1分でわかる忙しい人のための閻行の紹介
閻行(えんこう)、字は彦明(げんめい)、出身は金城、生没年(?~?)
のちに名を閻艶と改め、後漢末の涼州で韓遂に仕えた武将である。
若いころから武勇で知られ、馬超と直接戦った記録も残されている。
長く戦乱を続ける韓遂に対して曹操への帰順を勧め、馬超との連合にも反対するなど、情勢を見ながら現実的な進言を重ねている。
しかし韓遂と曹操の対立が深まるにつれ、閻行自身も両者の間に挟まれていく。
やがて韓遂との関係は決裂し、最後は曹操のもとへ帰順して列侯に封じられた。
閻行の生涯を徹底解説!馬超との死闘から韓遂との決裂、曹操への帰順まで
馬超をあと一歩まで追い詰める
閻行は金城の人で、字は彦明といい、のちに名を閻艶と改めた。
若いころから武勇で名を知られ、はじめは韓遂のもとで小将として戦っていた。
建安初年、韓遂と馬騰が互いに攻撃し合うようになると、その戦いには馬騰の子・馬超も加わった。
馬超もまた勇猛で知られた男だったが、閻行はそんな相手にも構わず矛を突き出し、正面から戦いを挑んだ。
ところが激しく打ち合ううちに、閻行の矛は途中で折れてしまう。
普通ならここで武器を失ったことになるが、閻行は折れた矛を捨てず、そのまま馬超の首を殴りつけた。刺せなくなったなら殴ればいいという、武器の可能性を見つけている。
しかも、その応急処置みたいな戦い方で馬超を押し込み、ついにはあと一歩で殺すところまで追い詰めた。
韓遂へ帰順を勧める
建安十四年(209年)、韓遂は閻行を使者として曹操のもとへ派遣した。
使者としてやって来た閻行を曹操はかなり気に入ったらしく、厚く遇したうえで犍為太守に任じている。
しかも閻行はこの機会に、自分の父を都へ送り、曹操のもとへ預けることを申し出た。
閻行の中ではすでに曹操との関係を本気で結ぶ方向へ話が進んでいた。
韓遂のもとへ戻った閻行は、曹操から預かった言葉を伝えた。
曹操は「文約(韓遂)よ。あなたが兵を挙げた当初、やむを得ない事情があったことは私もよく知っている。早くこちらへ来て、ともに朝廷を支えるべきだ」と韓遂へ帰順を呼びかけていた。
閻行も韓遂を説得した。
「将軍が兵を挙げてから三十余年になります。民も兵も疲れ切り、今いる土地も狭い。もう曹操に帰順するべきです」と、そろそろ反乱生活を終わらせようとかなり現実的な話をしている。
さらに閻行は、自分が父を都へ送ったことを挙げ、韓遂にも息子を一人差し出して忠誠を示すよう勧めた。
ところが、反乱延長戦を希望している韓遂の返事は「もう数年は様子を見よう」だった。
それでも韓遂は後に息子を曹操側へ送り、閻行の父母も同じく曹操の支配下へ入っている。
馬超との連合を諫め、曹操から「孝子」と釘を刺される
建安十六年(211年)、韓遂が西へ向かって張猛を討っていたころ、閻行は本拠地の守りを任されていた。
その留守中、馬超ら関中の諸将は曹操に対して兵を挙げる話をまとめ、韓遂を都督に担ぎ上げようとしていた。
韓遂が戻ると、馬超はかなり重たい話を持ちかけた。
「以前、司隷校尉の鍾繇は私に命じて将軍を捕らえさせようとした。もう関東の者は信用できない。だから私は父を捨てて将軍を父とする。将軍も息子を捨てて、私を息子と思ってほしい」
自分が父を捨てるのは勝手だが、その勢いで韓遂にも息子を捨てろと迫る、同盟の申し込みとしては、ずいぶん身勝手な理屈である。
閻行はこの話に乗らず、韓遂が馬超と手を組むことに反対し、連合には加わらないよう諫めている。
しかし韓遂は、「今、諸将は相談したわけでもないのに考えが一致している。これは天の定めがあるように思える」と答え、閻行の進言を受け入れなかった。
こうして韓遂は馬超らと手を組み、東へ進んで華陰へ向かった。
同年、関中の諸将を巻き込んだ連合軍は、そのまま曹操との戦いへ突入する。
戦線が膠着すると、韓遂らは土地の割譲と人質の差し出しを条件に講和を申し入れた。
その交渉のため曹操と韓遂は馬を並べて直接会談し、閻行も韓遂の後ろに控えていた。
すると曹操は閻行の姿を見るなり、「孝子であることを忘れるな」と声をかけた。
閻行の父母はすでに曹操側へ送られている。要するに「お前の父母はこちらにいるぞ」という、ずいぶん重たい一言だった。
その後、賈詡の離間策によって馬超と韓遂の連合は崩れ、馬超らは曹操軍に敗れて逃走した。
しかし閻行はこの場で曹操側へ走ることはなく、韓遂に従って金城へ戻っている。
曹操と韓遂の間に挟まれる苦悩
潼関の戦いが終わると、曹操は自分の支配下にいた韓遂の子孫を処刑した。
ところが、閻行が以前から馬超との連合に反対していたことを知っていたため、閻行の父については殺さずに残している。
さらに曹操は閻行へ自筆の手紙を送り、韓遂について「文約のやっていることには呆れる。これまで何度も手紙を送り、言うべきことはすべて伝えてきた。それでもこのようなことをするのでは、もう許すことはできない」と書いた。
そして続けて、「あなたの父は今のところ無事だ。しかし牢獄は親を養う場所ではないし、朝廷もいつまでも他人の老人を養ってはいられない」と告げている。
父を生かしてもらっている閻行にとって、これは親切な近況報告ではなく、大きな圧力となった。
一方の韓遂も、閻行の父だけが曹操のもとで生かされていることを知っていた。
このまま放っておけば閻行の心が曹操へ傾くと考え、韓遂は娘を閻行に嫁がせ、婚姻関係で縛りつけた。
こうして閻行は、曹操からは父を握られ、韓遂からは娘婿にされ、両者の間に完全に挟まれてしまった。
その後、韓遂は閻行に西平郡を任せ、別軍を率いさせている。
韓遂に反旗を翻し、曹操へ帰順する
西平郡を任されていた閻行は、ついに自らの部下を率いて韓遂へ反旗を翻した。
長く仕えてきた主君だったが、父は曹操のもとにあり、自分は韓遂の娘婿にされ、そのうえ両者から疑われるという生活にも限界が来たのだろう。
しかし韓遂を相手にした戦いには敗れ、閻行は家族を連れて東へ逃れ、そのまま曹操のもとへ帰順した。
曹操はこれを受け入れ、閻行を列侯に封じている。
『典略』によれば、その後も閻行と韓遂の関係は終わらなかった。
閻行は湟中にいた韓遂を夜襲したが、攻め落とすことはできず、韓遂は「男が窮地に陥った時、まさか婚姻から災いが起こるとは」と嘆いている。
このころ韓遂の勢力は大きく衰えていたが、羌族や胡族を集めて数万の兵を整え、再び閻行を攻撃しようとした。
閻行は韓遂の攻撃を避けようとしたが、その直前に韓遂が死去した。
主従関係から始まり、娘婿となり、最後には互いに軍勢を向け合うまで悪化した二人の関係は、和解することなく終わった。
参考文献
- 三國志 : 魏書十五 : 張旣傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書一 : 武帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十三 : 鍾繇傳子名毓 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書六 : 馬超傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書/卷72 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷064 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷065 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:閻行 – Wikipedia
閻行のFAQ
閻行の字(あざな)は?
閻行の字は彦明です。
のちに名を閻艶と改めました。
閻行はどんな人物?
韓遂に対して曹操への帰順を勧めるなど、戦うだけではなく情勢を見て進言する人物でもありました。
閻行の最後はどうなった?
曹操のもとで列侯に封じられた後の記述がなく、没年は不明です。
閻行は誰に仕えた?
はじめ韓遂に仕え、その後に韓遂と対立して曹操へ帰順しました。
閻行にまつわるエピソードは?
馬超と戦った際、途中で矛が折れたにもかかわらず、その折れた矛で馬超の首を打ち、あと一歩で殺すところまで追い詰めました。
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