1分でわかる忙しい人のための阮咸の紹介
阮咸(げんかん)、字は仲容(ちゅうよう)、出身は陳留郡尉氏県、生没年(?~?)
魏から西晋にかけて生きた人物で、阮籍の甥にあたり、「竹林の七賢」の一人に数えられる。
礼法にこだわらない自由奔放な性格で、世間から非難されながらも、親しい人々と酒や音楽を楽しんでいた。
七夕には裕福な一族が豪華な衣服を干す中、粗末な下着を庭に掛け、酒宴では大きな器の酒を豚と一緒に飲んだ。
また、母の喪中には、身ごもっていた鮮卑出身の女性が叔母に連れていかれると、客から乗り物を借りて追いかけ、連れ戻した。
山濤から人材登用の役職に推薦されたが、晋武帝には酒好きで礼法に反する振る舞いを理由に用いられなかった。
一方で音律に深く通じ、琵琶の演奏にも優れており、音律をめぐって荀勗と対立し、始平太守に転任した。後世にはその名が楽器「阮咸」の名称として残った。
阮咸の生涯を徹底解説!竹林の七賢として礼法にとらわれず、荀勗と音律を争った琵琶の名手と楽器「阮咸」の由来
阮咸の出自と竹林の七賢の交流
阮咸は陳留郡尉氏県の出身で、曹魏の時代に生まれ、竹林の七賢の中では王戎に次いで若かった。
祖父の阮瑀は曹操に仕えた建安七子の一人で、文章を書くことにかけては当代屈指の人物だった。父の阮熙も武都太守を務めている。叔父に阮籍がいる。
阮籍は、酒を飲んでは奇行を繰り返し、礼法など知ったことではないとばかりに世間の常識を無視して生きていた人物である。
そして阮咸もまた、叔父に負けず劣らずの自由人に育ってしまった。
阮咸は阮籍とともに嵇康、山濤、向秀、劉伶、王戎らと交遊し、竹林の七賢の一人に数えられた。
この集団、思想家や文人としては優秀なのだが、世間の常識には従わず、酒を飲んだり、楽器を演奏したり、歌を歌ったりしている。しかも本人たちは実に楽しそうなのである。
礼法を守って真面目に暮らしている人々からすれば、腹立たしいことこの上ない。
阮咸は普段は世間との付き合いを避け、気の合う仲間とだけ酒や音楽を楽しんでいた。特に一族の阮脩とは気が合い、よく一緒に過ごしていたという。
叔父の阮籍も相当な人物だったように、阮氏の教育には少々問題があったっぽい。
逸話1:七夕に粗末な下着を干す
阮咸と叔父の阮籍は、道を挟んで北側には裕福な親戚たちが住んでいたが、南側に住む二人には金がなく貧乏組だった。
さて、当時は七月七日になると、衣服を外に干す習慣があった。
北側の金持ち連中は、ここぞとばかりに高級な錦や絹の衣服を並べ、庭先を豪華な衣装の展示会にしていた。
阮咸も庭に竿を立て、何かを干し始める。
ところが、そこにぶら下がっていたのは、粗末な布で作られた犢鼻褌(とくびこん)という短い下着だった。
不思議に思った人が、どうしてそんなものを干しているのか尋ねると、阮咸は「世間の習慣からは逃れられないので、私も少しだけ従ってみただけだ」と答えた。
確かに衣服を干すという習慣には従っている。だが、よりによって下着一枚で参加する必要があったのだろうか。
金持ちの親戚たちも、まさか自慢の絹織物がパンツ一枚に話題を奪われるとは思わなかっただろう。
逸話2:母の喪中に鮮卑の女性を追いかける
阮咸は以前から、叔母の家にいた鮮卑出身の女性と男女の関係になっていた。
阮咸の母親が亡くなり、阮咸は喪に服しているとき、叔母が夫の家へ帰ることになる。
叔母は家にいた婢女を残していくと言っていたのだが、出発するときには連れていってしまった。
これを知った阮咸は大慌てである。
客から乗り物を借りると、喪中であることなどお構いなしに叔母の一行を追いかけ、婢女を連れ戻しにいった。
『世説新語』によれば、阮咸は「腹の中の子まで失うわけにはいかない」と言ったという。
当時は親の喪に服している間、慎み深く過ごすことが求められていた。
そんな時期に女性を追いかけたのだから、当然世間から非難された。
やがて婢女は男の子を出産した。阮咸は叔母に手紙を送り、「鮮卑の婢女が男の子を産みました」と報告した。
すると叔母は、『魯霊光殿賦』にある「胡人が遠くから集まって殿上の梁にいる」という一節を引き合いに出し、「この子の字を『遥集』にするとよい」と返事をした。
こうして生まれたのが、後に西晋で官職を歴任する阮孚である。
逸話3:宴会で酒を豚と一緒に飲む
阮咸は大の酒好きだったが、阮氏一族も負けてはいなかった。
一族が集まって宴会を開くと、杯など使わず、大きな器に酒を注ぎ、みんなで囲んで回し飲みをしていた。
そんなある日、宴会の最中に豚の群れがやって来て、器に入った酒を飲み始めた。
普通なら追い払うところだが、阮咸はまったく気にせず、そのまま豚と一緒に酒を飲み続けた。
ちなみに、阮氏一族の従兄弟たちも自由奔放に振る舞っていたが、叔父の阮籍はそうした行動を認めなかったという。
同じ竹林の七賢でも、阮籍と阮咸では自由の意味が少し違っていたようだ。
山濤の推薦と晋武帝に認められなかった阮咸
西晋の初期(270年頃)、阮咸は散騎侍郎として朝廷に仕えていた。
そんな阮咸に出世のチャンスがやって来る。
同じ竹林の七賢である山濤が、官吏の人事を担当する吏部郎に阮咸を推薦したのだ。
山濤の阮咸に対する評価はかなり高かった。
清廉で欲が少なく、人間を見る目にも優れている。人材を選ばせれば、阮咸ほど適任の者はいないという。
山濤が司馬炎の信任厚く、ここまで褒められたら採用されてもよさそうなものだが、司馬炎は首を縦に振らなかった。
司馬炎にとって阮咸は、酒に溺れて好き勝手に振る舞っている人物だった。
どれだけ人を見る目があっても、普段から豚と同じ器で酒を飲んでいる男に人事を任せるのは不安だったのだろう。
もっとも、阮咸を評価した人物は山濤だけではない。
太原出身の郭奕は見識のある人物として知られ、滅多に他人を褒めなかったが、阮咸に会ったときには感服して称賛したという。
酒癖だけを見れば豚と酒を飲む変人だが、人を見る目は山濤のお墨付きで、郭奕まで唸らせている。
阮咸は酒を飲んでいないところだけ見れば、かなり優秀だった。
音律に精通した阮咸と荀勗の対立
酒と奇行ばかりが目立つ阮咸だが、ただの変人ではない。
音楽に関しては「神解」と称されるほどの才能を持ち、琵琶だけでなく音律にも精通していた。
西晋が成立すると、晋武帝・司馬炎は朝廷で使う音楽を整えようとした。
ところが漢から魏へと時代が移る間に、古い音律の制度や記録が失われている。
そこで、この国家事業を任されたのが中書監の荀勗だった。
荀勗は古い制度を調べながら楽器を作り、これで朝廷の音楽も復活するはずだった。
そこへ阮咸が現れ、完成した音を聞くなり間違っていると指摘した。
阮咸が問題にしたのは演奏方法ではない。楽器を作るときに使った物差しだった。
当時の尺は古代の尺より長くなっており、それを基準に楽器を作ったため、音まで高くなっているという。
国家事業として音律を復元したのに、完成してから物差しそのものが違うと指摘された。
荀勗も音律には詳しかったが、この分野では阮咸の方が一枚上手だった。
二人が議論するたびに荀勗は阮咸に及ばず、次第に彼を嫌うようになっていく。
そして荀勗が出した解決策は、音律をさらに研究することではなく、阮咸を始平太守にして地方へ飛ばした。
音律で勝てないなら、音律を語る人間を遠くへ送ればいい。これで荀勗を悩ませる男はいなくなった。
ところが、『晋書』楽志によれば、この話には続きがある。
荀勗が阮咸の音律に関する能力を認め、再び呼び戻したという記述もある
楽器「阮咸」の由来と後世に残された音楽
阮咸が得意としていた琵琶は、本人が死んでも後世に受け継がれ、阮咸の名が楽器の名前になってしまう。
『旧唐書』音楽志によると、唐の武則天の時代、蜀の蒯明が古い墓から一つの楽器を発見した。
長い棹に十三の柱を備えた楽器で、西域から伝わった曲項琵琶とは形が異なっていた。
ところが、竹林の七賢を描いた絵を見ると、阮咸が抱えている楽器とそっくりだった。
そこで付けられた名前が、そのまま「阮咸」である。
楽器を発明した人はいるが、自分が弾いていた楽器に名前を使われる人物は思いつかない。
この楽器は後に「阮」と略して呼ばれるようになり、月琴や秦琴にもつながっていった。さらに阮咸が楽器を演奏する姿は、南京西善橋の墓から出土した「竹林七賢と栄啓期」の画像などにも残されている。
そして海を越えた日本の正倉院にも、「桑木阮咸」と「螺鈿紫檀阮咸」が伝わっている。
西晋の朝廷では酒癖を理由に出世を阻まれた男の名前が、楽器の名前となって日本にまで残ったのである。
阮咸自身の事績やまとまった著作は残っていない。
竹林の七賢は礼法にとらわれない人物たちだったが、阮咸はさらにその先を行っていた。
身分や民族、礼法を超え、豚でも人間でも一緒に楽しむ。
ところが音律だけは違った。
そこは絶対に譲らないという、一つのこだわりがなんとも魅力的な人物だった。
参考文献
- 晉書 : 列傳第十九 阮籍 嵇康 向秀 劉伶 謝鯤 胡毋輔之 畢卓 王尼 羊曼 光逸 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 志第十二 樂上 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 志第六 律曆上 – 中國哲學書電子化計劃
- 世說新語 : 術解 – 中國哲學書電子化計劃
- 世說新語 : 任誕 – 中國哲學書電子化計劃
- 阮咸 – 维基百科,自由的百科全书
阮咸のFAQ
阮咸の字(あざな)は?
字は仲容(ちゅうよう)です。
阮咸はどんな人物?
魏から西晋にかけて生きた竹林の七賢の一人で、阮籍の甥です。
酒を好み、礼法にとらわれない自由奔放な行動で知られる一方、音律に深く通じ、琵琶の演奏にも優れていました。
阮咸の最後はどうなった?
阮咸は荀勗との音律をめぐる対立の後、始平太守となりました。
『晋書』には天寿を全うしたと記されていますが、具体的な没年は分かっていません。
阮咸は誰に仕えた?
阮咸は西晋の司馬炎に仕えました。
阮咸にまつわるエピソードは?
母の喪中には、叔母に連れていかれた鮮卑出身の女性を追いかけて連れ戻し、世間から非難されました。
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