張遼:泣く子も黙る魏の名将、合肥で孫権を破った武勇と最期【すぐわかる要約付き】

張遼
張遼
  1. 1分でわかる忙しい人のための張遼の紹介
  2. 張遼の生涯を徹底解説!丁原・董卓・呂布配下から曹操に仕え、合肥で孫権を追い詰め魏の名将となるまで
    1. 聶壹の子孫から丁原の部下へ
    2. 何進の募兵から董卓・呂布へ主君を変える
    3. 呂布に従って劉備を破り、曹操へ降伏する
    4. 関羽とともに白馬へ出陣し顔良を破る
    5. 関羽の本心を聞き、曹操へ隠さず報告する
    6. 昌豨を説得するため単身で三公山へ入る
    7. 袁譚・袁尚を討ち河北平定を進める
    8. 袁譚を滅ぼし、曹操から破格の待遇を受ける
    9. 江夏平定から白狼山の戦いへ、烏桓の蹋頓を討ち取る
    10. 夜の軍中騒乱を見抜き首謀者を斬る
    11. 于禁・楽進との不和を趙儼に仲裁される
    12. 諸将の反対を押し切り、陳蘭・梅成を討つ
    13. 七千余人で合肥を守り孫権十万を迎える
    14. 八百人で孫権軍へ突撃し、包囲を破って味方を救う
    15. 逍遙津で孫権を追い詰め「張遼止啼」を生む
    16. 濡須口で臧覇とともに先鋒を務める
    17. 関羽包囲の樊城救援へ向かう
    18. 曹丕から厚遇され「古の召虎」と称えられる
    19. 病に倒れても曹丕から手厚く見舞われる
    20. 病身でなお呉軍を破り江都で死去する
    21. 死後も「国の爪牙」と称えられ曹操廟に祀られる
    22. 曹操・曹丕・孫権から高く評価され、武廟六十四将に数えられる
  3. 参考文献
  4. 張遼のFAQ
    1. 張遼の字(あざな)は?
    2. 張遼はどんな人物?
    3. 張遼の最後はどうなった?
    4. 張遼は誰に仕えた?
    5. 張遼にまつわるエピソードは?
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1分でわかる忙しい人のための張遼の紹介

張遼(ちょうりょう)、字は文遠(ぶんえん)、出身は雁門郡馬邑県、生没年(169年頃~222年)

丁原に見いだされ、董卓、呂布に属した後、下邳で曹操に降伏してその将となった。
各地を転戦し、武勇だけでなく計略や軍の統率力でも高く評価された。

最大の戦功は建安二十年(215年)の合肥の戦いである。
七千余人で孫権の十万の大軍を迎え、八百人を率いて敵陣へ突入し、さらに逍遙津では撤退する孫権を追い詰めた。
その威名から、後世には「張遼止啼」の故事まで生まれている。

曹丕からは古代の名将・召虎になぞらえて称賛され、敵である孫権からも病身になってなお警戒された。
黄初三年(222年)に江都で死去した後も名声は残り、唐代には武廟六十四将の一人に数えられた。

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張遼の生涯を徹底解説!丁原・董卓・呂布配下から曹操に仕え、合肥で孫権を追い詰め魏の名将となるまで

聶壹の子孫から丁原の部下へ

張遼は雁門郡馬邑県の出身で、字を文遠という。
その祖先は前漢の豪商・聶壹(じょういつ)となっている。 聶壹は元光元年(紀元前134年)、匈奴の単于を財宝で釣って馬邑へ誘い込み、待ち伏せしていた三十万余りの漢軍で一網打尽にしようとした。
ところが単于に計略を見破られ、三十万もの兵を集めておきながら、一戦も交えずに終わってしまった。

この事件に関わる怨恨を避けるため、一族は聶氏から張氏へ姓を変えたという。
張遼は若い頃に郡の役人を務めていたが、後漢末になると并州刺史の丁原に並外れた武力を見込まれ、その従事として召し出された。

何進の募兵から董卓・呂布へ主君を変える

中平六年(189年)、霊帝が崩御すると、後漢の朝廷では権力争いが激化していた。
大将軍の何進は并州刺史の丁原を洛陽へ召し出し、張遼もこれに同行する。
さらに何進から河北で兵を集めるよう命じられ、千余人を率いて洛陽へ戻ってきた。

ところが、張遼が戻る頃には何進は宦官に殺害され、洛陽では董卓が実権を握っていた。
しかも仕えていた丁原まで董卓に殺されており、張遼は集めた兵とともに董卓の配下へ入ることになった。

初平三年(192年)四月、その董卓も王允や呂布らによって殺害されてしまう。
張遼は兵を率いて呂布に従い、騎都尉に任命された。

ところが同年六月、李傕らが長安へ攻め込み、王允は殺され、呂布も敗退し逃亡する。
張遼も呂布に従って東へ逃れる羽目になった。

張遼に武力はあっても、どうやら仕える相手を選ぶ運には恵まれていなかったようである。

呂布に従って劉備を破り、曹操へ降伏する

呂布に従って長安を逃れた張遼は、その後徐州へ移った。
建安元年(196年)、呂布が劉備を破って下邳を奪うと、張遼は魯相を領することになった。

『三国志』によれば、このとき張遼は二十八歳だったという。
この記録から生年は169年とされることが多いが、魯相になった正確な時期が確定できないため、169年から171年頃まで幅がある。

建安三年(198年)春、張遼は北地太守を領し、中郎将の高順とともに小沛の劉備を攻撃した。
同年九月には小沛を攻略し、劉備を敗走させ、呂布も徐州の支配者として一安心できた瞬間だった。

ところが、その三か月後の十二月、曹操が下邳を攻め落とし、呂布を捕らえて処刑してしまった。

張遼はというと、軍勢を率いて曹操に降伏した。
陳琳の『檄呉将校部曲文』にも、侯成とともに兵を率いて降伏したことが記されている。

曹操は張遼を中郎将に任命したうえ、関内侯の爵位まで与えた。
その後も曹操のもとで戦功を重ね、裨将軍へ昇進した。

関羽とともに白馬へ出陣し顔良を破る

建安五年(200年)二月、曹操と袁紹の対決がいよいよ本格化した。
袁紹は黎陽へ進軍して黄河を渡る準備を進める一方、顔良らに白馬を攻撃させた。

これに対して曹操は、荀攸の策を採用した。
四月、延津から黄河を渡るように見せかけて袁紹軍を分散させると、軍を率いて白馬へ急行したのである。

そして曹操が先鋒に選んだのは、張遼と関羽だった。
片や呂布の元部下、片や劉備のもとを離れて曹操に身を寄せている武将。
つい最近まで別々の主君のもとで争っていた二人が、今度は曹操の命令で肩を並べて戦うことになった。

関羽は顔良の旗印を見つけると、そのまま敵陣へ突っ込んで顔良を斬ってしまったのである。袁紹軍もこれを阻止できず、白馬の包囲は解かれた。

その後、曹操と袁紹は官渡で対峙し、同年十月には袁紹軍が大敗した。
曹操は張遼を別働隊として派遣し、魯国の諸県を平定させた。

関羽の本心を聞き、曹操へ隠さず報告する

関羽が曹操のもとに身を寄せていた頃、曹操は関羽がいつまでも自分に仕えるつもりではないと感じていた。
そこで張遼に、関羽の本心を探るよう命じた。

張遼が訪ねると関羽は、曹操から厚遇されていることには感謝しているが、劉備とは生死をともにすると誓った仲なので裏切れないと答えた。
ここまでは悩み相談で済みそうで、張遼のキャパは超えていない。
しかし、追加情報がきつかった。
曹操のもとで手柄を立てて恩を返したら、劉備のところへ帰るつもりだと話を続ける。

張遼としては、曹操に「大丈夫でした」と報告したかっただろうが、相談内容がディープすぎた。
『傅子』によれば、聞いたことを曹操に報告すれば、関羽が殺されるかもしれないと悩んだという。

それでも張遼は「曹公は君父であり、関羽は兄弟である」と考え、主君に隠し事はできないとして関羽の言葉をそのまま曹操へ報告した。
この行動は後世にも取り上げられ、劉穆之や何尚之が、臣下として主君に隠し事をしなかった例として引用している。

昌豨を説得するため単身で三公山へ入る

建安六年(201年)、張遼は夏侯淵とともに東海郡の昌豨を包囲した。
戦いは数か月に及び、兵糧も尽きかけたため、曹操軍では撤退が検討された。

しかし張遼は、陣地を巡回するたびに昌豨が自分をじっと見つめていることに気づいていた。
しかも、昌豨の陣から飛んでくる矢や石も次第に少なくなっている。
これは脈ありのサインではないか。そう感じた張遼は夏侯淵に、直接話せば昌豨を降伏させられるかもしれないと持ちかけた。

張遼は、曹操から命令を預かっていると昌豨へ伝えた。
すると昌豨は山を下りて張遼と会い、曹操の威徳が天下に広がっていることや、早く帰順すれば大きな恩賞が与えられるという話を聞いて、降伏を決意した。

ところが、ここから張遼の行動がおかしくなる。
降伏の約束を取り付けると、今度は単身で三公山へ登り、そのまま昌豨の家へ上がり込んでしまった。しかも妻子にまで挨拶している。
つい先ほどまで数か月も戦っていた相手なのに、いつの間にか家族ぐるみの付き合いを始めた。

昌豨もこれには喜び、張遼に従って曹操のもとへ赴いた。

しかし曹操は、昌豨を帰した後で張遼に「これは大将の取るべき方法ではない」と叱りつけた。
すると張遼は、曹操の威信が天下に知れ渡っているのだから、その命令を受けた自分に昌豨が危害を加えるはずはないと答えた。

自分が危険を冒した理由を、曹操の威信が絶大だからと説明したのである。

袁譚・袁尚を討ち河北平定を進める

建安八年(203年)、張遼は曹操に従って袁譚・袁尚の兄弟を黎陽で攻撃し、戦功によって中堅将軍の職務を任された。
曹操は勢いに乗って袁尚が立て籠もる鄴へ攻め込んだものの、城を落とせず許へ引き返すことになる。

一方、張遼は楽進とともに陰安を攻略し、住民を河南へ移住させる。
建安九年(204年)、曹操が再び鄴へ攻め込むと、今度は城を陥落させ、張遼はそのまま別働隊を率いて趙国、常山へ進軍した。

この一帯には山沿いに勢力を張る賊軍や、黒山賊の孫軽らがいる。
張遼は彼らを次々と降伏させ、曹操の河北平定を進めていった。

袁譚を滅ぼし、曹操から破格の待遇を受ける

建安十年(205年)、張遼は曹操に従って袁譚を攻め滅ぼすと、今度は別働隊を率いて海浜地域へ進軍し、遼東太守・公孫康の配下である柳毅らを撃破した。

一連の戦いを終えて鄴へ帰還すると、なんと曹操が自ら城外まで出迎えに来ていた。
しかも張遼を自分の車に乗せ、そのまま一緒に帰っている。

さらに曹操は、楽進、于禁、張遼らの功績を後漢の朝廷へ上奏した。
武力に優れ、計略は周到、忠義と節義を守り、戦場では先頭に立って敵の堅陣を破る。しかも別働隊を任せれば軍を見事に統率するという、至れり尽くせりの評価である。
履歴書にこれだけ書いてあったら少々疑いたくなるが、推薦者が曹操本人なのだから文句のつけようがない。

張遼はこの功績によって盪寇将軍に任命された。

江夏平定から白狼山の戦いへ、烏桓の蹋頓を討ち取る

張遼はその後も別働隊を率いて荊州方面へ進み、黄祖の統治する江夏の諸県を平定した。
帰還後は臨潁に駐屯して都亭侯に封じられ、さらに何夔とともに数千人規模の賊である従銭らを討伐している。

建安十二年(207年)、曹操は柳城へ逃れた袁尚らを討つため、北方遠征を決断した。
ところが『傅子』によると、張遼はこの遠征に反対していたという。
天子のいる許を長期間留守にすれば、劉表が劉備を送り込んで都を奪い、そこから天下へ号令するかもしれないと警告したのである。

しかし曹操は、劉表には劉備を使いこなせないと判断し、そのまま北征を続行した。

張遼はこの場で積極的に戦うよう曹操へ勧め、その意気は非常に盛んだった。
曹操が高所から敵陣を見ると、烏桓軍の陣形はまだ整っていなかった。
曹操は張遼の気概を評価し、自ら持っていた指揮旗を張遼へ渡して先鋒を任せた。

張遼はその期待に応え、烏桓軍へ攻撃を仕掛けて大破し、単于の蹋頓を斬った。

夜の軍中騒乱を見抜き首謀者を斬る

荊州がまだ平定されていない頃、張遼は長社へ駐屯することになった。
ところが出発前、軍中の反乱者が夜に騒動を起こして火を放ち、軍全体が混乱に陥った。

張遼は周囲の兵に「動くな」と命じた。
全軍が反乱したのではなく、一部の者が騒ぎを起こして他の兵まで混乱させようとしていると判断したのである。

そこで反乱していない者にはその場に静かに座るよう命じ、自らは数十人の親兵を率いて陣中に立った。
やがて混乱が収まると首謀者を捕らえ、その場で斬った。

于禁・楽進との不和を趙儼に仲裁される

張遼が長社に駐屯していた頃、于禁は潁陰、楽進は陽翟に駐屯していた。
この三人、曹操軍でも名の知れた武将なのだが、揃いも揃って気性が激しく、互いに仲が悪かった。

そこで曹操は、趙儼を三軍の軍事に参与させ、三人の仲裁を任せた。
趙儼は問題が起きるたびに彼らを諭し、どうにか協力できる関係にまで持っていった。
曹操が荊州へ進軍した際には都督護軍となり、于禁、張遼、張郃、朱霊、李典、路招、馮楷の七軍を監督している。
武将を率いる仕事なのか、武将同士の喧嘩を止める仕事なのか、なかなか大変な役職である。

その後も張遼は護軍の武周と仲違いしてしまった。
そこで揚州刺史の温恢に頼み、治中の胡質を新しい護軍として迎えようとしたのだが、胡質はあっさり断っている。

胡質に言わせれば、以前は武周を高く評価していたくせに、少し恨みができただけで仲違いするようでは、自分だっていつ嫌われるか分かったものではない。
さすがの張遼も、この指摘には返す言葉がなく、武周と再び和解した。

諸将の反対を押し切り、陳蘭・梅成を討つ

建安十四年(209年)、廬江の陳蘭と梅成が灊県、六県方面で反乱を起こした。
曹操は于禁、臧覇らに梅成を攻撃させ、張遼には張郃、牛蓋らを率いて陳蘭の討伐を命じた。

ところが梅成は、于禁に降伏したかと思えば、撤退するや否や再び兵を率いて陳蘭と合流してしまった。
降伏した相手が帰るのを待って反乱を再開するとは、なかなか図太い男である。
その後、陳蘭と梅成は灊山へ逃げ込み、天柱山に立て籠もった。

この天柱山が、また厄介な場所だった。
高さは二十余里に及び、山道は険しく、人がようやく歩けるほどの狭さである。
張遼が攻め込もうとすると、諸将は兵力も少ないうえに道まで険しいのだから、深入りするのは危険だと反対した。

しかし張遼は、これは一対一の勝負と同じで、勇気のある者が前へ出るだけだと言い切った。
諸将が心配しているのは兵の数と山道の険しさなのに、張遼の頭の中では、いつの間にか一騎打ちになっている。
結局、張遼は反対を押し切って山中へ進み、山麓に陣を構えて攻撃を開始。陳蘭と梅成を斬り、その軍勢を捕虜とした。

曹操は戦後、険しい天柱山へ攻め込んで陳蘭と梅成を討ち取った張遼の功績を称賛した。
張遼は食邑を加増され、仮節を授けられた。

七千余人で合肥を守り孫権十万を迎える

建安十八年(213年)正月、曹操は濡須口へ進軍し、孫権も七万の軍勢を率いて迎え撃った。
両軍は一か月余りにわたって睨み合ったが、曹操は濡須砦を落とせず撤退することになった。
その際、張遼、楽進、李典らに七千余人の兵を預け、合肥の守備を任せている。

建安十九年(214年)、孫権が皖城を攻撃すると、張遼は救援に向かった。
しかし夾石まで進んだところで、すでに城が陥落したことを知り、そのまま引き返している。

建安二十年(215年)三月、曹操は張魯を討伐するため西へ向かった。
その出発に際し、合肥護軍の薛悌に一通の封書を預けたのだが、外側には敵が来た時に開けと書かれていた。

そして同年八月、孫権が大軍を率いて合肥へ攻め寄せた。
いよいよ曹操の封書を開く時が来たのである。

張遼、楽進、李典らが封書を開くと、そこには「孫権が来たら張遼と李典は出撃し、楽進は護軍の薛悌とともに城を守って戦うな」と書かれていた。

曹操が濡須口を攻めた時に、孫権軍は七万の軍勢で迎撃していた。 今度は孫権軍は十万で攻めてきているのに、こちらはわずか七千余人。
しかも、曹操の本隊は遠く離れており、援軍もすぐには期待できない。
そんな状況で城から出て戦えというのだから、諸将も困惑した。

ところが張遼は、曹操の狙いを理解していた。
援軍を待っていたら、その前に城が落とされてしまう。ならば孫権軍の陣形が整う前に攻撃を仕掛け、敵の勢いを挫いて味方の士気を高め、それから籠城すればいい。

張遼は、この一戦に勝敗がかかっているのに何を迷っているのかと諸将に迫った。
もっとも、ここには別の問題もあった。張遼、楽進、李典は、もともと仲が良くなかったのである。
ただでさえ無茶に見える作戦で李典が断るかと思ったら、意外な返答が返ってきた

李典は「国家の大事に個人的な恨みを持ち込むわけにはいかない」として、張遼の策に賛成した。
こうして張遼と李典は、孫権の大軍を相手に城から打って出ることを決めた。

八百人で孫権軍へ突撃し、包囲を破って味方を救う

張遼はその夜、翌朝の出撃に参加する兵を募った。
集まったのは、わずか八百人。相手は十万を号する孫権軍なのだから、兵力差は百倍以上である。
張遼は牛を潰して兵士たちに振る舞い、決戦に備えた。

翌朝、張遼は甲冑をまとい、戟を手にして八百人の先頭に立った。
そして夜明けとともに孫権軍へ突撃し、数十人を討ち取ると、さらに二人の将を斬った。
徐盛も負傷して牙旗を失い、宋謙とともに後退している。

徐盛と宋謙の軍からは逃げ出す兵まで現れ、孫権軍は大混乱に陥った。
そこにバーサーカーとなった張遼が敵陣の中に自分の名前を大声で叫びながら突き進んだ。
その勢いのまま孫権のいる場所まで迫ると、孫権は驚いて高い場所へ退避する。
周囲の兵も混乱し、孫権は長戟を持って守りを固めた。

すると張遼は、孫権に向かって下りてきて戦えと叫んだ。
しかし、いきなり攻め込んできた男に名指しで勝負を挑まれたって、総大将の孫権が応じるわけがない。

孫権もいつまでも逃げているわけではない。張遼の兵が少ないことに気づくと、兵を集めて幾重にも包囲した。 ところが張遼は、その包囲へ正面から突っ込んだ。
敵陣を切り開き、数十人の部下とともに外へ脱出することに成功したのである。

これで一件落着かと思いきや、包囲の中にはまだ味方が取り残されていた。
しかも、将軍は我々を見捨てるのかと叫んでいる。
すると張遼は、せっかく突破した包囲の中へ再び突入した。

今度は取り残された兵を救い出し、もう一度敵軍を突破して脱出する。
孫権軍からすれば「あれ、なんで戻ってきてるの?」状態である。
その勢いを止めることもできず、兵も馬も押しまくられた。

とはいえ、孫権軍もやられっぱなしではなかった。
後方から潘璋や賀斉らが駆けつけると、潘璋は徐盛と宋謙の軍から逃げ出した兵二人をその場で斬り、残った兵を戦列へ戻した。
賀斉も中軍を率いて反撃し、徐盛が失った軍旗を取り戻している。

戦いは日の出から昼まで続いた。
張遼は孫権軍の士気を挫くという目的を果たすと、合肥へ引き返して守備を固めた。
城内の兵士たちも落ち着きを取り戻し、当初は出撃をためらっていた諸将も、張遼の判断に従うようになった。

逍遙津で孫権を追い詰め「張遼止啼」を生む

八百人の突撃で散々な目に遭った孫権だったが、まだ合肥の攻略を諦めていなかった。
その後も十日余りにわたって城を包囲し続けたものの、今度は呉軍の中で疫病が流行し始める。
張遼は倒せない、病人は増える。これ以上の戦いは難しいと判断した孫権は、ついに撤退を決断した。

主力部隊は先に引き揚げさせ、孫権自身は呂蒙、蔣欽、凌統、甘寧らとともに、虎士千余人を率いて殿軍として残っていた。
張遼は、この動きを見逃さず、孫権がまだ残っていると見るや、歩兵と騎兵を率いて追撃を開始する。

張遼軍が迫ると、呂蒙と凌統は孫権を守って応戦し、甘寧も弓を手に戦った。
しかも甘寧は、こんな時に軍楽が鳴っていないことに腹を立て、怒鳴りつけて演奏させ、自らも弓を引いて敵を射た。
蔣欽も加わり、呉軍は必死に張遼の追撃を食い止めようとした。

孫権は先に撤退した主力軍へ救援を求めたが、すでに遠くまで離れてしまっていた。
さらに退路となる逍遙津の橋へたどり着くと、魏軍によって橋板が一丈余りも壊されていた。

後ろから張遼軍が迫っているのに、目の前の橋は途中で途切れている。
ここまで来て橋が渡れないとは、孫権にとっては冗談では済まない。
しかし近侍の谷利が機転を利かせ、孫権は馬を走らせて橋の切れ目を飛び越え、辛うじて脱出した。

その間、凌統は三百人を率いて後方に踏みとどまり、張遼軍を食い止めていた。
呂蒙、蔣欽、甘寧らも奮戦し、孫権軍は大きな損害を受けながら、どうにか撤退に成功した。
『江表伝』にも、孫権は危うく命を失うところだったと記されている。

『献帝春秋』によると、張遼は戦場で、紫色のひげを生やし、上半身が長く下半身が短い、馬術と弓術に優れた将軍を目撃していたという。
戦いが終わった後、張遼は降伏した呉兵に、あの変わった風貌の将軍は誰だったのかと尋ねた。
返ってきた答えは、なんと孫権本人だった。
あれだけ敵陣を駆け回り、孫権を追い詰めておきながら、肝心の本人を目の前にして気づかなかったのである。

張遼は後に楽進と会った際、あの男が孫権だと分かっていれば、もっと急いで追いかけて捕らえられたのにと悔しがった。
孫権にとっては命拾いだが、張遼にとっては、あとから正体を知らされるという何とも惜しい結末だった。

合肥と逍遙津での戦いによって、その名は江東にまで知れ渡った。
『魏書』や『魏略』には、江東で子供が泣きやまない時、親が「張遼が来るぞ」と言えば泣き止んだという話まで残されている。
これが後世に「張遼止啼」と呼ばれる故事である。

曹操も張遼の戦功を高く評価し、征東将軍に任命した。

濡須口で臧覇とともに先鋒を務める

建安二十一年(216年)、曹操は再び孫権を攻撃するため南下した。
途中で合肥に立ち寄ると、前年に張遼が八百人で孫権軍を蹴散らした戦場を自ら見て回り、長い間感嘆していたという。
曹操にしてみれば、よくもまあ、こんな場所であれだけの戦いをやってのけたものだといったところだろう。

その後、曹操は濡須口へ進軍し、張遼は臧覇とともに先鋒を務めた。
ところが進軍中に大雨が降り、水位が上昇。そこへ孫権軍の船が前進してきたものだから、曹操軍の将兵たちは不安になり始めた。

張遼も撤退しようとしたが、ここで臧覇が待ったをかけた。
臧覇は「曹公が我々を見捨てるはずがない」と主張し、張遼を引き止めたのである。

翌日になると、臧覇の言葉どおり曹操から命令が届いた。
張遼がこの出来事を曹操に報告すると、曹操は臧覇の判断を高く評価した。

その後、曹操は張遼の兵を増やし、多くの軍勢を預けて居巣へ移駐させた。

関羽包囲の樊城救援へ向かう

建安二十四年(219年)、関羽が曹仁の守る樊城を包囲した。
その後、孫権が曹操へ臣従を申し出たことで、曹操は張遼ら各地の軍を呼び戻し、曹仁の救援へ向かわせる。

張遼も軍を率いて樊城へ向かったものの、到着する前に徐晃が関羽を破り、曹仁への包囲は解かれていた。
そのため張遼は、摩陂で曹操と合流することになった。

張遼軍が到着すると、曹操は自ら車に乗って出迎え、その労をねぎらっている。
その後、張遼は豫州の陳郡へ駐屯した。

曹丕から厚遇され「古の召虎」と称えられる

建安二十五年(220年)正月、曹操が死去すると、曹丕が魏王の位を継いだ。
張遼は前将軍へ昇進し、『魏書』によれば絹千匹と穀物一万斛を与えられている。
さらに兄の張汎と張遼の子一人も列侯に封じられた。

その後、孫権が再び魏に反すると、張遼は合肥へ戻され、爵位も都郷侯へ昇進した。
この時、曹丕は張遼の母に輿車を与え、護衛の兵馬まで付けて駐屯地へ送り届けさせている。

母が到着すると、張遼配下の将軍や役人たちは道の両側にずらりと並び、揃って拝礼した。
その光景を見た人々も、なんと名誉なことかと称えたという。

張遼は諸公卿とともに、曹丕へ皇帝に即位するよう上奏した。
同年十月、曹丕が皇帝になると、張遼は晋陽侯に封じられ、食邑千戸を加増されて合計二千六百戸となった。

黄初二年(221年)、張遼が洛陽宮へ参朝すると、曹丕は建始殿で引見した。
そこで曹丕が聞きたがったのは、建安二十年(215年)の合肥の戦いである。
八百人で孫権の大軍へ突撃し、どうやって呉軍を打ち破ったのか。曹丕はその時の様子を張遼本人から直接聞いた。

張遼の話を聞き終えた曹丕は、周囲を振り返って「これは古の召虎である」と称賛した。
召虎とは、周の宣王に仕えて異民族の討伐などで功績を挙げた名将のことである。

しかも曹丕の厚遇は、これだけでは終わらなかった。
張遼のために邸宅を建て、母親のためにも特別に殿舎を用意している。
さらに合肥の戦いで張遼の募集に応じ、八百人の一員として呉軍へ突撃した歩兵たちまで、皇帝の近衛兵である虎賁に取り立てられた。

あの無茶な突撃に付き合った兵士たちも、ちゃんと報われたのである。

病に倒れても曹丕から手厚く見舞われる

孫権が再び魏へ臣従すると、張遼は雍丘へ戻って駐屯した。
しかしこの頃、張遼は病気にかかった。

曹丕は侍中の劉曄に太医を同行させて張遼のもとへ送り、さらに虎賁を絶えず往来させて病状を報告させた。
三公の位に達していない張遼のもとへ侍中まで派遣されており、曹丕が張遼をどれほど重く扱っていたかが分かる。

しかし、張遼の病気はなかなか治らなかった。
すると曹丕は、今度は張遼を自分の行在所へ迎え入れ、自ら見舞いに訪れた。
しかも張遼の手を取り、御衣を与え、宮廷の食事まで毎日届けさせている。

ところが張遼は、病状が少し良くなると、さっさと駐屯地へ戻ってしまった。
これだけ手厚く面倒を見ていたのに、少し回復しただけで帰ってしまう張遼も張遼だが、それを許す曹丕も曹丕である。

病身でなお呉軍を破り江都で死去する

黄初三年(222年)、孫権が自分の子を人質として洛陽へ送ることを拒否すると、曹丕は孫権征伐に乗り出した。
魏軍は三路に分かれ、曹真が江陵、曹仁が濡須口を攻撃。征東大将軍の曹休は張遼、臧覇、賈逵ら二十余軍を率いて洞浦方面へ進軍した。

張遼はこの時、まだ病気が治っていなかったが、船で海陵へ向かい、曹休の軍に合流する。

孫権は病身の張遼をなお警戒し、諸将に「張遼は病気とはいえ、まともに相手をしてはならない。慎重にせよ」と命じた。

呉からは呂範、徐盛、全琮らが迎撃に出た。
ところが暴風によって呂範軍の船の綱が切れ、一部の船が曹休軍の目の前まで流されてしまう。
魏軍はこの機会を逃さず攻撃を仕掛け、呂範軍を大破した。
張遼も諸将とともに戦い、病を抱えながら最後まで呉軍との戦場に立ち続けた。

しかし、張遼の病状はその後さらに悪化し、江都で死去した。
その知らせを聞いた曹丕は涙を流し、張遼に「剛侯」の諡号を贈った。

なお、曹丕が三路から仕掛けた呉への攻撃は、当初こそ戦果を挙げたものの、最終的には魏軍が撤退して終わった。

死後も「国の爪牙」と称えられ曹操廟に祀られる

黄初六年(225年)、曹丕は張遼と李典が合肥で挙げた功績を改めて振り返った。
そして、二人が歩兵八百人で十万の敵を破ったことについて、「古来の用兵にもこのような例はない」と称賛した。

さらに呉軍が今なおその威勢を失っているとして、張遼と李典を「国の爪牙」と呼んだ。
二人の食邑からそれぞれ百戸を分け、その子一人ずつを関内侯に封じている。

張遼の子である張虎は偏将軍となり、その死後は張虎の子である張統が爵位を継いだ。
正始四年(243年)には、張遼は曹操の功臣の一人として曹操の廟庭に祀られた。

曹操・曹丕・孫権から高く評価され、武廟六十四将に数えられる

『三国志』の陳寿は、曹操が武功を築いた時代の良将として、張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の五人を筆頭に挙げている。
この五人は後世に「五子良将」と呼ばれるようになった。

曹操も張遼を高く評価していた。
楽進、于禁、張遼の三人について漢の朝廷へ上奏し、武勇に優れ、計略が周到で、忠義と節義を守り、戦場では先頭に立って敵の堅陣を破る将であると称えている。
さらに別働隊を率いても兵をよく統率し、命令を守り、敵を前にしても的確な判断ができると評価した。

曹丕からは「古の召虎」と称えられ、敵である孫権からも晩年まで警戒されていた。
張遼の武名が、味方だけでなく敵国にも広く知られていたことが分かる。

孫盛は合肥の戦いについて、敵が多く味方が少ない状況でも、決死の兵を率いて相手の隙を突けば勝機があり、勝利した後に守りを固めれば、城を堅固に守ることができると論じている。
また、曹操が張遼、李典、楽進らの性格や役割を見極めて密命を残し、その命令が実際の戦場で見事に機能したことも高く評価した。

張遼に対する評価は、後世にも受け継がれている。
唐代には武成王廟に祀られる武廟六十四将の一人に選ばれた。

三国時代の人物では、皇甫嵩、張遼、鄧艾、関羽、張飛、周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗、羊祜、王濬、羊祜が同じく選ばれている。
宋代にも古代七十二名将の一人として祀られ、『十七史百将伝』にも名将として収録された。

さらに唐代の『蒙求』には「張遼止啼」の言葉が収録されている。

張遼は勇猛なだけでなく、敵の動きを見極め、大胆な決断を下せる武将だった。
曹操から信頼され、曹丕からは古の名将にたとえられるほど高く評価されている。

しかし、張遼の恐ろしさを誰よりもよく知っていたのは孫権である。
合肥で命からがら逃げ延び、張遼が病気になっても警戒を解かなかった。
曹操と曹丕は張遼の武勇を称えたが、孫権はその武勇を身をもって知っていたのである。

参考文献

張遼のFAQ

張遼の字(あざな)は?

張遼の字は文遠(ぶんえん)です。

張遼はどんな人物?

張遼は曹操軍を代表する武将の一人です。
白狼山では先鋒として烏桓軍を破り、合肥では八百人を率いて孫権の大軍へ突入するなど、武勇と戦場での判断力の両方で高く評価されました。
陳寿も張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の五人を曹操配下の良将の筆頭に挙げています。

張遼の最後はどうなった?

黄初三年(222年)、病気を抱えながら呉との戦いに出陣し、曹休らとともに孫権配下の呂範を破りました。
その後に病状が悪化し、江都で死去しました。
曹丕は張遼の死を聞いて涙を流し、「剛侯」の諡号を贈りました。

張遼は誰に仕えた?

張遼は最初に丁原に仕え、その後は董卓、呂布に属しました。
建安三年(198年)に曹操が下邳で呂布を破ると、張遼は兵を率いて降伏し、以後は曹操に仕えました。
曹操の死後は曹丕に仕え、前将軍、晋陽侯まで昇りました。

張遼にまつわるエピソードは?

建安二十年(215年)の合肥の戦いでは、張遼はわずか八百人を率いて孫権軍へ突入し、自ら名乗りながら孫権のいる場所まで迫りました。
包囲を突破した後には、取り残された味方を救うため再び敵陣へ突入しています。
その威名は江東を震え上がらせ、泣く子供に「張遼が来る」と言えば泣き止んだという「張遼止啼」の故事まで残りました。

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