鄧芝:孫権も認めた外交手腕と軍事もこなす蜀の重臣【すぐわかる要約付き】

鄧芝
鄧芝

1分でわかる忙しい人のための鄧芝の紹介

鄧芝(とうし)、字は伯苗(はくびょう)、出身は義陽郡新野県、生没年(?~251年)

後漢の司徒・鄧禹の子孫で、後漢末に蜀へ入り、劉備に見出されて郫令、広漢太守、尚書へと昇進した。
劉備の死後には諸葛亮の命を受けて呉へ赴き、孫権を説得して蜀と呉の同盟を立て直した外交の功労者である。

その後は中監軍・揚武将軍として趙雲とともに諸葛亮の北伐に参加し、前将軍、江州督を経て車騎将軍に昇進した。
七十歳前後になっても自ら軍を率いて涪陵の反乱を鎮圧し、二十余年にわたって将軍を務めた。
剛直な性格で士人たちとは折り合いがよくなかったが、賞罰を明確にして兵士をいたわり、私財を築かずに生涯を終えた清廉な蜀の重臣である。

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鄧芝の生涯を徹底解説!劉備への仕官から蜀呉同盟の再建、七十歳まで軍を率いた重臣の最期

劉備に見出される

鄧芝は義陽郡新野県の出身で、後漢の光武帝の時代に司徒を務めた鄧禹の子孫である。
後漢末の混乱を避けて蜀へ入ったものの、名門の子孫だからといって誰かが迎えに来てくれるわけでもなく、しばらくはこれといった待遇も受けなかった。

当時、益州従事の張裕は人相を見ることで知られていた。
鄧芝が自分の将来を見てもらうと、張裕は「あなたは七十歳を過ぎ、大将軍の位に至り、侯に封じられるでしょう」と告げた。

鄧芝は士人との交流を好んでいた巴西太守の龐羲を頼り、そのもとへ身を寄せた。劉備が益州を平定すると、郫の邸閣督に任命されている。

転機になったのは、劉備が郫を訪れたときだった。
たまたま鄧芝と話をした劉備は、その人物を気に入り、郫令へ抜擢し、広漢太守へ昇進させた。

鄧芝は任地で清廉かつ厳格に職務を行い、実績を挙げた。
蜀へ入っても長く埋もれていた男は、劉備に見つかってから一気に中央へ進み、やがて尚書となった。

劉備死後の危機と孫権を説得した鄧芝

夷陵の戦いの後、孫権は和睦を請い、劉備は宗瑋や費禕らを派遣して、壊れた関係を少しずつ修復していた。
ところが建興元年(223年)、その劉備が永安で死去する。後を継いだ劉禅はまだ若く、諸葛亮は孫権が蜀への態度を変えるのではないかと心配していた。

そこで鄧芝は、「今、主上はまだお若く、即位されたばかりです。呉へ大使を送り、改めて友好関係を結ぶべきです」と進言した。

諸葛亮は「私も長い間そう考えていたが、適任者を見つけられなかった。今日になってようやく見つけた」と答えた。
鄧芝が誰なのか尋ねると、「それは、あなた自身だ」と返され、言い出した本人が行くことになった。

鄧芝は関係修復だけでなく、呉にいた張裔を蜀へ戻す役目も追加されて孫権のもとへ向かった。

諸葛亮の心配は当たっており、孫権は劉備を失った蜀を信用しきれず、鄧芝が到着してもすぐには会おうとしなかった。
鄧芝は自ら上表し、「私が今回参ったのは蜀のためだけではありません。呉のためでもあります」と面会を求め、ようやく孫権の前へ通された。

孫権は「私は本心では蜀と友好関係を結びたいと思っている。
しかし蜀主は若く、国も小さく、勢力も圧迫されている。
魏にその隙を突かれれば、自国を守ることさえできなくなるのではないか。
そのため決断できずにいるのだ」と語った。

これに対して鄧芝は、「呉と蜀を合わせれば四州の地を有します。大王は世に名高い英主であり、諸葛亮も当代の傑物です。蜀には険しい山々があり、呉には三江という守りがあります。
この二つの長所を合わせ、互いに唇と歯のような関係になれば、進んでは天下を争い、退いては鼎立することができます。これは自然の道理です。」

という前向きの後に確信に迫った。
「しかし大王が魏に臣従すれば、魏は上では大王自身の入朝を求め、下では太子を宮廷へ差し出すよう要求するでしょう。これに従わなければ、魏は命令に背いたことを理由として討伐を始めます。
そのとき蜀も機会を見て長江を下って進軍するでしょう。そうなれば江南の地は、もはや大王のものではありません」と説いた。

孫権は長い間黙って考えた後、「あなたの言うとおりだ」と答えた。
そして魏との関係を断ち、蜀との同盟を改めて結び、張温を蜀へ派遣した。

「天に二つの太陽はない」と孫権に言い切った鄧芝

鄧芝は再び呉へ派遣された。
前回の交渉で孫権から信用されたからこその再登板だったが、鄧芝は二度目だからといって孫権に話を合わせるような男ではなかった。

孫権は鄧芝に、「もし天下が平定されたなら、二人の君主がそれぞれ国を治めるというのも楽しいことではないか」と語った。

鄧芝は「天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいません。
もし魏を併合した後、大王がまだ天命の行方を理解しておられないのであれば、それぞれの君主は自らの徳を高め、臣下はそれぞれの主君に忠義を尽くすことになります。
そうなれば将軍たちは鼓を打ち、そこから戦争が始まるでしょう」と答えた。

「魏がいなくなったら、喧嘩しましょうね。」という、同盟を結び直したばかりの相手に、そこまで言ってしまった。

ところが孫権は怒るどころか大笑いし、「あなたの誠実さは、そこまで率直なのか」と感心した。
さらに諸葛亮へ書簡を送り、「以前来た丁厷の言葉は華美に過ぎ、陰化も十分に役目を果たしてない。二国を和合させられるのは鄧芝だけである」と高く評価した。

趙雲との北伐から江州督・車騎将軍への昇進

建興六年(228年)、諸葛亮が北伐を開始すると、鄧芝は中監軍・揚武将軍となり、趙雲とともに疑兵を率いた。

二人は箕谷へ入り、斜谷道から郿へ進軍するように見せかけ、魏軍を引きつけた。
その間に諸葛亮の本隊が祁山へ向かう作戦で、魏からは大将軍の曹真が趙雲と鄧芝の軍に対している。

しかし街亭では馬謖が敗れ、箕谷でも兵力に劣る趙雲・鄧芝軍が敗北した。
それでも趙雲が兵をまとめて守りを固めたため、大きな損害には至らなかった。

建興十二年(234年)に諸葛亮が死去すると、鄧芝は前軍師・前将軍へ昇進し、兗州刺史を兼任して陽武亭侯に封じられ、その後は江州を督した。

孫権はその後も鄧芝とたびたび連絡を取り、手厚い贈り物を送っている。

延熙六年(243年)、鄧芝は車騎将軍へ昇進し、その後には假節を与えられた。

宗預との応酬に見る鄧芝の剛直な性格

鄧芝は剛直だったが、かなり傲慢なところもあった。
大将軍の費禕ですら鄧芝には遠慮していたというから、相当である。そんな鄧芝にまったく屈しなかったのが宗預だった。

延熙十年(247年)、六十歳になった宗預が屯騎校尉となった頃、七十歳を過ぎた鄧芝は江州から成都へ戻っていた。

鄧芝は宗預に、「礼では六十歳になれば軍務に服さないことになっています。それなのに、あなたは今になって兵権を受けるのですか」と問いかけた。
すると宗預は、「あなたは七十歳になっても兵権を返していない。私は六十歳なのに、なぜ兵権を受けてはいけないのですか」と言い返した。
宗預としては、お前が言うなという話だった。

裴松之も、鄧芝が年齢を理由に宗預をからかったのは自分自身を顧みていないと評している。
ただし宗預の返答も相手が気にするところを突いたものだとした。
そもそも、こんなやり取りを史書に載せるのは「無駄な雑文に近い」とまで書いている。

涪陵反乱の鎮圧と猿を射た鄧芝の死の予兆

延熙十一年(248年)、涪陵属国の民夷が都尉を殺害して反乱を起こした。
この頃の鄧芝はすでに七十歳前後だったが、自ら軍を率いて涪陵へ向かい、反乱の首領を斬って鎮圧した。

『華陽国志』には、この遠征で鄧芝が猿を射たという二つの話が残っている。

弩を好んでいた鄧芝が山を登る黒い猿を見つけて射たところ、命中した猿が自分で矢を抜き、木の葉を巻いて傷口を塞いだ。
それを見た鄧芝は、「ああ、私は生き物の性質に逆らってしまった。私は死ぬことになるだろう」と語った。

もう一つ。
鄧芝が子猿を抱いた母猿を射ると、残された子猿が母親に刺さった矢を抜き、木の葉を巻いて傷を塞ごうとした。
鄧芝はその姿を見て嘆き、弩を水中へ投げ捨て、自分の死が近いことを悟ったという。

鄧芝の最期と評価

鄧芝は二十余年にわたって将軍を務め、賞罰を明確にしながら兵士たちをよくいたわった。
それだけの地位にありながら、自分のために財産を蓄えることはなく、衣食は官府からの支給に頼っていた。妻子が飢えや寒さに苦しむことさえあり、亡くなったときにも家には余分な財物が残されていなかったという。

性格は剛直で飾り気がなく、自分の感情を取り繕うこともしなかった。
そのため士人たちとは折り合いが悪く、同時代の人物を高く評価することも少なかったが、姜維の才能については認めていた。

延熙十四年(251年)、鄧芝は死去した。
死後は子の鄧良が爵位を継ぎ、鄧良は景耀年間(258~263年)に尚書左選郎、晋の時代には広漢太守を務めている。
また、『真誥』などには鄧芝の母として鄭天生の名も記録されている。

『三国志』の陳寿は鄧芝を「堅貞簡亮」と評し、官職に就いては自家のことを顧みず、職務に尽くした人物だと評価した。

天下に名を轟かせた名将ではない。
けれど、外交ができる。太守もできる。中央官もできる。軍も率いる。しかも私腹を肥やさない。
こういう人間が七十歳まで働いていたところに、蜀という国の強さと、人材の苦しさの両方が見える。

参考文献

鄧芝のFAQ

鄧芝の字(あざな)は?

伯苗(はくびょう)です。

鄧芝はどんな人物?

性格は剛直で飾り気がなく、自分の感情を取り繕うこともしない人物ですが、姜維についてはその才能を高く評価しました。

鄧芝の最後はどうなった?

延熙十四年(251年)に亡くなりました。
『華陽国志』には、涪陵征討の際に猿を射たことをきっかけとして、自ら死期が近いことを悟ったという逸話も記録されています。

鄧芝は誰に仕えた?

劉備に見出されて仕え、その後は劉禅のもとで尚書、中監軍、前将軍、車騎将軍などを歴任しました。

鄧芝にまつわるエピソードは?

呉への使者となった際、孫権に対して「天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいない」と述べ、魏を滅ぼした後には蜀と呉の戦争が始まる可能性まで率直に語りました。
孫権はその態度を評価し、諸葛亮に「二国を和合させられるのは鄧芝だけだ」と書き送っています。

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