劉伶:竹林の七賢の酒豪が『酒徳頌』に描いた生き方【すぐわかる要約付き】

劉伶
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1分でわかる忙しい人のための劉伶の紹介

劉伶(りゅうれい)、字は伯倫(はくりん)、出身は沛国、生没年(約221年~300年頃)

魏から西晋にかけて生きた人物で、阮籍や嵇康らとともに「竹林の七賢」の一人に数えられる。

口数が少なく、むやみに人と交わらず、財産や世間の礼法にもこだわらなかった。

何より酒を好み、酒壺を積んだ車に乗って出かけ、従者には死んだらその場で埋めるよう命じた。
妻が飲酒をやめるよう泣いて頼んでも、鬼神への誓いを口実に酒を用意させ、かえって飲み続けた。
家の中で裸になり、他人から非難されると天地を自分の住まいにたとえて言い返すなど、自由奔放な逸話が残る。

著作『酒徳頌』では、酒を楽しみながら世俗の礼法や名誉にとらわれない生き方を描いた。
建威参軍を務め、西晋の泰始年間初期には朝廷で無為による政治を説いたが、役に立たないという理由で退けられた。
官職や名声に執着せず、酒とともに生きた劉伶は、処刑されることなく生涯を終えた。

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劉伶(りゅうれい)の生涯を徹底解説!酒にまつわる逸話と、無為の政治を説いて「役に立たない」と退けられた結末

劉伶の出自と竹林の七賢との交友

劉伶は沛国の出身で、字を伯倫という。
身長は六尺で、容貌はあまり立派ではなかったが、自由奔放な性格で、広大な宇宙さえ小さなものと見なし、万物を等しく捉える考えを持っていた。

普段は物静かで口数が少なく、むやみに人と付き合うこともなかった。
しかし、阮籍や嵇康と出会うとすぐに意気投合し、手を取り合って竹林へ入った。
劉伶は阮籍や嵇康、山濤、向秀、阮咸、王戎とともに、後世に「竹林の七賢」と呼ばれる人々の一人に数えられる。

財産が多いか少ないかなど気にせず、金銭にも執着しなかった。
酒を好み、世俗の礼法や名声にとらわれず、自由に生きることを重んじていた。

逸話1:鹿車と「死んだら埋めろ」の一言

劉伶は外出するとき、鹿車に乗って一壺の酒を持ち歩いていた。
劉伶は従者に鍤(シャベルのような農具)を担がせ、「私が死んだら、その場で埋めてくれ」と命じていた。

従者にしてみれば、主人の死体のために、シャベルを担いで歩かされるのだから、たまったものではない。

しかし、『晋書』はこの逸話を劉伶が自分の身体さえ気にかけなかったことの表れとして記している。

逸話2:妻の禁酒の願いと鬼神への誓い

あるとき、劉伶が妻に酒を求めると、妻は酒を捨て、酒器まで叩き壊してしまった。
そして涙を流しながら「あなたは酒を飲みすぎです。体によくありませんから、どうか酒をやめてください」と訴えた。

すると劉伶は「分かった。しかし、私の意志では酒をやめられない。鬼神に誓いを立てるから、酒と肉を用意してくれ」と答えた。
妻はようやく禁酒する気になってくれたと喜び、言われたとおりに酒と肉を用意した。

ところが劉伶は、鬼神に向かってひざまずくと「天は劉伶を酒飲みとして生んだ。一度に一斛を飲み、五斗の酒で酔いをさます。妻や子どもの言うことなど、決して聞いてはならない」と祈り始めたのである。

そして、妻が用意してくれた酒と肉を平らげると、そのまま酔いつぶれてしまう。
劉伶は重度のアルコール依存症だったことがよくわかるエピソードである。

逸話3:殴りかかる男を笑わせた機転と裸の生活

あるとき、酒に酔った劉伶は男と言い争いになった。
男は激怒して袖をまくり、拳を振り上げて殴りかかろうとしたが、劉伶は「私のような鶏のあばら骨みたいな体を、立派な拳で殴ることもないでしょう」と言い出した。
すると男は思わず笑い出し、殴るのをやめてしまった。

また、『世説新語』には、劉伶が家の中で裸になって過ごしていたという逸話がある。
これを見た人が非難すると、劉伶は「私は天地を建物とし、この家を自分のふんどしとしている。それなのに、あなたたちはどうして私のふんどしの中に入ってくるのか」という屁理屈で言い返した。

家がふんどしなら、結局、全裸でいることには間違いがないので、やっぱり非難するべきことである。

『酒徳頌』に描いた酒と礼法にとらわれない生き方

劉伶は普段、文章を書くことにはろくに興味を示さなかったが、『酒徳頌』という作品を残している。
大人先生という人物を使い、酒飲みの言い訳を壮大な思想にまで発展させ、文学にしてしまった。
以下、その内容を紹介する。

大人先生は、天地の長い年月を一日のように、果てしない時の流れも一瞬のように捉えていた。
日月を戸や窓、広大な世界を庭や道とし、決まった道を歩くことも住まいを持つこともなく、天を幕とし、地を敷物として思うままに暮らしていた。
立ち止まれば杯を手に取り、移動するときには酒壺を携え、酒を飲むこと以外には関心を向けなかった。

そんな大人先生の評判を聞き、身分の高い公子と礼法を重んじる人物が、その生き方を非難した。
二人は袖をまくり、襟元をつかんで目を怒らせ、歯を食いしばりながら、礼法を持ち出して盛んに非難した。

しかし、大人先生は気にすることもなく、甕を抱えて酒を受け、杯を口に運んでいた。
ひげを振り乱して足を投げ出し、酒麹を枕に、酒粕を敷物にして、何も思い悩まず酒を楽しんでいた。

酔っても目覚めても、雷鳴が響いても聞こえず、泰山が目の前にあっても見えないほど、周囲のことを気にかけなかった。
暑さや寒さを感じることもなく、利益や欲望に心を動かされることもなかった。

大人先生が世の中を見渡すと、人々は川や海に浮かぶ浮草のように見えた。
そばにいる二人の男も、蜾蠃と螟蛉という小さな虫のような存在にすぎなかった。

無為の政治を説いた劉伶の最期

劉伶はかつて、建威将軍の軍務を補佐する建威参軍を務めていた。

西晋の武帝・司馬炎の泰始年間初期(265年以降)、朝廷では人材を登用するための策問が行われた。
劉伶もこれに応じ、君主が政治に余計な干渉をせず、自然の成り行きに任せる無為の政治を説いた。

ところが、ほかの人々が高く評価されて官職に取り立てられる中、劉伶だけは役に立たない人物として、官職をクビになってしまった。

その後の詳しい経歴は分かっていないが、劉伶は天寿を全うした。
没年を300年頃とする資料もあるものの、『晋書』劉伶伝には具体的な年は記されていない。

劉伶に対する史臣の評価と酒を愛した生き方

『晋書』の史臣は、嵇康と阮籍の竹林での交流に触れるとともに、劉伶と畢卓を酒を愛した人物として挙げている。
老子や荘子の思想を重んじ、世俗の名声や官位にとらわれない人々の生き方を取り上げた。

史臣は、かつて堯が許由の隠棲を認め、後漢の光武帝も厳子陵に仕官を強いなかった例を挙げ、君主が本人の志を尊重することには意味があると述べた。
一方で、嵇康や阮籍らのような生き方を世間に広めれば風俗を損ない、官職に就けても俸禄を受け取るだけで職務を果たさないとして、厳しい批判も加えている。

それでも、世間の規範から外れた行動の中には見るべきものがあり、それぞれが自分の志を貫き、友人との交わりを大切にしたことは認めている。

また、『晋書』の賛では、老子の思想と孔子の教えにはそれぞれ異なる価値があり、人の志や生き方も一様ではないという考えが示されている。
酒を楽しみ、世俗の名声や礼法にとらわれずに生きる姿にも触れながら、こうした生き方と王朝の政治との関係を問いかけている。

さて、劉伶は酒を飲むためだけに、死後の埋葬から妻への言い訳まで、さらに普段書かない文学にまで手を出して、さまざまなことを考えていた。
官職や名声には執着せず、酒を飲むことには知恵を絞り、竹林の七賢らしい自由な思想を貫いたのである。

ところで、妻はあれからどうしたのだろうか。酒を捨て、酒器を壊し、涙ながらに禁酒を訴えた挙げ句、夫に酒と肉を用意させられたのである。
劉伶は天寿を全うしたというが、最後まで付き合わされた妻の苦労を思うと、何とも気の毒でならない。

参考文献

劉伶のFAQ

劉伶の字(あざな)は?

字は伯倫(はくりん)です。

劉伶はどんな人物?

魏から西晋にかけて生きた人物で、竹林の七賢の一人です。
酒を非常に好み、世俗の礼法や財産にこだわらない自由奔放な生き方で知られています。
代表作『酒徳頌』では、酒を楽しみながら名声や利益にとらわれない人物を描いています。

劉伶の最後はどうなった?

建威参軍を務めましたが、泰始年間初期に無為による政治を説いた際には、役に立たないという理由で退けられました。
『晋書』には天寿を全うしたと記されています。
没年は300年頃とする資料がありますが、『晋書』には具体的な年の記載はありません。

劉伶は誰に仕えた?

西晋の武帝・司馬炎の時代に仕えています。

劉伶にまつわるエピソードは?

妻が禁酒を勧めると、鬼神への誓いを口実に酒を用意させ、かえって飲み続けました。

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