1分でわかる忙しい人のための司馬炎の紹介
司馬炎(しばえん)、字は安世(あんせい)、出身は河内郡温県、生没年(236年~290年)
司馬炎は魏から禅譲を受けて西晋を建国した初代皇帝であり、後に呉を滅ぼして中国統一を成し遂げた。
祖父は司馬懿、父は司馬昭で、司馬氏が魏の実権を握る中、北平亭侯から官職を重ねていった。
父の司馬昭は弟の司馬攸を後継者に望んでいたが、賈充、山濤、何曾、裴秀ら重臣の進言を受け、司馬炎を世子に定めた。
咸熙二年(265年)に晋王の位を継ぎ、魏の曹奐から禅譲を受けて皇帝に即位した。
咸寧五年(279年)には呉への大規模な攻撃を開始し、翌太康元年(280年)、孫皓の降伏によって三国時代を終わらせた。
農業振興や租税制度の整備を進め、天下統一後には「太康の治」と呼ばれる繁栄を迎えた一方、後宮の拡大や宮廷の奢侈、売官への批判も受けた。
また、統一後に州郡の軍備を削減する一方、司馬氏の諸王には軍事指揮権を与えたため、こうした政策は後の八王の乱を引き起こす大きな要因となった。
太熙元年(290年)、司馬炎は55歳で亡くなり、司馬衷が皇位を継承した。
司馬炎の生涯を徹底解説!魏からの禅譲による西晋建国、呉征伐と三国統一、八王の乱まで
司馬炎の台頭と西晋の建国
出自と性格、司馬昭の長男として生まれる
司馬炎は青龍四年(236年)、河内郡温県に生まれた。
字は安世といい、父は司馬昭、母は魏の経学者である王粛の娘、王元姫だった。
祖父は司馬懿、伯父は司馬師である。
司馬氏は司馬懿の時代から魏の政治に深く関わり、司馬師、司馬昭へと権力を受け継いでいった。
司馬炎は寛大で情け深く、落ち着いた性格と深い思慮を備え、物事を受け止める度量があった。
北平亭侯から中護軍へ、魏の朝廷で重ねた官歴
嘉平年間(249年~254年)、司馬炎は北平亭侯に封じられ、給事中として官僚生活をスタートさせた。
その後も奉車都尉、中塁将軍、散騎常侍と順調に出世を重ね、中護軍に昇進して仮節まで与えられている。
もっとも、祖父が司馬懿で父親が司馬昭という、魏では誰も逆らえない一族の御曹司なのだから、出世しない方がおかしい。
甘露五年(260年)、魏の皇帝曹髦が司馬氏から実権を取り戻そうとして失敗し、殺害される事件が起きた。
司馬昭は新たな皇帝を迎えるため、司馬炎を東武陽に派遣し、常道郷公の曹奐を迎えさせた。
司馬炎は使持節・行中護軍・中塁将軍としてこの任務を果たし、曹奐が皇帝になると中撫軍に昇進し、新昌郷侯へと進封された。
司馬炎の結婚をめぐっては、なかなか愉快な話が残されている。
司馬昭は息子の嫁として、竹林の七賢の一人として知られる阮籍の娘に目をつけた。
ところが、いざ縁談を持ちかけようとしても、肝心の阮籍が酒を飲んで酔っ払っている。
それなら酔いが醒めるまで待とうとしたのだが、阮籍はいつも酒を飲んでおり、翌日も酔っ払っている。その翌日も酔っ払っている。もちろん毎日酔っ払っている。
結局、阮籍は六十日以上も酔い続け、司馬昭は最後まで縁談を切り出せず、縁談は実現しなかった。
司馬攸との後継者争い
司馬昭には長男の司馬炎のほかに、次男の司馬攸がいた。
この司馬攸は親孝行で兄弟思い、才能にも恵まれ、性格は穏やかで公平という、非の打ちどころがない人物だった。
しかも世間の評判は兄の司馬炎を上回っていたという。
司馬昭の兄・司馬師に男子の跡継ぎがおらず、司馬攸を養子にしていた。
司馬昭はこの次男をことのほかかわいがっていた。
天下は兄の司馬師のものであり、自分はその地位を預かっているだけなのだから、いずれは司馬攸に大業を譲るべきだとまで語っている。
司馬炎は長男でありながら大ピンチを迎えていたが、黙って弟に家督を譲るつもりはなかった。
司馬炎には、髪が地面に届くほど長く、腕を垂らせば手が膝より下まで伸びるという、なんとも奇妙な身体的特徴があった。
あるとき司馬炎は裴秀に、人相から将来の運命を判断できるものなのかと尋ね、自分の容貌を見せた。
すると裴秀は、司馬炎を支持するようになったという。
さらに司馬炎と親しかった羊琇は、父親から突然質問されても立派な答えを返せるよう、事前にカンニングペーパーの中身を頭に叩き込ませていた。
司馬昭が司馬攸を世子にしようとすると、重臣たちが反対した。
山濤は兄を差し置いて弟を立てるのは礼に反し、不吉であると主張する。
賈充も中撫軍である司馬炎には君主の徳があり、後継者を変更するべきではないと進言した。
さらに何曾や裴秀らも、司馬炎は聡明で武勇に優れ、人望も厚く、あの特別な容貌からして臣下で終わる人物ではないと強く訴えた。
こうした重臣たちの進言を受け、司馬昭は司馬炎を後継者に定めた。
咸熙二年(265年)五月、司馬炎は晋王太子に立てられ、撫軍大将軍に任命された。
さらに開府を許され、相国である父の司馬昭を補佐する立場となった。
晋王即位と禅譲の準備
咸熙二年(265年)八月辛卯日、司馬昭が亡くなった。
晋王太子だった司馬炎は、父の相国と晋王の位を継承し、魏の政治と軍事を掌握することになった。
祖父の司馬懿、伯父の司馬師、父の司馬昭と三代にわたって積み上げてきた権力が、ついに司馬炎の手に渡ったのである。
司馬炎は晋王になると、刑罰を緩和して罪人を許し、民衆の労役を減らすなど、さっそく善政をアピールした。
また、晋国内では父の司馬昭のために三日間の喪に服することを命じている。
ところで、この月には襄武で身長三丈の巨人が現れ、住民の王始に対して、「これから天下は太平になる。」と告げたという。
同年九月戊午日、司馬炎は魏の司徒だった何曾を丞相、鎮南将軍の王沈を御史大夫、中護軍の賈充を衛将軍に任命した。
さらに議郎の裴秀を尚書令・光禄大夫に任命し、いずれにも開府を許している。
後継者争いで自分を支持してくれた重臣たちを重要な役職に据え、政権の足場を固めたわけである。
同年十一月には、城外の軍隊を統率するために四護軍を新設する。
さらに各郡の中正に対し、まだ官職に就いていない優秀な人材を六つの基準によって推薦するよう命じた。
その選考基準は、仕事ができて、親孝行で、兄弟仲がよく、性格もよく、約束を守り、勉強熱心な人間だった。そんな人物がそこら中に転がっているなら、世の中はさぞ平和だったことだろう。
こうして司馬炎は重臣の人事を整え、軍事組織を再編し、人材登用にも手をつけていった。
司馬炎が本当に欲しかったのは、晋王という地位だけではない。
魏から皇位を司馬氏が手に入れるための準備も、着々と進められていたのである。
魏から禅譲を受け、西晋の初代皇帝となる
咸熙二年(265年)十二月、魏の皇帝曹奐は太保の鄭沖を司馬炎のもとへ派遣し、皇位を譲る意向を伝えた。
内容は司馬炎の祖父や父は代々魏の皇室を支え、天下に大きな功績を残してきた。これほど立派な一族なのだから、司馬炎が皇帝になるのは天命にかなっている。
だいたいそんな内容の文書である。
司馬炎はというと、「いやいや、そんな滅相もない」というお決まりの即位拒否ショーを演じる。
すると何曾や王沈ら魏の公卿たちが、どうか皇帝になってくださいと繰り返しお願いする。
司馬炎は辞退する。公卿たちはお願いする。司馬炎は辞退する。
もちろん、これが禅譲の儀式に欠かせない手順だった。
こうして司馬炎は、最終的に禅譲を受け入れた。
同年十二月丙寅日、司馬炎は洛陽の南郊に祭壇を設け、皇帝即位の儀式を行った。
その場には百官が列席し、南匈奴の単于をはじめ、周辺の諸民族から集まった人々も参列し、その人数は数万人に及んだ。
司馬炎は天帝に向けて、魏の皇帝から天命を受けたことを報告した。
その祭文では、「昔は堯が舜に、舜が禹に天下を譲った。曹操も後漢を支え、その息子の曹丕は皇位を譲り受けた。だったら今度は司馬氏が魏から天下を譲ってもらう番だろう。それに魏が危なくなるたび、我が司馬一族がどれだけ助けてきたことか。
今では群臣も諸民族の君長たちも、皇帝になってくれと頼んでくる。こちらは何度も断ったのに、誰も引き下がらない。そこまで言われては仕方がない、私が皇帝になってやろう。」と説明した。
儀式を終えると、司馬炎は洛陽宮の太極前殿に入り、皇帝に即位した。
国号を晋とし、年号を泰始に改めたことで、西晋が成立した。
司馬炎は即位の詔で、祖父の司馬懿、伯父の司馬師、父の司馬昭の功績を称え、自分はその大業を受け継いだのだと述べた。
さらに天下を治める責任の重さを語り、文武の臣下たちと協力して国家を支えていく姿勢を示している。
そして新王朝の誕生にあたり、大赦を実施した。
天下の人々にそれぞれ五級の爵位を授け、配偶者を失った人や孤児、高齢者など、生活に困っている人々には一人につき穀物五斛を支給した。
さらに租税や関所、市場に課される税を一年間免除。
滞納していた税や以前からの負債も徴収せず、過去の対立によって処分された者については禁錮を解除し、失った官職や爵位への復帰も認めた。
皇帝が代わった途端に税金は免除、滞納分も帳消し、生活に困っている人には食糧まで配られる。
曹奐にとっては災難だったが、民衆にとっては案外ありがたい政権交代だった。
こうして魏は滅び、司馬炎は西晋の初代皇帝となった。
西晋建国後の政治改革と皇室の整備
司馬氏の皇帝追尊と一族への大規模な封爵
司馬炎は晋の建国後、祖父の司馬懿を宣皇帝、伯父の司馬師を景皇帝、父の司馬昭を文皇帝として追尊した。
また、司馬懿の妃だった張氏を宣穆皇后とし、母の王元姫を皇太后に尊び、その宮殿を崇化宮と名付けた。
文武官全体の官位を二等ずつ引き上げ、魏の景初暦を太始暦に改めた。
さらに司馬炎は、一族に対して大規模な封爵を行い、司馬氏の地位を大きく高めた。
封じられた人物と司馬懿・司馬昭との関係は、次のとおりである。
- 安平王:司馬孚(司馬懿の弟、司馬炎の大叔父)
- 平原王:司馬幹(司馬懿の三男、司馬昭の弟)
- 扶風王:司馬亮(司馬懿の四男、司馬昭の弟)
- 東莞王:司馬伷(司馬懿の五男、司馬昭の弟)
- 汝陰王:司馬駿(司馬懿の七男、司馬昭の弟)
- 梁王:司馬肜(司馬懿の八男、司馬昭の弟)
- 琅邪王:司馬倫(司馬懿の九男、司馬昭の弟)
- 斉王:司馬攸(司馬昭の次男、司馬炎の弟)
- 楽安王:司馬鑒(司馬昭の息子、司馬炎の弟)
- 燕王:司馬機(司馬昭の息子、司馬京の養子)
- 義陽王:司馬望(司馬孚の次男、司馬朗の養子)
- 渤海王:司馬輔(司馬孚の三男、司馬懿の甥)
- 下邳王:司馬晃(司馬孚の五男、司馬懿の甥)
- 太原王:司馬瑰(司馬孚の六男、司馬懿の甥)
- 高陽王:司馬珪(司馬孚の七男、司馬懿の甥)
- 常山王:司馬衡(司馬孚の八男、司馬懿の甥)
- 沛王:司馬景(司馬孚の九男、字は子文)
- 隴西王:司馬泰(司馬懿の弟、司馬馗の息子)
- 彭城王:司馬権(司馬懿の弟、司馬馗の息子)
- 范陽王:司馬綏(司馬懿の弟、司馬馗の息子)
- 済南王:司馬遂(司馬懿の弟、司馬恂の息子)
- 譙王:司馬遜(司馬懿の弟、司馬進の息子)
- 中山王:司馬睦(司馬懿の弟、司馬進の息子)
- 北海王:司馬陵(司馬懿の弟、司馬通の息子)
- 陳王:司馬斌(司馬懿の弟、司馬通の息子)
- 河間王:司馬洪(司馬望の息子、司馬孚の孫)
- 東平王:司馬楙(司馬望の息子、司馬孚の孫)
曹奐への厚遇と功臣への褒賞、魏の旧臣に対する処遇
司馬炎は、皇位を譲った魏の元皇帝曹奐を陳留王に封じ、食邑一万戸を与えて鄴宮に住まわせた。
また、魏の宗室に属する諸王も、それぞれ県侯に封じた。
曹奐には天子の旗を掲げることや、五時の副車を備えることを認め、暦や天地への祭祀、礼楽制度についても魏の旧制を維持させた。
さらに晋の朝廷へ文書を提出する際には、臣下を意味する臣と名乗る必要をなくした。
皇帝の座こそ失ったものの、曹奐は一万戸の食邑を持ち、かつての皇帝としての待遇もある程度保証されたのである。
泰始二年(266年)五月には、日常の細かな事柄まで曹奐自身が上奏する必要はなく、重要な問題以外は王国の官吏を通じて報告すればよいと命じた。
魏の皇族だけでなく、すでに滅亡した後漢や蜀の関係者にも配慮している。
後漢の皇族である山陽公劉康と、蜀の元皇帝劉禅の家から、それぞれ子弟一人を駙馬都尉に任命するよう命じた。
司馬炎は歴史上珍しく、過去の敵対した皇帝を粛清しない、寛大な皇帝だった。
さらに泰始五年(269年)二月には、蜀の丞相だった諸葛亮の孫、諸葛京についても、その才能に応じた官職に任命するよう命じている。
また、魏の時代に処分された人物や、その家族に対する扱いも見直した。
王淩については、かつて皇帝曹芳を廃そうとしたものの、曹芳自身にも皇位を守るだけの力がなかったと述べた。
一方、鄧艾については、功績を誇って節度を失ったことは認めながらも、最後には抵抗せずに罪を受け入れたと評価している。
そのうえで王淩や鄧艾の家族に恩赦を与え、家系を継ぐ者を立てることを認めた。
さらに魏の宗室に対する禁錮処分も解除し、滅びた家を再興させ、途絶えた家系を継がせる方針を示した。
もちろん、晋の建国に貢献した功臣たちへの褒賞も忘れていない。
驃騎将軍の石苞を大司馬・楽陵公、車騎将軍の陳騫を高平公、衛将軍の賈充を車騎将軍・魯公に任命した。
尚書令の裴秀は鉅鹿公、侍中の荀勗は済北公、太保の鄭沖は太傅・寿光公となった。
さらに太尉の王祥を太保・睢陵公、丞相の何曾を太尉・朗陵公、御史大夫の王沈を驃騎将軍・博陵公に任命した。
司空の荀顗は臨淮公、鎮北大将軍の衛瓘は菑陽公に封じられ、そのほかの文武官にも功績に応じて爵位の加増や昇進が行われた。
こうして司馬炎は、魏の旧皇族や処分された人物の家族を救済する一方、晋の建国を支えた功臣たちにも相応の地位を与え、新王朝の体制を整えていった。
司馬炎が進めた倹約と政治改革
泰始元年(265年)十二月、司馬炎は宮廷の倹約を命じ、宝庫にあった珠玉や珍しい品物を王公以下の臣下に分配した。
また、華美な芸能や遊興を制限し、宮廷を守る七軍を統率する中軍将軍を設置した。
刑罰を軽くして法律を簡潔にするよう命じ、民衆の労役や郡国からの貢納の負担を減らした。
将吏には三年間の服喪のための帰郷を認め、部曲の将長や下級官吏に課されていた人質の制度も廃止した。
泰始二年(266年)正月には侯史光らを各地に派遣し、風俗を調査するとともに、国家の制度に含まれない祭祀を取り除くよう命じた。
功臣の子弟については、父祖の爵位に応じて爵位と食邑を与える制度を定めた。
司馬昭への服喪と裴秀の進言
咸熙二年(265年)、司馬昭が亡くなると、臣下や民衆は特例として簡略化された喪の制度に従い、三日で喪服を脱いだ。
葬儀が終わると司馬炎も喪服を脱いだが、その後も白い冠をかぶり、質素な食事をとるなど、深い悲しみを示していた。
泰始二年(266年)八月、司馬炎は父の眠る崇陽陵への参拝を計画した。
群臣は、まだ残暑が厳しく、悲しみのあまり体を損なうのではないかと心配したが、司馬炎は「父の陵墓に参拝できれば、かえって体調もよくなるだろう」と答えた。
さらに司馬炎は「漢の文帝が天下の人々に長く喪に服することを求めなかったのは、帝王としての謙譲の心によるものだ。私は父の陵墓を参拝するのだから、喪服を着て行きたい。そのことについて協議せよ。群臣は従来の制度に従えばよい」と命じた。
要するに、他の人はいいから、自分だけ喪服を着て行きたいということである。
これに対し、尚書令の裴秀は「陛下はすでに喪服を脱がれたのに、再びお召しになることには礼制上の根拠がありません。また、君主だけが喪服を着て臣下が着ないというのも、私どもとしては安心して従うことができません」と進言した。
すると司馬炎は「私が心配しているのは、父を慕う気持ちを十分に尽くせないことだけだ。衣服など、どうでもよいことではないか。しかし、諸君がこれほど熱心に進言してくれるのだから、むやみに逆らうつもりはない」と答えた。
つい先ほどまで喪服を着たいと言っていたのに、反対されると衣服などどうでもよいと言い出した。
ともかく司馬炎は裴秀らの進言を受け入れ、喪服を着て陵墓に参拝することを取りやめた。
泰始二年(266年)八月、担当官は司馬炎に普段の衣服と食事に戻るよう求めた。
先ほどは衣服などどうでもよいと言っていたのに、司馬炎はこれを拒み、白い冠や質素な衣服を身につけ、食事も控えていた。
その後、母の皇太后が亡くなった際にも、司馬炎は同じように喪の礼を重んじた。
皇后楊氏の冊立と太子司馬衷、皇位継承の始まり
泰始二年(266年)正月辛丑日、司馬炎は伯父の司馬師の夫人である羊氏を景皇后として尊び、その宮殿を弘訓宮とした。
続く丙午日には楊氏を皇后に立てた。
泰始三年(267年)正月丁卯日、司馬炎は皇子の司馬衷を皇太子に立てる。
その際の詔では、天下を治める責任の重さを説き、皇位継承の準備だけでなく、国家の秩序を正すことが重要だと述べた。
また、皇太子の冊立に伴う恩赦や特別な恩恵についても、むやみに行うべきではないとした。
天下が安定に向かう今こそ、徳義と善悪の基準を明らかにし、人々が恩赦を当てにして罪を犯さないようにすべきだと考えたのである。
司馬炎の農業振興と地方統治
建国後の司馬炎が力を入れたのは、農業の振興と地方統治の立て直しである。
各地の郡県には農業と養蚕を奨励させ、私的に佃客を募集することを禁止。さらに蜀や呉に属していた地域の住民を北方へ移住させ、屯田制度を廃止して屯田民を州郡の戸籍に編入する政策も進めている。
泰始二年(266年)十二月には農官を廃止し、その管理下にあった土地や人々も郡県の統治に組み込んだ。
泰始三年(267年)には、官吏が職務に専念できるよう俸禄を引き上げ、王公以下の臣下にも絹布を下賜。
また、父母を亡くした官吏や兵士については、国境の防衛に支障がない限り帰郷を認め、喪に服することができるよう配慮している。
泰始四年(268年)正月には、尚書令の裴秀を司空に任命。
同月、父の司馬昭の時代から検討されていた律令がようやく完成し、制定に功績のあった者には爵位や絹布を与え、天下に公布した。
司馬炎自身も王公や卿士を率いて藉田で耕作を行い、大赦を実施している。
同年六月には郡国の長官に対し、三年に一度、管轄する県を巡察するよう命令。
調査するのは役人の勤務状況だけではない。農業や民衆の暮らし、風俗、礼制、度量衡、裁判の公正さまで確認し、高齢者を訪問して人々の苦しみにも耳を傾けるよう求めている。
さらに清廉で有能な人物を登用し、汚職や不正は厳しく取り締まるという方針だった。
地方官の評価基準も明確で、農地の開墾が進み、民衆の生活が安定しているかどうかが重視された。
同年十二月には、民衆への奉仕、弱い立場にある人々の保護、農業の重視、不正な人間関係の排除など、地方統治に関する五つの方針を各郡国に公布している。
また、司馬炎は裁判にも関心を持ち、自ら囚人の記録を調べて判断を下すこともあった。
泰始四年(268年)十二月と泰始五年(269年)正月には聴訟観で裁判に関わり、後者では多くの囚人を赦免して釈放している。
泰始五年(269年)には、土地の有効利用と農業の奨励を改めて指示。
二月には雍州の隴右五郡、涼州の金城、梁州の陰平を合わせて秦州を設置し、地方の行政区画も再編した。
さらに官吏の功績を毎年評価し、優秀な者は積極的に昇進させるよう命じている。
臣下の直言を受け入れた司馬炎、麴路の赦免と鄭徽の免官
司馬炎は皇帝に即位すると、臣下が政治の問題点を遠慮なく指摘できるよう、諫官を設置した。
ところが、せっかく諫官を設置したというのに、実際に皇帝へ意見を述べた者が処罰されそうになるという、何のための諫官なのかわからない事態が起きていた。
泰始二年(266年)九月乙未日、散騎常侍の皇甫陶と傅玄が諫官を兼ね、政治について意見を述べた。
すると担当官は、二人の上奏を取り上げないよう求めたのである。
これに対して司馬炎は「君主について意見を述べることは、臣下にとって最も難しいことである。
君主がその意見を受け入れられないことを、古来の忠臣や正直な人物たちは嘆いてきた」と述べた。
臣下が勇気を出して意見したのに、担当官は罪人扱いし、許すかどうかは皇帝の温情次第だという。
これでは誰も怖くて意見できない。司馬炎はこの扱いを問題視し、詳しく審議するよう命じた。
泰始五年(269年)六月には、鄴の奚官督だった郭廙が五つの事柄について厳しく率直な意見を上奏した。
司馬炎はこれを咎めるどころか、郭廙を屯留令に抜擢している。
同じころ、西平出身の麴路という人物が登聞鼓を打ち鳴らし、朝廷に意見を訴える事件が起きた。
登聞鼓とは、民衆が朝廷に直接訴えるための太鼓である。
麴路の訴えには怪しげな話や誹謗が多く、担当官は市場での処刑を求めた。
ところが司馬炎は、自分の過ちだとして麴路を赦免し、追及も禁じた。
麴路が何を訴えたのか、なぜ司馬炎が自分の非を認めたのか、詳しい事情がわからないのが気になるところである。
同年七月には群臣を集め、政治について率直な意見を述べるよう改めて求めた。
そして泰始八年(272年)二月、司馬炎のこうした姿勢を象徴する事件が起きる。
司馬炎が右将軍の皇甫陶と政治について議論していたときのこと。
皇甫陶は、皇帝に向かって一歩も引かず、堂々と反論する。
散騎常侍の鄭徽はこれを見て処罰を求めた。
しかし司馬炎は、臣下がこびへつらうことこそ恐れるべきであり、遠慮なく反論することのどこが悪い。むしろ歓迎すると述べた。
皇帝に反論した皇甫陶はお咎めなしで、皇帝を擁護しようとした鄭徽は、まさかの失職となった。
権力を握れば耳の痛い意見を遠ざけたくなるのが人間というものだが、司馬炎は皇帝になっても、臣下からの批判を受け入れる度量を持っていた。
相次ぐ災害と民衆の救済、祝賀を辞退した司馬炎
司馬炎の治世には、青州、徐州、荊州、揚州など各地で洪水や干ばつ、地震、疫病、虫害が相次いだ。
司馬炎は被災地に使者を派遣し、官の倉から食糧を支給するほか、租税や賦役の免除、被災者への救済を繰り返し命じた。
泰始二年(266年)には、祖先の陵墓周辺に暮らす住民の移転についても、民衆の負担になるとして中止を命じた。
また、泰始七年(271年)には伊水、洛水、黄河の氾濫で四千戸余りの家屋が流され、三百人余りが死亡したため、食糧の貸与や死者のための棺の支給を命じた。
咸寧元年(275年)十二月には洛陽で大規模な疫病が流行し、翌年には司馬炎自身も病気になった。
回復後、群臣が祝賀を申し出たが、司馬炎は多くの民衆が疫病で亡くなったことを挙げ、自分一人の回復を喜ぶことはできないとして祝賀を辞退した。
咸寧五年(279年)には飢饉を受けて宮廷の食事を半分に減らした。
天下統一後も災害は続き、太康三年(282年)には被災地の田租を免除し、太康五年(284年)には天下の戸課を三分の一減らした。
太康六年(285年)にも不作を理由に租税などの未納分を免除し、綿や絹の負担を軽減した。
太康七年(286年)には、司馬炎は相次ぐ災異の責任が自らにあるとし、群臣に原因を率直に述べるよう求めた。
また、洪水の被災地へ侍御史を派遣して状況を調べさせた。
現代の感覚では、洪水や地震が起きても皇帝の責任とは考えない。
しかし当時は、天変地異を君主の政治に対する天の警告と考える思想があり、皇帝が自らの政治を反省することも求められたのである。
このほか、司馬炎の治世には彗星の出現や山崩れ、宮殿の地面の陥没なども記録されている。
一方で、鳳凰、青龍、白龍、黄龍、麒麟などの出現も記録され、こうした現象も国家の吉凶に関わるものとして扱われていた。
太廟の整備と皇室儀礼、宗室に求めた規律
泰始二年(266年)、司馬炎は民衆への負担を理由に七廟の建立を見送った一方、司馬懿を天に、司馬昭を明堂の上帝に配して祭った。
同年には荊山の木材や華山の石材を用いて太廟を建設し、十一月には祖先の神主を移して祭祀を行った。
圜丘と方丘の祭祀を南郊と北郊にまとめるなど、国家の祭祀制度も整えた。
泰始四年(268年)に母の王元姫が亡くなると、司馬炎は崇陽陵に合葬させ、自らも質素な衣服と食事で喪に服した。
泰始十年(274年)には、寵愛によって妾や側室が正妻の地位に就くことを問題視し、今後これを禁じるよう命じた。
咸寧三年(277年)には皇族にも徳義と慎みを求め、扶風王の司馬亮を宗師に任命して、宗室の重要事項について相談させることとした。
咸寧五年(279年)には、汲郡の不準が魏の襄王の墓から十万字余りの竹簡を発見し、宮廷の秘府に収められた。
太康八年(287年)には太廟の建物が陥没したため、司馬炎は再建を決めた。
太康十年(289年)に新しい太廟が完成すると、自ら祖先の神主を迎えて祭祀を行い、大赦を実施するとともに、文武官や造営に携わった者の昇進を認めた。
司馬炎の呉征伐と三国統一への道
秃髪樹機能の反乱と涼州奪回、馬隆の活躍
晋が呉と対峙していたころ、西北方面でも反乱が相次いでいた。
泰始六年(270年)、河西鮮卑の秃髪樹機能が反乱を起こし、六月には秦州刺史の胡烈が万斛堆で戦死。
司馬炎は尚書の石鑒に安西将軍・都督秦州諸軍事の職務を担当させ、奮威護軍の田章とともに討伐へ派遣した。
翌泰始七年(271年)には匈奴の首領劉猛まで反乱を起こし、涼州刺史の牽弘も青山で敵軍に包囲されて敗死してしまう。
司馬炎は戦乱に巻き込まれた隴右五郡の住民について租税や賦役を免除し、生活に困っている者には食糧を支給するよう命じている。
泰始八年(272年)、司馬炎は監軍の何楨に劉猛の討伐を命令する。
何楨が劉猛の軍を繰り返し破ると、左部帥の李恪が劉猛を殺害して晋に降伏し、ようやく反乱は平定された。
一方、秃髪樹機能は咸寧元年(275年)に人質を差し出して帰順を申し出たものの、咸寧三年(277年)には再び反乱を起こした。
晋では平虜護軍の文淑がこれを破り、司馬炎も司馬駿や文鴦らを西北方面に派遣して反乱勢力を攻撃させ、多くの鮮卑を帰順させている。
このころ、拓跋部の沙漠汗が晋へ使者として訪れ、西域戊己校尉の馬循も反乱を起こした鮮卑の首領を討ち取った。
その後、沙漠汗は部族内の旧勢力に殺害され、晋の衛瓘が拓跋部の混乱に対応することになった。
しかし西北の戦乱は一向に収まらない。
咸寧四年(278年)には涼州刺史の楊欣が武威で若羅抜能らと戦って敗死し、翌咸寧五年(279年)正月には、ついに秃髪樹機能が涼州を攻め落としてしまった。
秦州刺史の胡烈、涼州刺史の牽弘、そして楊欣と、晋は西北方面で次々に高官を失っている。
そこで司馬炎が討伐を任せたのが、討虜護軍・武威太守の馬隆だった。
馬隆は涼州へ進軍して反乱勢力と戦い、同年十二月には秃髪樹機能を討ち取って涼州を平定。
泰始六年(270年)から続いた秃髪樹機能の反乱も、ようやく決着がついたのである。
しかも、このとき司馬炎は呉への征伐も開始していた。
西北では涼州を奪回し、南方では呉との決戦に乗り出すという、二方面での戦争を同時に進めていたのである。
周辺諸国との外交と異民族の帰順
司馬炎の治世には、倭、東夷、西域、南方の諸国をはじめ、鮮卑や匈奴など、多くの国や民族が晋へ使節を送り、朝貢や帰順を行っている。
泰始元年(265年)の即位式には、南匈奴の単于をはじめ、周辺諸民族の数万人が参列したという。
泰始二年(266年)には倭人が使節を派遣し、土地の産物を献上する。
その後も扶南、林邑、大宛、焉耆などから使節が訪れ、大宛からは汗血馬が献上された。
咸寧年間(275年~280年)には東夷の諸国や鮮卑、匈奴、五渓蛮夷などの帰順が相次ぎ、肅慎からは楛矢と石砮が届けられている。
呉を平定した後も交流は続き、車師前部、鄯善、亀茲、康居、馬韓、大秦国など、東西のさまざまな国から使節や献上品が届いた。
太康四年(283年)には、子を晋へ派遣した鄯善国に対し、司馬炎は帰義侯の称号を与えている。
太康十年(289年)には鮮卑の慕容廆が晋へ降伏し、東夷三十余国や西南夷二十余国からも献上品が届けられた。
さらに奚軻に属する男女十万人が帰順したという記録まで残っている。
使節の往来に朝貢、子弟の派遣、さらには集団での帰順と、その形はさまざまである。
晋の外交関係は西域から日本列島にまで及んでおり、司馬炎の治世が三国時代の終わりだけでなく、広い地域との交流が進んだ時代でもあったことがわかる。
呉との国境紛争と羊祜・陸抗の対峙
司馬炎が西晋を建国したとはいえ、三国時代が終わったわけではない。
長江の南には孫皓が治める呉が健在であり、晋との国境では軍事的な衝突が続いていた。
司馬炎は羊祜を襄陽に配置し、呉の名将陸抗と対峙させる一方、益州では王濬に軍船を建造させるなど、着々と呉への戦争準備を進めていた。
泰始二年(266年)三月、呉から弔問の使節が訪れると、担当官は正式な詔で返答するよう求めた。
しかし司馬炎は、漢の文帝や光武帝が南越の尉佗や公孫述に対応した例を挙げ、孫皓は使節を派遣した時点で晋の建国を知らなかったのだから、君臣関係を前提とする詔ではなく、書簡で返答するよう命じた。
相手はまだ晋の皇帝に臣従したわけではない。そこはきちんと区別するという、司馬炎なりの外交上の配慮である。外交では礼儀正しくても、国境では遠慮なく戦争が始まる。
泰始四年(268年)十月、呉の施績が江夏へ、万彧が襄陽へ侵攻すると、司馬炎は太尉の義陽王司馬望を龍陂に駐屯させ、荊州刺史の胡烈が万彧を撃破した。
さらに鬱林へ侵攻した呉軍も太守の毛炅に敗れ、交州刺史の劉俊や将軍の修則が討ち取られている。
同年十一月には丁奉らが芍陂方面へ進軍したものの、晋の汝陰王司馬駿と義陽王司馬望が迎撃して退ける。
泰始六年(270年)正月にも丁奉が渦口へ侵攻したが、今度は揚州刺史の牽弘がこれを退けた。
泰始七年(271年)三月には、ついに呉の皇帝孫皓まで自ら軍を率いて寿陽方面へ進出する。
司馬炎も大司馬の司馬望を淮北に駐屯させ、これに備えた。
晋が勝ってばかりいたわけではない。
南方では呉の虞氾が九真太守の董元を攻撃して敗死させ、陶璜らも交趾へ侵攻し、楊稷や毛炅らが守る地域は呉軍に制圧されてしまった。
こうして国境では一進一退の攻防が続いていたが、呉の内部から晋へ寝返る武将も現れ始める。
泰始六年(270年)十二月、呉の夏口督・前将軍だった孫秀が配下を率いて投降すると、司馬炎は孫秀を驃騎将軍に任命し、開府儀同三司を許して会稽公に封じた。
翌泰始七年(271年)には孫秀の部将だった何崇も五千人を率いて帰順している。
そして泰始八年(272年)九月、呉の西陵督だった歩闡まで晋への帰順を申し出た。
司馬炎は歩闡を衛将軍に任命し、開府儀同三司を許して宜都公に封じる。
西陵は長江上流から呉の領内へ進むうえで重要な拠点である。
ここを守る歩闡が寝返ったとなれば、晋にとっては願ってもない好機だった。
ところが、呉には陸抗がいた。
陸抗は歩闡の反乱を知ると、ただちに西陵へ軍を進める。
司馬炎も黙って見ているわけにはいかず、羊祜には江陵方面への進軍、荊州刺史の楊肇には西陵での救援、巴東監軍の徐胤には建平への攻撃を命じ、複数の方面から陸抗に圧力をかけた。
晋は歩闡を救い、呉は歩闡を討つ。
西陵をめぐって両国の軍が動き、羊祜と陸抗の対決もいよいよ本格化した。
しかし同年十二月、楊肇は陸抗を破ることができず撤退した。
救援を失った西陵城は陥落し、晋への帰順を申し出た歩闡も陸抗に捕らえられてしまった。
せっかく呉の重要拠点が手に入りかけたのに、陸抗によってすべてひっくり返されてしまった。
その後も戦闘は続き、泰始九年(273年)七月には呉の将軍魯淑が弋陽を包囲したが、晋の征虜将軍王渾がこれを撃破した。
国境では互いに勝ったり負けたりを繰り返しており、晋が圧倒的な国力を持っていても、呉を滅ぼすのは簡単な話ではなかった。
司馬炎、呉征伐を決断する
呉の皇帝孫皓は政治を顧みず、贅沢な生活を重ねて民衆の支持を失っていた。
これを好機と見た羊祜は司馬炎に呉の討伐を進言したが、重臣たちの反対によって実現しなかった。
泰始十年(274年)に呉の名将・陸抗が亡くなると、羊祜は二年後に改めて呉討伐を提案した。
長年にわたって羊祜と対峙してきた陸抗がいなくなったのである。呉を攻めるには絶好の機会だったが、朝廷はまたしても反対し、出兵は見送られてしまう。
その間も両国の戦闘は続き、咸寧四年(278年)には揚州刺史の応綽が呉の皖城を攻撃して五千人を討ち取り、百八十万斛もの穀物を焼き払った。
ところが同年、呉討伐を訴え続けてきた羊祜が病に倒れてしまう。
羊祜は後任に杜預を推薦して亡くなり、司馬炎は十一月、杜預を都督荊州諸軍事に任命して呉への備えを引き継がせた。
一方、西北方面では秃髪樹機能の反乱が収まらず、胡烈や楊欣らが戦死するなど、晋軍は大きな被害を受けていた。
咸寧五年(279年)正月には涼州まで攻め落とされ、司馬炎は馬隆を派遣して討伐にあたらせていた。
朝廷でも意見が割れた。
王濬と杜預は今こそ呉を攻める好機だと主張したが、賈充や荀勗らは西北方面が安定していないことなどを理由に反対した。
羊祜が生きていたころから、呉討伐の話が出るたびに反対されてきた。
しかし、いつまでも西北の反乱が収まるのを待っていては、呉を攻める機会を逃してしまう。
司馬炎はついに決断した。
咸寧五年(279年)十一月、重臣たちの反対を押し切り、長江の上流から下流まで複数の軍を進めて呉への大規模な征伐を開始したのである。
翌十二月には馬隆が秃髪樹機能を討ち取り、涼州の平定にも成功した。
西北の反乱に対処しながら呉への総攻撃を開始するという、司馬炎にとっても大きな賭けだった。
こうして晋は、三国時代を終わらせる最後の戦いへと突入する。
賈充・杜預・王濬らが呉へ進軍
司馬炎が呉の征伐に動員した兵力は、実に二十万余りに達した。
太尉の賈充を大都督、楊済を副将に任命し、各方面の晋軍を統率させたのである。
琅邪王の司馬伷を涂中、王渾を江西、王戎を武昌、胡奮を夏口、杜預を江陵から進軍させた。
さらに王濬と唐彬には巴蜀の兵を率いて長江を下らせ、上流から下流まで一斉に呉へ攻め込む作戦だった。
太康元年(280年)正月、王渾が尋陽方面の諸城を攻略し、呉の武威将軍周興を捕らえた。
二月には王濬と唐彬が丹楊、西陵、夷道、楽郷などを次々と攻略し、留憲、成璩、鄭広、陸晏、陸景ら呉の将兵を討ち取っている。
杜預も江陵を攻略して伍延を斬り、胡奮は江安を制圧した。
各方面から攻め込まれた呉は防戦に追われ、守備隊も相次いで降伏する。
晋軍は順調に進撃していたが、司馬炎はここで王濬を都督益州・梁州諸軍事に任命し、各軍の進路や兵力の配分について細かく指示を出した。
まず王濬と唐彬には長江を下って巴丘方面を制圧し、胡奮や王戎と協力して夏口、武昌を平定するよう命じた。
一方、杜預には零陵や桂陽を安定させ、衡陽の人々を慰撫するとともに、王濬へ一万人、唐彬へ七千人の援軍を送るよう指示している。
さらに夏口を平定した胡奮から王濬へ七千人、武昌を平定した王戎から唐彬へ六千人を送るよう命じ、賈充には項へ移動して各方面の軍を統率させた。
各地を攻略した部隊から兵を集め、長江を下る王濬と唐彬の軍をさらに強化するという作戦である。
こうして王濬の軍は夏口と武昌を攻略し、その勢いのまま長江を東へ進んでいった。
晋軍はついに呉の都である建業へ迫り、孫皓を追い詰めようとしていた。
孫皓の降伏と三国時代の終結
太康元年(280年)、晋軍は呉の各地を次々と攻略し、都の建業へ迫っていた。
王濬の水軍が長江を下る一方、王渾と周浚の軍も呉の主力部隊と激突する。
王渾と周浚は版橋で呉の丞相・張悌が率いる軍を大いに破り、張悌のほか孫震や沈瑩らを討ち取った。
さらに討ち取った将兵の首を洛陽へ送り、呉軍が壊滅したことを朝廷へ報告した。
もはや晋軍の進撃を止めることはできず、追い詰められた孫皓は降伏を申し出て、皇帝の印章と組紐を琅邪王の司馬伷へ送った。
そして同年三月壬寅日、王濬の水軍が建業の石頭に到着すると、孫皓は自らを縄で縛り、棺を車に載せて晋軍の陣営へ出向いた。
自分の命は好きにしてくれという、敗れた君主としての降伏の儀式である。
王濬は節を手にして孫皓の縄を解き、棺を焼き払ったうえで、晋の都へ送った。
こうして呉は滅亡し、司馬炎による中国統一が実現した。
魏・蜀・呉が争った三国時代も、ついに幕を閉じたのである。
晋が呉の平定によって獲得した領土は四州、四十三郡、三百十三県に及び、戸数は五十二万三千、官吏は三万二千人、兵士は二十三万人、男女を合わせた人口は二百三十万人にも達した。
晋軍は呉の地図や文書も接収し、広大な領土と膨大な人口が新たに晋の支配下へ入った。
論功行賞と孫皓の処遇
司馬炎は呉の各地に置かれていた牧守以下の官吏を原則として留任させ、従来の苛酷な政治を改めて統治を簡潔にする方針を示した。
孫皓の政治に苦しめられていた呉の人々は、この措置を大いに喜んだという。
同年三月乙酉日、司馬炎は天下統一を受けて大赦を行い、年号を太康に改めた。
さらに五日間の祝宴を認め、孤児や高齢者、困窮した人々への救済も命じている。
四月には兼侍中の張側と黄門侍郎の朱震を揚州や越の地域へ派遣し、新たに晋へ帰順した人々を慰撫させた。
五月辛亥日、司馬炎は孫皓を帰命侯に封じ、その太子を中郎、ほかの息子たちを郎中に任命した。
呉の旧臣にも才能に応じて官職を与え、戦死した呉の大将の家族は寿陽へ移住させている。
また、長江を渡って晋へ帰順した呉の将吏には十年間、一般の民衆や職人には二十年間の賦役免除を認めた。
武力で呉を滅ぼしたあとは、その人々を晋の支配に迎え入れるための政策を進めたのである。
同月丙寅日、司馬炎は宮殿で大規模な朝会を開き、降伏した孫皓を殿上へ迎えた。
かつて呉の皇帝として君臨した孫皓が晋の宮殿に姿を現す中、群臣はそろって万歳を唱えた。
司馬炎は呉の平定に功績を立てた将軍たちへの論功行賞も行い、王濬を輔国大将軍・襄陽侯、杜預を当陽侯、王戎を安豊侯、唐彬を上庸侯とした。
賈充や琅邪王司馬伷らにも爵位や封地を加増し、公卿以下の臣下には身分や功績に応じて絹布を下賜している。
同年九月、群臣は天下統一という偉業を祝うため、封禅の儀式を行うよう繰り返し求めた。
しかし司馬炎はこれを辞退し、実施を認めなかった。
父の司馬昭から権力を受け継ぎ、晋の皇帝に即位してから十四年、司馬炎はついに呉を滅ぼし、長く続いた天下の分裂に終止符を打った。
天下統一後の太康の治と宮廷生活
太康の治と戸調式、統一後の経済政策
呉を滅ぼして天下を統一した司馬炎は、太康元年(280年)、土地や租税の管理を整えるために戸調式を制定した。
この制度には占田制、戸調制、品官占田蔭客制が含まれている。
占田制は人々が占有する田地の基準を定め、戸調制は戸を単位として租税を課すものだった。
また、品官占田蔭客制では、官僚の品位に応じて占有できる土地や、保護下に置ける人々の範囲が定められた。
『晋書』食貨志によると、呉の平定後は天下から戦乱がなくなり、賦税も公平になって、人々はそれぞれの仕事に励みながら平穏に暮らしていたという。
こうした繁栄の時代は、後に「太康の治」と呼ばれるようになった。
太康三年(282年)には、晋の戸数が三百七十七万戸に達している。
もっとも、土地や租税の制度には官僚の身分による違いも設けられており、誰もが同じ条件で土地を保有できたわけではなかった。
州郡兵の廃止と宗室諸王への軍事権限
天下統一を果たした司馬炎は、地方の軍事制度にも改革を加え、戦乱のない州では軍隊を廃止するよう命じた。
大きな郡には武吏百人、小さな郡には五十人だけを残し、刺史や太守には原則として民政を担当させ、軍事は都督や校尉に任せる方針である。
これによって兵士を民衆の戸籍に戻し、農業や租税を支える人口を増やすことができた。
戦争が終わった以上、大勢の兵士を養い続けるより、田畑を耕して税を納めてもらったほうが国としてもありがたい。
ただし、地方の兵力を減らせば、反乱や騒乱が起きた際に対応できなくなる恐れもあった。
そこで司馬炎が頼りにしたのが、司馬氏の一族である。
魏では宗室の力が弱く、司馬氏による権力掌握を防げなかった。その教訓から、司馬炎は宗室の諸王に軍事指揮権を与え、各地の重要地域を守らせようとした。
建国直後は諸王を京師にとどめて官職に就かせることもあったが、その後は封国や地方の要地へ配置し、軍隊を統率させるようになった。
後宮一万人の宮廷生活と盛り塩の由来
天下を統一した司馬炎だったが、今度は別の意味で忙しくなっていく。
建国当初は倹約を命じる詔を繰り返し出していた司馬炎だが、女性に関してはどうも倹約する気がなかった。
泰始年間(265年~274年)には良家の娘たちを広く選んで宮中に迎え、三夫人や九嬪などの地位に就けていた。
このとき選ばれたのは、司徒の李胤、鎮軍大将軍の胡奮、廷尉の諸葛沖、太僕の臧権、侍中の馮蓀、秘書郎の左思らの家の娘たちである。
泰始九年(273年)七月には、公卿以下の官僚の娘たちを後宮へ迎えるため、選抜が終わるまで婚姻を一時的に禁止した。
同年十月には、十七歳になっても娘を嫁がせていない家について、地方官が結婚相手を決めるよう命じている。
結婚を禁じたかと思えば、今度は結婚相手まで役人に決めさせる。娘を持つ家も、皇帝の都合に振り回されて大変だっただろう。
そして呉を滅ぼすと、司馬炎の後宮はさらに凄まじいことになった。
太康二年(281年)三月、司馬炎は孫皓の後宮にいた女性五千人を選び、晋の宮中へ迎えるよう命じた。
こうして司馬炎の後宮には、一万人近くの女性が集まったという。
これだけ集めてしまうと、今度は誰のところへ行けばいいのか決められなくなってしまった。
そこで司馬炎は画期的なことを思いつく。
それは羊に引かせた車で後宮を巡るという方法で、羊が止まった場所の女性のもとで夜を過ごすというものだった。
後宮の女性たちも黙って羊任せにしていたわけではない。
司馬炎の寵愛を得ようと、羊が好む竹の葉や塩を自分の部屋の前に置き、なんとか車を止めようとしたという。
皇帝の気を引く前に、まず羊の気を引かなければならないため、後宮では羊の好みを研究していた。
この逸話は、現在でも店先や玄関に塩を盛る「盛り塩」の由来の一つとして知られている。
何曾・何劭の豪華な食事と王愷・石崇の競富
司馬炎が天下統一を果たすと、晋の皇族や高官たちは大きな地位と財産を手に入れ、金の使い道までおかしくなってしまった。
その代表格が、司馬炎の重臣だった何曾である。
何曾は毎日の食事に一万銭もの大金を費やしていたが、それでも満足できる料理がないと不満を漏らし、箸を置く場所がないとまで言い出した。
この贅沢ぶりは息子の何劭にも受け継がれていた。
何劭は各地から珍しい食材を集めさせ、毎日の食事に倍の二万銭を費やしていたという。
さらに、金持ち同士の張り合いがとんでもない騒動に発展したのが、司馬炎の母方の叔父である王愷と、富豪として知られる石崇だった。
王愷はあるとき、司馬炎から下賜された珍しい珊瑚を石崇に見せびらかした。
ところが石崇は、その珊瑚を鉄の如意で叩き割ってしまった。
当然ながら王愷は激怒したが、石崇は弁償すると言い出し、自分の所有する珊瑚を持ってこさせた。
すると、そこには王愷のものより大きく、美しい珊瑚がいくつも並んでいたのである。
王愷は何も言えなくなってしまったという。
こうした贅沢三昧の一方で、司馬炎自身の政治にも厳しい批判が向けられていた。
劉毅は「桓帝や霊帝は官職を売っても、その金銭は官の倉庫に入りました。しかし陛下が官職を売った金銭は、個人の家に入っています。この点では、陛下は桓帝や霊帝にも及ばないのではありませんか」と述べた。
つまり、あの桓帝や霊帝でさえ売官の収入は国に入れていたのに、司馬炎の場合は個人の懐に入っているというのである。
皇帝本人を目の前にして、よりによって桓帝や霊帝以下だと言い放つのだから、劉毅も相当な度胸だった。
ところが司馬炎は、この批判を聞いて笑ったという。
『晋書』には司馬炎が倹約を奨励し、華美な服装や贅沢な品物を禁じた記録も残されている。
その一方で、後宮の拡大や貴族の奢侈、売官への批判も記されており、当時の宮廷生活には異なる側面があった。
司馬炎の晩年と皇位継承
司馬衷の皇太子問題
天下統一を成し遂げた司馬炎だったが、ここで一つ、どうにも解決しがたい問題を抱えていた。
次の皇帝を誰にするかという、国家の将来を左右する問題である。
司馬炎は泰始三年(267年)正月丁卯日、息子の司馬衷を皇太子に立てていた。
ところが、この司馬衷は成長するにつれて政治的な判断能力を疑問視されるようになり、本当に皇帝にして大丈夫なのかという声が出始めた。
和嶠は司馬炎に「皇太子には古風で素朴な気質があります。しかし、今の世には偽りが多く、陛下の後を継いで政務を担えるかどうか心配です」と進言した。
しかし、司馬炎は何も答えなかった。
その後、司馬炎は皇太子の成長ぶりを確かめようと、荀顗や荀勗、和嶠らに意見を求めた。
荀顗と荀勗は司馬衷の成長を褒めたが、和嶠だけは「以前と変わりません」と答えた。
これを聞いた司馬炎は不機嫌になり、席を立ってしまった。
それでも和嶠は皇太子の将来を心配して諫言を続けたが、司馬炎がその意見を受け入れることはなかった。
司馬衷の能力を物語る有名な逸話がある。
後に皇帝となった司馬衷は、飢饉で食べ物がなく、多くの民衆が餓死しているという報告を受けた。
すると司馬衷は、どうして肉粥を食べないのかと尋ねたという。
食べる物がないから餓死しているのに、なぜ肉粥を食べないのか。
肉粥が食べられるなら、そもそも餓死する人間などいないだろう。
どこかで聞いたことのある話だが、この発言は司馬衷が皇帝になってからで、彼の世間知らずぶりを伝える逸話として知られている。
司馬衷の能力が問題視される一方、その長男である司馬遹は幼いころから聡明で、祖父の司馬炎に高く評価されていた。
司馬炎は孫をたいそうかわいがり、いつもそばに置いていた。
ある夜、宮中で火災が発生したときのこと。
五歳だった司馬遹は司馬炎を暗い場所へ連れていき、突然の騒ぎでは君主の姿を人目にさらしてはいけないと進言した。
火事で周囲が騒然としている中、わずか五歳の子供が皇帝の身の安全を考えて行動したのである。
司馬炎もこれには驚き、孫の聡明さに感心したという。
司馬炎は司馬遹の背中をなでながら、廷尉の傅祗に「この子は我が家を興すだろう」と語った。
さらに群臣の前でも司馬遹は祖先の司馬懿に似ていると褒め、その評判は天下に広まっていった。
このように司馬炎は孫の司馬遹に大きな期待を寄せ、皇太子の地位を変更することはなかった。
司馬攸と将軍達の死
司馬炎の弟である斉王司馬攸は、以前から才能と人望に優れ、父の司馬昭が後継者に望んでいた人物だった。
司馬炎が病に倒れた際には、朝廷で司馬攸への後継者としての期待が高まった。
しかし、荀勗は司馬攸が皇位を継げば自分の立場が危うくなると考え、馮紞を通じて司馬炎に働きかけた。
馮紞は司馬炎に、司馬攸は人望が厚いため、本人にその気がなくても、将来は周囲から皇位に推されかねないと訴えた。
そして、司馬攸を封国へ帰し、皇太子司馬衷の地位を安定させるよう進言した。
司馬炎はこの意見を受け入れ、司馬攸を朝廷から離す方針を決めた。
太康二年(281年)には大司馬・陳騫、翌太康三年(282年)には太尉・賈充が亡くなった。
太康三年(282年)十二月、司馬炎は斉王司馬攸を大司馬・督青州諸軍事に任命した。
また、琅邪王司馬伷を撫軍大将軍、汝南王司馬亮を太尉、山濤を司徒、衛瓘を司空に任命し、朝廷の人事を整えた。
ところが太康四年(283年)には、山濤、司馬攸、司馬伷が相次いで亡くなってしまう。
司馬炎は同年十一月に魏舒を司徒に任命したが、太康五年(284年)には杜預、太康六年(285年)には撫軍大将軍に昇進していた王濬まで亡くなった。
かつて呉を滅ぼすために奔走した将軍たちも、今では一人、また一人と姿を消していく。
天下統一からまだ数年しか経っていないというのに、晋を支えた顔ぶれはずいぶん変わってしまった。
各地で続く混乱と宗室人事
この頃、地方でも問題が起きていた。
太康八年(287年)には南康郡平固県の李豊、海安令の蕭輔、呉興の蔣迪らが相次いで挙兵したが、いずれも州郡の官軍によって鎮圧された。
太康九年(288年)には干ばつや虫害が各地に広がり、司馬炎は地方官の汚職を取り締まるとともに、清廉な人物を登用するよう命じている。
太康十年(289年)には司馬炎自身も病気になったが、十一月には回復し、王公以下の臣下に絹布を下賜した。
しかし同じ月には、守尚書令・左光禄大夫の荀勗が亡くなっている。
司馬炎は汝南王司馬亮を大司馬・大都督に任命して仮黄鉞を与え、宗室諸王の封爵と軍事上の配置を改めた。
南陽王司馬柬を秦王、始平王司馬瑋を楚王、濮陽王司馬允を淮南王に改封し、それぞれに仮節を与えて各州の軍事を統率させたのである。
重臣たちが相次いで亡くなる中、司馬炎は宗室の諸王に軍事を任せ、晋の支配体制を維持しようとしていた。
司馬炎の死、司馬衷への皇位継承
太熙元年(290年)正月辛酉日、司馬炎は年号を太熙に改めた。
同月己巳日には、尚書左僕射の王渾を司徒、司空の衛瓘を太保に任命した。
二月には琅邪王司馬覲が亡くなり、三月甲子日には右光禄大夫の石鑒を司空に任命した。
四月辛丑日、司馬炎は侍中・車騎将軍の楊駿を太尉に任命した。
さらに都督中外諸軍と録尚書事の職務を兼ねさせ、朝廷内外の軍事と重要な政務を統括する立場に置いた。
その後も司馬炎の病状は回復せず、太熙元年(290年)四月己酉日、西暦5月16日に含章殿で亡くなった。
享年五十五歳、皇帝としての在位期間は二十五年だった。
司馬炎は峻陽陵に葬られ、廟号を世祖、諡号を武皇帝とされた。
司馬炎の死後、皇太子だった司馬衷が皇位を継承した。
司馬衷は晋の第二代皇帝となり、後に恵帝と呼ばれる。
司馬炎の死後の晋と歴史的評価
賈南風の政変と八王の乱、司馬炎の死後に揺らいだ西晋
二代目皇帝となった司馬衷は、以前から政治的な判断能力を疑問視されており、朝廷をまとめることは難しかった。
そこで実権を握ったのが、司馬炎の晩年に太尉・都督中外諸軍・録尚書事に任命されていた楊駿である。
ところが、司馬衷の皇后である賈南風にとって、楊駿は自分の権力を邪魔する存在だった。
司馬炎が亡くなってから一年も経たないうちに、賈南風は政変を起こして楊駿を殺害した。
皇帝が代替わりした途端、今度は皇帝を補佐する人間同士で殺し合いが始まったのである。
しかも、楊駿を排除したところで権力争いが終わるわけではない。
宮廷では皇族や重臣たちの対立が深まり、朝廷の主導権をめぐる争いはますます激しくなっていった。
ここで問題となったのが、司馬炎が生前に進めていた宗室諸王への軍事権限の分配だった。
司馬炎は、魏の皇族が弱体化した結果、司馬氏に実権を奪われたことを踏まえ、自分の一族を各地の諸王に封じていた。
さらに重要地域を守らせるため、諸王には軍事指揮権まで与えていたのである。
司馬氏の天下を守るための制度だったが、中央で権力争いが始まると、諸王たちはその軍事力を互いに向けるようになった。
こうして皇族同士が争う、後に八王の乱と呼ばれる大規模な内乱へと発展していった。
八王の乱では皇族同士の戦闘が長期にわたり、西晋の政治と軍事は大きく混乱した。
永寧元年(301年)には天下が乱れ、司馬炎の時代に州郡兵を削減したことも、地方の治安を維持するうえで問題となった。
さらに北方の諸勢力との戦争によって西晋は弱体化し、建興四年(316年)、劉曜が長安を攻略して皇帝の司馬鄴を捕らえたことで西晋は滅亡した。
その後、司馬睿が江南で東晋を建て、司馬氏の王朝は存続することになる。
三国統一の功績と、史書に残された司馬炎の評価
司馬炎は魏から禅譲を受けて西晋を建国し、呉を滅ぼして天下を統一した皇帝である。
その一方、宮廷の奢侈や売官、後継者問題などについては、当時の臣下や後世の人物から厳しい批判も受けた。
何曾は司馬炎が皇帝になる前、その才能を高く評価していた。
しかし、即位後には国家の将来について不安を口にしている。
何曾は「陛下は大業を開かれたが、私が宴席でお会いするたび、国家の将来を見据えた遠大な計画について語られることはなく、いつも日常の話ばかりである。これでは子孫のために国家の将来を考えることにならない。陛下の在世中はよくても、後継者の時代は危ういのではないか」と述べた。
陸雲は「世祖武皇帝は朝廷に臨んで静かに政務を執り、倹約をもって世を教えた。即位してから二十六年の間、宮殿や楼台を新たに建設することなく、たびたび詔を出して奢侈を厳しく戒めた」と、司馬炎の倹約を高く評価した。
干宝の『晋紀総論』には、太康年間の繁栄について、文字や車の軌道が統一され、田畑には余った穀物が残り、旅人が宿に泊まる際にも村の門を閉じる必要がなかったと記されている。
当時は、天下に貧しい人がいないという言葉まであったという。
唐の虞世南は「武帝が天下を統一した功績を、誰が否定できようか。しかし、国家を創建し、子孫へ受け継がせるという点では欠けていた」と評した。
さらに、呉を平定した後の司馬炎が政治を怠り、馮紞の讒言を用いて和嶠の諫言を退けたことを批判した。
そして司馬炎の死後、天下が大きな混乱に陥ったことを挙げ、何曾が抱いた懸念は現実になったと述べた。
司馬炎は呉を滅ぼして三国時代を終わらせ、統一後には農業振興や税制の整備、地方統治の改善などを進めた。
しかし、売官や宮廷の奢侈を許し、皇太子の能力をめぐる問題を解決できず、宗室諸王に強い軍事権限を与えたことは、後の西晋に大きな影を落とすことになった。
参考文献
- 晉書 : 帝紀第三 世祖武帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第一 高祖宣帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第二 世宗景帝 太祖文帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第十九 阮籍 嵇康 向秀 劉伶 謝鯤 胡毋輔之 畢卓 王尼 羊曼 光逸 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第一 后妃上 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第二 后妃下 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第二十四 陸機 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第十五 劉毅 程衛 和嶠 武陔 任愷 崔洪 郭奕 侯史光 何攀 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第九 王沈 荀顗 荀勗 馮紞 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 志第八 律曆下 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻080 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻081 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻082 – 维基文库,自由的图书馆
- 司馬炎 – 维基百科,自由的百科全书
司馬炎のFAQ
司馬炎の字(あざな)は?
字は安世(あんせい)です。
司馬炎はどんな人物?
魏から禅譲を受けて西晋を建国し、呉を滅ぼして中国を統一した皇帝です。
農業振興や税制改革を進めた一方、宮廷の奢侈や売官、後継者問題などについても批判を受けました。
司馬炎の最後はどうなった?
太熙元年(290年)四月己酉日、5月16日に享年五十五歳で亡くなりました。
司馬炎は誰に仕えた?
魏の朝廷に仕え、給事中や奉車都尉、中塁将軍、中護軍などを歴任しました。
父の司馬昭から晋王と相国の地位を継ぎ、魏から禅譲を受けて皇帝に即位しました。
司馬炎にまつわるエピソードは?
司馬炎は臣下の劉毅から、後漢の桓帝や霊帝よりもひどいと厳しく批判されたことがあります。
しかし、司馬炎は怒ることなく笑って応じ、厳しい諫言も受け止める度量を見せました。
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