1分でわかる忙しい人のための孫観の紹介
孫観(そんかん)、字は仲台(ちゅうだい)、出身は泰山郡、生没年(?~210年代)。
臧覇らとともに泰山勢力を築き、のちに曹操へ帰順した武将である。
曹操のもとでは臧覇と各地を転戦し、常に先陣を切った。
青州・徐州の賊を平定した功績は臧覇に次ぐとされ、呂都亭侯、偏将軍、青州刺史へと昇進した。
その後、濡須口で孫権軍と戦い、流れ矢を受けて左足に重傷を負う。
それでも戦い続け、曹操から身を大切にするよう労われたが、傷が重く、そのまま死去した。
孫観の生涯を徹底解説!臧覇と泰山勢力を築き、曹操配下で常に先陣を切った猛将の戦功と濡須口での最期
臧覇とともに泰山勢力を築く
孫観は字を仲台といい、泰山郡の人物である。『魏略』では別名を嬰子とも記されている。
黄巾の乱が起こると、孫観は早くから臧覇と行動をともにし、陶謙に従って黄巾軍を討った。
ここで戦功を挙げ、騎都尉に任じられている。
興平元年(194年)に陶謙が死去すると、臧覇、呉敦、尹礼、昌豨、兄の孫康らと結び、泰山周辺で独自の勢力を築いた。
それぞれが自前の兵を抱え、徐州一帯で無視できない勢力へと膨らんでいった。
曹操と呂布が争うようになると、孫観たちは呂布側についた。
呂布が劉備を破った際にも泰山勢力はこれを支援しており、孫観も臧覇らとともに戦っている。
ところが呂布が滅亡し、建安三年十二月(199年)に臧覇が曹操へ帰順すると、孫観と兄の孫康にも曹操からお呼びがかかった。
二人もこれに応じ、今度は曹操のもとへ降ることになった。
曹操の待遇はなかなか太っ腹で、臧覇を琅邪相、呉敦を利城太守、尹礼を東莞太守、孫観を北海太守、孫康を城陽太守に任命した。
それぞれに太守の椅子を用意したうえで、青州・徐州方面の支配まで任せている。
曹操配下で常に先陣を切り、青州刺史まで昇る
曹操へ帰順してからも、孫観は臧覇と組んで各地を転戦した。
ところが臧覇と出陣するたび、決まって孫観が先頭に立って敵へ突っ込んでいく。一緒に走ろうと約束したのに、スタートした途端ぶっちぎりで先頭を走るタイプである。
青州・徐州の賊を平定した際にも戦功を挙げ、その功績は臧覇に次ぐとされた。
これによって孫観は呂都亭侯に封じられ、兄の孫康も討賊の功績によって列侯に封じられている。
その後、孫観は軍を率いて南皮で曹操と合流し、子弟を鄴へ移住させた。
孫観は偏将軍から青州刺史へと昇進し、さらに假節まで与えられる。
濡須口で重傷を負っても退かず戦い続ける
その後、孫観は曹操に従って孫権討伐へ参加し、濡須口で戦った。
戦いの最中に流れ矢を食らい、左足に重傷を負ってしまう。
これで少しは大人しくなるかと思えば、孫観は退くどころか深手を負ったまま、奮戦は加速していく。
とうとう曹操から「そんな大怪我をして、なんでますます勇猛になってるんだ。国のためにも少しは自分の体を大事にしろ」と労われた。
その後、孫観は振威将軍へ転任したが、濡須口で受けた傷がもとで死去し、その爵位は子の孫毓が継いだ。
孫毓も後に父と同じ青州刺史まで昇っている。
参考文献
孫観のFAQ
孫観の字(あざな)は?
孫観の字は仲台(ちゅうだい)です。
孫観はどんな人物?
臧覇とともに泰山勢力を形成し、曹操へ帰順した後は各地の戦いで常に先陣を切った武将です。
青州・徐州の賊を平定した功績は、臧覇に次ぐものとされています。
孫観の最後はどうなった?
曹操に従って孫権と戦った際、濡須口で流れ矢を受けて左足に重傷を負いました。
その後も戦い続けましたが、傷が重く、その傷がもとで死去しました。
孫観は誰に仕えた?
陶謙に従って黄巾を討った後、臧覇らとともに呂布を支援し、呂布滅亡後は曹操へ帰順しました。
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