1分でわかる忙しい人のための胡質の紹介
胡質(こしつ)、字は文徳(ぶんとく)、出身は楚国寿春、生没年(?~250年)
胡質は後漢末から魏に仕えた官僚で、蔣済の推薦によって曹操に見出された。
地方官として殺人事件の真相を見抜き、張遼には武周との仲違いを諫めて和解させるなど、人や物事をよく見抜く人物だった。
正始二年(241年)には朱然に包囲された樊城を救援し、その後は征東将軍として青州、徐州の軍事を統括した。
また非常に清廉で、嘉平二年(250年)に死去した時には余分な財産をほとんど残していなかった。
死後は陽陵亭侯を追贈され、「貞侯」と諡された。
胡質(こしつ)の生涯を徹底解説!曹操に見出され、地方統治と樊城救援で手腕を示し、清廉を貫いた最期まで
蔣済に推挙され、曹操に見出される
胡質は楚国寿春の出身で、字を文徳という。
若い頃から蔣済、施績(朱績)とともに江淮地方で名を知られ、州郡に仕えていた。
父の胡敏は字を通達といい、方正として朝廷に召されるほどの人物で、江淮地方では名望があった。
その後、蔣済が別駕になると、曹操から「胡敏は立派な人物だったが、息子はいるのか」と尋ねられた。
蔣済は胡質という息子がいると答え、人間としての器の大きさでは父に及ばないが、細かな仕事を正確にこなす能力なら父以上だと推薦した。
曹操はこの推薦を受けて頓丘令に任命した。
二つの殺人事件から真犯人を見抜く
胡質が頓丘令になった頃、県内で殺人事件が起きていた。
郭政という男が従妹と密通し、その夫である程他を殺害したのである。
郡吏の馮諒が事件の証人となったが、郭政と従妹は厳しい取り調べを受けても、頑として犯行を認めなかった。
ところが、なぜか証人の馮諒まで拷問されてしまう。
馮諒は苦痛に耐えられず、ついに自分の証言は嘘だったと認めてしまった。
殺人犯は罪を認めず、証人が嘘をついたと白状する。
このままでは犯人を捕まえるどころか、事件を証言した人間が罪人になってしまう。
いったい何を取り調べているのか。
そこへ着任した胡質は、関係者の様子を観察しながら事件を調べ直した。
証拠を詳しく検証した結果、郭政と従妹の犯行を突き止め、二人もついに罪を認めた。
危うく罪人にされるところだった馮諒も、これで救われた。
その後、胡質は丞相東曹議令史や揚州の治中などを歴任し、曹操から丞相属として召された。
黄初年間には吏部郎となり、さらに常山太守を経て東莞太守へ転任した。
ところが東莞でも、また殺人事件が起きた。
今度の被害者は士人の盧顕で、何者かに殺害されたという。
胡質が調べてみると、盧顕には人から恨まれるような事情が見当たらない。ただ、若い妻がいた。
そこで胡質は近隣に住む若者たちを調べ始めた。
すると、書吏の李若が質問された途端に顔色を変えた。
胡質はその反応を見逃さず、詳しく事情を追及したところ、李若はついに自首した。
一件目では犯人が否認し続けても証拠から真相を突き止め、二件目では容疑者のわずかな反応を見逃さなかった。
胡質は人の言葉をそのまま信じるのではなく、何かおかしいと思えば徹底して調べる人物だった。
胡質は東莞太守として九年間にわたって郡を治めた。
軍功によって褒美を受けても、すべて部下に分け与え、自宅には持ち帰らなかった。
その統治によって役人や民衆の暮らしは安定し、将兵もよく命令に従ったという。
張遼の誘いを断り、武周との仲違いを諫める
胡質が揚州の治中を務めていた頃、将軍の張遼は護軍の武周と仲違いしていた。
張遼は仲が悪かった于禁、楽進との関係を趙儼に諭されたばかりなのに、全然反省していない。
そんな彼が今度は胡質を気に入り、刺史の温恢に頼んで自分のもとへ迎えようとした。
ところが胡質は、張遼相手にも臆することなく、病気を理由に断ってしまった。
張遼は不満に思い、俺はお前を信頼している。それなのになぜ裏切るのかと問いただす。
武周との信頼関係を爆破したばかりの男が、信頼の大切さを説いていた。
胡質はそんな張遼に、昔の人々の交友について説明した。
友人が多くの物を受け取っても欲深いとは決めつけず、戦場から逃げても臆病者とは決めつけず、悪い噂を聞いても簡単には信じなかった。だから長く付き合えたのだという。
では、張遼はどうなのか。
武周は立派な人物で、あなたも以前はあれほど褒めていたではないか。
それが少し恨みを抱いただけで仲違いとは、いったいどういうことなのか。
武周ですら駄目なら、才能の乏しい自分だって同じことになる。
こうして胡質は、張遼の性格を理由に採用を辞退した。
ところが張遼は怒るどころか感動し、武周と仲直りした。
朱然の八百人に撃退される
景初元年(237年)、呉の朱然が柤中へ出兵した。
これに対して魏は蒲忠と胡質を迎撃に向かわせ、それぞれ数千の兵を率いた。
蒲忠が険しい場所を押さえて朱然の退路を断ち、胡質がその後詰めを務める作戦である。
敵の帰り道を塞いでしまえば、あとは挟み撃ちにするだけ。なかなか都合のいい計画だった。
このとき朱然の軍勢は四方に分散しており、魏軍の接近を知っても呼び戻す暇がなかった。
朱然は手元にいたわずか八百人を率いて、蒲忠の軍勢を迎え撃った。
朱然は蒲忠を撃破し、後詰めを務めていた胡質は撤退することになった。
胡質にとっては苦い結果となったが、四年後には再び朱然と対峙することになる。
なお、この戦いの年代には史料によって食い違いがある。
『三国志』朱然伝の本文では赤烏五年(242年)の出来事とされているが、『孫氏異同評』は『魏志』や『江表伝』の記述をもとに、景初元年(237年)の戦いだったと指摘している。
呉の大攻勢で窮地に陥った樊城を救う
東莞太守として九年間、郡を治めた胡質は、その実績を認められて荊州刺史に昇進した。
さらに振威将軍の称号と関内侯の爵位まで与えられ、順調に出世していた。
正始二年(241年)、呉の孫権が魏に対して大攻勢を仕掛けてきた。
朱然が樊城、諸葛瑾が柤中、全琮が淮南、諸葛恪が六安を攻めるという、四方面からの同時攻撃で、
呉としては、かなり気合の入った作戦だった。
このうち樊城を担当した朱然は、呂拠や朱異とともに城を包囲し、外郭を破壊し始めた。
朱然は夷陵の戦いでも活躍した歴戦の将軍である。
そこへ胡質が軽装の軍勢を率いて救援に向かった。
しかし周囲は猛反対。相手は大軍なのだから、近づくだけでも危険だという。
ところが胡質は、敵の数よりも樊城の状態を気にしていた。
城は小さく城壁も低い、守備兵も少ない、おまけに外郭まで壊されかけている。
こんな状況で外から誰も助けに来なければ、城内の兵士たちはいよいよ絶望してしまう。
そこで胡質は反対を押し切り、呉軍の包囲網の外側まで進出した。
胡質が援軍の姿を見せたことで樊城内の人心は落ち着き、やがて太傅の司馬懿も軍を率いて救援に到着した。
これによって呉軍は撤退し、樊城の包囲は解かれた。
胡質は敵を倒すより先に、味方の心が折れるのを防いだわけである。
征東将軍として青州・徐州を治め、呉への備えを固める
その後、胡質は征東将軍に昇進し、仮節を授けられて青州・徐州の軍事を都督した。
単に軍勢を率いるだけではなく、長期的な防衛体制を整えていった。
まず農業を奨励し、倉庫には数年分の穀物を蓄えた。
さらに東征台を設け、普段は耕作に利用し、戦時にはそのまま防衛拠点として使えるようにした。
平和なときは畑、敵が来たら砦にする。なかなか無駄のない仕組みである。
各郡を結ぶ水路も開き、船の往来を便利にする一方、呉の攻撃に備えて沿岸の守りを固めた。
その結果、胡質が任地にいる間、沿岸地域は安定していた。
胡質の清廉な逸話と、胡威が語った父との違い
胡質が荊州刺史だった頃、息子の胡威が都から訪ねてきた。
しかし家が貧しく、車馬も従者もないため、一人で驢馬に乗ってやって来たのである。
十日余り滞在して帰る際、胡質は旅費として絹一匹を渡した。
すると胡威は、清廉な父がどこから絹を手に入れたのかと尋ねた。
胡質が俸禄の余りだと説明すると、ようやく納得した。
帰り道でも胡威は自分で驢馬の世話をし、薪を集めて食事を作っていた。
ところが胡質の配下にいた都督が先回りし、身分を隠して胡威に同行すると、数百里にわたって旅の支度や食事を手伝った。
不審に思った胡威が問いただすと、相手は父の部下だった。
胡威は父からもらった絹を礼として渡し、都督を帰らせた。
その都督は、後に胡質に知られて、杖で百回殴られてクビになってしまった。
息子へ特別な便宜を図ることさえ許さないのは勝手だが、さすがに部下が気の毒である。
胡威も後に魏から晋に仕え、前将軍や青州刺史まで昇進した。
本人も清廉な人物として知られ、晋の武帝から父と自分ではどちらが清廉なのかと尋ねられたことがある。
胡威は、自分など父には遠く及ばないと答えた。
父は清廉であることを人に知られるのを恐れていたが、自分は清廉であることを人に知られないのを恐れているというのである。
胡威は評判を避ける父の姿に、決定的な違いを感じていた。
胡質の最期、財産を残さず貞侯と諡される
嘉平二年(250年)、胡質は死去した。
太守や刺史、将軍まで務めた人物だったが、残された財産は朝廷から与えられた衣服と、書物を入れた箱だけだった。
この清廉ぶりが軍師から朝廷へ報告されると、胡質には陽陵亭侯が追贈され、食邑百戸を与えられた。
さらに貞侯と諡され、爵位は息子の胡威が継いだ。
胡威は太康元年(280年)に死去し、鎮東将軍を追贈された。
胡威の弟の胡羆は字を季象といい征南将軍となり、胡威の子の胡奕は字を次孫といい平東将軍となった。
嘉平六年(254年)には、朝廷が胡質の清廉な行いを改めて称え、徐邈や田豫とともに追慕した。
胡質の家には銭や穀物も与えられた。生前は財産を残さなかった胡質だが、死後になって家に褒美が届いたのである。
『三国志』の陳寿も胡質を素業貞粹(普段からの行いが正しく、清廉で純粋)と評している。
胡質は沈着で誠実な性格であり、物事の表面だけでなく、その内情まで見抜く人物だった。
殺人事件の捜査から各地の統治に至るまで、そうした姿勢を貫き、人々から慕われたのである。
参考文献
- 三國志 : 魏書二十七 : 胡質傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十一 : 朱然伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷074 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:胡質 – Wikipedia
胡質のFAQ
胡質の字(あざな)は?
胡質の字は文徳(ぶんとく)です。
胡質はどんな人物?
胡質は後漢末から魏に仕えた官僚で、事件の真相を見抜く洞察力と地方統治、清廉さで知られる人物です。
胡質の最後はどうなった?
胡質は嘉平二年(250年)に死去しました。
家には余分な財産がほとんど残されておらず、その清廉さが朝廷へ報告され、陽陵亭侯を追贈されて「貞侯」と諡されました。
胡質は誰に仕えた?
胡質は曹操に見出されて頓丘令となり、その後も曹丕・曹叡に仕えました。
胡質にまつわるエピソードは?
張遼が護軍の武周と仲違いした際、張遼は胡質を自分の幕僚に迎えようとしましたが、胡質はこれを断りました。
以前は武周を高く評価していたのに、わずかな恨みで仲違いするようでは自分とも長く付き合えないと張遼を諫め、張遼はその言葉に感じ入って武周と和解しました。
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