嵇康:竹林の七賢の才人、『広陵散』を奏でて散った天才の生涯【すぐわかる要約付き】

嵇康
嵇康

1分でわかる忙しい人のための嵇康の紹介

嵇康(けいこう)、字は叔夜(しゅくや)、出身は譙国銍県、生没年(223年?~263年)
魏の文学家・思想家・音楽家で、竹林の七賢の一人である。
身長七尺八寸の美しい容姿と優れた才能を持ちながら、名声や出世には関心を示さず、琴を弾き、鍛冶を楽しみ、老子や荘子の思想に親しんだ。

司馬昭からの招聘を避け、親友の山濤から仕官を勧められると、当時の道徳観を批判する内容も含んだ絶交書を送って拒絶した。
訪ねてきた鍾会を鍛冶の手を止めずに迎えるなど、相手の地位に合わせて態度を変えることもなかった。
やがて友人の呂安が兄に陥れられると、その無実を証明しようとして自らも投獄され、鍾会の讒言によって処刑が決まった。

景元四年(263年)、四十歳で迎えた最期の日、嵇康は刑場で琴を弾き、『広陵散』を演奏した。
そして「『広陵散』は今ここに絶えた」と言い残し、処刑された。

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嵇康の生涯を徹底解説!竹林の七賢の交友、山濤への絶交書、呂安事件と『広陵散』を奏でた最期

嵇康の出自と、父を早くに亡くした少年時代

嵇康は譙国銍県の出身で、字を叔夜という。
先祖はもともと奚という姓で、会稽郡上虞県に住んでいたが、人から恨みを買って銍県へ移住した。
その際、近くに嵇山という山があったことから、姓まで嵇に変えてしまった。

兄の嵇喜は才能を認められ、太僕や宗正といった高官を歴任している。
一方、嵇康は幼い頃に父を亡くし、母と兄に育てられた。
ところが二人は嵇康をかわいがるあまり、ろくに厳しいしつけをせず、ほぼ野放しで育った。

嵇康は幼い頃から頭がよく、独学で書物を読みあさり、歴史や音楽、老子・荘子の思想など、幅広い知識を身につけていた。
しかし、何にも縛られずに育ったため、学校へ通うことも、師匠について儒学を学ぶこともなかった。

そんな彼に都合よく、家には財産があり、兄からの援助も受けていたため、生活に困ることはなかった。
学校にも行かず、親から勉強しろとも言われず、好きな本を読んで暮らせる。嵇康にとっては、実に恵まれた少年時代だった。

容姿と人柄、仕官と思想

嵇康は身長七尺八寸の長身で、顔立ちだけでなく、言葉遣いや立ち居振る舞いまで美しかった。
人々はその姿を龍章鳳姿と称えたが、本人は身なりを飾ることに興味がなく、せっかくの美貌を売り込む気もなかった。

性格は穏やかで欲が少なく、他人の欠点にも寛大だったという。
ただし、世間の決まりや礼法に従うのは嫌いで、学問に優れていながら、それを立身出世に役立てようとはしなかった。
他人にあれこれ指図されず、好きなことをして自由に生きるのが理想だったのである。

ところが成人すると、魏の皇族である長楽亭主を妻に迎え、郎中に任命され、のちに中散大夫へ昇進している。
このため後世には嵇中散とも呼ばれるが、いずれも仕事量が少ない官職で、嵇康が実際に官務を行った記録は残っていない。
少なくとも、世間のしがらみを嫌う嵇康が、その恩恵とは無縁ではなかったわけだ。

嵇康は君子のあり方についても、独自の考えを持っていた。
「君子と呼ばれる者は、心を是非の判断に縛られず、その行いが道に背かない人物である。
心が静かで精神が澄んでいれば、自分を誇ろうとはしない。物事をよく理解し、心が開かれていれば、欲望にとらわれることもない。名声を求める心がなければ、礼法の枠を越えて自然に従うことができる。
欲望にとらわれなければ、貴賤を正しく見極め、人々の実情を理解できるのだ。
君子は自分が賢いと意識して行動するのではなく、心に邪念がなければ自然に善い行いへ至る」と論じた。
世間から立派な人物だと思われるために振る舞うのではなく、自分の本性に従って生きればよいと説いている。

竹林の七賢としての交友と、山濤・阮籍との深い親交

嵇康は河内郡山陽県に住み、阮籍や山濤らと親しく付き合っていた。
そこへ向秀、劉伶、阮籍の甥である阮咸、王戎も加わり、七人で酒を飲んだり、議論を交わしたりしていたという。
これが後世に竹林の七賢と呼ばれる人々である。
中でも嵇康と阮籍は文学や思想の世界で名を知られ、二人まとめて嵇阮と呼ばれるほどだった。

王戎によれば、嵇康とは二十年も付き合っていたのに、一度も喜んだ顔も怒った顔も見たことがなかったという。
もしかすると、王戎が嵇康だと思って付き合っていた相手は、ただの人形だったのかもしれない。

さて、七人の中でも特に親しかったのが、嵇康、阮籍、山濤の三人だった。やはり王戎が入っていない。

『世説新語』には、山濤と嵇康、阮籍の交友をめぐる逸話がある。
山濤の妻の韓氏は、夫と嵇康、阮籍との親交が普通の付き合いとは違うことに気づき、そのことを夫に尋ねた。

山濤は「今の私が友人と呼べるのは、あの二人だけだ」と答えた。
すると韓氏は「私も二人を見てみたいのですが、よろしいでしょうか」と頼んだ。

山濤は二人が訪ねてきた日に酒と料理を用意して泊まらせ、韓氏は壁の穴から二人の様子を一晩中観察した。
翌朝、山濤が「二人はどうだった」と尋ねると、韓氏は答えた。
「あなたの才能は、あの二人には及びません。ただし、見識と度量があるので、友人として付き合うことはできるでしょう」

これを聞いた山濤も、別に腹を立てなかった。
「彼らも、私の度量が優れていることを認めている」と答えた。

後年、尚書令にまで出世した王戎が、公服を着て車に乗り、黄公酒壚という酒屋の前を通りかかったことがある。
そこは、かつて嵇康や阮籍と一緒に酒を飲んだ思い出の場所だった。

王戎は後ろの車に乗っていた者たちに、昔は嵇康や阮籍とここでよく酒を飲み、竹林での交遊にも加わっていたと語った。
しかし、二人が亡くなってからは世間の仕事に追われるようになり、気づけばすっかり年月が過ぎていた。
そして、目の前にある酒屋を眺めながら、当時のことが山河を隔てたように遠く感じられると嘆いた。

長寿の研究と、孫登・王烈との出会い

嵇康は長生きすることに熱心だった。
薬を飲み、心身を整え、どうすれば長く生きられるのかを真面目に研究していた。

もっとも、修行すれば誰でも仙人になれると考えていたわけではない。
神仙になれるかどうかは生まれつきの資質によるが、正しい養生を続ければ、安期生や彭祖のような長寿には近づけるという。
こうした考えをまとめたのが『養生論』である。

その一環なのか、嵇康は山へ入って薬草を採ることも好んだ。
気に入った景色に出会うと帰ることまで忘れてしまい、山中で見かけた樵夫から神仙ではないかと疑われたという。

そんな嵇康は汲郡の山中では孫登という人物に出会い、しばらく行動をともにした。
孫登はひたすら黙っていて、ろくに口を開かない。ところが嵇康が帰ろうとすると、ようやく話し始めた。
「あなたは才能があるが、気性が激しい。災難を免れられるだろうか」
散々黙っていた男が、別れ際に残したのは不吉な予言だった。

さらに王烈という人物と山中を歩いた際には、もっと奇妙な出来事があったという。
王烈が飴のような石髄を見つけ、半分を食べて残りを嵇康に渡そうとしたところ、なぜか普通の石に固まってしまった。
また、石室で白い絹に書かれた書物を発見し、嵇康を呼んで取らせようとすると、今度は書物そのものが消えてしまった。

王烈は「叔夜は並外れた志を持っているのに、いつも機会に恵まれない。これも運命なのだろう」と嘆いたという。

司馬昭の招聘を拒み、鍾会を冷遇

嵇康は官職こそ持っていたが、出世を望まず、隠居生活を続けようとしていた。
大将軍の司馬昭の誘いに対して、返事より先に河東郡まで逃げてしまった。

嵇康が熱心に取り組んでいたのが鍛冶だった。
自宅の大きな柳の木の周囲に水を引き、夏になるとその木陰で向秀と一緒に鉄を打っていた。鍛冶で生活費を稼いでいたともいうが、金のためではなかったという説もある。
少なくとも、本人が好んでやっていたことは間違いない。

ある日、そこへ潁川出身の鍾会が訪ねてきた。
鍾会は名門の出身で、学問にも弁舌にも自信のある男だった。ところが嵇康は、そんな客が来ても挨拶ひとつせず、向秀と鉄を打ち続けた。
鍾会は長いこと待ったが、嵇康が相手をする気配はない。とうとう諦めて帰ろうとしたところ、ようやく嵇康が口を開いた。

「何を聞いてここへ来て、何を見て帰るのか」
鍾会も負けずに「聞いたことを聞いて来て、見たことを見て帰る」と答え、そのまま立ち去った。
要するに、評判を聞いて訪ねてきたが、実際に会ってみて、お前がどんな奴かよく分かったということである。
鍾会はこの仕打ちを深く恨んだという。

もっとも、鍾会は最初から嵇康に堂々と接することができたわけでもない。
『世説新語』によれば、自信作の『四本論』を読んでもらおうとしたときには、嵇康に酷評されるのが怖くなり、面と向かって渡せなかった。
結局、門の外から書物を放り込み、そのまま逃げるように立ち去ったという。

山濤からの後任推薦、『与山巨源絶交書』

景元三年(262年)、尚書吏部郎を務めていた山濤が、自分の後任に嵇康を推薦しようとした。

嵇康は『与山巨源絶交書』という手紙を山濤に送り、推薦を断るとともに絶交を宣言した。
その内容を大雑把に説明すると、余計なお世話だから二度と俺に構うな、という話である。
以下は要約

俺は、朝から晩まで偉い奴に頭を下げて、面倒な書類を片づけて、くだらない決まりを守って生きるなんて真っ平御免。
湯王だろうが武王だろうが、気に入らないものは気に入らないし、周公や孔子がどれだけ偉かろうと知ったことではない。 そんな俺を役所に放り込んだら、三日と経たずに問題を起こすに決まっているだろう。
お前は長年俺と付き合ってきて、いったい何を見ていたんだ。

それに、お前が役人になるのを大喜びするのは勝手だが、俺まで喜ぶと思うな。
お前が腐った鼠を食うのが大好きだったとして、俺のところへ持ってきて、こんなにうまいものはないから食ってみろと勧められたらどう思う。迷惑に決まっているだろう。
俺が何を嫌がるかも分からない奴が、親友面して勝手に就職先を決めるんじゃない。友達だというなら、俺のことは放っておけ。

ということで、山濤としては、友人にいい仕事を紹介しようとしただけなのに、嵇康からここまで言いたい放題の手紙を送りつけられ、最後には絶交まで言い渡されたのである。

この手紙は世間に広まり、嵇康を無理に仕官させることはできないと知られるようになった。
そして司馬昭もこの手紙を読み、湯王や武王を批判していることに怒りを覚えた。

それにしても、親友に送ったはずの手紙が、なぜ世間に広まっているのだろうか。

呂安との友情

東平に呂安という男がいた。嵇康のことが大好きで、会いたくなれば遠くからでも馬車を飛ばしてやって来た。
嵇康も呂安を気に入っており、二人は親しく付き合っていた。

ある日、呂安がいつものように嵇康を訪ねると、あいにく本人は留守だった。
代わりに兄の嵇喜が出てきたが、呂安は家に入ろうともせず、門に「鳳」と一文字だけ書いて帰ってしまった。
実は「鳳」の字を分解すると「凡鳥」になり、呂安にからかわれていたのだが、それがわからない嵇喜は鳳凰に例えられたと思って大喜びした。不憫でならない。

ところが、そんな呂安の家で、とんでもない事件が起きた。
呂安には呂巽という兄がおり、この男が弟の美しい妻を酒で酔わせ、性的暴行を加えたのである。
当然、呂安は激怒し兄を告発しようと考え、親友の嵇康に相談した。

しかし、嵇康は呂安だけでなく呂巽とも親しく、むしろ兄の方と先に知り合っていた。
そこで嵇康は、こんな事件が世間に知れたら一族の恥になるから、どうにか内々で収めてくれと呂安を説得したのである。

呂巽も二度とこんなことはしないと固く誓ったため、呂安は嵇康の顔を立てて告発を取りやめた。

ところが呂巽という男、弟が後から気を変えて告発してくるのではないかと、不安に駆られてしまう。
そこで、自分が告発される前に、なんと弟の呂安を不孝の罪で密告してしまったのである。

一方の呂安は、兄が嵇康の前で立てた誓いを信じていたため、事件の真相を明かさなかった。
その結果、呂安の方が有罪となり、遠く離れた辺境の郡へ流されることになってしまった。

呂安は嵇康に手紙を書き、兄に裏切られたことを訴えた。
これを知った嵇康は、さすがに黙っていられなかった。『与呂長悌絶交書』を書いて呂巽との絶交を宣言すると、自ら呂安のために証言し、無実を晴らそうとしたのである。

しかし、その結果は散々だった。
呂安を助けるどころか、嵇康自身まで捕らえられ、二人そろって牢屋に入れられてしまうのだった。

獄中で書いた『幽憤詩』

投獄された嵇康は『幽憤詩』という詩を書いて、自分の人生を振り返っている。

幼いころに父親を亡くしたものの、母と兄には可愛がられ、うるさい先生にあれこれ指図されることもなく育った。
大人になってからも好きな本を読み、好きなように暮らし、老子や荘子の思想に親しみ、出世にも名声にも興味を示さなかった。
善い人間と付き合いたいと思いながら、人を見る目はあまりなく、誰が立派で誰がろくでもない奴なのか、思ったことを遠慮なく口にしてきた。
思い返せば、山中で出会った孫登にも警告されていた。

今回の呂安の一件で、兄弟の仲を取り持つつもりで呂巽を信じたら、まんまと裏切られ、友人を助けようと証言したら自分まで捕まった。
私の願いは山で薬草を採り、髪をほどいて岩場を歩き、誰にも邪魔されず心身を養いながら長生きする暮らしだったと記している。

また、息子の嵇紹には『家誡』を書き残し、これからの生き方について戒めを伝えている。
自分は好き放題やって牢屋に入っただけに、息子には同じ目に遭ってほしくなかったのだろう。

鍾会の讒言で処刑が決定

嵇康の投獄は、当時の人々の間に大きな反響を呼んだ。
名士や豪傑たちが釈放を求めて集まり、中には嵇康と一緒に牢屋へ入れてくれと言い出す者まで現れ、役所の人間が説得して帰らせるほどだった。
さらに三千人もの太学生が、嵇康を処刑せず、太学の教師として迎えてほしいと願い出たが、認められなかった。

しかし、これだけ人気があっても、鍾会という敵が嵇康に立ちはだかった。

鍾会は司馬昭のもとへ行くと、嵇康を生かしておくのは危険だと訴えた。
「嵇康は臥龍のような男です。あんな奴を世に出してはいけません。天下のことなど心配する必要はありませんが、嵇康だけは何とかしてください」
天下より嵇康一人の方が心配だというのだから、無視されたのがよほど気に食わなかったらしい。

さらに、嵇康がかつて毌丘倹に協力しようとした話まで持ち出した。
「嵇康はかつて毌丘倹を助けようとしましたが、幸い山濤が賛成しなかったため、実現しませんでした。
昔、斉では華士が処刑され、魯では少正卯が誅殺されました。
彼らが世を害し、教えを乱したため、聖賢はこれを排除したのです。
嵇康や呂安たちの言論は放縦で、古来の規範を否定しています。
帝王がこのような人物を許してはなりません。
この機会に二人を排除し、世の風俗を正すべきです。」と、ここぞとばかりに嵇康を危険人物に仕立て上げた。

司馬昭は鍾会を信頼しており、その進言を受け入れ、嵇康と呂安の処刑が決まった。
もっとも、司馬昭は後になってこの決定を悔やんだという。

洛陽東市での最期と、琴曲『広陵散』の絶響

景元四年(263年)、嵇康は洛陽の東市で処刑されることになった。刑場に引き出された嵇康は、空を見上げて日影を確かめると、最後に琴を弾かせてほしいと申し出た。
兄の嵇喜から琴を借りると、嵇康は刑場で『広陵散』を奏でた。

弾き終えた嵇康は、かつて袁孝尼がこの曲を学びたいと頼んできたことを振り返り、こう語った。
「昔、袁孝尼が私から『広陵散』を学ぼうとしたが、私はどうしても教えなかった。『広陵散』は今ここに絶えた。」
こうして嵇康は四十歳で処刑され、その死を知った人々は深く悲しんだという。

嵇康が『広陵散』を習得したときの不思議な逸話が残されている。
あるとき嵇康は洛陽の西へ出かけ、日暮れに華陽亭へ泊まった。
すると夜中に見知らぬ客が現れ、古人を名乗って嵇康と音楽について語り合った。
やがて客は琴を取り、『広陵散』を弾いてみせた。
嵇康はその演奏に魅了され、客から曲を教わったが、ほかの人には伝えないよう誓わされた。
客は最後まで名前を明かさず、嵇康もその正体を知らないままだった。

嵇康の死後、親しかった阮籍も景元四年(263年)の冬に亡くなった。
また、竹林の七賢の一人である向秀は、のちに司馬昭の招聘を受け入れて仕官した。

山濤に託された嵇康の息子

嵇康は処刑される前、息子の嵇紹に「巨源がいるのだから、お前は孤児ではない」と言い残した。
巨源とは山濤の字であり、かつて『与山巨源絶交書』を送りつけて絶交を宣言した相手である。
それでも嵇康は山濤を信頼し、自分が死んだ後の息子を託したのだった。

そして嵇康の死から約二十年後、山濤は嵇紹を推薦し、秘書丞に就けた。
嵇紹はその後も晋に仕えて侍中となり、八王の乱では晋の恵帝を守って命を落としている。

この親子の話は、後世にも引き合いに出された。
羅企生という人物が桓玄に捕らえられた際、年老いた母の面倒を見るため、せめて弟だけは助けてほしいと願い出た。
そのとき羅企生は、司馬昭に父親を殺された嵇紹でさえ、晋の忠臣になったではないかと訴えたのである。
桓玄はその言葉を聞き入れ、羅企生の弟を助けることを認めた。

また『世説新語』には、嵇紹の容姿についての逸話も残っている。
ある人物が嵇紹を見て、鶏の群れの中に鶴が一羽立っているようだと、その際立った風采を褒めた。
すると、父の嵇康と親しかった王戎は「あなたはその父親を見たことがないのだ」と答えたという。
息子も相当な美男子だったようだが、王戎にとっては、やはり嵇康の姿が忘れられなかったのだろう。

嵇康にまつわる逸話

嵇康はあるとき、趙至という人物の目を見て、黒目と白目がはっきりしており、名将の白起を思わせる風格があると褒めた。
ただし、目が小さいのが惜しいとも付け加えた。
すると趙至は「小さなものでも、大きな働きをすることはあります。目が小さいからといって、見識まで小さいとは限りません」と答えたという。

『世説新語』には、嵇康の死後、その才能がどれほど高く評価されていたかを伝える話もある。
郗超が謝安に、僧侶の支遁の談論は嵇康と比べてどうかと尋ねたところ、謝安は、支遁が懸命に努力してようやく嵇康に追いつける程度だと答えた。
さらに郗超が、殷浩と支遁ではどちらが優れているかと尋ねると、謝安は「抜きん出たところでは支遁が勝るが、議論を続ければ殷浩が支遁を抑えるかもしれない」と評したという。

また、嵇康の死後、向秀が司馬昭に仕えたときの逸話も残っている。
司馬昭は、以前は隠居を望んでいた向秀に、どうして仕官する気になったのかと尋ねた。
すると向秀は「巣父や許由のような隠者はあまりに孤高であり、私はそこまで彼らに従おうとは思いません」と答えた。
司馬昭はこの返答を喜んだという。かつて嵇康とともに鍛冶をしていた向秀も、今では司馬昭の前で仕官の理由を説明する立場になっていた。

さらに『太平広記』には、嵇康が琴を弾いていたところ、鬼が現れたという話まで収められている。
嵇康はその鬼から琴の技術を教わり、演奏の腕前が上達したという。
生前から琴の名手として知られた嵇康には、死後もこうした不思議な逸話が語り継がれたのである。

嵇康が残した著作

嵇康は、その生涯で数多くの著作を残している。
長寿と養生について論じた『養生論』、音楽に人間の喜怒哀楽が備わっているのかを考察した『声無哀楽論』、帝王のあるべき姿を論じた『太師箴』などがある。
また、古代の高士たちの伝記や賛を作り、世俗にとらわれず生きた人々の姿を書き残した。

これまで紹介してきた『与山巨源絶交書』や『与呂長悌絶交書』も、嵇康の人柄や思想がよく表れた文章である。
さらに、獄中で自らの人生を振り返った『幽憤詩』や、息子の嵇紹に戒めを残した『家誡』などもあり、嵇康が何を大切にし、どのように生きようとしたのかを知ることができる。

嵇康の評価

『晋書』の史臣は、世俗の名声や利益を軽んじた嵇康や阮籍の生き方を取り上げている。
かつて堯は許由の隠棲を認め、後漢の光武帝も厳子陵に仕官を強いなかった。
このように、君主が隠棲を望む賢者の志を尊重すれば、本人は望む生き方を守ることができ、君主も名声を得られる。

しかし、嵇康たちのような生き方を世間に広めれば風俗を損ない、官職に就けても俸禄を受け取るだけで職務を果たさないと、史臣は厳しく批判している。
それでも、世間の規範から外れた行動の中には見るべきものがあり、自分の志を貫き、友情を大切にしたことも認めている。

『晋書』の賛では、老子の思想と孔子の教えにはそれぞれ異なる価値があり、人の志や生き方も一様ではない。
嵇康や阮籍は世俗の礼法に縛られず、名声を求めることよりも、自分の本性に従って生きることを重んじた。
酒を楽しみ、自由な心で生きる彼らの姿を秋の水や春の雲に重ね、こうした生き方と王朝の政治との関係を問いかけている。

呂巽の本性を見抜けず、鍾会の恨みを買ったのも、人を見る目のなさと自分の性格が災いした結果だろう。
しかし、ここでそれを語っても、嵇康自身が『幽憤詩』にすべて書き残しており、本人が一番わかっていた。
それでも、絶交書を送りつけた山濤に最後は息子を託したのだから、その人物眼だけは間違っていなかった。

参考文献

嵇康のFAQ

嵇康の字(あざな)は?

字は叔夜(しゅくや)です。

嵇康はどんな人物?

魏の文学家・思想家・音楽家で、竹林の七賢の一人です。
老子や荘子の思想に親しみ、琴や養生を好む一方、官界での出世には関心を示しませんでした。
『養生論』や『声無哀楽論』などの著作を残しています。

嵇康の最後はどうなった?

景元四年(263年)、友人の呂安の事件に関わって投獄され、鍾会の讒言を受けた司馬昭によって処刑されました。
四十歳で亡くなり、処刑直前には琴で『広陵散』を演奏しています。

嵇康は誰に仕えた?

魏に仕え、郎中に任命されたのち、中散大夫に昇進しました。
ただし、実際に官務を行った記録は残っていません。
司馬昭からの招聘や山濤からの後任推薦は拒否しています。

嵇康にまつわるエピソードは?

山濤から仕官を勧められた際、『与山巨源絶交書』を送って交友を断つ意思を示したことが知られています。
また、鍾会が訪ねてきても鍛冶の手を止めず、そっけない態度を取った逸話があります。
処刑直前に『広陵散』を演奏し、「『広陵散』は今ここに絶えた」と語ったことも有名です。

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