- 1分でわかる忙しい人のための蔣済の紹介
- 蔣済の生涯を徹底解説!曹操・曹丕・曹叡に信頼され、魏の重臣として示した軍略と諫言
- 蔣済(しょうせい)の出自と胡質・朱績との交流
- 第一次合肥の戦いで孫権を撤退させた蔣済の奇策
- 曹操への遷民反対と江淮十余万の民の逃亡
- 曹操の信任と謀反の冤罪
- 関羽の樊城包囲と司馬懿との共同献策
- 曹丕への仕官と夏侯尚の詔書をめぐる諫言
- 曹仁の濡須攻撃を諫めた蔣済
- 広陵遠征の失敗と数千隻の軍船救出
- 石亭の戦いと曹休への進軍中止の進言
- 中護軍蔣済と武官人事をめぐる賄賂の噂
- 中書監・中書令の権力集中を批判した上奏
- 公孫淵征討への反対と遼東情勢の分析
- 宮殿造営と民衆の疲弊を諫めた蔣済
- 孫権の遼東救援をめぐる蔣済の予測
- 太尉への昇進と曹氏の祖先をめぐる論争
- 曹爽政権への批判と日食をめぐる上奏
- 高平陵の変と司馬懿への協力
- 褒賞の辞退と高平陵の変を悔いた最期
- 蔣済の人物像を伝える逸話
- 阮籍を招聘した蔣済と仕官辞退をめぐる騒動
- 亡き息子の夢と泰山の役人になった孫阿
- 陳寿と後世の蔣済評価
- 参考文献
- 蔣済のFAQ
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1分でわかる忙しい人のための蔣済の紹介
蔣済(蒋済、しょうせい)、字は子通(しつう)、出身は楚国平阿県、生没年(?~249年)
後漢末から三国時代の魏に仕えた政治家・軍人で、曹操、曹丕、曹叡、曹芳の四代に仕えた。
建安十三年(208年)に始まる合肥の戦いでは、援軍が到着したという偽の情報で孫権を撤退させた。
関羽が樊城を包囲した際には、司馬懿とともに孫権に関羽の背後を攻撃させる策を進言した。
曹丕や曹叡の時代にも、呉への遠征や政治上の問題について積極的に意見を述べ、軍事と政治の両面で重用された。
曹仁や曹休の危険な作戦を事前に見抜き、皇帝に対しても遠慮なく諫言を行った。
その功績を評価され、魏の太尉にまで昇進した。
正始十年(249年)、司馬懿が曹爽を排除した高平陵の変では司馬懿に協力した。
しかし、曹爽に対して命までは奪われないと説明していたにもかかわらず、曹爽一族は処刑された。
『魏晋世語』によれば、蔣済は自分の言葉が結果的に偽りとなったことを悔やみ、同年に病死した。
蔣済の生涯を徹底解説!曹操・曹丕・曹叡に信頼され、魏の重臣として示した軍略と諫言
蔣済(しょうせい)の出自と胡質・朱績との交流
蔣済(蒋済)は楚国平阿県の出身で、若い頃から胡質や朱績とともに江淮地方で名を知られ、郡の計吏を務めた後、揚州の別駕となった。
蔣済が曹操に面会した際、曹操は胡質の父である胡敏について、「胡通達は立派な人物だったが、子孫はいるのか」と尋ねた。
蔣済は「胡質という息子がいます。大局を見通す能力では父に及びませんが、細かな仕事を正確に処理する能力では父を上回っています」と答えた。
曹操はこの人物評を信用し、胡質を頓丘令に任命した。
第一次合肥の戦いで孫権を撤退させた蔣済の奇策
建安十三年(208年)、孫権が大軍を率いて合肥を包囲した。
このとき曹操の主力軍は荊州へ出征しており、おまけに軍中では疫病まで流行していた。
曹操は張喜に千騎を率いさせ、途中で汝南の兵を加えて合肥へ向かわせたが、張喜の軍まで疫病に苦しめられ、肝心の援軍がなかなか到着しなかった。
そこで蔣済は、実際に援軍が来ないのであれば、来たことにしてしまおうと考えた。
張喜から書簡が届いたことにして、歩兵と騎兵あわせて四万がすでに雩婁まで到着しているという偽情報を作り、さらに主簿を迎えに向かわせることで、本当に大軍が接近しているように見せかけた。
あとは、この情報を孫権に信じてもらわなければならない。
蔣済は三組の使者に書簡を持たせて合肥へ向かわせたが、一組だけが城内へ入り、残る二組は孫権軍に捕らえられた。
当然、使者が持っていた書簡も孫権の手に渡った。
孫権は自分に読ませるために用意された書簡だとは思わず、曹操の援軍四万が近くまで来ていると信じ込んだ。
孫権は包囲陣を焼き払い、そのまま合肥から撤退し、陥落を免れた。
曹操への遷民反対と江淮十余万の民の逃亡
建安十四年(209年)、蔣済は揚州から譙県へ使者として赴き、曹操と面会した。
このとき曹操は、淮南の住民を別の地域へ移住させることを考えており、現地の事情を知る蔣済に意見を求めた。
曹操は「かつて袁紹と官渡で対峙した際、燕県や白馬の住民を移住させたところ、住民は逃亡せず、敵も略奪できなかった。
今、淮南の住民を移そうと思うが、どうだろうか」と尋ねた。
これに蔣済は「当時はこちらの兵力が弱く、敵が強かったため、住民を移さなければ敵の手に落ちていました。
しかし今は袁紹を破り、北では柳城を攻略し、南では江漢へ進出して荊州も服属させています。
今や曹操様の威勢は天下に及び、住民が敵に味方するような状況ではありません。
ただ、人々は故郷を離れたがらないものです。無理に移住させようとすれば、住民の間に不安が広がるでしょう」と反対した。
曹操はこの忠告を聞かず、予定どおり淮南の住民を移住させようとした。
その結果、移住させようとした住民だけではなく、江淮地方の十余万人が驚いて長江を渡り、呉へ逃げてしまった。
その後、蔣済が使者として鄴を訪れると、曹操は笑いながら出迎え、「私はただ住民を敵から避難させようとしただけなのに、かえって皆を追い出してしまった」と語った。
蔣済の心配した通りになったことを曹操も認め、その判断を評価して丹陽太守に任命した。
曹操の信任と謀反の冤罪
曹操の軍が南征から帰還すると、温恢を揚州刺史に、蔣済を別駕に任命した。
曹操は「季札(春秋時代の人物)のような人物が臣下となるなら、呉には立派な君主がいるというものだ。
今、君(蔣済)が揚州へ戻るのであれば、私はもう心配することはない」と述べ、蔣済に揚州を任せた。
その後、ある住民が蔣済を謀反の首謀者だと告発する事件が起こった。
しかし曹操は以前に出した命令書を于禁や沛相の封仁らに見せ、「蔣済がそんなことをするはずがない。
もし本当に謀反を企てていたなら、私は人を見る目がなかったことになる。
これは愚かな者が世の混乱を喜び、根拠もなく蔣済を巻き込んだだけだ」と、最初から蔣済の謀反を信じなかった。
曹操は調査を命じ、蔣済の疑いは晴らされた。
その後、蔣済は丞相主簿西曹属に任命された。
曹操は「舜が皋陶を登用すると、仁のない者たちは遠ざかった。
人の善悪を適切に判断することを、優れた部下に期待している」と述べ、蔣済に人材の評価と登用を任せた。
関羽の樊城包囲と司馬懿との共同献策
建安二十四年(219年)、関羽が樊城と襄陽方面へ進軍し、曹仁の軍を圧迫した。
曹操は于禁らを援軍として送り込んだが、折からの大雨で漢水が氾濫し、于禁の軍は水没。于禁は関羽に降伏し、龐徳は捕らえられた後に処刑された。
関羽の勢いは一気に膨れ上がり、曹操は献帝のいる許昌を移すことまで考え始めた。
ここで待ったをかけたのが、蔣済と司馬懿だった。
二人は「于禁らが敗れたのは洪水によるもので、戦い方を誤ったわけではありません。
国家の大局を損なうほどの損害ではありません。
劉備と孫権は表面は手を組んでいますが、お互いを出し抜こうとする間柄です。関羽が荊州で暴れれば暴れるほど、孫権にとっても邪魔になっていきます。
孫権に関羽の背後を攻撃するよう勧め、江南の土地を割いて与えると約束すれば、樊城の包囲は自然に解けるでしょう」と進言した。
曹操はこの策を採用した。
孫権は公安や江陵へ兵を進め、関羽の背後を攻撃した。
曹操軍と戦っている最中に後方の領地まで呉軍に奪われた関羽は撤退し、最後は呉軍に捕らえられた。
曹丕への仕官と夏侯尚の詔書をめぐる諫言
黄初元年(220年)、曹丕が魏王の位を継ぐと、蔣済は相国長史となった。
同年に曹丕が皇帝へ即位すると東中郎将に任命されたが、蔣済は中央に残ることを希望した。
しかし曹丕は「高祖は『どこに猛者を得て四方を守らせようか』と歌った。
天下はいまだ平定されておらず、優れた臣下を辺境に置く必要がある。
天下が平穏になれば、朝廷へ戻って官職に就く機会もある」と答え、蔣済を送り出した。
その後、蔣済は『万機論』を献上して曹丕から高く評価され、やがて中央へ戻って散騎常侍となった。
あるとき曹丕は、征南将軍の夏侯尚に「君は私の腹心の将軍であり、特別な任務を任せる。
恩恵を施して人々に慕われ、威光と恩賞を自在に行使し、人を殺すことも生かすことも許可する」と記した詔書を与えた。
夏侯尚はこの詔書を蔣済に見せた。
その後、蔣済が朝廷へ戻ると、曹丕は「各地で見聞きした世の風俗や政治の様子はどうだったか」と尋ねた。
蔣済は「特に優れたことは見聞きしませんでした。ただ、国を滅ぼすような言葉を耳にしただけです」と答えた。
それを聞いた曹丕は顔色を変え、何のことかと問いただした。
そこで蔣済は夏侯尚に与えた詔書を持ち出し、「権力を思いのままに振るう『作威作福』は、『書経』でも明確に戒められています。
また、古人は『天子に戯言はない』として、皇帝の言葉を慎重に扱ってきました。
陛下もこのことをよくお考えください」と諫めた。
皇帝が握るべき生殺与奪の権限まで夏侯尚に与えてるのはダメよということである。
曹丕は蔣済の言いたいことを理解し、夏侯尚へ与えた詔書を取り戻すよう命じた。
曹仁の濡須攻撃を諫めた蔣済
黄初三年(222年)、蔣済は大司馬の曹仁とともに呉征伐に参加し、自らも別働隊を率いて羨谿へ攻め込んだ。
曹仁はそのまま濡須の中州へ兵を送り込もうとしたが、蔣済はこれに反対する。
「敵は西岸を占拠し、上流には軍船を並べています。
その状況で兵を中州へ入れれば、自ら死地に入り込むようなものです。
これは滅亡につながる危険な作戦です」と、かなり強い言葉で曹仁を止めた。
それでも曹仁は中州への攻撃を決行しが、蔣済が心配した通りに敗れ、そのまま軍を引いて撤退した。
黄初四年(223年)、曹仁が病死すると、蔣済は再び東中郎将となり、曹仁が率いていた軍勢を引き継いだ。
曹丕は「君は文武の才能を兼ね備え、気概があり、かねてから長江を越えて呉の地を平定しようという志を持っていた。
そのため、再び軍を率いる任務を与える」と詔書を出している。
その後、蔣済は中央へ召還され、尚書となった。
広陵遠征の失敗と数千隻の軍船救出
黄初六年(225年)、曹丕は広陵まで軍を進め、呉への遠征を計画した。
これに対して蔣済は、水路が軍船を通すには不向きだと上奏し、さらに『三州論』まで著して遠征を止めようとした。
しかし曹丕は遠征を決行したが、蔣済が心配していたことが、そのまま現実になってしまった。
すると今度は、動けないなら現地に兵を残して屯田させればいいという意見が出てきた。
蔣済は「この地は東に湖があり、北には淮河があります。
水量が増える時期には呉軍が攻め込みやすく、安心して屯田できる場所ではありません」と反対した。
曹丕も今度は素直に聞き入れ、兵を残さず撤退することにした。
ところが精湖まで戻ったところで水位が下がり、数千隻の軍船が再び立ち往生した。
進むこともできず、戻ることもできず、曹丕はどうにもならなくなった船を蔣済に任せ、自分は陸路で帰ってしまった。
後始末担当の蔣済は軍船が通ってきた数百里の水路に四、五本の新しい水路を掘り、散らばっていた船を一か所へ集めた。
さらに土で堰を築いて湖水をせき止め、水量が十分になったところで一気に開放し、その水に乗せて軍船を淮河まで送り出した。
洛陽に戻った曹丕は「物事はよく理解しておかなければならない。
私は以前、船の半分を山陽池で焼き捨てるしかないと思っていた。
ところが君は後から船を運び、私とほとんど同じ頃に譙へ到着した。
また、君の進言はいつも私の考えにかなっている。
これから敵を討つ計画についても、よく考えて意見を述べてほしい」と蔣済を称賛した。
石亭の戦いと曹休への進軍中止の進言
黄初七年(226年)、曹丕が死去して曹叡が即位すると、蔣済は関内侯に封じられた。
太和二年(228年)、呉の鄱陽太守・周魴が魏へ降伏したいと言い出した。
もちろん本気で降伏するつもりなどなく、狙いは魏軍を呉領の奥深くまで誘い込むことにあったが、大司馬の曹休はこれを信じ、軍を率いて皖へ向かった。
蔣済は「敵地深くへ進めば、孫権の精鋭軍と対峙することになります。
しかも朱然らが上流にいるため、曹休の背後を襲うおそれがあります。
私には、この作戦に利益があるとは思えません」と上奏した。
しかし曹休はそのまま進軍し、皖まで入り込んだ。
すると今度は呉軍が安陸方面へ兵を動かし始めたため、蔣済は「敵は西に兵を見せていますが、本当の狙いは兵力を集めて東を攻めることです。
急いで諸軍に命じ、曹休を救援させるべきです」と再び上奏した。
やがて曹休は石亭で陸遜率いる呉軍に大敗し、武器や軍需物資を捨てて撤退した。
さらに呉軍は夾石を押さえ、逃げる曹休の退路まで塞ごうとした。
そこへ賈逵の率いる援軍が到着し、曹休はどうにか全滅を免れて帰還した。
この後、蔣済は中護軍に昇進した。
中護軍蔣済と武官人事をめぐる賄賂の噂
蔣済が中護軍となった頃、護軍は諸将を統率するとともに、武官の人事を担当していた。
『魏略』によれば、この官職では以前から人事をめぐる賄賂をなくすことができず、蔣済の在任中にも「牙門将になりたければ絹千匹、百人督なら五百匹」という噂が広がった。
蔣済と親しかった司馬懿がこの噂について尋ねると、蔣済はうまく弁明できず、「洛陽の市場でも、一銭足りなければ買い物はできませんからね」と冗談で返した。
これを聞いた司馬懿と蔣済は、顔を見合わせて笑ったという。
官職が金で買える状況が常態化していたため、蔣済はそれをあえて洛陽の市場での商売になぞらえ、冗談めかして返したのである。
中書監・中書令の権力集中を批判した上奏
曹叡の時代、中書監と中書令は皇帝のそばで重要な政務を扱い、大きな権限を持つようになっていた。
蔣済は、皇帝の側近に権力が集中することを危険視し、曹叡に上奏した。
簡単にいえば、大臣が力を持ちすぎると危ないから取り上げたのに、その力をお気に入りの側近に持たせたら意味がない。
誰か一人に好き放題させず、仕事のできる奴を見つけてそれぞれに任せればいい、と蔣済は訴えたのである。
曹叡は蔣済の上奏を高く評価し、「率直に諫言する臣下こそ、君主が頼りとする存在である。
蔣済は文武の才能を兼ね備え、国の重要な問題があるたびに意見を述べ、その忠誠と働きには感心している」と詔を下した。
蔣済は護軍将軍に昇進し、散騎常侍を加えられた。
以下は上奏の中身で読み飛ばして構わない。
「大臣の権力が重くなりすぎれば国家は危うくなり、皇帝の側近が親密になりすぎれば、君主の目は塞がれます。
これは昔から戒められてきたことです。
以前は大臣が政治を握って朝廷の内外を動かしていましたが、陛下ご自身が政務を執るようになってからは、官僚たちも慎んで職務に就くようになりました。
大臣が必ずしも不忠だから危険なのではありません。臣下に権力が集中すれば、人々が皇帝を軽んじるようになること自体が問題なのです。
陛下は大臣への権力集中を警戒されましたが、側近についても同じように警戒すべきです。
側近が忠実な人物であっても、大臣より賢明とは限らず、むしろ陛下の意向を察して気に入られることには長けている場合があります。
現在、朝廷の外では何かにつけて中書の名が挙がっています。たとえ中書の官吏が慎重に振る舞い、外部と私的に交際していなくても、そのような評判が立つだけで人々は疑いを抱きます。
まして中書は実際に重要な政務を扱い、毎日陛下のそばにいます。陛下がお疲れのときなどに中書が代わって物事を決めるようになれば、官僚たちは陛下ではなく中書を頼るようになるでしょう。
そうなれば中書も自分たちの立場を守るために仲間を集め、人物の評価や賞罰にまで影響を及ぼすようになります。正しい道を歩む者は退けられ、中書に取り入る者が昇進するようになるでしょう。
こうした弊害は小さなところから始まります。陛下自身が信頼している側近の行動であるため、問題が起きても気づきにくく、朝臣たちも中書の恨みを買うことを恐れて、陛下へ真実を伝えなくなるおそれがあります。
陛下が広く意見を聞き、政治や人事に誤りがあれば正していけば、黄帝や堯・舜にも比肩する功績を挙げ、武帝や文帝の事業をさらに明らかにすることができるでしょう。
もちろん、皇帝一人ですべての政務を処理することはできず、臣下に任せる必要があります。
しかし重要な仕事を一人の臣下に集中させ、その人物が周公旦ほど忠実でも、管仲ほど公正でもなければ、権力を弄び、官職を乱す弊害が生まれます。
国家全体を支えられるほどの人物は少なくても、一州を治められる者、一つの官職で力を発揮できる者、忠実に職務を果たす者はいます。
それぞれの能力に応じて仕事を任せ、陛下の朝廷が特定の官吏に政治を独占されていると言われないようにすべきです」
公孫淵征討への反対と遼東情勢の分析
太和六年(232年)、曹叡は平州刺史の田豫を海路から、幽州刺史の王雄を陸路から進軍させ、遼東の公孫淵を攻撃しようとした。
司馬彪の『戦略』によれば、
「互いに領土を奪い合っている国でもなく、反乱を起こした臣下でもない相手を、軽々しく討伐すべきではありません。
討伐しても服属させられなければ、かえって相手を反逆者に追い込むことになります。
虎や狼が道を塞いでいるときに、狐のことを気にする必要はありません。まず大きな害を取り除けば、小さな害は自然になくなるものです。
公孫氏は代々魏に臣従し、毎年の使者や貢物を欠かしていません。
たとえ一度の遠征で勝利しても、獲得できる人民や財物は魏にとって大きな利益にならないでしょう。
もし作戦が思いどおりに進まなければ、恨みを買うばかりか、これまで築いた信頼まで失うことになります」と蔣済は反対した。
本当に相手をしなければならない虎や狼は別にいるのだから、今まで大人しく貢物まで持ってきている相手を、わざわざ殴りに行って敵にする必要はないという話である。
しかし曹叡は蔣済の進言を採用せず、田豫らを出兵させた。
公孫淵を攻める遠征そのものは成果を挙げられず、軍は帰還した。
宮殿造営と民衆の疲弊を諫めた蔣済
景初年間(237~239年)、魏では国外への遠征が続く一方、国内でも宮殿などの造営が盛んに行われていた。
長年の戦争で兵士は家族と離れたまま国境に駐屯し、農業に従事する人手も足りない。そこへ凶作まで重なり、民衆の生活はかなり苦しくなっていた。
蔣済はこの状況を問題視し、戦争が続いて人も国力も足りないのに、宮殿や後宮にまで金と人を使っている場合ではないと曹叡に上奏した。
曹叡は「護軍がいなければ、私はこのような意見を聞くことができなかった」と述べ、蔣済の上奏を評価した。
以下は上奏の中身で読み飛ばして構わない。
「陛下は先代の事業を受け継ぎ、さらに大きく発展させる立場におられます。
今はまだ、安心して政治を怠ることができる時期ではありません。
現在、魏は十二州を所有していますが、人口は漢の時代の大きな郡一つほどにすぎません。
蜀と呉の二つの敵はまだ滅んでおらず、兵士たちは長年国境に駐屯し、耕作と戦闘を続けています。
宗廟や宮殿の建設も進められていますが、農業や養蚕に従事する者は少なく、衣食を必要とする者は多いのです。
今最も急ぐべきことは民衆を休ませ、生活がこれ以上疲弊しないようにすることです。
疲れ果てた民衆が洪水や干ばつに遭えば、たとえ百万人いても国家の役には立てません。
民を働かせるなら農作業の暇な時期を選び、農業の妨げにならないようにすべきです。
大事業を成し遂げようとする君主は、まず民衆の力を見極め、その生活をいたわるものです。
かつて越王勾践は民を養い、燕昭王は病人をいたわり、力を蓄えてから敵と戦いました。
そのため、弱かった燕は強い斉を服属させ、弱かった越は強大な呉を滅ぼすことができたのです。
今、蜀と呉を攻撃しなければ、相手は滅びません。
こちらが何もしなければ、かえって敵が侵入してきます。
陛下の代に平定できなければ、その責任は後世まで残るでしょう。
陛下の優れた軍略をもって、急がなくてもよい事業をやめ、敵の討伐に専念すれば、難しいことではありません。
また、娯楽にふければ精神を損ない、心身を使いすぎれば疲弊します。
後宮には適切な人数だけを残し、それ以外の女性たちは退出させ、静かな生活を大切になさるべきです」
孫権の遼東救援をめぐる蔣済の予測
『漢晋春秋』によれば、景初二年(238年)、司馬懿が公孫淵討伐のため遼東へ向かうと、公孫淵は再び孫権に臣従し、呉へ救援を求めた。
曹叡は蔣済に「孫権は遼東を救援するだろうか」と尋ねた。
蔣済は「孫権は魏軍の備えが堅く、簡単には利益を得られないことを理解しています。
深く進軍するほどの兵力はなく、浅く侵入しただけでは労力を費やすばかりで成果がありません。
孫権は自分の子弟が危険にさらされても動かないでしょう。まして遠方の公孫淵のために大軍を動かすとは思えません。
過去に公孫淵から侮辱を受けたこともあります。
孫権が救援するという噂を広めているのは、魏の使者を惑わせ、魏軍の作戦が失敗したときに今後の交渉を有利にするためでしょう。
ただし、沓渚から遼東までは距離があります。
もし魏軍と公孫淵の戦いが長期化し、なかなか決着しなければ、孫権が少数の兵を派遣して襲撃する可能性はあります。
その点までは予測できません」と答えた。
つまり孫権が公孫淵のために本気で魏と戦うことはないが、魏軍が遼東で手間取れば、その隙を狙って少し手を出してくるかもしれないと蔣済は見ていた。
太尉への昇進と曹氏の祖先をめぐる論争
景初三年(239年)、曹叡が死去して曹芳が即位すると、蔣済は領軍将軍に転任し、昌陵亭侯に封じられた。
正始三年(242年)には太尉に昇進した。
この頃、魏では曹氏の祖先が誰なのかという話が問題になっていた。
侍中の高堂隆は曹氏を舜の子孫と考え、舜を天の祭祀に配するべきだと主張した。
蔣済は舜の姓は媯で、その子孫は田氏を名乗っており、曹氏とはつながらないと反対した。
裴松之注によれば、蔣済は『曹騰碑』に曹氏が邾から出たと記されていることを挙げ、王沈の『魏書』にも同様の系譜が記されている。
一方、曹操自身が著した家伝では曹叔振鐸の子孫とされ、曹植が曹操のために作った誄文でも周王室につながる系譜が示されていた。
このように、曹氏の祖先については複数の異なる説明が存在していた。
景初年間(237~239年)、曹叡は高堂隆の意見を採用し、魏を舜の後裔とする祭祀を行った。
さらに後に魏が晋へ帝位を譲る際にも、曹氏が舜の子孫であるという説明が使われている。
蔣済は、血縁のない舜を祖先として祭り、本来祭るべき曹操を正しい位置で祀らないのはおかしいと主張した。
鄭玄の『祭法』の解釈では、古代には徳のある人物を祖先の祭祀に配し、夏以後になって姓氏によって祭るようになったと説明していた。
蔣済は、「カワウソは自分より格上の龍を祭らず、自分の祖先を祭います。
山犬も自分より格上の麒麟や白虎ではなく、自分の祖先を祭ります。
鄭玄の説に従えば、古代の人間はカワウソや山犬にも劣っていたことになります」と鄭玄の解釈に異議を唱えた。
カワウソですら自分の祖先を祭っているのに、古代の人間はそれすら知らなかったのかという、かなり容赦のない反論だった。
裴松之も、この比喩は冗談めいているとしながら、その主張には考えるべきところがあると評価している。
曹爽政権への批判と日食をめぐる上奏
曹芳の即位後、曹爽が政権を握ると、丁謐や鄧颺らがこれまでの制度を次々と変更するようになった。
この頃に日食が起こり、朝廷では政治のどこに問題があるのか臣下に意見を求めたため、蔣済も上奏した。
蔣済は「かつて舜が政治を補佐したときには臣下同士の結託を戒め、周公旦も政治を担う際に私的な仲間を作ることを慎みました。
斉の君主が災害について尋ねたとき、晏嬰は民衆へ恩恵を施すことを勧め、魯の君主が異変について尋ねたとき、臧孫は労役を軽減することを勧めました。
天の異変に対応するには、実際の政治を正すことが必要です。
現在、蜀と呉はまだ滅んでおらず、兵士たちは数十年にわたって戦場で苦労しています。
家族と離れ離れになった男女は多く、民衆は貧しい生活を送っています。
国の制度を作り、後世まで残すことができるのは、特別な才能を持つ人物だけです。
どうして並の官吏が軽々しく制度を変更してよいのでしょうか。
そのようなことをしても政治の役には立たず、かえって民衆を苦しめるだけです。
文官も武官もそれぞれの職務を守り、穏やかで公平な政治を行うべきです。
そうすれば政治が正され、天の異変に対する答えにもなるでしょう」と訴えた。
日食が起きたから何か特別な儀式をしろというのではなく、曹爽の周りで好き勝手に制度をいじっている連中を止め、長年の戦争で疲れている民衆をこれ以上振り回すなというのが蔣済の答えだった。
高平陵の変と司馬懿への協力
正始十年(249年)、太傅の司馬懿は曹爽の権力を奪うため、高平陵の変を起こした。
蔣済も司馬懿に協力し、洛水の浮橋に軍を駐屯させた。
一方、曹爽の側近だった桓範は洛陽を脱出して曹爽のもとへ向かい、皇帝を奉じて許昌へ移り、各地の軍を集めて司馬懿に対抗するよう勧めた。
桓範は計略に優れた人物だったが、蔣済は曹爽がその策を採用することはないと見ていた。家族の身を案じる曹爽に、すべてを賭けて司馬懿と戦うような決断はできないと考えたのである。
しかし、曹爽は司馬懿に抵抗することを諦め、権力を手放して洛陽へ戻った。
しかしその後、曹爽とその兄弟、何晏、丁謐、鄧颺、畢軌、李勝、桓範らは謀反の罪を問われ、処刑された。
蔣済は曹爽の父である曹真の功績を挙げ、「曹真には国家への大きな功績があります。その家系を絶やしてはなりません」と司馬懿に進言した。
しかし司馬懿はこれを受け入れなかった。
褒賞の辞退と高平陵の変を悔いた最期
高平陵の変の後、蔣済は都郷侯に進封され、封邑七百戸を与えられた。
しかし蔣済はこの褒賞を受け取ろうとせず、上奏して辞退した。
蔣済は「私は高い官職にありながら、曹爽が災いとなる計画を抱いていたことを防げませんでした。
これは私が職務を十分に果たしていなかったということです。
太傅が自ら決断して計略を実行し、陛下がその忠節を明らかにされたことで、罪人は処刑されました。
これは国家にとって幸いなことです。
しかし今回の計略を私は事前に知っていたわけでもなく、軍を率いて戦功を挙げたわけでもありません。
その私が褒賞を受ければ、功績のない者まで恩賞を受ける前例を作ることになります。
私は高官として人々に見られる立場にあり、そのような例を残すことを恐れます」と訴えた。
蔣済は固く辞退したが、朝廷はこれを許さなかった。
孫盛は、このときの蔣済について、利益に心を動かされず、自分が正しいと考えることを守った人物だと評価している。
蔣済は正始十年(249年)四月に死去し、諡号は景侯とされた。
蔣済の死後は子の蔣秀が爵位を継承し、蔣秀が亡くなると、その子の蔣凱が継いだ。
咸熙年間(264~265年)、魏で五等爵が設けられると、蔣済が生前に挙げた功績によって、蔣凱は下蔡子に改封された。
『魏晋世語』には、蔣済の最期について別の事情が記録されている。
蔣済は高平陵の変の際、曹爽に対して司馬懿は官職を免じるだけだと書き送っていた。
しかし曹爽は実際には一族とともに処刑されたため、蔣済は自分の言葉が結果的に偽りとなってしまったことを悔やんだ。
蔣済はこの件を深く気に病み、病気になって亡くなったという。
蔣済の人物像を伝える逸話
蔣済は酒を好む人物でもあった。
『魏略』には、その酒好きが原因で起こった時苗との逸話が記録されている。
蔣済が揚州の治中を務めていた頃、時苗が新たに着任し、蔣済のもとへ挨拶に訪れた。
ところが蔣済は酒に酔っており、時苗と面会できなかった。
時苗はこれに腹を立て、そのまま帰ってしまった。
時苗は木を削って人形を作り、「酒徒蔣済」と書きつけた。
そしてその木像を壁の下に置き、朝夕に弓矢を射かけたという。
一方で、蔣済には人を見る目に関する逸話も残されている。
蔣済は、人の目を見れば、その人物がどのような人間かわかると論じていた。
その見方を示す逸話として、『三国志』鍾会伝には幼い鍾会との出会いが記録されている。
鍾会が五歳の頃、父の鍾繇は息子を蔣済に会わせた。
蔣済は幼い鍾会を見ると非常に驚き、「普通の人物ではない」と評価した。
阮籍を招聘した蔣済と仕官辞退をめぐる騒動
正始三年(242年)頃、今度は太尉の蔣済が阮籍の才能を聞きつけ、自分の幕府に招聘しようとした。
仕官する気がない阮籍は、都亭から手紙を送り、丁重に辞退した。
「太尉閣下の徳は高く、その名声は天下に知れ渡り、多くの英才が幕府に仕えることを望んでおります。かつて魏の文侯は子夏を礼遇し、燕の昭王は鄒衍を厚く遇しました。
身分が低くとも、道を備えた賢者であれば、王侯から尊重されるものです。
しかし、私には子夏や鄒衍のような学識も徳もなく、閣下の招聘に応えるだけの能力もございません。
今後は東の丘で畑を耕し、収穫から税を納め、薪を背負って暮らしたいと考えております。
おまけに体も弱く、役人の仕事には耐えられませんので、どうか今回の招聘はお取り消しくださいますようお願い申し上げます。」
褒めちぎった挙げ句、結局は仕官する気などさらさらないのである。
蔣済は当初、阮籍が招聘に応じないのではないかと心配していたが、手紙を受け取ると喜んだ。
阮籍は本気で断ったのに、蔣済は辞退の言葉を謙遜だと受け取ったらしく、兵卒を迎えに向かわせた。
しかし、兵卒が向かった先に阮籍の姿はなく、すでに立ち去ったあとだった。
これを知った蔣済は激怒した。
結局、郷里の人々が阮籍を説得し、ようやく蔣済のもとへ出仕させることに成功した。
ところが、阮籍はしばらくすると病気を理由に辞職してしまった。
亡き息子の夢と泰山の役人になった孫阿
『列異伝』には、蔣済の亡くなった息子に関する不思議な逸話が記録されている。
蔣済が領軍将軍を務めていた頃、妻の夢に亡くなった息子が現れた。
息子は涙を流しながら、「生前は卿相の子孫だったのに、今は死後の世界で泰山の伍伯という下役をしています。
苦しく屈辱的で、とても言葉では言い表せません。
太廟の西にいる孫阿という人物が、まもなく死後の世界で泰山令になります。
どうか父上から孫阿に頼んで、私をもっと楽な仕事に移してもらってください」と訴えた。
妻から話を聞いた蔣済は、「ただの夢だ。気にすることはない」と相手にしなかった。
ところが翌晩、また同じ息子が夢に現れた。
息子は「私は新しい長官を迎えるため、今は太廟の下にいます。
長官は明日の正午に出発するので、もうこちらへ戻ることはできません。
父上は気が強く、簡単には信じてくださらないので、もう一度母上にお願いしているのです。
どうか父上に、確かめるだけでも確かめてほしいと伝えてください」と語り、孫阿の容姿や特徴まで詳しく説明した。
さすがに二晩続けてここまで具体的な話をされると、妻も引き下がらなかった。
翌朝、「夢だとはいっても、これほど具体的なのは不思議です。確かめてみるだけなら、何も失うものはないでしょう」と蔣済を説得した。
そこで蔣済が人を太廟へ向かわせると、本当に孫阿という人物がいた。
しかも、その容姿は亡くなった息子が夢の中で説明した通りだった。
ここまで揃ってしまえば、さすがの蔣済もただの夢では片付けられない。蔣済は涙を流し、「もう少しで息子の願いを無視するところだった」と語った。
蔣済は孫阿を呼び出し、事情を説明した。
孫阿は「もし本当にそのようなことになるなら、私の望むところです。
ご子息は、どのような官職を希望しているのですか」と尋ねた。
蔣済が「死後の世界で、本人が楽に暮らせる仕事を与えてほしい」と頼むと、孫阿はこれを承諾した。
蔣済は孫阿に厚く礼をして帰らせた。
その後、結果を早く知るため、領軍府から太廟まで十歩ごとに人を配置し、駅伝のたすきのように、次から次へと孫阿の様子を届けさせた。
辰の刻、「孫阿が胸の痛みを訴えました」
巳の刻、「容体が悪化しました」
そして正午、「孫阿が亡くなりました」という知らせが届いた。
蔣済は涙を流し、「息子の不幸は悲しいが、死者にも意識があると知ることができたのは喜ばしい」と語った。
それから一か月余り後、妻の夢に再び息子が現れた。
今度の息子は、もう伍伯ではなかった。
孫阿との約束はきちんと守られ、「録事という官職に移ることができました」と母に報告したという。
陳寿と後世の蔣済評価
『三国志』の陳寿は、「程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蔣済は、才知と計略に優れた世にまれな人物である。清廉な政治や徳行という点では荀攸と異なるものの、計画や予測においては同じ水準にある」とその才能を高く評価している。
後世の葉適は、劉曄や蔣済のように人の心を推し量って行動する人物について、批判的な見解を示した。
一方、郝経は、魏の荀彧、荀攸、賈詡、程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蔣済、司馬懿らを、呉の張昭、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜らと並べ、国家を支えた謀臣として挙げている。
胡三省は、蔣済が孫権による遼東救援の可能性を分析したことについて、呉の君臣の考えはすでに蔣済の予測を超えていなかったと評価した。
蔣済は何度も正しい見立てを示したが、なぜか相手はその通りにしなかった。
そして蔣済の言葉を聞かなかった者は、決まって自分が痛い目を見ることになった。
唯一の例外が司馬懿である。
曹真の一族を残すよう訴えられても聞き入れなかったが、困るどころか、その後は司馬氏が魏そのものを奪うことになった。
参考文献
- 三國志 : 魏書十四 : 蔣濟傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第一 高祖宣帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十七 : 胡質傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十八 : 鍾會傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十三 : 常林傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書九 : 曹爽傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷070 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷071 – 维基文库,自由的图书馆
- 全三國文/卷33 – 维基文库,自由的图书馆
- 戰略輯佚 – 中國哲學書電子化計劃
- 蔣濟 – 维基百科,自由的百科全书
蔣済のFAQ
蔣済の字(あざな)は?
子通(しつう)です。
蔣済はどんな人物?
軍事作戦や政治について優れた献策を行った魏の重臣です。
蔣済の最後はどうなった?
高平陵の変で司馬懿に協力しましたが、曹爽一族が処刑されたことを悔やみました。
『魏晋世語』によれば、その後病気になり、正始十年(249年)四月に亡くなりました。
蔣済は誰に仕えた?
曹操に仕えた後、魏の曹丕、曹叡、曹芳のもとで官職を務めました。
揚州別駕、丹陽太守、東中郎将、中護軍、護軍将軍、領軍将軍などを歴任し、太尉に昇進しました。
蔣済にまつわるエピソードは?
酒に酔って時苗との面会を断ったため、「酒徒蔣済」と書かれた木像を作られ、矢を射かけられたという逸話も残っています。
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