劉虞:異民族から慕われた幽州牧、皇帝擁立を拒んだ仁政と忠義【すぐわかる要約付き】

劉虞
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1分でわかる忙しい人のための劉虞の紹介

劉虞(りゅうぐ)、字は伯安(はくあん)、出身は東海郡郯県、生没年(?~193年)

劉虞は後漢末に幽州を治めた皇族出身の政治家で、光武帝の子である東海恭王劉彊の五世孫にあたる。
清廉で質素な生活を送り、武力よりも恩徳と信義を重んじた政治によって、鮮卑や烏桓などの異民族からも厚く慕われた。

中平五年(188年)に幽州牧となると、張純らの反乱を懐柔策によって収束させ、農業や交易を振興して幽州の財政を再建した。
さらに、戦乱を逃れてきた百万人余の避難民を受け入れ、生活の再建を助けた。

初平二年(191年)、袁紹や韓馥らから皇帝への即位を求められると、激しく叱責して拒絶し、後漢への忠義を貫いた。
しかし、武力による異民族討伐を進める公孫瓚とは対立し、初平四年(193年)には十万の兵を率いて討伐に乗り出したものの敗北した。
最後は公孫瓚に捕らえられ、薊の市場で処刑された。

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劉虞の生涯を徹底解説!反乱を鎮め幽州を治めた後漢の宗室、公孫瓚との対立で迎えた悲劇の最期

後漢宗室の劉虞、幽州刺史として信頼を集める

劉虞は東海郡郯県の出身で、後漢の光武帝の子である東海恭王劉彊の五世孫にあたる。
祖父の劉嘉は光禄勲、父の劉舒は丹陽太守を務めている。
どこぞの蜀漢昭烈帝と違い、後漢皇室の血を引く由緒正しい家柄の出身である。
『謝承書』によれば五経に通じていたというのだから、血筋も学識も申し分ない。

さらに、真面目で清廉、民衆のことを第一に考え、争いごとを嫌い、できる限り穏便に物事を解決しようとする人物で、当時の荒れた時代には浮いた存在だったのである。

若い頃に孝廉へ推挙されて曹吏となり、職務を真面目にこなして郡吏へ昇進。その後も博平令などを歴任し、幽州刺史に任命された。

さて、この幽州という土地がまた厄介だった。
後漢の北方に位置する辺境の地で、鮮卑や烏桓などの異民族と接している。
中央の命令が届きにくいうえに、異民族との衝突も起こりやすく、統治するにはなかなか骨の折れる地域だった。

幽州刺史となった劉虞は、清廉で質素な政治を行い、礼義によって人々を導いた。
その徳を慕って鮮卑・烏桓・夫余・濊貊などの異民族も時期に応じて朝貢するようになり、辺境を侵す者もいなくなった。
幽州の住民たちも劉虞の政治を喜び、称賛した。

幽州で見事な治績を残した後、公務上の理由によって官職を離れた。

黄巾の乱で荒廃した甘陵を立て直す

中平元年(184年)、黄巾の乱が勃発すると、反乱軍は冀州の諸郡を攻め破り、各地を荒廃させた。
朝廷はこの惨状を立て直すため、幽州で実績を上げた劉虞を甘陵相に任命した。

劉虞は戦乱で疲弊した住民を慰撫し、自らも質素な生活を送って部下たちの模範となった。
異民族相手でも黄巾の乱の被災地でも、やることは変わらない。とにかく真面目で清廉な男だった。
その働きが評価され、後に宗室の一族を管理する宗正へと昇進した。

その後、宗正となった劉虞は、蓋勳や佐軍校尉の袁紹とともに禁軍を統率していた。
蓋勳は劉虞と袁紹に、霊帝は聡明だが側近に惑わされているとして、力を合わせて寵臣を排除し、優れた人材を登用して漢室を再興しようと持ちかけた。
劉虞と袁紹も以前から同様の考えを持っており、三人は協力することになったが、計画を実行する前に蓋勳が京兆尹へ任命されたため、実現しなかった。

張純・張挙の反乱

車騎将軍の張温が涼州の辺章らを討伐することになると、朝廷は幽州の烏桓突騎三千人を徴発した。
ところが給料や現物支給の食料すら貰えないため、烏桓の騎兵たちはさっさと本拠地へ帰ってしまった。

この状況に目をつけた前中山相の張純は、前泰山太守の張挙に反乱を持ちかけた。
張純は、烏桓が離反して反乱を望んでいることや、涼州の反乱を朝廷が鎮圧できていないことを挙げ、後漢の支配が衰えていると説いた。

さらに張純は、洛陽で一人の女性が頭を二つ持つ子を産んだことを、天下に二人の君主が現れる兆しだと主張した。
そして烏桓の兵を引き連れて反乱を起こせば天下を取れると張挙をそそのかし、張挙もすっかり乗り気になった。

中平四年(187年)、張純と張挙は烏桓の有力者たちと同盟を結び、反乱を起こした。
反乱軍は薊を攻撃して城郭を焼き、住民を捕らえて略奪を行った。
さらに護烏桓校尉の箕稠、右北平太守の劉政、遼東太守の陽終らを殺害した。

反乱軍は十万余に膨れ上がり、遼西郡の肥如に駐屯した。
張挙は自ら天子を称し、張純は「弥天将軍・安定王」を名乗った。
二人は各州郡へ文書を送り、張挙が後漢に代わって皇帝になるため、今の天子は位を譲り、公卿たちは張挙を迎えるべきだと宣言した。

張純はさらに烏桓の峭王らに歩兵と騎兵五万を率いさせ、青州・冀州へ侵攻させた。
反乱軍は清河・平原を攻め破り、役人や住民を殺害するなど、被害を広げていった。

幽州牧復帰と反乱終結

中平五年(188年)、張純・張挙の反乱に手を焼いた朝廷は、かつて幽州で異民族から絶大な信頼を得ていた劉虞に白羽の矢を立てた。
劉虞は幽州牧に任命され、再び薊へ赴任した。

劉虞は着任すると、まず駐屯軍の兵力を縮小し、武力による討伐ではなく、恩徳と信義によって反乱軍を帰順させようとした。
烏桓の峭王らにも使者を送り、朝廷は反乱に加わった者でも降伏すれば寛大に受け入れると伝えた。

同時に、張挙と張純の首には懸賞金をかけた。
張挙と張純は塞外へ逃走し、残された反乱軍も次々と降伏、あるいは解散してしまう。
やがて張純は食客だった王政に殺され、その首を劉虞のもとへ届けられた。

こうして十万余にまで膨れ上がった反乱は、劉虞が大軍を率いて討伐するまでもなく収束した。
この功績によって霊帝は使者を派遣し、劉虞を太尉に任命するとともに、容丘侯に封じた。

大司馬・襄賁侯に昇進

中平六年(189年)九月、董卓が朝廷の実権を握ると、劉虞を大司馬に任命し、襄賁侯に進封した。
さらに初平元年(190年)には、袁隗に代わる太傅として朝廷に呼び寄せようとした。

ところが、この頃には各地で戦乱が勃発し、交通路は寸断されていた。
そのため、劉虞に与えられた昇進の命令は、肝心の本人に届かなかった。

幽州の財政再建と百万人の避難民

幽州は北方の異民族と接する地域であり、交易や辺境の防備には多額の費用が必要だった。
そのため、以前は青州と冀州の税収から毎年二億余が割り当てられ、幽州の財政を支えていた。

ところが、各地で戦乱が続いて交通路が寸断されると、青州・冀州からの財政支援が途絶えてしまった。
そこで劉虞は農業を奨励するとともに、幽州だけで財政を賄えるよう、新たな収入源の確保に乗り出した。

まず、上谷にあった異民族との交易市場を活用し、その利益を財政に充てた。
さらに漁陽で産出される塩や鉄を利用して収入を増やし、幽州の経済を立て直していった。

こうした政策によって農業生産も回復し、穀物の価格は一石あたり三十まで下落した。
住民の暮らしは安定し、劉虞の政治はますます歓迎されるようになった。

また、青州や徐州では黄巾の乱による混乱が続き、多くの住民が故郷を追われていた。
そのうち百万人余が幽州へ避難してくると、劉虞は彼らを受け入れ、住居や仕事を確保できるように取り計らった。

こうして避難民たちは幽州で安定した生活を送れるようになり、故郷を離れた苦労を忘れるほどだったという。

劉虞の清廉な暮らし

劉虞は高い官職に就いても贅沢とは無縁の生活を送っていた。
普段から粗末な衣服を着て、縄で編んだ履物を履き、食事でも肉料理を二品以上並べることはなかった。

衣冠が破れても新調せず、繕って使い続けるという徹底ぶりだった。
そんな劉虞の暮らしぶりを見て、それまで贅沢三昧だった豪族や名士たちまで生活を改め、劉虞に心を寄せるようになった。

中平二年(185年)、洛陽の南宮で火災が発生すると、朝廷は宮殿の修復費を集めるため、州郡の官職に就く者などに金銭の負担を求めた。
その額は一千万から二千万銭に及ぶこともあり、裕福な者は自分の財産を使ったり、住民から金を集めたりして支払った。

『後漢書』百官志五によると、州刺史は六百石の官職で、延平年間(106年)の給与記録では月給が現金三千五百銭と米二十一斛だった。
劉虞もかつて幽州刺史を務めており、この給与水準を基準にすると、一千万銭を用意するには現金給与を一銭も使わずに約二百三十八年も貯め続けなければならない計算になり、現代の日本の価値で考えれば、とってもたくさんである。

このため貧しく清廉な官吏には、それほどの金額を用意することができなかった。
中には費用を負担できず、自殺する者さえいた。

ところが霊帝は、劉虞の清貧ぶりを知っていたため、特別に負担を免除した。

ただし、そんな劉虞の清廉さに疑問を抱かせる逸話も残っている。
後に劉虞が公孫瓚に殺害された際、公孫瓚の兵が住居を捜索すると、妻妾たちは上等な絹の衣服をまとい、華やかな装飾品を身につけていたという。

夫は500円の弁当で慎ましく過ごしているようにアピールして、妻は優雅にホテルでランチを楽しんでいたようなものである。
この様子を知った当時の人々も、劉虞の清廉さを疑うようになったという。

袁紹・韓馥から皇帝擁立を持ちかけられ、激怒して拒絶する

初平二年(191年)、冀州刺史の韓馥や勃海太守の袁紹らは、劉虞を新たな皇帝に担ぎ上げようと画策した。
当時、幼い献帝は董卓に牛耳られており、各地の諸将は朝廷がどうなっているのかも満足に把握できない状態だった。

そこで袁紹らが目をつけたのが、後漢の宗室であり、年長者として人望も厚い劉虞だった。
彼らは元楽浪太守の張岐らを使者として送り、劉虞に皇帝になってくれと持ちかけたのである。

ところが、劉虞はこの話を聞くなり顔色を変え、張岐らを激しく叱りつけた。
「今、天下は乱れ、天子は都を追われて苦難の中にある。私は朝廷から大きな恩を受けながら、いまだ国の恥をすすぐこともできていない。諸君はそれぞれ州郡を治めているのだから、ともに力を尽くして皇室を支えるべきではないか。それなのに、逆賊まがいの計画を持ちかけて私を汚そうというのか」と怒り、皇帝への即位をきっぱり拒絶した。

それでも袁紹や韓馥は諦めなかった。
今度は劉虞に尚書の政務を統括させ、皇帝に代わって官職や爵位を授ける権限を与えようとしたのである。

しかし、劉虞はこれも拒否して、使者を捕らえて処刑してしまう。
使者にとっては不幸な出来事であった。

献帝救出計画と劉和の拘束

劉虞は皇帝への即位を拒絶すると、董卓に支配されている献帝へ忠誠を示し、朝廷との連絡を回復するため、右北平出身の田疇と従事の鮮于銀を長安へ派遣した。
二人は危険な道を通って献帝のもとへたどり着き、東への帰還を望んでいた献帝は大いに喜んだ。

当時、劉虞の息子である劉和は侍中として献帝に仕えていた。
そこで献帝は劉和を密かに武関から脱出させ、父の劉虞に兵を率いて迎えに来るよう伝えさせた。

ところが、劉和が南陽を通過したところ、後将軍の袁術に計画がバレて拘束されてしまった。
袁術は劉和を利用して劉虞から兵を引き出そうとしたが、公孫瓚はその企みを見抜き、兵を送らないよう劉虞を説得した。
しかし劉虞は忠告を聞かず、数千騎を袁術のもとへ送り込んでしまった。

一方、公孫瓚は袁術の企みに反対したことが知られ、恨まれるのを恐れていた。
そこで従弟の公孫越に千余騎を率いさせて袁術のもとへ送り、自分も袁術と手を組んだのである。
しかも、密かに袁術へ劉和を拘束し、その兵を奪い取るよう勧めていた。

その後、劉和はどうにか袁術のもとから脱出して北へ戻ったものの、今度は袁紹に身柄を押さえられてしまった。
皇帝を救出するために長安を脱出したはずが、行く先々で諸侯に捕まるという散々な目に遭ったのである。

公孫瓚との異民族政策の対立

もともと朝廷は公孫瓚に烏桓の討伐を命じ、その軍事行動を劉虞の指揮下に置いていた。
ところが公孫瓚は、兵をかき集めて自らの勢力を拡大することに熱心で、配下の兵士たちが住民に乱暴を働いても放置していた。

一方の劉虞は、民衆の生活を守り、異民族にも恩徳を施して帰順させようとする穏健派だった。
異民族は武力で叩き潰すべきだという公孫瓚と、誠意をもって接すれば仲良くできるという劉虞では、方針がまるで噛み合わなかった。

さらに公孫瓚は袁紹との戦いで何度も敗北しているにもかかわらず、懲りずに戦争を続けていた。
これに業を煮やした劉虞は、公孫瓚の出兵を認めず、兵糧などの支給も徐々に制限するようになる。

ところが公孫瓚は反省するどころか、劉虞の命令を無視して住民への乱暴や略奪を繰り返す。
おまけに劉虞が異民族へ贈るために用意した賞賜まで、何度も横取りする始末だった。

さすがの劉虞も我慢の限界に達し、使者を通じて朝廷に公孫瓚の悪行を訴えた。
すると公孫瓚も黙っておらず、劉虞が兵糧をまともに支給してくれないと反論し、互いに相手を非難する上奏文を送りつけた。

しかし朝廷は、どちらの言い分が正しいのか明確な判断を下さない。
こうして両者の対立はますます深まり、公孫瓚は劉虞からの攻撃に備えて薊城に高い土塁を築き、防備を固めた。

公孫瓚討伐

劉虞は公孫瓚を何度も呼び出したが、公孫瓚は病気を理由にして一向に姿を見せなかった。
いい加減に我慢できなくなった劉虞は、ついに武力で討伐しようと考え、東曹掾の魏攸に相談した。

しかし魏攸は「今、天下の人々は劉虞様を頼りにしています。そのためには、謀臣や武将を失うわけにはいきません。公孫瓚には文武の才能があり、頼りにできる人物です。多少の悪事があったとしても、今は容認すべきです」と反対した。
確かに公孫瓚は勝手に戦争をするし、住民には迷惑をかけるし、劉虞が異民族へ贈るはずの賞賜まで奪っていく困った男だが、戦争だけは強い。天下が乱れている今、殺してしまうには少々もったいないというわけである。
劉虞も魏攸の意見を受け入れ、公孫瓚への攻撃を取りやめた。

ところが、その魏攸が死んでしまう。
初平四年(193年)冬、劉虞は各地の駐屯軍を集め、その数は十万人にまで膨れ上がった。

すると出陣を目前にして、代郡出身の従事である程緒が兜を脱ぎ、劉虞の前へ進み出た。
「公孫瓚には悪事があるとはいえ、まだその罪を明らかにしていません。先に罪を告げて行いを改める機会を与えず、味方同士で戦争を始めるのは国家の利益になりません。勝敗もわからないのですから、今は兵を止め、軍事力を示して従わせるべきです。そうすれば公孫瓚も過ちを悔いて謝罪し、戦わずして従わせることができるでしょう」と諫めた。
十万人も集めたのだから、まずはそれを見せつけて降伏を迫ればいい。
しかし劉虞は、程緒が出陣を邪魔したとして処刑する。

劉虞は、兵士たちに「ほかの者を傷つけてはならない。殺すのは伯珪(公孫瓚)一人だけだ」と厳命した。
ここに、十万人VS公孫瓚一人の戦いが始まった。

ところが出陣前、劉虞の配下だった州従事の公孫紀が夜のうちに公孫瓚のもとへ走り、討伐計画を密告してしまった。
公孫紀は公孫瓚と同姓だっただけで、厚遇されていた人物である。

公孫瓚の反撃に大敗

公孫紀から密告を受けた公孫瓚だったが、困ったことに配下の兵は各地に分散しており、手元には対抗できるような兵力がなかった。
突然の大軍に攻め込まれた公孫瓚は、これはもう無理だと城の東側を掘り崩し逃げ出そうとした。

ところが、劉虞が集めた十万の兵は戦闘に慣れておらず、圧倒的な兵力で包囲しているのに公孫瓚を攻め落とせなかった。さらに劉虞は住民の家を傷つけることを嫌い、民家に火を放つことまで禁止していた。

そうこうしている間に、公孫瓚は精鋭数百人をかき集め、風を利用して火を放ち、その勢いに乗じて劉虞軍へ突撃した。

劉虞は配下の官吏たちとともに北方の居庸県へ逃走したが、公孫瓚はそのまま追撃する。
わずか三日で居庸県を攻め落とし、劉虞は妻子とともに捕らえられて薊へ連行された。

ただし、公孫瓚は劉虞を捕らえた後も、幽州の行政文書を扱う仕事は引き続き任せていた。

ちょうどその頃、朝廷から使者の段訓が派遣されてきた。
劉虞はつい先ほど大敗し、現在は公孫瓚の捕虜であったが、朝廷はそんなことを知らない。
段訓が携えてきたのは、劉虞の封邑を増やし、六州の政務を監督させるという命令だった。
また、公孫瓚を前将軍に任命して易侯に封じ、節を与えて幽州・并州・青州・冀州を監督させる命令も携えていた。

そこで公孫瓚は、以前に袁紹や韓馥らが劉虞を皇帝に担ぎ上げようとした事件を持ち出した。
もちろん劉虞は激怒して断っているのだが、公孫瓚は袁紹らと共謀して皇帝になろうとしていたということにして、劉虞を反逆者として告発した。

そして公孫瓚は、朝廷からやって来た段訓を脅し、劉虞を処刑するよう迫った。

劉虞の最期、市場で処刑される

初平四年(193年)、公孫瓚は劉虞を薊の市場へ連れ出した。
そして劉虞を座らせると「もし劉虞が天子となるべき人物ならば、天は風や雨を起こして彼を救うはずだ」と言い出した。

折しも幽州では激しい干ばつが続いていた。
当然ながら雨は降らず、公孫瓚は天が劉虞を天子として認めなかったとして、そのまま斬首した。
劉虞の首は京師へ送られることになった。

しかし、その首を劉虞の旧臣である尾敦が途中で奪い返し、持ち帰って丁重に埋葬した。

公孫瓚は劉虞を殺した後、処刑に関わった段訓を幽州刺史に推挙した。

これまで劉虞は幽州で善政を行い、戦乱から逃れてきた百万人もの人々を受け入れ、烏桓や鮮卑などの異民族とも良好な関係を築いてきた。
そのため劉虞が殺されたことを知ると、幽州の住民も、各地から移住してきた人々も、その死を悲しんだ。

もちろん、悲しんだだけでは終わらない。
劉虞の子である劉和は袁紹とともに公孫瓚への攻撃に加わり、劉虞に仕えていた旧臣たちも主君の仇を討つために動き始めた。さらに劉虞を慕っていた烏桓や鮮卑まで、公孫瓚と戦う側へ回った。

こうして公孫瓚は、劉虞を殺したことで劉虞の息子、旧臣、異民族をまとめて敵に回すことになった。
さらに劉虞の殺害は、袁紹が公孫瓚を攻撃する理由の一つにもなっていく。

劉虞への評価

『後漢書』の范曄は、劉虞について「襄賁侯は徳を重んじ、燕の北方を守った。仁徳によって人々の心をつかみ、忠義によって国家を守った」と評している。

異民族には粘り強く接し、何度も懐柔を続けた劉虞だったが、皇帝になってくれと言われると激怒して拒絶した。
ここまでは漢への忠義を考えれば当然なのだが、続いて尚書の政務を任せる話を持ちかけられると、伝言役の使者を処刑している。
さらに公孫瓚にはブチ切れて十万の兵を集め、それを止めに入った程緒まで処刑した。
温厚で仁徳にあふれた聖人だと思っていただけに、こんな一面もあったのかと思うとなかなか面白い。

参考文献

劉虞のFAQ

劉虞の字(あざな)は?

字は伯安(はくあん)です。

劉虞はどんな人物?

後漢末に幽州を治めた宗室出身の政治家です。
清廉で質素な生活を送り、鮮卑や烏桓などの異民族を帰順させ、百万人余の避難民を受け入れるなど、民衆を重視する政治を行いました。

劉虞の最後はどうなった?

初平四年(193年)、十万の兵で公孫瓚を討伐しようとしましたが、敗れて居庸へ逃れました。
その後、公孫瓚に捕らえられ、薊の市場で斬首されました。

劉虞は誰に仕えた?

後漢の朝廷に仕え、幽州刺史、甘陵相、宗正、幽州牧などを歴任しました。
また、太尉や大司馬に任命され、襄賁侯に封じられています。

劉虞にまつわるエピソードは?

初平二年(191年)、袁紹や韓馥らから新たな皇帝になるよう求められましたが、激怒して拒絶しました。

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