和嶠:司馬衷と国の将来を案じた忠臣の直言と銭癖【すぐわかる要約付き】

和嶠
和嶠

1分でわかる忙しい人のための和嶠の紹介

和嶠(かきょう)、字は長輿(ちょうよ)、出身は汝南郡西平県、(?~292年)

魏の名臣・和洽を祖父に持ち、西晋の武帝・司馬炎に重用された政治家である。
潁川太守として民衆に慕われ、中書令や侍中などの要職を歴任した。

中書監の荀勗を嫌い、同じ車で参内する慣例を変えさせたことでも知られる。
和嶠が特に懸念していたのは、皇太子・司馬衷の統治した世の中だった。

司馬炎の前で率直に意見を述べ、皇帝が不快感を示しても進言を続けたため、司馬衷の即位後には過去の発言を問いただされることになる。
また、王侯に匹敵する財産を持ちながら極度にけちで、杜預から「銭癖」と評された。
政治的な見識と率直な発言で名を残す一方、財産への執着を世間から批判された人物でもある。

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和嶠の生涯を徹底解説!和嶠専車の逸話と、司馬衷の資質を司馬炎に直言し続けた忠臣

和嶠の出自と若き日の名声

和嶠は汝南郡西平県の出身で、祖父の和洽は魏の尚書令、父の和逌は吏部尚書を務めた人物である。
三国志好きでさえ二人の名前にはなじみが薄いだろうが、祖父は中央政府の実務を取り仕切る長官、父は官僚の人事を担当する高官という、とんでもなく偉い親子だった。

和嶠自身も若いころから堂々とした風格を備え、母方のおじにあたる夏侯玄を敬愛し、その気品ある振る舞いを手本にしていた。
軽々しい言動を慎み、品位を重んじる姿勢を貫いたため、朝廷の内外では早くから評判になっていた。

やがて父から上蔡伯の爵位を受け継ぎ、太子舎人として官僚生活を始めた。
その後は順調に昇進して潁川太守となり、清廉で無駄のない政治を行って民衆から慕われた。

才能を評価され、中央で重用される

太傅従事中郎の庾敳は、和嶠の才能を高く評価していた。
その堂々とした姿を見て、「和嶠は千丈もの高さがある松のような男だ。節が多く、ごつごつしているが、大きな建物を建てるなら立派な柱になる」と称賛したという。

ところが、同じ『晋書』の庾敳伝を読むと、この言葉を贈られたのは和嶠ではなく温嶠だった。

もっとも、和嶠が高く評価されていたこと自体は間違いない。
朝廷の重臣である賈充もその才能を認め、司馬炎に推薦している。
これを受けて和嶠は給事黄門侍郎として中央に入り、やがて中書令にまで昇進した。

司馬炎も和嶠を厚く信任した。

荀勗を嫌い、慣例を変え「和嶠専車」を生む

当時、中書監と中書令には、同じ車に乗って参内する慣例があった。
ところが、中書令となった和嶠には、どうしても同じ車に乗りたくない相手がいた。
中書監の荀勗である。

和嶠は荀勗の人柄を軽蔑しており、二人で車に乗っても、まるで荀勗など存在しないかのように傲慢な態度を取った。
相手は自分より上位の中書監であるが、和嶠にはそんな気遣いをするつもりなど毛頭なかった。

そしてついに、中書監と中書令は別々の車で参内するようになった。
一人の男が同僚を嫌った結果、朝廷の慣例まで変わってしまったのである。

これが後に「和嶠専車」と呼ばれる逸話である。

呉の平定への貢献と、荀勗との編纂事業

太康元年(280年)、晋は呉を滅ぼし、天下統一を果たした。
和嶠は呉征伐の軍議にちゃんと参加したので、参加賞として弟の和郁に汝南亭侯の爵位が与えられた。

和嶠は皇帝に近い侍中に転じ、司馬炎からますます厚い信任を受けるようになった。
朝廷では任愷や張華とも親しく、政治家として順調に地位を固めていた。

太康二年(281年)、汲郡の古い墓から大量の竹簡が発見された。
そこには戦国時代の魏の歴史などを記した『竹書紀年』や、周の穆王の巡遊を記した『穆天子伝』など、貴重な古書が含まれていた。

これを知った司馬炎は、発見された古書を整理するよう命じた。
『隋書』経籍志によれば、この仕事を任されたのは中書監の荀勗と中書令の和嶠であり、古書は十五部八十七巻にまとめられたという。

同じ車に乗るのも嫌だった荀勗と和嶠が、今度は共同で古書の整理を任された。
司馬炎は二人の仲の悪さを知らなかったのか、それとも嫌がらせのつもりだったのか。

皇太子司馬衷の能力を疑い、司馬炎に直言

司馬炎から厚い信任を受けていた和嶠だったが、皇太子司馬衷については遠慮がなかった。

あるとき和嶠は司馬炎に、「皇太子には古風で素朴な気質があります。しかし、今の世には偽りが多く、陛下の後を継いで政務を担えるかどうか心配です」と進言した。
司馬炎は何も答えなかった。

その後、司馬炎は和嶠と荀顗、荀勗らに、最近は皇太子も成長したようだから、東宮へ行って世の中の問題について話してくるよう命じた。

東宮から戻ったヨイショ組の荀顗や荀勗は、「皇太子には優れた識見があり、まさしく陛下のおっしゃるとおりです」と、完璧な接待報告をした。

ところが和嶠は、「皇太子の資質は、以前と変わっておりません」と痛烈な答えを返した。

司馬炎は自分で試験を実施しておきながら、結果が気に入らないと不機嫌になり、そのまま帰ってしまった。

和嶠は退出した後も、皇太子のことを思っては嘆いていた。
自分の進言が受け入れられないと分かっていながら、それでも皇太子への懸念を捨てることができなかった。

余談だが、和嶠とともに皇太子を訪れた人物については、史料によって記述が異なっている。

干宝の『晋紀』は、司馬炎が侍中の荀顗と和嶠を東宮へ派遣したと記している。
一方、孫盛の記録では、同行者は荀顗ではなく荀勗となっている。
これに対し裴松之は、以下のように考察している。

荀顗は和嶠が侍中を務めていたころには、すでに亡くなっているため、荀顗の同行は年代が合わない。

荀勗は、当時三公に次ぐほどの高位にあり、和嶠と同格の侍中として扱われる立場ではなかったため、官職の面で不自然だ。

そこで裴松之は荀愷を同行者として挙げた。
『荀氏家伝』には、荀愷が司馬炎の時代に侍中を務めたと記されている。
当時の官職と年代を照らし合わせ、和嶠とともに皇太子を訪れたのは荀愷であったと判断したのである。

皇太子問題を訴え続け、司馬衷の即位後に問いただされる

司馬炎から不興を買っても、和嶠は皇太子司馬衷への懸念を口にすることをやめなかった。

もっとも、司馬炎も和嶠が忠義から進言していることは理解していた。
しかし、息子の能力を疑われるのは面白くない。
ついには和嶠と話す際、皇位継承に関わる話題を避けるようになった。

ところが、和嶠の発言は思わぬところにまで届いていた。
何者かが皇太子妃の賈南風に告げ口したのである。
夫の能力を疑われた賈南風は、和嶠に恨みを抱いた。

太康年間(280年~289年)の末、和嶠は尚書となったが、母が亡くなったため官職を離れた。

太熙元年(290年)、司馬炎が亡くなり、問題の皇太子司馬衷が皇帝に即位した。
和嶠は太子少傅に任じられ、散騎常侍と光禄大夫の官位も加えられた。

あるとき、司馬衷が西宮へ参内することになり、和嶠も同行した。
すると賈皇后となった賈南風が、かつて夫の能力を疑った和嶠に仕返しする絶好の機会だとばかりに動き出した。

賈皇后に促された司馬衷は、和嶠に「以前、あなたは私には皇室の政務を処理できないと言ったそうだが、今はどう思うか」と問いただした。

皇帝本人から過去の発言を突きつけられた和嶠だったが、ここでも態度を変えなかった。
「私はかつて先帝にお仕えしていたとき、確かにそのように申し上げました。しかし、私の言葉が現実にならなかったのであれば、それは国家にとって幸いなことです。だからといって、私が過去の発言の責任から逃れようとするでしょうか」と答えたのである。

皇帝が立派に政治を行えるなら国にとって幸いだと言っているだけで、司馬衷の能力を褒めたわけではない。しかし、賈氏が用意した吊し上げの場で、和嶠は最後まで自分の評価を撤回しない信念を持って対応した。

莫大な財産を持ちながら、極度のケチで知られる

皇帝の機嫌を損ねても国家の将来を案じる立派な政治家だが、私生活では別の一面があった。

和嶠の家には王に匹敵するほどの財産があった。
ところが、金を使うことが大嫌いで、そのケチっぷりは世間から批判されるほどだった。

『世説新語』倹嗇篇には、その性格を物語る逸話がある。
和嶠の家には李の木(スモモの木)があり、王済が実を分けてほしいと頼んだところ、和嶠は数十個しか与えなかったという。

そんな和嶠について、杜預は王済には「馬癖」、和嶠には「銭癖」があると評した。
王済は馬に目がなく、和嶠は金に目がない。人間、何かしら夢中になるものがあるという話である。

ちなみに、これを聞いた司馬炎は、杜預に「では、お前には何の癖があるのか」と尋ねた。
すると杜預は、「私には『左伝』癖があります」と答えたという。

和嶠の死と評価

元康二年(292年)、和嶠は亡くなった。
死後、金紫光禄大夫を追贈され、金章紫綬を加えられ、それまでの官位も維持された。
『晋書』には、永平年間の初めに「簡」の諡号を贈られたと記されている。

和嶠の跡は、弟の和郁の子である和済が継いだ。
和済はその後、中書郎にまで昇進した。

和嶠に対する『晋書』の史臣の評価は高く、司馬炎の不興を買いながらも進言を続けたことを評価している。
巻末の賛でも、国家の重任を担うにふさわしい人物だったと称えている。

和嶠は衛瓘のように後継者交代を求めたわけではない。
彼が危惧していたのは、司馬衷の資質だけでなく、「今の世には偽りが多い」と語ったように、皇帝の顔色をうかがっておべっかを使う連中が司馬衷を取り囲んでいることだった。
司馬炎がその危うさに気づき、息子を支える人間たちを見極めて対処していれば、晋の行く末も違っていただろう。
後に司馬衷の前で述べた「私の言葉が現実にならなかったのであれば、それは国家にとって幸いなことです」という言葉には、偽りの多い世の中で、最後まで自分の言葉を偽らなかった和嶠の本心が表れている。

参考文献

和嶠のFAQ

和嶠の字(あざな)は?

字は長輿(ちょうよ)です。

和嶠はどんな人物?

潁川太守として善政を敷き、中書令や侍中などを歴任しました。
皇太子司馬衷の能力を疑い、司馬炎に繰り返し進言したことでも知られています。

和嶠の最後はどうなった?

元康二年(292年)に亡くなりました。
死後は金紫光禄大夫を追贈され、「簡」の諡号を贈られました。

和嶠は誰に仕えた?

西晋の武帝・司馬炎に仕え、中書令や侍中などの重職を務めました。
司馬炎の死後は恵帝・司馬衷の時代にも仕え、太子少傅に任じられています。

和嶠にまつわるエピソードは?

和嶠は中書監の荀勗を嫌い、それまで同じ車で参内していた中書監と中書令が、別々の車に乗るようになった「和嶠専車」の逸話があります。

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