1分でわかる忙しい人のための羊琇の紹介
羊琇(ようしゅう)、字は稚舒(ちじょ)、出身は泰山郡南城県、生没年(236年~282年)
魏から西晋にかけて活躍した官僚で、父は羊耽、母は聡明さで知られた辛憲英である。
若いころは鍾会に従って蜀の平定に参加し、鍾会が反乱を企てると厳しく諫めた。
司馬炎とは幼少期から親しく、弟の司馬攸が後継者として有力視されるなか、密かに策を練って司馬炎の後継者擁立を支えた。
西晋の成立後は中護軍となり、十三年間にわたって禁軍を指揮し、司馬炎から厚い寵愛を受けた。
しかし、贅沢を好んで法を犯し、司隷校尉の劉毅から弾劾されて免官となった。
その後は復職したものの、司馬攸の地方赴任に強く反対して司馬炎の怒りを買い、太僕に左遷された。
太康三年(282年)に亡くなると、司馬炎は旧恩を忘れず、輔国大将軍・開府儀同三司を追贈した。
羊琇(ようしゅう)の生涯を徹底解説!鍾会の反乱を諫めた功績から、劉毅の弾劾と司馬攸をめぐる対立まで
羊琇の出自
羊琇(ようしゅう)は泰山郡南城県の出身である。
父の羊耽は魏の太常を務め、兄の羊瑾は西晋で尚書右僕射にまで昇進した。
また、司馬師の皇后となった羊徽瑜や、呉の平定に貢献した名将・羊祜とは従兄弟の関係にあたる。
母の辛憲英は、魏の重臣・辛毗の娘で、人物や情勢を見抜く判断力に優れた女性だった。
正始十年(249年)の高平陵の変では司馬懿の勝利を予測し、弟の辛敞には曹爽の部下として最後まで職務を尽くすよう助言した。
その結果、辛敞は政変に巻き込まれながらも処罰を免れている。
鍾会に従って蜀を平定し、反乱を諫める
羊琇は若いころから郡に推挙されて官途に入り、鎮西将軍の鍾会のもとで軍事に参与した。
景元四年(263年)、魏が蜀の平定に乗り出すと、羊琇も鍾会に従って遠征に参加した。
ところが、この従軍には最初から母の辛憲英が不安を抱いていた。
鍾会が西方へ軍を進めようとしていたとき、辛憲英は甥の羊祜にその目的を尋ね、蜀を滅ぼすためだと聞くと、鍾会の勝手気ままな振る舞いを問題視した。
そして、あのような人物がいつまでも臣下として従順でいるとは思えず、いずれ別の野心を抱くのではないかと危惧したのである。
その後、鍾会が羊琇を参軍に招くと、辛憲英は自分の心配が家族にまで及んだことを嘆いた。
羊琇も司馬昭に任命を辞退したいと強く申し出たが、認められなかった。
そこで辛憲英は息子の羊琇に「家では親に孝行し、外では国家への節義を守りなさい。
職務に就いたなら自分の責任をよく考え、道義に関わる場面では何が正しいかを見極めなさい。
軍中で身を守るために大切なのは、仁愛と寛容の心です。くれぐれも慎重に行動しなさい」と諭した。
そして辛憲英の心配は、見事に的中した。
蜀が滅亡すると、鍾会は大軍を手にしたことで野心を膨らませ、反乱を企てたのである。
羊琇はこれを知ると、鍾会に対して正面から厳しく諫めたが、聞き入れられなかった。
結局、鍾会は反乱に失敗して殺されたが、羊琇は無事に帰還し、関内侯に封じられた。
危険な上司のもとへ送り込まれながら、反乱に加担せず、命まで守り抜いたのだから、このときの羊琇はなかなか立派だった。
もっとも、母親から教わった慎重さを、その後も持ち続けていたかとなると話は別である。
司馬炎との親交と、後継者争いを支えた知略
羊琇は学問に広く通じ、頭の回転も速く、計算高い男だった。
また、司馬炎とは幼いころからの友人で、宴席でも同じ席に座るほど仲が良かったという。
そんな羊琇は、あるとき司馬炎にとんでもないお願いをしている。
「もし将来、あなたが富貴の身となって私を用いてくださるなら、領軍と護軍をそれぞれ十年間務めさせてください」
司馬炎も冗談交じりに承諾した。
ところが、この約束には一つ大きな問題があった。
肝心の司馬炎が、父親の司馬昭から後継者に選ばれるとは限らなかったのである。
当時、司馬炎には司馬攸という弟がいた。
この司馬攸がなかなか優秀で、評判では兄の司馬炎を上回っていた。
しかも父親の司馬昭まで司馬攸を気に入っており、弟を後継者にしようという話が何度も持ち上がっていた。
これは羊琇にとって由々しき事態である。
司馬攸が後継者になってしまったら、司馬炎と交わした領軍十年、護軍十年の夢が吹き飛んでしまう。
まだ貰ってもいない官職だが、羊琇の頭の中ではすでに二十年分のお花畑計画が完成していた。
そこで羊琇は、司馬炎を後継者にするため、持ち前の知略を発揮することになった。
彼がまず始めたのは、司馬昭の考え方を徹底的に研究することだった。
司馬昭は政治について何を重視するのか。どんな人物を高く評価するのか。どういう回答をすれば喜ぶのか。
羊琇はこれらを注意深く観察し、司馬昭が司馬炎に尋ねそうな問題を予想して、あらかじめ回答まで用意した。
そして、その回答を司馬炎に覚えさせたのである。
そして、ついに運命の試験当日がやって来た。
司馬昭は司馬炎の政治的な判断力や人物を見る目を確かめようと、当時の政務や人材の良し悪しについて質問した。
すると司馬炎は、どの質問にも見事な回答を返した。
司馬昭が何を聞いても、返ってくるのは自分の考えにぴったり合った答えばかりであった。
我が息子はいつの間にこれほど立派になったのかと、司馬昭もさぞかし満足したことだろう。
羊琇のカンニング工作だけでなく、山濤、賈充、何曾、裴秀の進言もあって、咸熙元年(264年)、司馬炎は正式に後継者となった。
司馬炎は後継者争いに勝利し、羊琇が予約していた領軍十年、護軍十年という夢も、いよいよ現実味を帯びてきたのである。
司馬炎の即位と、十三年間にわたる厚い寵愛
司馬炎が撫軍になると、羊琇は参軍事に任じられた。
さらに司馬炎が晋王になると、今度は左衛将軍に抜擢され、甘露亭侯に封じられた。
幼いころから仲良くしていた友人が出世するたびに、自分の官職まで立派になっていく。
そして泰始元年(265年)、ついに司馬炎が魏から帝位を譲り受け、西晋を建国した。
かつて一緒に酒を飲んでいた友人が、とうとう皇帝になってしまったのである。
羊琇が描いた二十年計画も、いよいよ収穫の時期を迎えようとしていた。
泰始七年(271年)、羊琇は中護軍に任じられ、散騎常侍も加えられた。
『晋起居注』に残る詔によれば、司馬炎は羊琇の明晰な判断力と才能、公務に対する忠実さを高く評価し、武官の人材選抜を担当する中護軍にふさわしい人物だと認めている。
確かに、羊琇は地頭がよく、司馬昭の好みを研究して模範解答まで仕込めるほど優秀な男だった。
ただし、司馬炎の評価項目に人格は入っていなかったようである。
そして羊琇は、十三年間にわたって禁軍を掌握し、朝廷の機密にも参与するなど、司馬炎から絶大な信頼を受けた。
贅沢を極めた生活と、杜預への傲慢な振る舞い
羊琇は司馬炎から厚く信任されていたが、私生活まで立派だったわけではない。
むしろ贅沢が大好きで、金遣いに節度などなく、その豪華な暮らしぶりは洛陽の有力者たちの間でも知られていた。
そんな羊琇の贅沢ぶりを示す逸話に、酒を温めるための炭がある。
普通なら木炭を燃やして酒を温めれば済む話だが、羊琇はそれでは満足できなかった。
わざわざ木炭を細かく砕き、ほかの材料と混ぜ合わせ、獣の形に加工してから燃やしていたのである。
『晋朝雑記』によると、この炭の獣は燃え盛ると口を開けたような姿になり、洛陽の豪族たちは面白がって競ってまねをしたという。
さらに『九家旧晋書輯本』には、冬になると人間に酒甕を抱かせ、体温で酒を温めていたという逸話まで残されている。
しかも一人では足りないのか、次々と人を交代させて酒を早く仕上げていた。
もちろん宴会も大好きだった。
昼から飲み始めて夜になっても終わらず、とうとう朝まで遊び続けることもあったという。
親族が集まる席でも男女の区別を設けず、当時の人々から批判されていた。
しかも羊琇は、贅沢好きなだけでなく、態度まで大きかった。
あるとき、名将の杜預が鎮南将軍に任命され、朝廷の人々が祝賀に集まった。
会場では長椅子を連ねて客人たちを座らせており、皆で杜預の昇進を祝っていた。
そこへ裴楷とともに遅れてやって来たのが羊琇である。
羊琇は席の様子を見るなり「杜元凱(杜預)は、客人をこんなふうに長椅子を連ねて座らせるのか」と文句をつけた。
そして席に着くこともなく、そのまま帰ってしまった。
頭はよく、仕事もできる。皇帝からの信頼も厚い。
司馬炎が羊琇の才能を評価したのは間違いではなかったのだろうが、やはり人格を評価項目に入れなかったのは正解だったようである。
人材登用と困窮者への援助
贅沢三昧で傲慢な羊琇だったが、意外にも部下や同僚からは慕われていた。
自分より優れた人物を認める度量があり、才能のある者を推薦するときには、途中で投げ出さず、最後まで面倒を見たという。
さらに、生活に困っている人々には惜しげもなく財産を与え、その世話までしていた。
羊琇に仕えた将兵の中には、その恩に報いるためなら命も惜しくないという者までいた。
ただし、人材登用となると話は別である。
羊琇は決められた選考の順序などお構いなしに、自分が気に入った人物を優先して取り立てることがあった。
しかも羊琇は、普段から好き勝手に振る舞い、たびたび法令に違反していた。
普通なら処罰されてもおかしくないが、官吏から追及されても見逃されることが多かったという。
何しろ皇帝の幼なじみであり、禁軍まで掌握している男である。周囲も簡単には手を出せなかったのだろう。
そんな羊琇も、いつまでも好き勝手に振る舞えるわけではなかった。
これまで見逃されてきた数々の問題に、ついに魔の手ならぬ、正義の鉄槌が下ることになる。
劉毅の弾劾で免官となる
法令違反を繰り返していた羊琇にも天敵が現れた。司隷校尉の劉毅である。
劉毅は相手が豪族だろうと高官だろうと、不正を見つければ容赦なく弾劾する男だった。
劉毅は羊琇の罪を調べ上げ、法律に従って死刑にするよう司馬炎に上奏した。
ところが、ここで皇帝の司馬炎が動いた。
羊琇は幼いころからの友人であり、後継者争いでは父親の好みを研究して模範解答まで用意してくれた恩人である。
そんな男を、法律に違反したからといって簡単に殺すわけにはいかない。
司馬炎は弟の斉王司馬攸を通じ、劉毅に羊琇の助命を求めた。
劉毅はいったん助命を受け入れたが、そう簡単には終わらなかった。
都官従事の程衛が中護軍の軍営へ乗り込み、羊琇の配下の官吏たちを逮捕したのである。
取り調べると、出るわ出るわ、羊琇の罪が次々と明らかになった。
程衛から報告を受けた劉毅は、改めて司馬炎に上奏した。
さすがに皇帝も、ここまで問題が明るみに出ては何もしないわけにはいかない。
こうして羊琇は免官となった。
ところが、侯の爵位を持つ人物をいつまでも官職のないままにしておくのはふさわしくないという話になり、羊琇は白衣の身分で護軍の職務を担当することになった。
しばらくすると正式に以前の官職へ復帰してしまった。
劉毅がどれほど厳しく追及しても、司馬炎が羊琇を手放すつもりはなかった。
司馬攸の地方赴任に反対し、司馬炎の怒りを買う
太康三年(282年)、司馬炎は弟の斉王司馬攸を斉国へ赴任させることを決めた。
当時、皇太子司馬衷の能力には疑問の声が上がっており、朝廷には人望の厚い司馬攸を次の皇帝に推す者も少なくなかった。
これを恐れたのが、司馬炎に取り入って出世してきた荀勗と馮紞である。
二人は司馬攸から嫌われていたため、もし彼が皇帝になれば、自分たちの将来は非常に暗い。
そこで皇太子の地位を守るという名目で司馬炎に働きかけ、司馬攸を都から追い出そうとしたのである。
この決定に強く反対したのが羊琇だった。
羊琇は皇帝の意向に逆らうことも構わず、厳しい言葉で諫めたという。
かつて羊琇は、司馬炎にカンニングまでさせて後継者争いを勝ち抜かせようとした。
ところが今度は、その司馬炎の後継者争いの相手だった司馬攸を擁護している。
二十年近くも皇帝の幼なじみという立場を利用してきた男が、ここに来て出世よりも自分の意見を優先したのである。
しかし、司馬炎は羊琇の進言を聞き入れなかった。
それどころか激怒し、羊琇を中護軍から太僕へ左遷してしまった。
こうして羊琇は、長年にわたって掌握してきた禁軍の指揮権を失った。
法律違反で死刑を求められたときには助けてくれた司馬炎だったが、息子の司馬衷が絡むと我慢できなかった。
寵愛を失った羊琇の最期と、司馬炎による手厚い追贈
かつて夢見た二十年計画も終わりを迎え、太僕へ左遷された羊琇は、司馬炎の寵愛を失ったことに憤りと不満を抱いた。
やがて羊琇は病気となり、病状が重くなると官職を退くことを願い出た。
朝廷は羊琇に特進の位を与え、散騎常侍を加えた。
しかし、羊琇は邸宅へ戻った後に亡くなった。
太康三年(282年)のことで、四十七歳だった。
羊琇の死を知った司馬炎は、自ら詔を書いてその功績を称えた。
「羊琇と私には親族としてのつながりがあり、幼いころから受けた恩義もある。朝廷の内外で官職を歴任し、その忠実で誠実な働きは高く評価すべきものだった。不幸にも早く亡くなってしまい、私は深く悲しんでいる。輔国大将軍・開府儀同三司を追贈し、東園秘器、朝服一襲、銭三十万、布百匹を与えるように」と命じた。
こうして羊琇には輔国大将軍と開府儀同三司が追贈され、葬儀に用いる東園秘器をはじめとする品々も与えられた。
さらに「威」の諡号が贈られた。
生前は法律違反で死刑を求められ、最後には皇帝を怒らせて左遷された男である。
それでも死んでしまえば、司馬炎は昔の友情と功績を思い出し、惜しみなく褒美を与えた。
羊琇は、最後までありがたい幼なじみだったようである。
羊琇の評価
『晋書』の史臣は羊琇にそれほど甘くない。
司馬炎の後継者擁立に貢献し、厚い寵愛と重職を得たことは認めながらも、その権勢を頼りに傲慢な態度を取り、たびたび法令を犯したことを厳しく批判している。
巻末の賛でも、権力を持つ者が慎みを忘れれば驕りに陥り、人を見下すようになるとして、羊琇を後世への戒めにしている。
気になるのが、司馬攸の地方赴任に反対したことである。
羊琇が反対した理由は明らかではないが、かつて羊琇が死刑を求められた際、助命の仲介をしたのは、その司馬攸だった。
母の辛憲英に言われた「道義に関わる場面では何が正しいかを見極めなさい。」を忘れておらず、命を救われた恩義のため皇帝の怒りを買うことも辞さない。
そんな義理堅さがあったのだとすれば、羊琇という男はますますわけがわからなくなる。
ただ、少なくとも金と権力のことしか考えていない男ではなかったのだろう。
参考文献
- 晉書 : 列傳第六十三 外戚 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第六十六 列女 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第十五 劉毅 程衛 和嶠 武陔 任愷 崔洪 郭奕 侯史光 何攀 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十五 : 辛毗傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 羊琇 – 维基百科,自由的百科全书
羊琇のFAQ
羊琇の字(あざな)は?
字は稚舒(ちじょ)です。
羊琇はどんな人物?
魏から西晋にかけて活躍した官僚で、司馬炎の後継者擁立に大きく貢献した人物です。
知略に優れ、人材の推薦や困窮者の援助にも熱心でしたが、贅沢を好み、たびたび法を犯す一面もありました。
羊琇の最後はどうなった?
司馬攸の地方赴任に反対して司馬炎の怒りを買い、太僕へ左遷されました。
その後、病気となって引退を願い出ましたが、太康三年(282年)に四十七歳で亡くなりました。
死後には輔国大将軍・開府儀同三司を追贈され、「威」の諡号を贈られています。
羊琇は誰に仕えた?
魏の時代には鍾会のもとで蜀の平定に参加し、その後は司馬炎に仕えました。
西晋成立後は中護軍として禁軍を指揮し、散騎常侍も務めています。
羊琇にまつわるエピソードは?
贅沢な生活でも知られ、獣の形に加工した炭で酒を温めたことが洛陽の豪族たちの間で話題となりました。
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