于禁:五子良将と称されながら関羽に降伏した末路【すぐわかる要約付き】

于禁
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1分でわかる忙しい人のための于禁の紹介

于禁(うきん)、字は文則(ぶんそく)、出身は泰山郡鉅平県、生没年(?~221年)

于禁は鮑信の兵から曹操に仕え、徐州、兗州、官渡など各地を転戦した武将である。
張繡との戦いで曹操軍が崩れた際にも自軍をまとめ、略奪を行った青州兵を討つなど、厳格な軍紀と高い統率力を示した。

官渡では延津を守って袁紹軍を防ぎ、各地の陣営を攻撃して大きな戦果を挙げた。
旧友の昌豨が降伏すると、軍令を守るため涙ながらに処刑し、この行為はのちに裴松之から厳しく批判された。
曹操から重用されて左将軍まで昇り、張遼、楽進、張郃、徐晃とともに、後世の「五子良将」の一人として知られている。

建安二十四年(219年)、于禁は樊城救援のため七軍を率いたが、漢水の大洪水によって軍を失い、関羽に降伏した。
その後は呉を経て魏へ帰還したものの、曹操の高陵で自らの降伏を描いた壁画を見せられ、恥じて憤り病気を発症して死去した。
死後には「厲侯」の諡号を贈られた。

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于禁の生涯を徹底解説!曹操軍での活躍から樊城の敗北、魏帰還後の屈辱的な最期

鮑信の兵から曹操の将軍へ

中平六年(189年)、大将軍の何進は騎都尉・鮑信を故郷の泰山へ派遣し、兵を集めさせた。
しかし鮑信が戻るころには何進はすでに殺害され、董卓が洛陽で権力を握っていた。
鮑信は袁紹に董卓を襲撃するよう勧めたが受け入れられず、泰山へ戻って二万人の兵を集める。
于禁もこの時、鮑信の軍へ加わった。

初平三年(192年)、鮑信らは曹操を迎えて兗州牧とし、曹操は兗州へ進出していた黄巾の残党を迎え撃った。鮑信は寿張の東で力戦して戦死し、于禁は仲間とともに曹操のもとへ赴いて都伯となり、将軍・王朗の配下に入った。
なお、ここに登場する王朗は、のちに会稽太守となり魏に仕えた王朗とは別人である。

その王朗が于禁を見て、とんでもないことを言い出した。
「こいつなら大将軍まで任せられる」と曹操に推薦したのである。ついさっきまで鮑信軍の一兵士だった男に、いきなり大将軍の値札がついた。

さすがに曹操も「どれどれ」と、于禁を呼び出して直接話をした。
すると王朗の大風呂敷もまんざらではないと能力を認め、曹操は軍司馬に任命した。

徐州攻略から呂布との兗州争奪戦へ

初平四年(193年)秋、曹操が陶謙を攻めると、于禁も兵を率いて徐州へ向かった。
于禁は広威を攻め落とし、その功績によって陷陣都尉に任命された。

興平元年(194年)夏、曹操が再び陶謙を討つため徐州へ遠征する。
家を空けた瞬間、侵入する泥棒並みに素早く張邈、張超、陳宮らが呂布を兗州牧に担ぎ上げ、曹操の留守宅を奪いにかかる。
しかし于禁は濮陽城の南で呂布軍の二つの陣営を撃破し、さらに別働隊を率いて須昌で高雅を破った。

興平二年(195年)春、曹操が兗州へ戻ると呂布側は次第に劣勢となった。
于禁は曹操に従って寿張、定陶、離狐を攻め、いずれも攻略した。
同年八月、張超は兄の張邈の命を受け、一族を守るため雍丘に籠城し、曹操軍の猛攻を受けることになる。

曹操は雍丘を包囲し、于禁もこの攻撃に加わった。
十二月、雍丘は陥落し、張超は自殺した。
これによって兗州をめぐる呂布勢力との戦いは大きく曹操側へ傾き、于禁もその平定戦を支えた。

黄巾軍の夜襲を撃破し平虜校尉となる

建安元年(196年)二月、曹操は汝南・潁川に残っていた黄巾の残党を討伐した。
何儀、劉辟、黄邵、何曼らはそれぞれ数万の兵を率いており、于禁もこの討伐に従軍して版梁に駐屯する。

黄邵らが夜間に曹操の陣営を襲撃すると、于禁は麾下の兵を率いて迎撃し、これを撃破。
さらに劉辟、黄邵らを斬り、その軍勢をことごとく降伏させた。
この戦功によって于禁は平虜校尉へ昇進している。

張繡の反乱で見せた「古の名将」を超える統率

建安二年(197年)正月、曹操は宛へ進軍し、張繡を降伏させた。
しかし張繡が反乱し、曹操軍は敗北して舞陰へ撤退することになる。
軍は大混乱に陥り、多くの兵がばらばらになって曹操のもとへ逃げ帰った。

ところが于禁だけは自ら率いる数百人をまとめ、敵と戦いながら撤退を続ける。
死傷者が出ても部隊を離散させず、追撃が緩むと隊列を整え直し、鼓を鳴らして堂々と帰還した。

曹操のもとへ着く前、于禁は傷を負い、裸で逃げてくる十数人を見つけた。
事情を尋ねると、敵にやられたのではなく、味方の青州兵に略奪されたという。
黄巾から降伏して編成された青州兵は曹操から寛大に扱われており、その立場を利用して略奪まで始めていた。

これを聞いた于禁は怒り、「青州兵も曹公の兵である。それなのに賊となるのか」と兵に命じ、青州兵を討って罪を追及した。
すると青州兵は于禁より先に曹操のもとへ駆け込み、逆に于禁を訴える。
敵と戦いながら撤退していたはずが、途中から味方まで討つことになり、その味方から告げ口までされた。ずいぶん忙しい撤退戦である。

周囲の者は、急いで曹操のもとへ行って弁明するよう勧めた。
しかし于禁は、敵が背後にいていつ追撃してくるか分からない以上、まず防備を整えるのが先だと退ける。
曹操は聡明なのだから、讒言だけを聞いて判断することもないと言い、そのまま塹壕を掘り始めた。

自分が告げ口されている最中に、本人はせっせと陣地を作っている。
于禁は陣営を完成させてからようやく曹操に面会し、事情を詳しく説明した。
曹操はこれを喜び、淯水で自分が危機に陥る中、混乱を収拾して略奪者を討ち、堅固な陣営まで築いた于禁の節義を称賛し、「古の名将であっても、これ以上ではない」とまで評価した。

曹操はこれまでの功績も合わせて評価し、于禁を益寿亭侯に封じた。

袁術・張繡・呂布を相手に転戦する

建安二年(197年)九月、袁術が陳へ侵攻すると、曹操は自ら討伐に向かう。
曹操が来たと知った袁術はさっさと逃走し、橋蕤、李豊、梁綱、楽就らを残していった。
于禁も苦県で橋蕤を包囲し、橋蕤ら四将を斬っている。

建安三年(198年)三月には、曹操に従って穰で張繡を攻撃。
同年九月には呂布討伐に参加し、下邳で呂布を捕らえる戦いにも加わった。
于禁は徐州、兗州、豫州方面をまたぎ、曹操軍の主要な戦役を転戦していく。

建安四年(199年)四月には、史渙、徐晃、曹仁、楽進らとともに射犬で眭固を攻撃した。
張楊の元部下だった眭固も、この戦いで撃破され斬られている。

官渡前哨戦、延津を守り袁紹軍を各地で撃破

建安四年(199年)、曹操と袁紹の対立が避けられないものとなった。
相手は強大な勢力を誇る袁紹軍だが、于禁は自分から先陣を志願する。
どうせ戦うなら真っ先に行かせろというわけで、曹操もこの威勢のよさを買い、歩兵二千人を預けて延津の守備を任せた。
そして曹操自身は官渡へ軍を移している。

建安五年(200年)正月、劉備が徐州で曹操に反旗を翻した。
あっちもこっちも火種だらけで、曹操もなかなか落ち着いて戦争ができない。
仕方なく自ら徐州へ討伐に向かうと、その隙に袁紹が延津へ攻め寄せた。
しかし、留守番を任された于禁はびくともせず、袁紹軍は二千人の守る延津をとうとう落とせなかった。

今度は楽進らとともに、歩兵・騎兵あわせて五千人を引き連れ、袁紹軍の別働隊を叩きに出かける。
延津から黄河に沿って南西へ進み、汲県から獲嘉県まで進撃する。
守備を任されていた男が、いつの間にやら敵の陣地を襲う側に回っていた。

袁紹軍の砦や集落など三十余か所を焼き払い、数千人を斬り殺したうえ、さらに数千人を捕虜にした。
何茂、王摩ら二十余人の将まで降伏するという有様で、延津を攻めたばかりに、とんでもない厄介者を呼び覚ましてしまった。

これだけ暴れた于禁に、曹操はさらに仕事を追加した。
原武へ移って駐屯し、今度は杜氏津にいる袁紹の別軍を攻撃せよというのである。
于禁は注文どおり敵軍を撃破し、その功績によって裨将軍へ昇進した。

官渡で矢の雨を耐え抜き偏将軍へ

建安五年(200年)、于禁は官渡へ戻り、曹操の本隊に合流した。
曹操と袁紹は互いに陣営を連ね、それぞれ土山を築いて睨み合っていた。

袁紹軍は曹操軍の陣地へ大量の矢を射込み、兵士たちを次々と死傷させた。
頭を出せば矢が飛んでくる。かといって、頭を引っ込めてばかりでは戦にならない。
曹操軍の兵士たちは恐怖に包まれたが、于禁は土山の守備を督励し、自らも激しく戦って味方を奮い立たせた。

官渡の戦いで袁紹が敗北すると、于禁は偏将軍へ昇進した。

博望で劉備の伏兵に敗れる

建安七年(202年)、于禁は夏侯惇とともに南方で劉備を迎撃した。
劉備は陣営を自ら焼き払って撤退したように見せ、夏侯惇らを誘い出した。
夏侯惇と于禁が追撃すると、伏兵によって撃破された。

李典が救援に向かい、劉備は援軍が到着したことを確認すると撤退した。

軍法を守るため旧友・昌豨を涙ながらに斬る

建安十一年(206年)、何度も反乱していた昌豨がまた反乱を起こした。
于禁は臧覇らとともに討伐へ向かったが、なかなか攻略できず、曹操は夏侯淵まで援軍に送り込んだ。
両軍で攻め立てた結果、昌豨配下の十余屯が降伏した。

于禁はさらに攻撃を急ぎ、昌豨を追い詰めた。
もはや勝ち目がないと悟った昌豨は、以前から親交のあった于禁のもとへ出向いて降伏した。

諸将は、降伏した昌豨を曹操のもとへ送り、処置を任せるべきだと考えた。
しかし于禁は、曹操が定めた「包囲された後に降伏した者は赦さない」という軍法を持ち出した。

于禁にとって、法を守り、命令を実行することこそ主君に仕える者の節義だった。
旧友だからといって、その節義を曲げるわけにはいかない。
于禁は昌豨に最後の別れを告げ、涙を流しながら斬った。

このとき淳于にいた曹操は、昌豨が自分ではなく于禁に降伏したと聞くと、その運命を嘆いたという。
曹操自身も、于禁では助からないと分かっていたらしい。
そして曹操は、そんな于禁をますます重く見るようになった。

張遼・楽進との不和と曹操軍の名将たち

于禁が潁陰、楽進が陽翟、張遼が長社に駐屯していた頃、三人は互いに折り合いが悪かった。

そこで曹操は趙儼を三軍の軍事に参与させ、諸将の仲裁役を任せた。
趙儼は何か問題が起こるたびに事情を説明し、三人の関係を取り持った。
曹操軍の名将たちも、仲良くするには世話係が必要だったのである。

趙儼の働きによって諸将の関係は改善した。
その後、曹操が荊州へ進軍すると、趙儼は都督護軍に任命され、于禁、張遼、張郃、朱霊、李典、路招、馮楷の七軍を監督することになった。

陳蘭・梅成討伐で張遼の軍を兵糧で支える

建安十四年(209年)、陳蘭と梅成が灊県、六県方面で反乱を起こした。
曹操は于禁と臧覇らに梅成を攻撃させ、張遼には張郃、牛蓋らを率いて陳蘭を討伐させた。

于禁が攻め込むと、梅成は三千余人を引き連れて降伏した。
三千人もまとめて降伏してくるのだから、なかなか話の分かる男である。

ところが、于禁が撤退すると梅成は再び反乱を起こし、そのまま陳蘭と合流してしまった。
全然話の分かる男ではなかった。

陳蘭と梅成は灊山へ逃げ込み、天柱山に立て籠もった。
この天柱山、高さは二十余里もあり、道は険しく狭く、人が歩くのもやっとという難所だった。

張遼らは陳蘭と対峙したが、ここで兵糧が不足するという問題が発生した。
于禁は兵糧輸送を引き受け、輸送部隊が前後に連なるほど、次から次へと食料を送り届けた。

こうして兵糧を確保した張遼は攻撃を続け、ついに陳蘭と梅成を斬った。
戦後、于禁は食邑二百戸を加増され、それまでと合わせて千二百戸となった。

朱霊の軍を引き継ぎ左将軍となる

この頃、于禁は張遼、楽進、張郃、徐晃とともに、曹操軍を代表する良将として知られていた。
曹操が出征する時には交代で先鋒を務め、帰還する時には後衛を担当するなど、いずれも歴戦の武将たちである。
その中でも于禁は、特に軍の統率が厳しいことで知られていた。

于禁は敵から奪った財物を自分のものにせず、曹操から厚い恩賞を受けていた。
ただし、軍法に関しては一切容赦しない。
規則を破れば厳しく処罰するため、兵士たちからの人望はあまり高くなかった。
曹操にとっては頼もしい将軍でも、部下にとっては、できれば上司にしたくない男だったようである。

さて、曹操には以前から気に入らない武将がいた。朱霊である。
曹操は朱霊から兵権を取り上げようと考えて、選んだのが于禁だった。
于禁に数十騎だけを率いさせ、命令書を持って朱霊の陣営へ向かわせたのである。

相手は軍勢を率いる朱霊なのだから、力ずくで兵権を奪うには、数十騎じゃあ少なすぎる。
普通なら「は?おいこらボコすぞ」となるが、于禁が陣営に現れると、朱霊もその部下たちも恐れをなし、誰一人として抵抗しなかった。

その結果、朱霊は兵権を失い、于禁の部下として置かれた。
軍勢全体が于禁の威厳に服したほど、その存在は恐れられていた。
于禁は左将軍へ昇進し、節鉞を授けられ、食邑五百戸を分けて一人の子が列侯に封じられた。

樊城の戦いで七軍が水没、于禁は関羽に降伏する

建安二十四年(219年)、関羽が曹仁の守る樊城を攻撃した。
このとき長安にいた曹操は、七月に于禁へ救援を命じた。
長年にわたり曹操軍の先鋒や後衛を務め、左将軍にまで昇り詰めた于禁は、七軍を率いて関羽と対峙することになった。
ここで思わぬ敵が現れる。

この頃から樊城一帯では十余日も激しい雨が降り続いており、漢水は大増水し、周辺の平地は数丈もの水に沈んでしまった。
そして、于禁が率いる七軍もまとめて水没した。

于禁と諸将は高い場所へ登って辺りを見渡したが、逃げられる場所などどこにもない。
関羽と戦うためにやって来たのに、まともに戦うどころか、大洪水で身動きが取れなくなってしまったのである。

そこへ関羽が大船を率いて攻め込んできた。
于禁軍は陸上で戦うこともできず、完全に追い詰められ降伏した。
護軍の浩周や軍司馬の東里袞らも捕虜となったが、龐徳だけは降伏を拒み、関羽に斬られた。

関羽が捕虜にした于禁軍の歩兵・騎兵は、実に三万人に及んだ。
捕虜たちは江陵へ送られたが、これだけの人数を抱え込んだことで軍糧が不足し、関羽は湘関の米を取ることになった。

一方、于禁が降伏したと聞いた曹操は、長いこと嘆いていたという。
そして「于禁を三十年知っているが、危機と困難に直面して龐徳に及ばないとは思わなかった」と語った。

曹操にとっては、三十年かけて築いてきた于禁への信頼が、たった一度の戦いで揺らぐ結果となった。

孫権のもとで虞翻から罵られる

建安二十四年(219年)、孫権が関羽を攻撃して江陵を奪うと、捕虜となっていた于禁も呉の手に渡った。
孫権は于禁の拘束を解き、ある時には外出の際に自分と馬を並べて進ませるほどの待遇を与えた。

ところが、虞翻はこれが気に入らない。
虞翻は「お前は降伏した捕虜のくせに、なぜ我が君主と馬を並べているのだ」と于禁を怒鳴りつけ、鞭で打とうとした。
幸い孫権が制止したため、于禁は鞭打ちを免れた。

後日、孫権が楼船で群臣と宴会を開いた際、于禁は音楽を聞いて涙を流した。
すると虞翻は「涙を流して哀れみを買い、許してもらうつもりか」と、またしても于禁を責め立てた。
さすがの孫権も、これには顔をしかめた。

しかし虞翻の怒りは、これでも収まらなかった。
孫権が魏と和睦し、于禁を帰国させようとすると、今度は帰すこと自体に反対したのである。

虞翻は「于禁は数万の軍勢を敗北させ、自ら降伏して捕虜となりながら、死ぬこともできなかった男です。魏へ帰すくらいなら斬り、二心を抱く臣下への戒めとするべきです」と主張した。
孫権はこの進言も聞き入れなかったものの、于禁は何をすれば許してもらえるのか分からない。

そして于禁が帰国する際、虞翻はわざわざ「呉に人物がいないと思うな。私の策が採用されなかっただけだ」と言い放った。
虞翻は最後まで于禁に容赦しなかった。

ところが、ここまで散々な目に遭わされた于禁は、虞翻を大いに称賛したという。
于禁自身が軍法に厳しい男だっただけに、虞翻の言い分も理解できたのだろう。

白髪となって魏へ帰還、曹丕から安遠将軍を授けられる

黄初二年(221年)、劉備との戦いに備える孫権は魏との関係を固め、曹丕に臣従を表明した。
その中で、関羽の捕虜となった後に呉へ移されていた于禁を魏へ返還することになり、あわせて人質を送ることも約束した。
しかし、人質も于禁もなかなか魏へ到着しなかった。

曹丕は黄門侍郎の司馬孚に意見を求めた。
司馬孚は、孫権を疑って責め立てるのではなく、遠方の者には寛容に接し、兵馬を整えながら今後の動きを見守るべきだと答えた。
そもそも孫策から孫権まで勢力を保ってきた呉との関係が、于禁一人の帰国で左右されるわけではない。
于禁がまだ到着しないのも、何か事情があるのだろうというのである。

やがて于禁が魏へ帰還し、遅れていた理由が病気だったことも分かった。
司馬孚の言うとおり、ちゃんと事情があった。
ただし、孫権が約束した人質のほうは、結局いつまでたっても送られてこなかった。

さて、帰国した于禁は曹丕に謁見した。
かつて曹操軍の名将として各地を転戦した于禁も、今や髪もひげも真っ白になり、すっかりやつれ果てていた。
曹丕の前に出ると涙を流し、額を地面につけて謝罪した。

そんな于禁を曹丕は故事を使って慰めた。
春秋時代、晋の荀林父は邲で敗れ、秦の孟明視も殽で軍を失ったが、いずれも再び起用され、その後に功績を挙げている。
一度の敗北ですべてが終わるわけではないというのである。

『魏書』によれば、曹丕は樊城での敗北を突然の水害によるものとし、于禁らが戦闘で敗れたわけではないとして、官職を復するよう命じた。
于禁を安遠将軍に任命し、さらに曹丕が魏王だった頃に用いていた朱紱と遠遊冠まで于禁に与えている。
関羽に降伏し、呉では虞翻に散々罵られ、白髪になって帰ってきた于禁にとって、ようやく救いの手が差し伸べられた形であった。
今だけは。

曹丕が仕込んだ壁画に辱められ、不名誉な諡号「厲侯」を残す

黄初二年(221年)、曹丕は于禁を呉への使者として派遣することにした。
しかしその前に、鄴にある曹操の高陵を参拝するよう命じた。

実は曹丕、あらかじめ陵屋の壁に三人の姿を描かせていた。
関羽が戦いに勝つ姿、龐徳が怒る姿、そして于禁が降伏する姿である。

高陵を訪れた于禁は、自分が関羽に降伏する姿を目にした。
あまりの屈辱に激しく恥じ、憤った于禁は、そのまま病気を発症して死去した。

于禁の死後、子の于圭が益寿亭侯の爵位を継いだ。
そして于禁には「厲侯」という諡号が贈られた。
「厲」は無実の者を殺したり、暴慢で人と親しまなかったりした人物に与えられる悪い意味の諡号である。

この一件について、司馬光は『資治通鑑』で曹丕を批判している。
于禁が許せないのなら罷免するなり処刑するなりすればよい。それを墓の壁画で辱めるとは、君主としてふさわしい行いではないというのである。

敗北したのは洪水のせいだと慰めたのに、曹操の墓に描かれた降伏の壁画を見せつけるのだから、本当に何を考えているのか分からない。

名将から降将へ、于禁の評価

『三国志』の陳寿は、曹操の武功を支えた良将の中でも、于禁、張遼、楽進、張郃、徐晃の五人が筆頭だったと評価している。
この五人は後世に「五子良将」と呼ばれるようになった。
その中でも于禁は最も「毅重(意志が強く、慎重で威厳がある)」と称されたが、最後までそれを全うすることはできなかったと記されている。

陳寿は于禁の最後を厳しく評価したが、裴松之はさらに手厳しい。
問題にしたのは、かつて旧友の昌豨を涙ながらに処刑した一件である。

裴松之によれば、包囲された後に降伏した者を赦さないという軍法があったとしても、昌豨を曹操のもとへ送ることまで禁じられていたわけではない。
旧友にわずかな生存の可能性すら与えず、自ら斬った于禁について、好んで人を殺そうとする心をほしいままにしたと批判している。

そんな于禁が後に関羽へ降伏し、死後に悪い諡号を贈られたことまで、当然の報いだと評した。
昌豨には降伏しても許さず、自分は降伏して生き延びたのだから、確かに皮肉な話である。

しかし、ここで少し考えてみたい。
于禁は本当に、自分が死にたくないという理由だけで関羽に降伏したのだろうか。

三万の兵を抱え、全滅か降伏か。
于禁は命惜しさではなく、兵士を生かし、敵の兵糧を消耗させるために降伏したのかもしれない。
実際、関羽は捕虜の兵糧不足から湘関の米を奪い、その後、呉に背後を突かれて敗れた。

もちろん、戦術的降伏だったという証拠はない。
この降伏の中にこそ、軍の統率と兵士の命を重んじた于禁の武将としての真価が隠されている。

参考文献

于禁のFAQ

于禁の字(あざな)は?

于禁の字は文則(ぶんそく)です。

于禁はどんな人物?

于禁は軍律を厳格に守り、部隊の統率に優れた武将です。
曹操から高く評価され、張遼、楽進、張郃、徐晃とともに後世の「五子良将」の一人として知られています。

于禁の最後はどうなった?

魏へ帰還した後、曹操の高陵で自らの降伏を描いた壁画を見せられ、恥じて憤り、病気を発症して死去しました。
死後には「厲侯」の諡号を贈られました。

于禁は誰に仕えた?

最初は鮑信に仕え、鮑信の死後は曹操に仕えました。
魏へ帰還した後は曹丕から安遠将軍に任命されています。

于禁にまつわるエピソードは?

旧友の昌豨が降伏した際、于禁は軍令を守るため、涙を流しながら昌豨を処刑しました。
しかし于禁自身は後に関羽へ降伏しており、この点を裴松之から厳しく批判されています。

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