1分でわかる忙しい人のための夏侯淵の紹介
夏侯淵(かこうえん)、字は妙才(みょうさい)、出身は沛国譙県、生没年(?~219年)
曹操の挙兵当初から従い、速い進軍と奇襲を武器に各地で戦功を重ねた武将である。
特に関中や涼州で活躍し、馬超や韓遂を相手に転戦したほか、三十年以上も涼州に割拠していた宋建を一か月余りで滅ぼした。
その働きは曹操から、関中を虎のように駆け、向かうところ敵なしと称賛されている。
一方で勇気に頼りすぎる面を何度も戒められ、建安二十四年(219年)、漢中の定軍山で劉備軍と戦って戦死した。
夏侯淵の生涯を徹底解説!曹操の生え抜きとして数々の戦功を挙げた猛将の強さと定軍山での最期、評価まで
曹操の罪を引き受けた若き日の夏侯淵
夏侯淵は字を妙才といい、夏侯惇の族弟にあたる。
曹操とは挙兵以前から深い関係があり、夏侯淵の妻も曹操の妻の妹だった。
若いころ、曹操が郷里で事件に巻き込まれた際には、夏侯淵が代わって重い罪を引き受けている。
自分が処罰される危険を承知のうえで曹操をかばった形であり、その後は曹操が救出に動いたことで、夏侯淵も罪を免れることができた。
また『魏略』には、兗州や豫州が大乱となり、深刻な飢饉に見舞われた時の逸話も残されている。
食糧が足りない中、夏侯淵は亡くなった弟の娘を生かすため、自分の幼い子を手放してまで養ったという。
一族を守った美談として処理されそうだが、現代人が読むと「いや、自分の子は」と、どうしても一度そこで止まる。
後に戦場を駆け回る猛将として知られる夏侯淵だが、若いころから、身内のためなら自分を犠牲にすることをためらわない人物だった。
曹操の挙兵に従い、官渡では軍を兵糧で支える
曹操が兵を挙げると、夏侯淵もこれに従い、別部司馬、騎都尉を経て、陳留太守、潁川太守を務めた。
建安五年(200年)、曹操と袁紹が官渡で激突すると、夏侯淵は督軍校尉として従軍した。
袁紹を破った後には、兗州・豫州・徐州から前線へ送る軍糧の輸送を任されている。
当時の曹操軍は兵糧不足に苦しんでいたが、夏侯淵は兗州・豫州・徐州から食糧を途切れることなく前線へ送り続けた。
その補給によって軍は再び勢いを取り戻している。
昌豨の反乱を鎮め、黄巾残党も討つ
建安十一年(206年)、昌豨がまた反乱した。
これまで何度も反乱を起こし、官渡で曹操が忙しい時期にまで平然と兵を挙げていた。
曹操側からすれば、抜いても抜いてもまた生えてくる雑草みたいな存在だった。
曹操はまず于禁を送り込んだが、昌豨はなかなか落ちなかった。
そこで援軍として夏侯淵が加わり、二人で十余りの拠点を次々と潰していく。
さすがの昌豨も居場所がなくなり、最後は于禁のもとへ出向いて降伏した。
こうして昌豨を降伏させた夏侯淵は、帰還すると典軍校尉に任じられた。
ところが反乱を一つ終わらせると、別の場所から次の反乱が生えてきた。
今度は済南や楽安で、黄巾残党の徐和、司馬俱らが城を襲い、現地の長吏まで殺し始める。
夏侯淵は泰山・斉・平原の兵を率いてそのまま討伐へ向かい、敵軍を大破して徐和を斬った。
さらに周辺の県まで平定し、敵から奪った食糧は兵士へ分配している。
夏侯淵は討伐に出たはずなのに、帰るころには現場の後片づけまで終わっていた。
各地の反乱を鎮め、潼関の戦いへ向かう
建安十四年(209年)、夏侯淵は領軍の職務を代行するようになり、曹操が孫権討伐から戻ると、諸将を率いて廬江へ向かった。
相手は反乱を起こした雷緒で、夏侯淵はこれを撃破し、また一つ反乱を片づける。
建安十六年(211年)には行征西護軍となり、今度は徐晃を指揮して太原で反乱した商曜を攻撃する。
二十余りの拠点を次々と落とし、商曜を斬って大陵まで制圧した。
そして同年三月、曹操は漢中の張魯を討つことを決め、鍾繇を西へ送り、夏侯淵にも兵を率いて河東で合流するよう命じた。
ところがこの進軍、関中の韓遂や馬超から見れば穏やかではない。曹操軍が大挙して西へ向かってくるのだから、「張魯を討ちに行くだけです」と言われても、はいそうですかとはならなかった。
高柔や衛覬も「そんなことをしたら関中の諸将が疑う」と事前に止めていたが、曹操はそのまま進軍を続けた。
案の定、韓遂・馬超らは「次に狙われるのは自分たちだ」と警戒し、関中の諸将を集めて反旗を翻す。
張魯を討つために始まったはずの西征は、ここで潼関を舞台にした大戦へ急転した。
夏侯淵も曹操軍の一員として加わり、馬超・韓遂らと激突する。
長安を任され、馬超・韓遂の残党を掃討する
潼関で連合軍を破っても、関中はまだ火が消えていなかった。
夏侯淵は朱霊らを率いて隃糜や汧の氐族を平定し、さらに安定で曹操と合流すると、楊秋まで降伏させている。
東で雷緒を討ち、商曜を斬り、張魯を目指して西へ向かったと思えば、目的地へ着く前に別の戦争が始まるくらい、西方の火事場を走り回っていた。
建安十七年(212年)、曹操が鄴へ戻ると、夏侯淵は行護軍将軍として朱霊や路招らを率い、長安に駐屯することになった。
曹操は帰ったが、燃え残った関中は夏侯淵に置いていった。ここから馬超・韓遂勢力の残党掃討が本格的に始まる。
まず南山で勢力を保っていた劉雄を撃破し、その配下を降伏させる。
続いて鄠へ向かい、韓遂・馬超の残存勢力を率いていた梁興を包囲。そのまま攻め落として梁興を斬り、この戦功によって博昌亭侯に封じられた。
今度は馬超が涼州刺史の韋康を冀城に包囲し、夏侯淵は救援へ向かったが、到着する前に韋康は敗れてしまった。
それでも夏侯淵は進軍を続け、冀城まで二百余里の地点まで迫る。
すると馬超が自ら迎撃に出て、今度は夏侯淵軍が不利となった。
さらに汧の氐族まで反乱を起こし、前では馬超、後ろでは氐族という面倒な形になったため、夏侯淵は軍を引き返している。
救援を即断し、祁山へ急行する
建安十九年(214年)、趙衢や尹奉らは馬超を討つ計画を立て、姜叙も鹵城で兵を挙げた。
趙衢らは馬超を城外へ誘い出すと、その隙に妻子を殺害した。
戻る場所を失った馬超はいったん漢中へ逃れたが、そのまま落ち着く男でもなく、張魯から軍を借りて趙昂らが立て籠もる祁山を包囲する。
姜叙達から救援要請が届くと、諸将は鄴にいる曹操の命令を待つべきだと主張した。
しかし鄴までは往復四千里もあり、今から使者を走らせ、返事が戻るころには祁山の話が全部終わっている。
曹操の返事を待たずに夏侯淵は出兵を決めた。
夏侯淵は張郃に歩騎五千を与え、陳倉の狭い道から祁山へ先行させ、自らは後方で兵糧を管理しながら軍を進めた。
救援を急ぐからといって全軍で突っ込むのではなく、張郃を先に飛ばし、自分は軍全体が止まらないよう補給を握る。急いでいるのに雑ではない。
張郃が渭水まで到達すると、馬超も数千の氐族や羌族を率いて迎え撃とうとしたが、実際にぶつかる前に撤退した。
張郃はそのまま前進して馬超軍が残した武器や軍需品を回収し、夏侯淵が現地へ着くころには周辺の県まで次々と降伏していた。
このときの夏侯淵には、ただ進軍が速いだけではなく、戦場で何を優先すべきかを即座に判断する決断力も表れている。
韓遂の精鋭を大破する
祁山を救った夏侯淵は、そのまま韓遂の追撃へ移った。
韓遂は顕親にいたが、夏侯淵が迫ると軍糧を置いたまま退却する。夏侯淵はその食糧をいただき、さらに韓遂の背中を追って略陽まで進んだ。
やがて韓遂との距離は二十余里まで縮まり、諸将からは「このまま韓遂を攻めよう」「いや、先に興国の氐族を潰そう」と二つの案が出た。
しかし韓遂軍は精鋭ぞろいで、興国は守りが固い。真正面から韓遂を殴れば骨が折れ、興国を囲めば日が暮れる。そこで夏侯淵は、そのどちらにも行かず長離へ向かった。
韓遂軍には長離出身の羌族が多く加わっており、その家族や本拠地を攻めれば、彼らは救援に戻ると読んだのである。
夏侯淵は補給物資を守る部隊だけ残し、身軽な歩兵と騎兵を連れて長離を襲った。
ところが長離へ救援に現れた韓遂軍は数が多く、諸将は陣営を築いて堀を掘り、まず守りを固めるよう進言した。
しかし夏侯淵は、ここまで千里を転戦してきた兵に、ここから穴掘りまで始めさせれば先にこちらがへばると判断する。
韓遂をわざわざ引っ張り出した以上、今度は待たず、そのまま攻撃を仕掛けた。
この判断が当たり、夏侯淵は韓遂軍を大破し、その軍旗まで奪った。
韓遂を破ると夏侯淵は略陽へ戻り、今度は先ほど後回しにした興国の氐族を包囲する。
氐王の千万は馬超のもとへ逃れ、残った者たちは降伏した。
さらに高平へ進むと屠各の勢力も四散し、残された食糧や牛馬まで夏侯淵の手に入った。
一つ片づけるたびに次の敵へ向かう夏侯淵の西征は、このあたりから討伐というより流れ作業に近くなっていった。
この戦功によって、夏侯淵は曹操から假節を与えられている。
三十年続いた宋建政権を一か月で滅ぼす
韓遂やその周辺勢力を叩いた夏侯淵に、次に回ってきたのが宋建討伐だった。
宋建は涼州の混乱に乗じて枹罕を押さえ、後漢の領内で勝手に「河首平漢王」を名乗り、堂々と居座っていた。
そこへ夏侯淵が諸将を率いてやって来た。
枹罕を包囲すると、一か月余りで城を攻略する。宋建を斬り、その丞相以下の幹部までまとめて処刑し、長年続いた政権を一気に消し飛ばした。
しかも夏侯淵は枹罕を落としたところで足を止めず、張郃らを河関へ送り、黄河を渡って小湟中まで進軍させた。
その勢いに押され、河西の羌族も次々と降伏し、隴右一帯まで平定されていく。
曹操はこの働きを評価し、「虎歩関右、所向無前(関中を虎のように進み、向かうところ敵なし)」と、その活躍を称賛している。
建安二十一年(216年)、夏侯淵はさらに三百戸を加増され、食邑はそれまでと合わせて八百戸となった。
漢中を任され、征西将軍となる
宋建を滅ぼした後も、夏侯淵の西方での仕事は終わらなかった。
今度は武都の氐族や羌族がいる下辯へ向かい、敵を攻めるだけじゃ飽き足らず、十万斛を超える穀物まで手に入れる成果を挙げている。
やがて曹操が張魯を討つため漢中へ向かうと、夏侯淵も涼州の将軍や異民族の有力者たちを率いて休亭で合流した。
関中から涼州まで散々走り回り、馬超、韓遂、宋建らを相手にしてきた夏侯淵の名は、このころには羌族や胡族の間にもすっかり知れ渡っていた。
そのため曹操は、羌族や胡族の者たちと面会するとき、しばしば夏侯淵を同席させたという。
彼らの間ですっかり恐怖のブランドになっていた夏侯淵の顔を見れば「げっ、夏侯淵だ」となるレベルで、座るだけで威圧できた。
その後、張魯が降伏して漢中が平定されると、夏侯淵は行都護将軍となり、張郃や徐晃らを率いて巴郡の平定へ向かった。
さらに曹操が鄴へ戻ることになると、漢中の留守番を任されたのが夏侯淵である。
反乱が起きるたび西で走らされてきた男は、ついに征西将軍となり、その西方そのものを預けられる立場になった。
劉備と漢中を争い、定軍山で戦死する
建安二十三年(218年)、劉備が漢中へ進出すると、夏侯淵は諸将を率いて陽平関で迎え撃った。
西方を散々走り回ってきた夏侯淵だったが、今度の相手は一地方の反乱軍ではなく劉備軍である。
両軍は簡単には崩れず、そのまま長いにらみ合いへ入った。
翌、建安二十四年(219年)正月、劉備は夜陰に乗じて夏侯淵軍の防御施設へ火を放った。
夏侯淵は東側を張郃に任せ、自らは南側を守っていたが、劉備軍はまず張郃の陣へ集中攻撃を仕掛ける。
張郃が苦戦すると、夏侯淵は自分の兵を半分に割き、そのまま援軍として送り込んだ。
ところが劉備軍は今度は防御柵まで焼き始め、夏侯淵はその修復へ向かった。
敵に攻められれば援軍を送り、柵を焼かれれば自分で直しに出る。
西方で何でも片づけてきた夏侯淵は、定軍山でも相変わらず現場に出すぎていた。
この動きを見逃さなかったのが法正である。
法正が好機と判断すると、黄忠は一気に夏侯淵の陣へ攻め込み、その攻撃によって夏侯淵は戦死した。
夏侯淵の死後には、若いころの逸話につながる意外な人物が登場する。
張飛の妻は、かつて夏侯淵が飢饉の中で養った亡き弟の娘だった。建安五年(200年)、城外で薪を拾っていたところを張飛に得られ、その後、妻となったという。
そして夏侯淵が定軍山で戦死すると、彼女が願い出たことで遺体は引き取られ、埋葬された。
かつて夏侯淵に養われた姪が、十九年後には敵方から夏侯淵を弔うことになったのである。
死後、夏侯淵には愍侯の諡が贈られた。
夏侯淵の評価
夏侯淵の特徴として、まず挙げられるのがその進軍の速さである。
『魏書』には、急場へ駆けつけるのが非常に速く、しばしば敵の不意を突いたとあり、軍中では「典軍校尉夏侯淵、三日五百、六日一千」と謳われていた。
三日で五百里、六日で千里を進むというこの言葉は、単に軍の移動が速かったというだけではない。
祁山救援では曹操の返事を待っていては間に合わないと即座に判断し、韓遂との戦いでは長離を攻めることで相手を野戦へ引きずり出すなど、その速さは判断力や戦術とも結びついていた。
曹操は夏侯淵の戦功を高く買っていたものの、その戦い方を手放しで認めていたわけではない。
「将たる者には時には臆病になることも必要で、勇気だけを頼りにしてはならない。勇を基本としながら、知略をもって行動しなければ、ただの一人の武勇にすぎない」と、以前から戒めていた。
そして定軍山で夏侯淵が戦死すると、曹操の言葉を伝える『軍策令』には、さらに厳しい評価が残されている。
「淵本非能用兵也、軍中呼為『白地将軍』、為督帥尚不当親戦、況補鹿角乎」とあり、「夏侯淵はもともと用兵に長けた将ではなく、軍中では『白地将軍』と呼ばれていた。総大将であれば、自ら前線で戦うことすら慎むべきなのに、まして防御柵の修理などに出るべきではなかった」と述べている。
敵である劉備からの評価も厳しかった。
『魏略』には「淵雖為都督、劉備憚郃而易淵」とあり、夏侯淵が都督であったにもかかわらず、劉備は張郃を恐れ、夏侯淵を軽く見ていたという。
実際に夏侯淵が討たれると、劉備は「當得其魁、用此何為邪!(討つならその首魁を討つべきだ。これを討ったところで何になるのか)」と語った。
劉備にとっては、夏侯淵を討ち取ったことよりも、より警戒していた張郃を取り逃がしたことの方が大きかったのである。
『三国志』の陳寿は、夏侯惇や夏侯淵、曹仁、曹洪らについて、曹操と婚姻関係で結ばれた一族や古くから従った者として厚く遇され、それぞれが功績を挙げたと評している。
何でも自分で動く夏侯淵の背中を見て、兵たちは何度も安心しただろう。
皮肉なことに、最後はその頼もしさそのものが、定軍山で命取りになった。
曹操一族と結びついた夏侯淵の家族と子供たち
夏侯淵の妻は曹操の妻の妹であり、夏侯淵自身も夏侯惇の族弟にあたる。
夏侯氏と曹氏は婚姻によって深く結びついており、その関係は夏侯淵の子供たちの世代にも続いていった。
長男の夏侯衡(字は伯権)は、父の爵位を継いだ。
さらに曹操の弟である海陽哀侯の娘を妻に迎えており、後に安寧亭侯に封じられている。
次男の夏侯霸(字は仲権)は魏の武将として出世し、右衛将軍となった。
曹爽から重用されていたが、高平陵の変で曹爽が失脚すると、司馬懿の報復を恐れて魏を離れ、蜀へ亡命することになる。
三男の夏侯称(字は叔権)は、若くして武勇を示した人物である。
十六歳のときに虎を射殺したとされ、その才能を曹操から気に入られ、曹丕とも親しく付き合っていたが、十八歳で亡くなった。
四男の夏侯威(字は季権)は、荊州刺史や兗州刺史を歴任した。
五男の夏侯栄(字は幼権)は幼いころから非常に聡明で、七歳ですでに文章を読み書きし、一度読んだものを忘れなかったという。
夏侯栄は曹丕からもその才能を高く評価されたが、父とともに漢中へ従軍し、定軍山の戦いを迎えることになる。
夏侯淵が敗死すると、周囲から逃げるよう勧められたものの応じず、そのまま戦って十三歳で命を落とした。
六男の夏侯恵(字は稚権)は文章や議論に優れ、散騎黄門侍郎、燕相、楽安太守などを歴任した。
七男の夏侯和(字は義権)は弁舌に優れ、河南尹や太常を務めている。
参考文献
- 三國志 : 魏書九 : 夏侯淵傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十七 : 張郃傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十八二 : 臧霸傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書六 : 黃忠傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書七 : 法正傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 魏武帝集 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷064 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷066 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷067 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷068 – 维基文库,自由的图书馆
- 全三國文/卷2 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:夏侯淵 – Wikipedia
夏侯淵のFAQ
夏侯淵の字(あざな)は?
夏侯淵の字は妙才(みょうさい)です。
夏侯淵はどんな人物?
進軍の速さと素早い判断を武器に、特に関中や涼州で多くの戦功を挙げた曹操配下の武将です。
一方で勇気に頼りすぎるところがあり、曹操からは知略をもって行動するよう戒められていました。
夏侯淵は誰に仕えた?
曹操の挙兵当初から仕えています。
夏侯淵の最後はどうなった?
建安二十四年(219年)、漢中をめぐって劉備軍と戦い、定軍山で黄忠の攻撃を受けて戦死しました。
夏侯淵にまつわるエピソードは?
祁山が馬超に包囲された際には、遠くにいる曹操の返事を待っていては間に合わないと判断し、すぐに救援へ向かっています。
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