1分でわかる忙しい人のための張挙の紹介
張挙(ちょうきょ)、字は不明、出身は漁陽郡、生没年(?~?)
張挙は後漢末に張純や烏桓の丘力居らと結んで反乱を起こし、自ら天子を称した人物である。
もともとは後漢に仕える官僚で、泰山太守を務めていた。
中平四年(187年)、張純は涼州の反乱を討伐するために徴発された烏桓騎兵の指揮を希望したが、張温に認められず、公孫瓚が選ばれた。
その後、軍糧や俸給の不足から烏桓騎兵が離反すると、張純はこれを利用して反乱を計画し、同じ漁陽郡出身の張挙を誘った。
張挙は最初こそ自分が君主となることをためらったが、張純に説得されて挙兵を決意した。
反乱軍が十万余に膨れ上がると、張挙は本当に天子を称し、張純を弥天将軍・安定王とした。
さらに張挙は各州郡へ文書を送り、自分が後漢に代わって皇帝になると宣言した。
現役の皇帝である霊帝には退位を要求し、朝廷の公卿たちには自分を新たな皇帝として迎えるよう命じている。
しかし中平五年(188年)に公孫瓚の攻撃を受け、その後は幽州牧となった劉虞の懐柔策によって丘力居らも帰順したため、反乱軍は崩壊していった。
張挙は張純とともに逃亡したが、その後の消息は記録に残っていない。
張挙の生涯を徹底解説!張純に誘われて反乱を起こし、霊帝に退位まで要求した男
張挙の出自とと反乱のきっかけ
張挙は漁陽郡の出身で、泰山太守を務めており、もともとは後漢に仕える官僚だった。
中平四年(187年)、同じ漁陽郡出身の張純から、とんでもない話を持ちかけられた。
張純は「今、烏桓は朝廷に背き、反乱を望んでいる。涼州の反乱すら鎮圧できていないうえ、洛陽では一人の女性が頭を二つ持つ子を産んだ。これは漢の命運が尽き、天下に二人の君主が現れる兆しである。私とともに烏桓の兵を率いて挙兵すれば、大業を成し遂げられるだろう」と張挙を誘った。
『後漢紀』には、張純が張挙を反乱へ誘った際の様子がさらに詳しく記されている。
張純は「烏桓は何度も徴発されて死者を出し、もはや朝廷の命令には耐えられず、みな反乱を望んでいる。国家のやることがこの有様なのは、漢の命運が衰えている証拠だ。今、天下で反乱を起こしている連中は小僧ばかりなのだから、英雄が立ち上がれば誰にも止められない。私が烏桓を率い、あなたを君主として奉じようと思うが、どうだろうか」と持ちかけた。
いきなり君主になれと言われた張挙は「漢の命運が尽きるとしても、その後を継ぐべき人物がいるだろう。私などが君主になってよいのだろうか」とためらった。
すると張純は「天下という獲物が逃げ出せば、知恵のある者が捕まえるものだ。心配することはない」と張挙を説得した。
こうして張挙もその気になり、張純や烏桓の有力者である丘力居らとともに反乱を起こした。
天子を称し、霊帝に退位を迫る
張挙らの反乱軍は薊を襲撃して城郭を焼き払い、住民を捕らえて略奪を行った。
さらに右北平太守の劉政や、護烏桓校尉、遼東太守らを殺害した。
『後漢書』霊帝紀では、護烏桓校尉を公綦稠、遼東太守を楊終と記している。
『後漢書』劉虞伝では、護烏桓校尉を箕稠、遼東太守を陽終と記している。
反乱軍は十万余にまで膨れ上がり、遼西郡の肥如に駐屯した。
ここまで勢力を拡大すると、張挙はついに自ら天子を称し、張純は弥天将軍・安定王を名乗った。
張挙と張純は各州郡へ文書を送り、張挙が後漢に代わって皇帝になると宣言した。
それだけでは終わらず、霊帝には皇帝の位を譲るよう要求し、朝廷の公卿たちにも張挙を新たな皇帝として迎えるよう命じた。
さらに張純は烏桓の峭王らに歩兵と騎兵五万を率いさせ、青州・冀州へ侵攻させた。
反乱軍は清河・平原を攻め破り、役人や住民を殺害するなど、その被害は幽州だけでは収まらなくなっていった。
公孫瓚に敗北と丘力居の反撃
中平五年(188年)九月、朝廷は中郎将の孟益に騎都尉の公孫瓚を率いさせ、張純らの討伐に向かわせた。
公孫瓚は張純らと石門で激突し、反乱軍を大破した。
敗れた張純らは妻子まで捨てて塞外へ逃走し、公孫瓚は反乱軍に捕らえられていた人々を奪還すると、そのまま追撃を続けた。
ところが公孫瓚は勢いに乗って敵地へ深く入りすぎ、後方からの支援を受けられなくなってしまう。
そこを丘力居らに反撃され、今度は公孫瓚のほうが遼西の管子城で包囲された。
しかも、この包囲は二百余日も続いた。
公孫瓚軍は食糧が尽きると馬を食べ、馬まで食べ尽くすと、とうとう弩や盾を煮て飢えをしのぐほど追い詰められた。
さすがに弩や盾を煮ても腹の足しにはならず、公孫瓚は兵士たちと別れ、それぞれ分散して脱出することになった。
さらに雨や雪にも苦しめられ、谷や穴に落ちる者まで続出し、兵士の十人に五、六人が死亡したという。
ただし丘力居らにも公孫瓚を追撃する余裕はなく、こちらも食糧不足に苦しみ、遠く柳城まで退いた。
劉虞の懐柔策と反乱の崩壊
中平五年(188年)、朝廷は北方の異民族から厚い信頼を集めていた劉虞を幽州牧に任命し、張純らの反乱を収束させることにした。
薊へ赴任した劉虞は、まず駐屯軍を整理・縮小し、大軍を動かして討伐するのではなく、恩徳と信義によって反乱軍を帰順させようとした。
烏桓の峭王らにも使者を送り、降伏すれば寛大に受け入れると伝えた。
その一方で、張純と張挙の首には懸賞金をかけた。
すると丘力居らは劉虞の威信を慕って帰順し、後ろ盾を失った張純と張挙はさらに逃亡を続けた。
残された反乱軍も次々と降伏するか解散し、反乱は急速に勢いを失っていった。
中平六年(189年)三月、張純は食客の王政によって殺害され、その首を劉虞のもとへ届けられた。
しかし張挙については、その後どうなったのか記録に残っていない。
黄巾の乱がようやく収まりかけたと思ったら、今度は涼州で反乱が起こり、それを鎮圧するために幽州から烏桓の兵を集めたところ、給料未払いとイラついた張純のせいで新たな反乱が起こり、幽州から青州・冀州まで被害が広がってしまった。
山火事の延焼を防ぐために周辺を先に焼いたら、その火まで燃え広がって周りが全部焼けたような話で、当時の後漢がどれほど大変だったのかよくわかる。
参考文献
- 後漢書 : 列傳 : 劉虞公孫瓚陶謙列傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書八二 : 公孫瓚傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書 : 紀 : 孝靈帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書 : 列傳 : 烏桓鮮卑列傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書 : 列傳 : 南匈奴列傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢紀/卷25 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷058 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷059 – 维基文库,自由的图书馆
- 張純 (安定王) – 维基百科,自由的百科全书
張挙のFAQ
張挙の字(あざな)は?
字は不明です。
張挙はどんな人物?
後漢末に張純や烏桓の丘力居らとともに反乱を起こし、自ら天子を称した人物です。
張挙の最後はどうなった?
劉虞の懐柔策によって反乱軍が崩壊すると、張挙は張純とともに逃亡しました。
その後の消息は記録に残っていません。
張挙は誰に仕えた?
反乱を起こす以前は後漢の官僚で、泰山太守を務めていました。
その後、張純らと反乱を起こし、自ら皇帝になりました。
張挙にまつわるエピソードは?
張純から君主になるよう持ちかけられた際、張挙は「私などが君主になってよいのだろうか」とためらいました。
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