阮籍:白眼視の故事を生んだ竹林の七賢の奇才【すぐわかる要約付き】

阮籍
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1分でわかる忙しい人のための阮籍の紹介

阮籍(げんせき)、字は嗣宗(しそう)、出身は陳留郡尉氏県、生没年(210年~263年)

魏の詩人・思想家・官僚で、竹林の七賢の一人である。
嵇康と並んで「嵇阮」と呼ばれ、詩や琴に優れ、酒を好んだ。

若い頃は天子を補佐し、世を救って民を安んじたいという志を持っていた。
しかし、政変が相次ぎ、名士たちが命を落とす時代にあって、政治への深入りを避け、酒を飲んで過ごすことが多くなった。
司馬昭が息子の縁談を持ちかけようとすると六十日間も酔い続け、鍾会から時事問題について尋ねられても、酔っていることで追及を免れた。

世俗の礼法にこだわらず、気に入らない相手には白眼を向けた一方、母の死には血を吐くほど悲しんだ。
司馬氏のもとで官職を歴任しながらも、老荘思想に傾倒し、『詠懐詩』には胸に抱えた憂いを詠んだ。
嵇康が司馬昭によって処刑されたのに対し、阮籍は処刑を免れ、景元四年(263年)に五十四歳で生涯を終えた。

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阮籍の生涯を徹底解説!司馬氏への仕官と六十日間の泥酔、『詠懐詩』に込めた憂いと天寿を全うした生き方

阮籍の出自と人柄

阮籍は陳留郡尉氏県の出身で、父の阮瑀は曹操の丞相掾を務め、多くの章表を作成した文人であり、建安の七子の一人としても知られている。

幼い頃に父を亡くした阮籍は、貧しい暮らしの中で学問に励み、少年時代から詩書に通じていた。
容姿に優れ、大きな志を抱いていた一方、性格は自由奔放で、喜怒の感情を顔に表すことはほとんどなかったという。

読書を好み、数か月も家に閉じこもって書物を読み続けることもあれば、山や川へ出かけて何日も帰らないこともあった。
また、酒を好み、長く声を響かせる嘯や琴の演奏にも優れていた。
興が乗れば身なりや振る舞いなど気にせず、思うままに過ごす人物だった。

そんな阮籍を、当時の人々は変わり者だと思っていたらしい。
ところが、一族の兄にあたる阮文業はその才能を高く評価し、自分より優れた人物だとたびたび称賛している。
こうした阮文業の評価もあって、周囲の人々は次第に阮籍を並外れた人物として認めるようになった。

儒学から老荘思想への傾倒

阮籍は若い頃、儒家の教えを重んじ、顔回や閔子騫のような人物を理想としていた。
『詠懐詩』第十五首では、十四、五歳の頃から詩書を好み、粗末な衣服を着ながらも、胸に宝玉を抱くような高い志を持っていたと振り返っている。
また、第三十八首には、荘子の考えに批判的な言葉も見られる。

阮籍には本来、天子を補佐して世を救い、民を安んじたいという大きな志があった。
しかし、魏の末期には政変が相次ぎ、名士たちが命を落とすことも珍しくない。
こうした情勢の中で政治に深く関わることを避けるようになり、酒を飲んで過ごす日々が増えていった。

やがて阮籍は老子や荘子の思想に傾倒し、世俗の名声や官位にとらわれない生き方を重んじるようになる。
その思想は、無為の尊さを説いた『達荘論』や、礼法に固執する人々を批判した『大人先生伝』にも表れており、これらの著作は当時の玄学にも影響を与えている。

また、阮籍は嵇康や山濤らと親しく付き合い、向秀、劉伶、甥の阮咸、王戎を含む七人で酒を飲み、議論を交わしていた。
この七人が、後世に竹林の七賢と呼ばれる人々である。
中でも阮籍と嵇康は文学や思想の分野で名高く、二人を合わせて嵇阮と呼ぶこともあった。

なお、甥の阮咸は字を仲容といい、音律に詳しく、琵琶の演奏にも優れていた。

王昶との対面と蔣済の招聘

あるとき、阮籍は叔父に従って東郡を訪れた。
兗州刺史の王昶が会いたいと申し出たため面会したが、阮籍は一日中ひと言も話さなかった。
王昶としても、これでは人物を見極めようがない。
結局、阮籍が優れた人物なのか、ただの変わり者なのかも分からないまま、面会は終わってしまった。

正始三年(242年)頃、今度は太尉の蔣済が阮籍の才能を聞きつけ、自分の幕府に招聘しようとした。
仕官する気がない阮籍は、都亭から手紙を送り、丁重に辞退した。
「太尉閣下の徳は高く、その名声は天下に知れ渡り、多くの英才が幕府に仕えることを望んでおります。かつて魏の文侯は子夏を礼遇し、燕の昭王は鄒衍を厚く遇しました。
身分が低くとも、道を備えた賢者であれば、王侯から尊重されるものです。
しかし、私には子夏や鄒衍のような学識も徳もなく、閣下の招聘に応えるだけの能力もございません。
今後は東の丘で畑を耕し、収穫から税を納め、薪を背負って暮らしたいと考えております。
おまけに体も弱く、役人の仕事には耐えられませんので、どうか今回の招聘はお取り消しくださいますようお願い申し上げます。」

褒めちぎった挙げ句、結局は仕官する気などさらさらないのである。

蔣済は当初、阮籍が招聘に応じないのではないかと心配していたが、手紙を受け取ると喜んだ。
阮籍は本気で断ったのに、蔣済は辞退の言葉を謙遜だと受け取ったらしく、兵卒を迎えに向かわせた。
しかし、兵卒が向かった先に阮籍の姿はなく、すでに立ち去ったあとだった。
これを知った蔣済は激怒した。

結局、郷里の人々が阮籍を説得し、ようやく蔣済のもとへ出仕させることに成功した。
ところが、阮籍はしばらくすると病気を理由に辞職してしまう。

その後、尚書郎に任命されたものの、こちらも短期間で病気を理由に辞職した。
蔣済の招聘を断るために長々と手紙を書いた男は、いざ役人になっても、やはり長居するつもりはなかったらしい。

曹爽の招聘拒否と司馬氏への仕官

曹爽が政権を補佐していた頃、阮籍は参軍として招聘されたものの、病気を理由に辞退し、郷里へ戻って暮らしていた。
それから一年余りが過ぎた正始十年(249年)、曹爽は政変によって誅殺される。
結果的に曹爽のもとへ仕官せずに済んだ阮籍を、人々は先見の明がある人物として称賛した。

その後、司馬懿に仕え、従事中郎に任命される。
司馬懿の死後も司馬氏への仕官を続け、司馬師の大司馬府で同じく従事中郎を務めた。

さらに正元元年(254年)、高貴郷公の曹髦が皇帝に即位すると、関内侯に封じられ、散騎常侍に任命された。

また、阮籍は王沈や荀顗とともに、魏の歴史を記した『魏書』の編纂にも参加した。
この『魏書』について、当時の権力者に都合の悪い事実を避けた記述が多く、後の陳寿による『三国志』ほど事実に忠実ではなかったと評している。

六十日間の泥酔と鍾会の追及

司馬昭は息子の司馬炎と阮籍の娘を結婚させようと考えた。
ところが、いざ縁談を持ちかけようとしても、肝心の阮籍は酒を飲んで酔っ払っている。

それなら酔いが醒めるまで待とうとしたのだが、阮籍はいつも酒を飲んでおり、翌日も酔っ払っている。その翌日も酔っ払っている。もちろん毎日酔っ払っている。
結局、阮籍は六十日以上も酔い続け、司馬昭は最後まで縁談を切り出せず、縁談は実現しなかった。

一方、鍾会は阮籍を罪に陥れようと、政治に関する質問を何度も仕掛けていた。
うっかり危険な発言でもすれば、そこを突いて処罰するつもりだったのである。
しかし、いつも通りに阮籍は酔っ払っていた。
鍾会がどれほど頭をひねって質問しても、相手はまともに答えず、結局は失言を引き出せなかった。

政治家にとって酒は失言の原因になりがちだが、阮籍にとっては失言を防ぐための必需品だった。

阮籍は、司馬昭の前でも遠慮というものを知らない。
周囲が厳粛に座っている中、一人だけ足を投げ出し、嘯いたり歌ったりしていた。

当然、礼法を重んじる人々からは目の敵にされたが、司馬昭はたびたび阮籍をかばっている。

東平相への赴任と司馬昭との問答

司馬昭が政権を握っていた頃、阮籍は以前訪れた東平の風土が気に入っていると話した。
これを聞いた司馬昭は大喜び。さっそく阮籍を東平相に任命した。

こうして阮籍はロバに乗って東平へ赴任した。 着任早々、役所の仕切りや目隠しを撤去し、建物の内外を見通せるようにしてしまった。
さらに法令を簡素に整えると、東平が気に入っていると言っていたくせに、わずか十日ほどで帰ってきた。
その後、司馬昭は阮籍を大将軍府の従事中郎に任命している。

さて、あるとき息子が母親を殺したという報告があった。これを聞いた阮籍は「父親を殺すならまだしも、母親を殺すとは何事だ!」と言い出した。
さあ、これには司馬昭も驚いた。「父親を殺すことは天下で最も重い悪事なのに、それならよいというのか?」と問いただすと、阮籍は「獣でさえ母親は知っていますが、父親は知りません。父親を殺す者は獣と同じですが、母親を殺す者は獣にも劣ります」と答えた。

周囲の人々もその説明に納得し、感服したという。

歩兵校尉と司馬昭への勧進文

あるとき阮籍は、歩兵の営内に酒造りの名人がおり、三百斛もの酒が蓄えられているという情報を耳にした。
すると、これまで官職にろくな興味を示さなかった男が、突然、歩兵校尉になりたいと言い出した。
こうして歩兵校尉となった阮籍は、阮歩兵とも呼ばれるようになった。

歩兵校尉となっても、阮籍は世間のしがらみなど気にせず、相変わらず好き勝手に暮らしていた。
大将軍府の従事中郎を辞めた後も、府には平然と出入りし、朝廷の宴席にも必ず参加している。

景元四年(263年)十月、皇帝の曹奐は司馬昭を晋公に封じ、九錫を授ける命令を改めて出した。
しかし、司馬昭が辞退したため、司空の鄭沖が群臣を率いて受諾を勧めることになった。
そこで公卿たちは、勧進文の作成を阮籍に任せようとした。普段は酔っ払ってばかりいるが、文章の才能だけは誰もが認めていたのである。

ところが、肝心の阮籍は酒に酔い、頼まれた仕事をすっかり忘れていた。
使者が文章を受け取りに行くと、机に突っ伏して寝ている始末だった。
しかし、用件を聞くとその場で筆を執り、勧進文を書き上げて使者に書き写させた。
しかも、その文章は一字も修正する必要がなく、力強く美しい名文として高く評価されたという。

阮籍の最期と息子の阮渾

阮籍は景元四年(263年)の冬、五十四歳で亡くなった。
竹林の七賢として親交のあった嵇康は、鍾会の進言によって司馬昭に処刑されたが、阮籍は司馬氏のもとで官職を務めながら、その生涯を終えている。

息子の阮渾は字を長成といい、父に似た自由奔放な気質の持ち主だった。
若い頃から世俗の細かな礼法にとらわれず、阮籍や阮咸のような生き方に憧れていたという。

しかし、阮籍は息子に「仲容(阮咸の字)はすでに私たちの仲間に加わっている。お前まで同じようになってはいけない」と戒めている。
阮渾は西晋の太康年間(280~289年)に太子庶子となった。

母の葬儀と礼法を超えた悲しみ

『魏氏春秋』には、阮籍は非常に親孝行で、服喪中の行動は通常の礼法に従わなかったものの、悲しみのあまり命を落としかけたと記されている。

母が亡くなったとき、阮籍は人と碁を打っていた。
相手は対局を中断しようとしたが、阮籍は最後まで勝負を続けた。
そして酒を二斗飲むと、大声で泣き叫び、数升もの血を吐いた。

母を埋葬するときも、阮籍は蒸した豚肉を食べ、酒を二斗飲んでから母に最後の別れを告げた。
その際、「もう終わりだ」と叫んで激しく泣き、再び数升もの血を吐いた。
悲しみのあまり骨と皮ばかりにやせ衰え、命を落としかけるほどだった。

それでも阮籍は、喪に服している間も酒や肉を口にしていた。
あるとき、司馬昭の前で酒を飲み、肉を食べていると、同席していた司隷校尉の何曾がその行動を非難した。

何曾は司馬昭に「あなたは孝をもって天下を治めようとしているのに、阮籍は母の喪に服していながら、公の席で酒を飲み、肉を食べています。風俗を正すためにも、辺境へ追放すべきです」と訴えた。

しかし司馬昭は「嗣宗はこれほど衰弱しているのに、なぜ一緒に心配してやらないのか。病気の者が酒や肉を口にすることは、喪礼でも認められている」と答え、阮籍をかばった。
当の阮籍は何曾の非難を気にする様子もなく、酒を飲み、肉を食べ続けていた。

また、裴楷が母の弔問に訪れたとき、阮籍は髪を乱し、足を投げ出して座ったまま、酔った目で裴楷を見つめていた。
裴楷は阮籍の態度に構わず、弔問の礼を済ませて帰った。

ある人が裴楷に「弔問では、主人が泣いてから客が礼を行うものです。阮籍が泣かなかったのに、なぜ礼を行ったのですか」と尋ねた。
裴楷は「阮籍は世俗の外にいる人物なので、礼法を重んじません。しかし、私は世俗の中に生きる人間なので、その作法に従ったのです」と答えた。
人々は、阮籍と裴楷のどちらも自分の立場にふさわしい振る舞いをしたと感心した。

故事『白眼視』の由来と嵇康との友情

阮籍には、気に入らない相手を白眼で見るという、実に分かりやすい癖があった。
礼法を重んじる堅苦しい人物には白目を向け、気に入った相手には黒目を正面に向ける青眼で接するのである。
人を冷たい目で見たり、軽蔑したりすることを意味する白眼視という言葉は、この阮籍の態度に由来している。

あるとき、母親の弔問に嵇喜が訪れた。ところが阮籍は、せっかく弔問に来てくれた相手に白眼を向けたのである。
嵇喜もさすがに腹を立て、そのまま帰ってしまった。

この話を聞いた弟の嵇康は、琴と酒を持って阮籍を訪ねた。すると今度は阮籍が大喜びし、青眼で迎えたという。

女性との交際と礼法への反発

阮籍は女性との付き合いでも、世間の礼法にこだわらなかった。
兄嫁が実家へ帰る際には直接会って別れを告げたが、当時の礼法に反すると非難された。
すると阮籍は「礼は私たちのような者のために設けられたものなのか」と言い返した。

近所には、美しい女性が酒を売る店があった。
阮籍はその店を訪れて酒を飲み、酔うと女性のそばで眠ってしまうことがあった。
しかし、阮籍に下心はなく、女性の夫もその様子を見て疑うことはなかった。

また、ある兵士の家の娘が、才能と美貌を備えながら結婚前に亡くなったことがあった。
阮籍はその家族と面識がなかったにもかかわらず、弔問に訪れ、思う存分泣いてから帰った。

阮籍は表向きこそ何事にもとらわれない自由奔放な人物だったが、内面には純粋で深い情を持っていた。

行き止まりの号泣と広武の嘆き

阮籍はときどき一人で車に乗り、行き先も決めず、気の向くままに出かけた。
道が行き止まりになって先へ進めなくなると、激しく泣いて引き返した。

あるとき、阮籍は広武を訪れ、かつて劉邦と項羽が戦った場所を見て、「優れた人材がいなかったから、あんな連中が名を上げられたのだ」と言った。

この言葉について、後世の楊慎は別の解釈を示している。
楊慎は、阮籍が劉邦や項羽を批判したのではなく、自分が生きた時代には二人のような優れた人物がいないことを嘆き、当時の人々を批判したのだと考えた。

また、阮籍は武牢山に登って都を眺め、ため息をついた。
このときの思いを『豪傑詩』に詠んだ。

蘇門山の孫登と『大人先生伝』

阮籍は蘇門山で、隠者の孫登(呉の孫権の息子とは別人)に出会った。
古代からの出来事や、精神を養って気を導く方法について語り合おうとしたが、孫登は何も答えなかった。

阮籍は長く嘯いてから、その場を立ち去った。
ところが山の中腹まで下りたとき、鳳凰が鳴くような美しい音が岩山や谷に響き渡った。
それは孫登が嘯く声だった。

その後、阮籍は『大人先生伝』を著した。
この作品では、世間で君子と呼ばれる人々が法律や礼法を守り、自分の振る舞いを規則に合わせようとする姿を批判している。

阮籍は、礼法にこだわる君子を、ふんどしの中に住むシラミにたとえた。
シラミが縫い目の奥を安全な住まいと思い込み、そこから出ようとせず、火に焼かれれば逃げられないように、君子も礼法の枠に閉じこもっていると批判した。

また、『達荘論』では無為の尊さを論じた。

『詠懐詩』に込められた憂い

阮籍は文章を作る際、長く考え込むことなく筆を進めることができた。
代表作の『詠懐詩』は八十余首からなり、当時から高く評価されていた。
晩年に、それまでに作った五言詩をまとめて『詠懐』と名づけた可能性も指摘されている。

第一首は「夜中不能寐、起坐弾鳴琴」という一節から始まる。
夜になっても眠れず、起き上がって琴を弾くという意味だ。
詩には、薄い帳を照らす明るい月や、衣の襟を揺らす清らかな風、野原で鳴く孤独な雁、北の林から聞こえる鳥の声が描かれている。

そして最後には、あてもなく歩き回って何が見えるというのかと問いかけ、胸に抱えた憂いに一人心を痛める。
眠れない夜の情景を通じて孤独や悲しみを表したこの詩は、『詠懐詩』全体の序詩にあたるとも考えられている。

第二首は「二妃遊江濱」という一節で始まり、二人の仙女と鄭交甫の出会いを題材としている。
『列仙伝』には、鄭交甫が川辺で出会った仙女たちから佩玉を受け取ったものの、しばらく歩いてから確かめると玉は消え、仙女たちも姿を消していたという話がある。

この故事に加え、阮籍は漢の武帝に寵愛された李夫人の美しさや、『登徒子好色賦』に描かれた女性の美貌、『詩経』に見られる恋人への思いなどを詩に取り入れた。
前半では美しい女性との出会いや忘れられない愛情が描かれるが、後半になると、願いがかなわず、親しかった相手と離れ離れになる悲しみへと変わっていく。

結びの「如何金石交、一旦更離傷」には、金石のように固いはずの結びつきさえ、ある日突然失われてしまうことへの嘆きが表れている。

馮沅君と陸侃如は、『詠懐詩』に表れた憂いを、世の中のあらゆるものが変わり続ける無常への思いと解釈した。
友情だけでなく、生命や富貴、名誉も永遠には続かないという悲しみであり、第二首ではそれが愛情や親しい交わりの喪失を通じて描かれていると考えた。

古琴曲『酒狂』と阮籍の音楽

阮籍は詩や文章だけでなく、音楽にも優れ、琴の演奏や長く声を響かせる嘯を得意としていた。
古琴曲『酒狂』については、『神奇秘譜』の題解に阮籍が作曲したと記されている。

題解では、阮籍は志を実現できず、時代にも合わなかったため、世俗の悩みを忘れようと酒に思いを託したと説明している。
また、阮籍が酒に酔う姿にも道理があり、その真意は物事を深く理解する者でなければ分からないという。

現在広く演奏されている『酒狂』は、1957年に姚丙炎が『神奇秘譜』をもとに打譜した版である。

阮籍に対する後世の評価

『晋書』の史臣は、世俗の名声や利益を軽んじた嵇康や阮籍の生き方を取り上げている。
かつて堯は許由の隠棲を認め、後漢の光武帝も厳子陵に仕官を強いなかった。
このように、君主が隠棲を望む賢者の志を尊重すれば、本人は望む生き方を守ることができ、君主も名声を得られる。

しかし、嵇康たちのような生き方を世間に広めれば風俗を損ない、官職に就けても俸禄を受け取るだけで職務を果たさないと、史臣は厳しく批判している。
それでも、世間の規範から外れた行動の中には見るべきものがあり、自分の志を貫き、友情を大切にしたことも認めている。

『晋書』の賛では、老子の思想と孔子の教えにはそれぞれ異なる価値があり、人の志や生き方も一様ではない。
嵇康や阮籍は世俗の礼法に縛られず、名声を求めることよりも、自分の本性に従って生きることを重んじた。
酒を楽しみ、自由な心で生きる彼らの姿を秋の水や春の雲に重ね、こうした生き方と王朝の政治との関係を問いかけている。

南朝梁の劉勰は『文心雕龍』で、正始年間の文学について論じ、何晏らの文章には浅薄なものが多いと評した。
一方、嵇康の志は清く厳しく、阮籍の思想は深遠であり、二人は際立った存在だと評価している。
「嵇志清峻、阮旨遙深」という言葉は、二人の文章の特徴を表す評価として知られる。

同じく南朝梁の鍾嶸は『詩品』で、阮籍の詩を最高位の「上品」に位置づけた。
『詠懐詩』には人の精神を養い、心の奥深い思いを引き出す力があり、身近な光景を描きながらも、その思いははるか遠くへ広がっていると評価している。
また、感慨に満ちた作品でありながら意味は深く、作者の真意を容易には捉えられないとも評した。

一方、南宋の葉夢得は、嵇康の気節を高く評価しながら、阮籍には容赦のない批判を向けた。
阮籍が司馬氏のもとで官職に就き、司馬昭から特別な保護を受け、さらに公卿に代わって勧進文を書いたことを、司馬氏への迎合と捉えたのである。

葉夢得は、阮籍を嵇康と比べれば杖で打ち殺されても当然だとまで非難している。
さらに、司馬昭に付き従う阮籍を衣服の中のシラミにたとえ、たまたま火に焼かれずに済んだだけだと批判した。王凌や毌丘倹らが成功していれば、阮籍も生き残れなかっただろうと考えたのである。

嵇康は権力に屈せず命を落としたが、阮籍は司馬氏に仕え、官職に就きながらも出世や政治には執着しなかった。
乱世において、権力と正面から争うことだけが思想を守る道ではない。
阮籍は酒を飲むために現実と折り合いをつけながら、思想家としての生き方を全うした人物だった。

参考文献

阮籍のFAQ

阮籍の字(あざな)は?

字は嗣宗(しそう)です。

阮籍はどんな人物?

魏の詩人・思想家・官僚で、竹林の七賢の一人です。
酒や琴を好み、礼法にとらわれない行動で知られていますが、本来は天子を補佐し、世を救いたいという志を持っていました。
政治への不満や苦悩を込めた『詠懐詩』でも高く評価されています。

阮籍の最後はどうなった?

景元四年(263年)の冬、五十四歳で亡くなりました。
同じ年に嵇康が処刑されたのに対し、政変が続く時代を生き延び、天寿を全うしています。

阮籍は誰に仕えた?

魏に仕え、司馬懿、司馬師、司馬昭のもとで従事中郎などを務めました。
また、散騎常侍や東平相、歩兵校尉にも任命されています。
歩兵校尉の官職から「阮歩兵」と呼ばれました。

阮籍にまつわるエピソードは?

司馬昭からの縁談を避けるため、六十日間も酔い続けた話が知られています。
また、気に入らない相手には白眼を向け、琴と酒を持って訪ねた嵇康には青眼を向けました。
一人で車を走らせ、道が行き止まりになると激しく泣いて帰ったという逸話も残っています。

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