劉虞配下、公孫瓚の武勇を評価し、公孫瓚との争いを止めたの東曹掾
魏攸(ぎゆう)、字は不明、出身は右北平、生没年(?~?)
魏攸は幽州牧の劉虞に仕え、東曹掾を務めていた。
初平年間(190年~193年)、劉虞と公孫瓚は異民族への対応をめぐって対立していた。
劉虞は恩徳と信義によって異民族を帰順させようとしていたが、公孫瓚は武力による討伐を重視しており、両者の関係は次第に悪化していった。
やがて劉虞は公孫瓚を武力で討伐しようと考え、その計画を東曹掾の魏攸に相談した。
魏攸は「今、天下の人々は劉虞様を頼りにしています。そのためには謀臣や武将を失うわけにはいきません。公孫瓚には文武の才能があり、頼りにできる人物です。多少の悪事があったとしても、今は容認すべきです」と進言した。
劉虞もこれを聞いて納得し、公孫瓚への攻撃を取りやめた。
こうして魏攸がいる間は、どうにか劉虞の怒りに蓋がされていた。
ところが、その魏攸が死んでしまう。
すると劉虞は公孫瓚への怒りを抑えられなくなり、再び討伐へ動き始めた。
初平四年(193年)冬、各地の駐屯軍を集めると、十万もの兵を率いて公孫瓚を攻撃した。
そして負けた。
劉虞軍は公孫瓚の反撃を受けて大敗し、劉虞は居庸へ逃走したものの捕らえられ、最後は薊で処刑されてしまった。
参考文献
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