山濤:竹林の七賢から西晋の司徒へ栄達【すぐわかる要約付き】

山濤
山濤

1分でわかる忙しい人のための山濤の紹介

山濤(さんとう)、字は巨源(きょげん)、出身は河内郡懐県、(205年~283年)

魏から西晋にかけて活躍した政治家で、嵇康や阮籍らとともに竹林七賢の一人に数えられる。
老荘思想を好み、四十歳で官界に入った山濤は、司馬氏のもとで重用され、人材登用を担当した。
官職の候補者を一人ずつ評価した記録は「山公啓事」と呼ばれ、その人を見る目は高く評価された。

嵇康から絶交状を突きつけられながらも、最後には息子を託され、司馬炎の後継者問題では長子相続を支持した。
また、呉の平定後には地方軍備の削減に反対し、後の混乱を見通した発言を残している。
高官となっても清貧を守り、何度も引退を願い出たが、司馬炎は容易に手放そうとしなかった。
太康四年(283年)、七十九歳で亡くなり、司徒を追贈され、康の諡号を贈られた。

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山濤の生涯を徹底解説!司馬炎へ度重なる辞職願いを出すも出生し続けた名臣

山濤の出自と、竹林七賢としての交友

建安十年(205年)、山濤は河内郡懐県の出身で、祖父の山本は孝廉に推挙され、父の山曜も宛句県令を務めていた。
なかなか立派な家柄なのだが、山濤は幼くして父を亡くし、貧乏暮らしを余儀なくされた。

そんな山濤だが、若いころから器が大きく、他人に媚びることを嫌った。
愛読書は『老子』と『荘子』で、才能があっても世間にひけらかさず、ひっそりと暮らしていた。

とはいえ、人付き合いまで嫌っていたわけではない。
嵇康や呂安と親しくなり、後には阮籍とも出会っている。
彼らは竹林で交友を深め、しまいには言葉を交わさなくても互いの考えが分かるほどの仲になったという。
山濤は、後に竹林七賢と呼ばれる面々の中では最年長だった。

竹林七賢の一人である王戎は、山濤を「璞玉渾金、人莫知其器」と評している。
加工されていない玉や金のように、その真の価値や器量は容易には分からないという意味である。
目立つことを好まなかった山濤に対する、王戎ならではの評価だった。

四十歳で官界入りし、司馬懿と曹爽の対立を察知

山濤が官界に出たのは四十歳になってからだった。郡の主簿、功曹、上計掾を歴任し、孝廉に推挙されて河南従事となる。
遅いながらもなんとか就職したが、その就職先の魏がとんでもない職場になっていたことである。

当時、朝廷の実権を握っていたのは曹爽だった。曹爽は司馬懿を太傅という立派な肩書きの閑職に追いやり、政治から遠ざけていた。
司馬懿も病気を口実に屋敷へ引きこもっている。曹爽から見れば邪魔者を片づけたつもりだった。

ある夜、石鑒と同じ宿舎に泊まっていた山濤は、突然起き上がると石鑒を足で蹴り起こした。
「こんな時期によく眠れるな。太傅の司馬懿がじっとしている意味を分かっているのか」と詰め寄ったのである。

ところが石鑒は、「宰相が三度も朝廷に出なければ、詔書一枚で屋敷に帰されるだけだ。何を心配する必要がある」と涼しい顔だった。
司馬懿の沈黙を単なる引退問題だと思っているらしい。
山濤は「おい、石君。馬の蹄に踏まれても平気でいられると思っているのか」と叱りつけると、官職を捨てて立ち去ってしまった。

それから二年もたたないうちに、高平陵の変が起こり、司馬懿は曹爽を失脚させた。山濤はその後も身を隠し、政治には関わらなかった。

司馬師・司馬昭に重用される

山濤は司馬懿の妻・張春華と親戚関係にあった。
張春華の母は河内の山氏の出身で、山濤の祖父の従姉妹にあたる。

山濤はこの縁から司馬師と面会することになり、その才能を認められた。
司馬師は山濤に「呂望(太公望)は仕官を望んでいるのか」と語りかけ、司隷校尉に命じて秀才に推挙させた。 こうして山濤は郎中となり、さらに驃騎将軍王昶の従事中郎へと転じた。

その後も趙国相、尚書吏部郎と昇進を重ねた山濤に、司馬昭は清廉で明察に優れ、その振る舞いは世人に抜きん出ていると称賛する手紙を送った。
さらに生活の苦しさを気遣い、銭二十万と穀物二百斛まで贈っている。

すると兄の司馬師も負けてはいない。魏の皇帝から賜った春服を山濤に譲り、さらに山濤の母が高齢であることを知ると、アカザの茎で作った杖まで贈った。
弟が現金と食料を送り、兄が衣服と杖を贈る。山濤の家だけ、司馬氏の兄弟によるお中元合戦が始まっていた。

嵇康との絶交と、死の間際に託された息子

竹林七賢として親しく交わっていた山濤と嵇康だったが、官職をめぐって二人の関係には大きな出来事が起こった。
景元三年(262年)、尚書吏部郎だった山濤が嵇康を自分の後任に推薦しようとしていることを知ると、嵇康はこれを拒み、『与山巨源絶交書』という文章を送りつけたのである。

嵇康は、自分が志を託した生き方は他人に変えられるものではないと述べ、官界に入ることを拒否した。
さらに、自分は古代の聖王とされた湯王や武王を批判し、周公や孔子を軽んじる発言もしてきたため、いずれ世間の道徳から容認されなくなるとも記している。

また嵇康は、自分が好むものを他人に押しつけることを戒め、腐った鼠を好む者が、それを高貴な鳥の餌にしてはならないという趣旨のたとえまで持ち出した。
仕官を勧めた山濤に対し、嵇康は自分の生き方を曲げるつもりがないことを、徹底して書き連ねたのである。

ところが、その嵇康が事件に連座して処刑されることになったとき、意外な言葉を残した。
息子の嵇紹に向かって、「巨源がいるのだから、お前は孤児ではない」と告げたのである。

かつて絶交状を送りつけた相手に、最後には自分の子を託した。
嵇康の死から約二十年後、山濤は嵇紹を推薦し、秘書丞に就けている。

鍾会の反乱で鄴の守備を担当する

山濤は尚書の和逌と親交を結び、鍾会や裴秀とも親しく付き合った。
鍾会と裴秀は、魏の皇帝曹髦を交えて東堂で文章や学問を論じる間柄だったが、政治では互いに権勢を争っていた。山濤はどちらにも偏らず公平に接したため、双方から恨まれることがなかった。

やがて山濤は大将軍従事中郎へ昇進する。
景元五年(264年)、蜀を滅ぼした鍾会が現地で反乱を起こすと、司馬昭は西征の準備を進めた。

司馬昭は山濤に「西方のことは私が自分で片づける。後方のことは深くあなたに託したい」と告げた。
当時、魏の皇族たちは鄴に滞在していたため、山濤は本官のまま行軍司馬を兼ね、親兵五百人を与えられて鄴の守備を担当した。

司馬昭の後継者問題で司馬炎を支持

咸熙年間の初め、山濤は新沓子に封じられ、相国左長史に転じて別営の統括を任された。
司馬昭は同郷の名望家である山濤を重んじ、息子の司馬炎にも山濤への拝礼を命じている。

そんな司馬昭は、司馬炎と次男の司馬攸の後継者問題に悩んでいた。

司馬攸は司馬昭の実子だが、男子の後継者がいなかった伯父の司馬師に養子として迎えられていた。
司馬昭は兄への恩義が深く、天下は本来兄のものであり、自分はその地位を預かっているだけなのだから、いずれ司馬攸に大業を譲るべきだとまで語っていた。兄思いなのは結構だが、そんな理屈で後継者を決められては、長男の司馬炎もたまったものではない。

司馬昭は裴秀に、兄の司馬師は事業を完成できず、自分はその後を引き継いだだけなので、司馬攸を立てて兄に功績を帰したいと相談した。
しかし裴秀は反対し、続いて意見を求められた山濤も、長男を退けて年少の子を立てるのは礼に背き、国家を危うくする原因になると諫めた。

司馬炎には羊琇、賈充、何曾らの支持もあり、最終的に司馬昭は長男の司馬炎を後継者に選んだ。
山濤の進言も司馬炎の地位を固めることにつながり、司馬炎は自ら山濤に拝礼して感謝している。

泰始元年(265年)、司馬炎が魏から禅譲を受けて西晋を建てると、山濤は大鴻臚の職務を代行し、退位した魏の皇帝・陳留王曹奐を鄴へ送り届けた。
泰始年間の初めには奉車都尉を加えられ、爵位も新沓伯へ進んだ。

裴秀をかばったことで権力者の不興を買い、地方へ転出

羊祜が政務を担当していたころ、朝廷では裴秀を陥れようとする動きがあった。
山濤は裴秀をかばって堂々と反論したが、これが権力者の不興を買い、冀州刺史として地方へ転出させられてしまった。
このとき寧遠将軍の号も加えられている。

当時の冀州には、優秀な人物を見つけても積極的に推薦する風習がなかった。
そこで山濤は、世間に知られていない人材や、不遇のまま埋もれている人物を探し出し、三十人余りを推薦した。
彼らは後にそろって名を知られるようになり、山濤の評判も大いに高まった。
人材を引き立てることに消極的だった冀州の風習も改まり、人々は山濤を慕い、尊敬するようになったのである。

その後、山濤は北中郎将に転じて鄴城の守備を監督し、さらに中央へ戻って侍中、尚書へと昇進した。

高齢の母を養うために辞職し、母の死後に復職を求められる

中央で官職を重ねていた山濤だが、高齢の母の面倒を見るため、辞職を願い出た。
しかし司馬炎は、親孝行は大いに結構だが、仕事しながら母の医薬や世話を続けるよう命じた。

山濤も負けてはいない。辞めさせてくれと数十回も上表し、長い押し問答の末にようやく願いを聞き入れてもらった。
ところが、尚書を辞めたと思ったら、今度は議郎に任命されてしまった。退職したつもりが、そのまま再雇用されたようなものである。

司馬炎は、清廉で倹約家の山濤には、母を十分に養うだけの財産もないだろうと考え、特別に日々の支給を認めた。
さらに寝台や帳、敷物まで贈っている。
辞めさせるのは渋るくせに、生活の面倒はとことん見る。山濤に対する待遇は破格で、当時これに並ぶ者はいなかったという。

その後、山濤は太常卿に任じられたが、病気を理由に就任しなかった。
やがて母が亡くなると、故郷へ帰って喪に服した。
すでに六十歳を超えていたにもかかわらず、礼の規定を超えるほど深く喪に服し、自ら土を背負って墓を築き、松や柏まで植えている。

ところが司馬炎は、喪に服している山濤を吏部尚書に任命した。
人材を選んで適切な官職に就ける仕事は政治の要であり、山濤の力が必要だというのである。
母を亡くして墓まで自分で築いている老人に、今度は人事部長をやってくれというのだから、司馬炎もなかなか容赦がない。

当然、山濤は「服喪中だし、もう年だし、病気だし」と、何度も切実な辞退の上表を行った。
その後、元皇后が亡くなると、山濤は葬儀に参列するため洛陽へ戻ったが、司馬炎から繰り返し出仕を命じられ、ついに職務に就くことになってしまう。

こうして再び人材登用を担当した山濤は、中央と地方を問わず適任者を選び、それぞれの能力に合った官職へ就けていった。

山濤の人材登用方法と「山公啓事」

何度も辞職を願い出ながら、結局は人事の仕事に引き戻されてしまった山濤だが、その仕事ぶりは実に優秀だった。
山濤が人材登用を担当した期間は二度合わせて十年以上に及んだ。

山濤は官職に欠員が出ると、いきなり公表せず、まず密かに複数の候補者を挙げて司馬炎に打診していた。
そして司馬炎の意向を確認したうえで、皇帝が望む人物を「自分が推薦した本命」として表立って奏上したのである。

つまり、人事の決定権は皇帝に譲りつつ、表向きの責任は自分が被るという、きわめて慎重なプロセスを取っていた。
しかし、この裏のやり取りを知らない世間の人々は、採用された人選を見て「山濤が好き嫌いで不透明な人事をしている」と勘違いし、皇帝に告げ口する者まで現れたのである。

司馬炎も山濤に直筆の詔を送り、才能だけを基準に人を選び、縁故のない者や身分の低い者も見捨てないよう戒めている。

山濤にしてみれば、皇帝の意向を聞いて人選しているのに、その皇帝から人事の公平さを説かれるのだから、少々やりきれない話である。
それでも山濤は従来のやり方を変えず、一年ほどすると人々の不満も収まり、批判は静まった。

山濤は候補者を推薦する際、それぞれの人物について評価を書き添えていた。
こうした奏上文は「山公啓事」と呼ばれ、人材を見る目の確かさを物語っている。

司馬炎に外戚楊氏の専権と地方軍備の削減を諫める

太康元年(280年)、司馬炎は呉を滅ぼして天下統一を果たした。 もはや戦乱の時代ではないとして、地方の軍備を大幅に削減することにした。
州や郡の軍隊を廃止し、大郡には武吏百人、小郡には五十人だけを残すというのである。

あるとき、司馬炎は宣武場で軍事演習を行った。山濤は病気だったが、司馬炎は乗り物に乗ってでも参加するよう命じた。
辞職を願い出ても辞めさせず、病気になっても軍事演習には呼び出す。司馬炎の山濤に対する信頼は厚いが、老人に優しい職場とは言い難い。

その場で山濤は盧欽と軍事の根本について議論し、州郡の武備を撤廃すべきではないと主張した。
その議論は非常に緻密で、孫武や呉起の兵法を学んだこともない山濤が、兵法の原則にかなった意見を述べることに周囲は驚いたという。

司馬炎も「天下の名言だ」と絶賛したが、政策を改めることはなかった。

その後、永寧年間(301年~302年)以降になると、各地で反乱や盗賊が相次いだ。
ところが、地方の郡国は軍備を失っていたため、まともに対応できず、天下は大混乱に陥ってしまう。
山濤の警告が的中したが、いくら正しい意見でも、聞き流されてしまえば何の役にも立たない。 司馬炎は山濤の言葉を天下の名言と褒めたものの、天下のために使う気はなかった。

山濤は朝廷で中立を保っていたが、晩年になると、皇后の父である楊駿を中心に楊氏が権力を独占する動きを警戒するようになった。
山濤は楊氏に政治を任せるべきではないと考え、司馬炎に何度も遠回しな忠告を行った。司馬炎も言いたいことは理解していたようだが、結局、方針を改めることはなかった。

何度も引退を願う山濤と、引き留め続ける司馬炎

山濤も八十歳に近づき、病気も重くなっていた。そこで司馬炎に引退を願い出た。
「私はもう八十歳に近く、いつ死んでもおかしくありません。耳も目も衰え、仕事にも耐えられません。天下も平和になったのですから、あまり余計なことをせず、民を自然に教化していけばよいでしょう」
そう訴えると、官帽を脱いで裸足になり、官職の印綬まで返上した。

ところが司馬炎は、呉を平定したばかりで、天下にはまだ仕事が山ほど残っているとして辞職を認めなかった。
「私はまだ賢者の力を借りずに政治を行えるほど余裕がない。それなのに、あなただけ高潔な引退を遂げようというのか!」
山濤はそれでも辞職を願い続けたが、司馬炎は頑として許さなかった。

すると尚書令の衛瓘が、山濤は長い間出仕せず、皇帝の命令にも従っていないのだから、免官にすべきだと奏上した。
山濤にしてみれば、ようやく辞められる絶好の機会である。ところが司馬炎は、今度は衛瓘を叱りつけた。
「山濤は徳の高い人物だからこそ、何度も詔を出して引き留めているのだ。それを免官にしろとは、賢者を尊ぶ私の意向が分からないのか」

こうして衛瓘の提案は却下され、山濤は再び職務に戻ることになった。
本人が辞めたいと言っても駄目。他人が辞めさせろと言っても駄目。どうやら司馬炎にとって、山濤の退職だけは認められない。

太康年間の初(281年頃)、山濤は右僕射に昇進し、光禄大夫の位も加えられた。侍中と人材登用の仕事も引き続き担当することになった。
引退を願っていたはずが、なぜか昇進している。

当然、山濤は老齢と病気を理由に辞退した。
すると司馬炎は直筆の詔を送り、先帝の司馬昭も山濤の才能を高く評価していたことを挙げ、さらに「あなたが考えを改めてくれなければ、私は夜も眠れない」とまで訴えた。
山濤は再び辞退の上表を行ったが、やはり認められなかった。

太康三年(282年)、山濤は三公の一つである司徒に任命された。
山濤は「三十年以上朝廷に仕えましたが、大した功績もありません。徳が薄いのに高い地位に就き、力が足りないのに重い仕事を任されれば、災いを招きます。どうか引退させてください」と訴えた。

しかし司馬炎は、山濤が長年にわたって朝廷を支えてきた功績を挙げ、司徒の職を受けるよう命じた。
しかも、これ以上の辞退の上表は受け付けないという。ついに退職願の提出そのものを封じられてしまう。

それでも山濤が病床に伏していると、司馬炎は使者を送り、寝ている山濤に司徒の印綬を授けさせた。
山濤は「死にかけている人間が、どうして官府を汚すことなどできようか!」と嘆き、病身のまま輿に乗って帰宅した。

山濤の死と、清貧を貫いた晩年

太康四年(283年)正月戊午、西暦三月三日、山濤は七十九歳で亡くなった。

司馬炎は山濤の死を悼み、葬儀のために東園秘器という皇帝から賜る特別な棺をはじめ、朝服や衣服、銭五十万、布百匹を贈った。
さらに司徒を追贈し、印綬や侍中の礼装を与え、太牢という格式の高い祭礼で弔わせた。諡号は「康」と定められ、埋葬の際にも銭四十万と布百匹が追加で贈られている。

葬儀の準備を進めるなか、左長史の范晷らが司馬炎に報告した。
山濤の古い屋敷には部屋が十間しかなく、子孫たちが一緒に暮らすには狭すぎるというのである。
三公にまで上り詰めた人物の遺族が、住む場所に困っていると知った司馬炎は、新たな屋敷を建てさせた。

もっとも、山濤が貧しかったのは、若いころからの話である。
まだ貧乏暮らしをしていたころ、妻の韓氏に「飢えや寒さは我慢してくれ。私はいずれ三公になる。ただ、お前が三公の夫人を務められるかどうかは分からないがな」と語ったことがあった。

山濤は、本当に三公にまで昇り詰めたが、暮らしぶりは変わらず、高官になっても慎みと倹約を守り、妾を持つこともなかった。
俸禄や皇帝からの賜物も、親族や昔からの知人に惜しまず分け与えていたという。

本人はともかく、三公になれば裕福な暮らしができると期待して貧乏暮らしに耐えてきた妻の韓氏だったが、結局、大きな屋敷を手に入れたのは夫が死んでからだった。

山濤の清廉さと酒豪を示す逸話

山濤の清廉さを物語る、ちょっと変わった賄賂の話がある。

陳郡出身の袁毅は、鬲県令を務めていたころ、賄賂をばらまいて評判を買おうとしていた。
朝廷の公卿たちに次々と贈り物を届け、山濤にも百斤の絹を贈ったのである。

山濤は周囲と違う対応をして騒ぎになるのを避け、その絹を受け取った。
ただし、使うつもりもなく、封も開けずに高い棚の上へ放り込んでしまった。

やがて袁毅の贈賄が発覚し、本人は檻車に押し込まれて廷尉へ送られた。
当然、捜査では賄賂を受け取った連中も調べられることになった。

そこで山濤は、棚の上から例の絹を引っ張り出して役人に差し出した。
絹には何年分ものほこりが積もっていたが、封印は受け取ったときのままだった。
普通なら掃除を怠った証拠でしかないほこりが、このときばかりは山濤の潔白を証明してくれたのである。

そんな山濤には、酒豪という意外な一面もあった。
なんと八斗もの酒を飲んで、ようやく酔うというのだから、とんでもない酒量である。

これを聞いた司馬炎は、本当に八斗が限界なのか試してみたくなったらしい。
山濤に八斗の酒を用意し、さらにこっそり酒を追加して、どこまで飲むのか様子をうかがった。

ところが山濤は、いつもの量を飲み終えると、ぴたりと杯を置いてしまった。
皇帝がせっかく追加した酒にも、まったく手をつけず、限度を守った。

山濤の子たち

山濤には、山該、山淳、山允、山謨、山簡の五人の息子がいた。

長男の山該は父の爵位を継ぎ、并州刺史や太子左率を務めた。
その子の山瑋は翊軍校尉、山世回は吏部郎や散騎常侍となっている。

次男の山淳と三男の山允は、ともに病弱で体も非常に小さかったが、頭の切れ味は抜群だった。
山濤も二人の聡明さについては、自分以上だと評価していたという。

その評判を聞いた司馬炎は、ぜひ二人に会ってみたいと言い出した。
山濤も皇帝の命令を無視するわけにはいかず、山允に相談したが、本人は自分の容貌を気にして、どうしても会おうとしなかった。

そこで山濤は、二人とも病弱で人との交際を避けなければならない状態だと上表し、皇帝との面会を断った。
自分は何度頼んでも司馬炎から逃げられなかった山濤だが、息子たちだけは皇帝に呼び出されずに済んだのである。

なお、山淳は官職に就かなかったが、山允は奉車都尉を務めた。四男の山謨は聡明で才能があり、司空掾にまで昇進している。

五男の山簡は吏部尚書や尚書左僕射などの要職を歴任し、永嘉三年(309年)には征南将軍として荊州など四州の軍事を任された。

山濤の評価

『晋書』の賛では、晋王朝が人材を求めて天に届くほど高い仙台を築いたことにたとえ、山濤の優れた人物鑑識眼を称えている。

山濤は四十歳ごろに官界へ入り、六十歳ごろから母親の介護などを理由に辞職を願い出るようになった。
諫言しても聞き入れられない。辞職を願っても聞き入れられない。それどころか、辞めたいと訴えるたびに、なぜか出世していく。

適当に仕事をしていれば、クビになるチャンスもあっただろう。ところが山濤はそんなことをせず、任された仕事はきっちりこなしてしまう。
二十年近く引退を願い続けながら、人材登用だけで、とうとう三公の司徒にまで昇進してしまった、同時代でもたぐいまれな人物であった。

参考文献

山濤のFAQ

山濤の字(あざな)は?

字は巨源(きょげん)です。

山濤はどんな人物?

竹林七賢の一人で、嵇康や阮籍らと親しく交流した人物です。
四十歳で官界に入り、司馬氏のもとで人材登用を担当しました。
特に、官職の候補者を評価した「山公啓事」で知られています。

山濤の最後はどうなった?

司徒へ任命され、病床で印綬を受け取ったものの、職務に就くことはできませんでした。
太康四年(283年)七十九歳で亡くなり、死後には改めて司徒を追贈され、康という諡号を贈られました。

山濤は誰に仕えた?

魏に仕え、司馬師や司馬昭から重用されました。
西晋の成立後は司馬炎に仕えました。

山濤にまつわるエピソードは?

友人の嵇康を官職に推薦したところ、嵇康から『与山巨源絶交書』を送られた話が有名です。
しかし嵇康は処刑される直前、息子の嵇紹を山濤に託しました。
山濤は後に嵇紹を推薦しています。

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