き、そこで籠城するようになった。
公孫瓚は易京の周囲に屯田を設け、食糧を確保しながら守りを固めた。

ただし、公孫瓚が一方的に敗れ続けたわけではない。
その後、麴義の軍が食糧不足に陥り、残った数千人を率いて撤退すると、公孫瓚はこれを迎撃して破り、車両や荷物をすべて奪った。

恩を忘れて恨みには報復する公孫瓚

このころ干ばつと蝗害によって穀物価格が高騰し、人が人を食べるほど民衆は困窮していた。
しかし公孫瓚は自らの能力と武力を頼みにし、民衆のことを顧みなかった。

また公孫瓚は、人の過ちはいつまでも覚えているのに、善いことはすぐに忘れ、わずかな恨みであっても必ず報復した。
地元の名士や優れた人物の中に自分より名声の高い者がいると、法を使って害することさえあった。

そんな公孫瓚は「名門や官人の連中は、地位や富を得ても当然のものと思い、人から受けた恩に感謝しない」と考えていた。
そのため商人や身分の低い者を好んで重用したが、彼らは公孫瓚の寵愛を頼みに人々へ乱暴を働き、やがて民衆から強く怨まれるようになった。

易京に閉じこもり、謀臣猛将が離れていく

易京へ退いた公孫瓚は、今度は身に危険が及ぶことを恐れ、高楼へ閉じこもるようになった。
入口には鉄の門を設け、七歳以上の男子は中へ入れず、側に置いたのは姫妾だけだった。

当然、文書を届ける者も中には入れない。
そこで文書は縄を使って高楼まで引き上げ、命令を伝えるため、姫妾たちには大声を出す訓練までさせた。
その声は数百歩先まで届いたという。

こうして公孫瓚は賓客を遠ざけ、側近すら信用しなくなった。
直接会うことさえ難しくなれば、謀臣や猛将が力を尽くすはずもなく、彼らも次第に公孫瓚から離れていった。

そして公孫瓚自身も、ほとんど戦いに出なくなった。
その理由を尋ねられると、「かつて異民族を塞外へ追い、黄巾を破ったころは、天下など指揮すれば平定できると思っていた。しかし今になってみれば、戦乱はようやく始まったところであり、これは自分が決着をつけられるものではない。兵を休ませて農耕に励み、凶年を乗り切る方がよい」と答えた。

さらに公孫瓚は、「兵法では百楼のある城は攻めないという。今、我が陣営の楼櫓は千里に連なり、穀物は三百万斛を蓄えている。これを食べながら天下の変化を待つには十分だ」と考えていた。
かつて数十騎で数百の鮮卑へ突撃した公孫瓚は、易京では大量の食糧と高楼に囲まれ、天下の方が変わるのを待つようになった。

袁紹の総攻撃、出撃を止めた関靖

建安三年(198年)、袁紹は再び大軍を率いて公孫瓚への攻撃を開始した。
追い詰められた公孫瓚は、子の公孫続を黒山軍の諸将のもとへ送り、救援を求めた。

一方、公孫瓚自身は騎兵を率いて易京を出撃し、西山沿いに進んで袁紹軍の背後を断とうと考えた。
ところが長史の関靖が、この作戦に反対した。

関靖は「今、将軍の兵士たちは崩壊寸前です。それでも逃げずに守っているのは、自分たちの家族がここにおり、将軍を頼りにしているからです。このまま長く守り続ければ、袁紹が退くこともあるでしょう。しかし将軍が易京を離れて出撃すれば、後方を支える者がいなくなり、ここはたちまち危機に陥ります」と諫めた。

公孫瓚は関靖の意見を受け入れ、出撃を取りやめた。
ところが袁紹は退かなかった。むしろ攻撃は激しさを増し、公孫瓚は三重に築いた営塁へ退いて守ることになった。

袁紹軍の伏兵に襲われて大敗

建安四年(199年)春、黒山軍の張燕と公孫続は十万の兵を率い、三方面から公孫瓚の救援へ向かった。
公孫瓚も援軍と呼応して袁紹軍を破ろうと考え、密かに使者を送り、公孫続へ書状を届けようとした。

書状の中で公孫瓚は、袁紹軍の攻撃を「鬼神のようだ」と表現している。
攻城兵器による攻撃は激しさを増し、鼓や角笛の音まで地中から聞こえてくるとして、日に日に追い詰められている状況を訴えた。
そして公孫続には、何としても張燕に救援を求めるよう命じた。

公孫瓚が考えたのは、五千の鉄騎を城の北側に待機させ、火を合図に外から攻撃させると同時に、自らも城内から出撃して袁紹軍を挟み撃ちにする作戦だった。
さらに「そうしなければ、私が滅びた後、天下がどれほど広くても、お前の足を置く場所はなくなる」と公孫続へ告げた。

ところが、ここまで作戦を書いた密書が袁紹軍の斥候に奪われた。

密書から作戦を知った袁紹軍は伏兵を配置し、公孫瓚が援軍と取り決めていた時刻になると、代わりに合図の火を上げた。
公孫瓚はそれを援軍到着の合図と信じ、兵を率いて城外へ出撃した。

しかし、そこで待ち構えていたのは袁紹軍の伏兵だった。
公孫瓚は大敗して易京へ逃げ戻り、もはや後がなくなった。

易京陥落、公孫瓚の最期

建安四年(199年)、袁紹軍の伏兵に敗れて易京へ逃げ戻った公孫瓚は、もはや誰も助からないと判断した。
姉妹と妻子を自ら手にかけ、火を放って自害した。
そこに袁紹軍が高楼まで攻め上り、公孫瓚の首を斬った。

公孫瓚の最期を知った関靖は、「あの時、将軍が自ら出撃するのを止めなければ、必ずしも失敗しなかったかもしれない。君子は人を危難に陥れたなら、その危難をともにすると聞く。どうして自分だけ生き残ることができようか」と悔やんだ。
そして馬を駆って袁紹軍へ突撃し、戦死した。

青州刺史として公孫瓚に仕え続けた田楷も、袁紹との戦いで戦死した。
公孫瓚の子である公孫続も、その後、屠各(胡族の名称)によって殺された。

こうして公孫瓚の勢力は滅亡した。
その後、鮮于輔と閻柔は袁紹ではなく曹操に従う道を選び、曹操による北方平定に協力していくことになる。

公孫瓚への評価

劉虞の配下だった魏攸は「公孫瓚は文武の能力が頼るに足りる。多少の悪いところがあっても、容認すべきである」と評価し、劉虞に公孫瓚との関係を断たないよう進言していた。

袁紹は「自分だけは世の混乱から抜け出せると思い上がり、その威勢と策略を誇っている」と批判した。

『三国志』の陳寿は、易京に籠り、座したまま滅亡を待ったと評している。

『後漢書』の范曄は、粗野ではあるが武才に優れ、勇猛な人物だったと評している。
その一方で、自らの能力を頼みにして民衆を顧みず、人から受けた恩は忘れながら過失は覚えており、わずかな恨みにも必ず報復し、自分より名声のある地元の善士を法によって害したとも記している。

さらに范曄は、公孫瓚と劉虞が対立せず、心を同じくして力を合わせ、人々を集めて燕・薊の豊かさを守り、兵を整えて群雄の隙をうかがっていたならば、古代の優れた功業も決して遠いものではなかったと論じている。

公孫瓚の強さは疑うところがない。
ただ、その強さゆえに、自分の武力が北方の異民族を抑えていると勘違いした。

だから、劉虞を殺しても彼らは逆らわない。これが最大の計算違いだった。
公孫瓚が滅んだ原因は、公孫瓚の強さだった。

参考文献

公孫瓚のFAQ

公孫瓚の字(あざな)は?

字は伯珪(はくけい)です。
遼西郡令支県の出身で、後漢末に幽州を中心として勢力を築きました。

公孫瓚はどんな人物?

鮮卑や烏桓との戦いで勇名を上げ、白馬に乗る精鋭「白馬義従」を率いた人物です。

公孫瓚の最後はどうなった?

建安四年(199年)、姉妹と妻子を殺した後に自ら火を放ちましたが、袁紹軍に斬られました。

公孫瓚は誰に仕えた?

後漢の官僚として官途を進み、遼東属国長史、騎都尉、降虜校尉、中郎将などを歴任しました。
その後は北方で独自の勢力を築き、前将軍に任じられ、易侯に封じられています。

公孫瓚にまつわるエピソードは?

晩年の公孫瓚は易京の高楼に籠り、鉄の門を設けて、七歳以上の男子すら中へ入れませんでした。
側には姫妾だけを置き、女性たちに大声を出す訓練をさせ、数百歩先まで届く声で命令を伝えさせていました。

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