1分でわかる忙しい人のための王蕃の紹介
王蕃(おうはん)、字は永元(えいげん)、出身は廬江郡、生没年(228年~266年)
王蕃は三国時代の呉に仕えた官僚で、天文学や数学にも精通した人物である。
孫休の即位後に散騎中常侍となり、蜀への使者としても高い評価を受けた。
帰国後は夏口監軍を務め、孫皓の即位後には再び常侍に任命された。
しかし、王蕃は高潔で率直な性格から孫皓に迎合せず、万彧や陳声の讒言もあって次第に不興を買った。
甘露二年(266年)、孫皓が開いた宴席で処刑され、39歳で生涯を終えた。
学問の分野では渾天儀を製作し、太陽までの距離や円周率を用いた計算を行うなど、天文学と数学に業績を残した。
王蕃(おうはん)の生涯を徹底解説!孫休が重用した呉の官僚、天文学者としての功績と孫皓による悲劇の最期
孫休に重用され、蜀でも高く評価された王蕃
王蕃は廬江郡の出身で、字を永元という。
王蕃は、書物を読みまくり、専門分野を一つに絞るという発想はなく、とりあえず興味のあるものは片っ端から勉強する。そうしているうちに、学問だけでなくさまざまな技術にも精通していたという。
そんな王蕃は、初め呉の尚書郎という官職に就いたものの、その後いったん役人を辞めている。
ところが孫休が皇帝に即位すると、王蕃は賀邵、薛瑩、虞汜とともに散騎中常侍に任命され、さらに四人そろって駙馬都尉を加官された。
王蕃の能力は周囲からの評価も高く、皇帝の孫休自身も王蕃の才能を認めていた。
その後、王蕃は呉の使者として蜀へ派遣され、蜀でも高く評価された。
無事に帰国した王蕃は、夏口監軍に任命された。
この順風満帆な人生には一つだけ問題があった。皇帝の孫休が崩御するのである。
これがもう、王蕃にとっては洒落にならない大問題となるのだった。
万彧と陳声の讒言、孫皓との関係悪化
さて、順調に出世街道を歩んでいた王蕃だったが、ここで皇帝が孫皓に代わる。
王蕃は再び朝廷に入り、常侍に任命された。
ここで、王蕃にとってなんとも面倒な連中が登場する。
まず一人目が万彧という男。
この万彧、王蕃と同じ官職に就いていたのだが、皇帝の孫皓とは以前から親しい間柄だった。
つまり、ただの同僚ではない。社長と昔から仲が良い同僚である。
そんな中、王蕃は万彧を軽く見ていると思われてしまった。
実際に王蕃がどこまで万彧を見下していたのかはともかく、万彧本人はそう受け取ったらしい。
そして勝手に腹を立て、王蕃を恨むようになった。
さらにここへ、もう一人加わる。
孫皓の寵臣で、中書丞を務めていた陳声である。
この陳声、何を思ったのか、しょっちゅう孫皓に王蕃の悪口を吹き込んでいた。
王蕃にも一つ問題があった。
彼は高潔で率直な性格で、間違っていると思えば間違っていると言うし、皇帝の考えであっても納得できなければ反対する。
相手が孫皓だからといって、何でもかんでも賛成するような男ではなかった。
万彧が機嫌を損ねる。陳声が悪口を吹き込む。そして王蕃本人まで、皇帝の意見に平気で反対する。
こうして、孫皓は次第に王蕃を非難するようになった。
万彧との舌戦
『呉録』によると、孫皓には宴会で酒が進むと、側近たちに高官をからかわせ、それを見て楽しむという、なんとも素敵な趣味があった。
皇帝が酒を飲む→側近が高官を馬鹿にする→それを見て皇帝が喜ぶ。
なんだこの宴会は。
そんな中、万彧が左丞相になった後、王蕃がこの男に対して猛烈な批判を浴びせたという。
王蕃はまず、魚の話を始めた。
「魚は深い水の中にいるものだが、水から出れば口から泡を吹く。
なぜそうなるのかといえば、生き物には本来の性質があり、ふさわしくない場所に無理に置くことはできないからだ」
さらに「万彧はもともと低い立場から出てきた人物で、羊の中身に虎の皮をかぶせたようなものだ。
実力が伴わないまま輝かしい寵愛を受け、三公や九卿をも超える地位に就いた。
犬や馬でさえ飼い主から受けた恩を理解しているというのに、これほど厚い恩恵にどう報いるつもりなのか」と述べた。
魚、羊、虎、犬、馬。
なんだか動物園のようになってきたが、要するに王蕃は、万彧に実力が伴っていないことを徹底的にこき下ろしているのである。
そもそも万彧は、王蕃に見下されていると思って恨みを抱いていた男である。そこへ本人から、ほとんど見下しの見本市のような批判を浴びせられたのだから、たまったものではない。
当然、万彧も黙ってはいなかった。
「堯や舜の朝廷には、誤って登用された人材などいなかった。
名御者の造父のもとにも、劣った馬などいなかった。
王蕃は上では君主の人材登用を誹謗し、下では国家を支える重臣を侮辱している。
しかし、そのような言葉で日月の輝きが傷つくことはなく、かえって自分の身の程を知らないことを示しているだけだ」と反論した。
王蕃は万彧個人の能力を批判していたのだが、万彧はそれを皇帝の人事に対する批判へとすり替えているのである。
これでは王蕃も、単に同僚と喧嘩しているだけでは済まなくなる。しかも、その君主というのが孫皓であった。
裴松之によると、『三国志』本伝では、王蕃は丁忠が晋への使者を務めて帰国した後の宴会で殺されている。丁忠が帰還したのは、甘露二年(266年)の春で、万彧が丞相に任命されたのは、同じ年(266年)の秋である。
そのため『呉録』の記述は、本伝の年代と一致しないと指摘している。
ついでに指摘すると、万彧は右丞相であって、左丞相は陸凱である。
孫皓の宴席で斬殺される
甘露二年(266年)、丁忠が晋への使節を終えて帰国すると、孫皓は群臣を集めて盛大な宴会を開いた。
王蕃はこの席で、ひどく酔っ払ってしまった。
どれくらい酔っ払ったのかというと、その場に倒れ伏してしまったのである。
孫皓はその様子を見て疑念を抱き、不機嫌になって王蕃を宴席の外へ運び出させた。
ここで宴席の外へ運び出されたのだから、そのまま寝かせておけばよかった。王蕃も酔いがさめるまで休めるし、孫皓も嫌いな顔を見ずに酒を飲み続けられる。双方にとって実に平和的な解決である。
ところが、しばらくすると孫皓は王蕃を呼び戻した。
当然ながら、王蕃はまだ酔っ払っていた。酒というものは、そう簡単に素面へ戻るはずがないのである。
ここでさらに王蕃の厄介な特徴が表に出てしまう。
もともと威厳のある人物だったため、宴席に戻ってきても普段と変わらず堂々と振る舞った。
孫皓はこの王蕃の態度を見た途端、激怒してしまった。
そして孫皓は、側近たちに命じて王蕃を大殿の下で斬らせたのである。
酔っ払って倒れたので外へ出す、また呼び戻す。
態度が気に入らないので首を斬る。話が急展開でついていけない。
さすがに周囲も黙ってはいられなかった。衛将軍の滕牧と征西将軍の留平が、王蕃の命を助けてほしいと孫皓に願い出た。
しかし、孫皓は聞き入れなかった。
王蕃はそのまま処刑され、39歳で命を落とした。
王蕃処刑の別の経緯
『江表伝』にはこれとは別の話が記されている。
孫皓は巫者や史官の言葉を信じ込み、建業の宮殿は不吉な場所だと考えていた。
そこで西へ巡幸して武昌へ向かい、さらには都まで移そうとしていたのだが、群臣が従わないことを恐れていた。
そこで孫皓が何をしたのかというと、将軍や役人たちを集めて盛大な宴会を開き、酒や料理を振る舞った。
なるほど、まずは宴会で機嫌を取っておこうということなのだろうか。
ところが宴会の席で、孫皓は突然、王蕃に変な質問をした。
「射不主皮、為力不同科」の言葉の意味を説明してみろ、というのである。
出題者は孫皓で、答えを間違えたところで、笑って済ませてくれるような相手ではない。 王蕃はすぐには答えが出てこなかった。
すると孫皓、王蕃を大殿の上で斬り殺してしまったという。
問題を出す→相手が考える→首を斬る。
どんな試験だこれは。
しかも恐ろしいのは、この話にはまだ続きがあることだ。
ただ殺すだけでは飽き足らず、わざわざ首を山へ運び、部下に虎や狼の真似までさせて首を破壊させた。もはや宴会の余興どころの話ではない。
しかも孫皓には、ちゃんと目的があった。
群臣が自分に従わないことを恐れて宴会を開いた結果、その宴会で王蕃を殺し、首まで破壊して恐怖を植えつけようとしたわけだった。
なお、これはあくまで『江表伝』に記された別の経緯であり、『三国志』本伝の酔酒による処刑とは内容が異なる。
ただ、どちらの記録でも共通していることが一つだけある。
皇帝の宴会では、酒の飲み方を間違えても、質問への答え方を間違えても、行き着く先は同じだった。
陸凱が惜しんだ王蕃の死
王蕃が処刑されると、左丞相の陸凱は孫皓に上疏し、王蕃がいかに優れた人物だったか、そしてその死がいかに惜しまれるものだったかを訴えた。
陸凱は「常侍の王蕃は道理を深く理解し、天文や自然の事象にも通じ、朝廷では忠実かつ率直に仕えた人物でした。
国家を支える重要な存在であり、呉にとっての龍逢ともいうべき人物です」と述べた。
龍逢というのは、夏の桀王に対して直言し、その結果、殺されてしまった人物である。
つまり、王蕃を忠臣の龍逢に例えることで、孫皓は桀王と同じではないか。という批判である。
さらに陸凱は「かつて王蕃が景皇帝(孫休)に仕えていたころ、景皇帝はその才能を高く評価し、並外れた人物だと称賛していました。ところが陛下は王蕃の厳しい進言を憎み、率直な返答を嫌って、大殿で首を斬り、その遺体を野外に放置されました。
国内の人々は心を痛め、見識のある者たちは深く悲しんでいます」と訴えた。
先代の皇帝は王蕃の才能を認めて重用した。
ところが今の皇帝は、同じ人物の首を斬ってしまった。
なんともわかりやすい比較である。
しかも陸凱は、王蕃が殺されたことを単なる個人的な悲劇としてではなく、呉にとって大きな損失だったと訴えている。
王蕃の悲劇は本人が殺されただけでは終わらなかった。
孫皓は王蕃の死後、その家族を広州へ移住させたのである。
王蕃には王著と王延という二人の弟がおり、こちらも兄に負けず劣らず優れた資質を持っていたという。
ところがその後、郭馬が反乱を起こすと、二人は郭馬への協力を拒んだため、そろって殺害されてしまった。
渾天儀を製作し、数学で天の大きさに挑んだ王蕃
王蕃は官僚として活動する一方、天文学や数学にも精通し、『渾天図記』『渾天象注』などの著作を残した。
これらの著作は散逸しているが、その学説は『晋書』や『隋書』の天文志にも引用されている。
王蕃は劉洪の『乾象暦』を受け継ぎ、その方法に基づいて渾天儀(こんてんぎ)を製作した。
また、天体の構造や運行について研究し、太陽までの距離を勾股の法(三平方の定理)によって計算するなど、数学を天文学に応用した。
さらに、円周と直径の比率を142対45とし、円周率に換算すると約3.15556となる数値を用いた。
王蕃の天文学や数学に関する詳しい研究内容は、後半の「王蕃が残した学問の詳細」で紹介する。
薛瑩・胡沖・陳寿による王蕃の評価
薛瑩は、王蕃について器量が並外れて大きく、学識も広く、さまざまな分野に精通していたと絶賛している。
また、胡沖は楼玄、賀邵、王蕃の3人について、いずれも当時を代表する優秀な人物であり、ほとんど優劣をつけられないと評価した。
ただし、どうしても順位をつけるなら、楼玄が第一、賀邵が第二だという。
「どうしても順位をつけるなら、最下位は王蕃であった」でもいい書き方である。3人しかいないのに2位までつけるのはよくない。
陸抗は「李勗・楼玄・王蕃の三名は、いずれも当世の俊才であり、一時の顕器なり。彼らを失ったことは国の大きな損失であり、今さら悔やんでも手遅れだ。」と評価している。
一方、『三国志』の陳寿は、王蕃らが道理の通じない時代に名声と官位を得ていたため、理不尽な死に追い込まれる危険があり、それを免れられれば幸運だったと総評している。
なんとも救いのない評価である。
普通なら、優秀な人物が高い地位に就けば、それは喜ばしいことのはずだ。ところが孫皓の時代には、才能を認められて出世することが、かえって命の危険につながってしまう。
王蕃は豊富な知識を持ち、数学を使って太陽までの距離を計算し、天の大きさまで求めようとした男だった。
しかし、そんな王蕃にも、どうしても計算できないものがあった。
孫皓の機嫌である。
もっとも、これは王蕃の計算能力が足りなかったという話ではない。
そもそも孫皓という存在が、まともな計算ではどうにもならない存在だったのである。
参考文献
- 三國志 : 吳書二十 : 王蕃傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書十六 : 陸凱傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 志第一 天文上 – 中國哲學書電子化計劃
- 隋書 : 卷十六志第十一 律曆上 – 中國哲學書電子化計劃
- 玉海 : 卷四 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷079 – 维基文库,自由的图书馆
- 『全三国文』巻七十二(浑天象説)
- 王蕃 – 维基百科,自由的百科全书
王蕃のFAQ
王蕃の字(あざな)は?
永元(えいげん)です。
王蕃はどんな人物?
呉に仕えた官僚で、天文学や数学にも精通した人物です。
孫休から高く評価され、渾天儀の製作や天体の距離の計算でも功績を残しました。
王蕃の最後はどうなった?
甘露二年(266年)、孫皓が開いた宴席で斬殺され、39歳で亡くなりました。
処刑の経緯については、『三国志』本伝と『江表伝』で異なる記録が残されています。
王蕃は誰に仕えた?
呉の孫休と孫皓に仕えました。
王蕃にまつわるエピソードは?
『呉録』には、王蕃が万彧を厳しく批判し、舌戦を繰り広げた記録があります。
王蕃が残した学問の詳細
王蕃は天体の構造や動きをどのように捉え、その大きさや距離をどのように計算したのか。
ここでは、渾天説の考え方から渾天儀の仕組み、勾股の法を用いた距離の計算、円周率に関する研究までを詳しく紹介する。
王蕃が論じた渾天説
王蕃は劉洪の『乾象暦』を受け継ぎ、その方法に基づいて渾天儀(こんてんぎ)を製作した。
王蕃が論じた渾天説とは、地の周囲を球状の天が取り囲み、その天が回転することで太陽や月、星々が動いて見えるとする考え方である。
天と地の関係を鳥の卵にたとえ、天を卵の殻、地をその内側にあるものとして説明していた。
なんとも想像しにくいが、大地が平らで、その周囲を巨大な球状の天が包み込んでいると考えればいいのだろうか。 つまり、地を中心に天が回転するという、天動説的な宇宙観だった。
この考え方では、天球は絶えず回転しており、その半分が地平線より上に、残りの半分が地平線より下にあるとされた。
王蕃は天球の一周を365度と589分の145度とし、天の北極と南極はその半周にあたる182度余り離れていると説明した。
また、天の北極は地平線から36度の高さにあり、南極は逆方向の地平線の下36度にあるとした。
さらに、北極から72度以内にある、常に見える星の領域を上規、南極から72度以内にある、常に見えない星の領域を下規と呼んだ。
これは、天球が回転しても地平線の下に沈まない星と、反対に地平線の上に現れない星の範囲を区別したものである。
また、天の赤道は南北それぞれの極から91度余り離れた位置にあると説明している。
渾天象と王蕃が製作した渾天儀
王蕃によると、渾天儀は古代の羲氏と和氏の時代から受け継がれてきた器具で、璣衡(きこう)とも呼ばれていた。
実際の空を観測し、太陽や月、星々の動きや、星宿と呼ばれる星の集まりの位置や角度を調べるために用いられたものである。
一方、渾天象は天を球体として再現し、その上に星々を配置した模型だった。
まったく同じものではないだろうが、現代の道具に例えるなら、渾天象は立体版の星座早見盤、渾天儀は天体観測に使う赤道儀のようなものだろう。
王蕃は、古い渾天象では天球の1度に相当する模型上の長さを2分、円周を7尺3寸半分としていたと説明している。
ただし、この渾天象がいつの時代に製作されたものなのかは、わかっていなかったという。
これに対して王蕃が製作した渾天儀は、天球の1度に相当する長さを3分、円周を1丈9寸6分とするもので、古い渾儀と張衡が製作した渾儀の中間に位置する形式だった。
この渾天儀では太陽や月、星々の運行を表すことができ、冬至、夏至、春分、秋分といった季節の節目や、それに伴って昼と夜の長さが変化する様子も示すことができた。
太陽までの距離
王蕃は太陽までの距離についても、数学を使って計算している。
まず、太陽が真上にある地点からの高さを8万里とし、その地点から陽城までの地上の距離を1万5000里とした。陽城とは、現在の河南省登封にあたる場所である。
ここで王蕃が用いたのが、勾股の法と呼ばれる計算方法だった。
これは現在の三平方の定理(ピタゴラスの定理)にあたり、直角三角形の縦と横の長さがわかれば、斜めの辺の長さも計算できるというものである。
つまり、太陽の高さである8万里を縦、地上の距離である1万5000里を横とする直角三角形を考え、その斜めの辺を太陽から陽城までの距離として求めたわけだ。
その結果、王蕃は太陽から陽城までの距離を8万1394里30歩5尺3寸5分と算出した。
これは1里を500mと仮定して換算すると、約4万700kmに相当する。
現代の天文学では地球から太陽までの平均距離は約1億4960万kmとされている。
王蕃の計算とは、なんと約3700倍もの差があるのだ。
いかに当時の宇宙の大きさに対する認識が、現代とは大きく異なっていたのかがわかる。
ただし、当時の1里は500mではないため、この数字はあくまで距離の規模をイメージするための参考値である。
3700倍が3800倍になったところで、宇宙の広さには影響ない。
もちろん、王蕃がいい加減な計算をしていたわけではない。地を中心に天が回転するという当時の宇宙観を前提に、数学を使って距離を求めていたのである。
こうして求めた太陽から陽城までの距離を天球の半径として扱い、天の円周である周天の長さまで計算しようとした。
王蕃が用いた円周率
王蕃は、天の円周を求めるために、円周と直径の比率についても研究している。
それまで陸績は、天の直径を35万7000里とし、円周を直径の3倍として計算していた。
しかし王蕃は、円周は直径の単純な3倍ではないと考え、その比率を142対45とした。
これは現在でいう円周率のことで、142を45で割ると約3.15556となる。
つまり、円周を計算するときに3ではなく、より正確な数値を使おうとしたのである。
ちなみに、現在使われている円周率は約3.14159である。
王蕃の求めた3.15556はこれより少し大きいものの、単純に3として計算するよりも実際の値に近かった。
同時代の数学者である劉徽は約3.1416という値を求めており、後の南朝では祖沖之が3.1415926から3.1415927という、さらに精密な値を求めている。
王蕃の数値はこれらほど正確ではなかったが、天の大きさを計算するために円周率の精度にも目を向けていたことがわかる。
王蕃の研究が後世に与えた影響
『隋書』天文志には、王蕃の数値をもとに、太陽の高さや位置を計算した記録が残されている。
その計算に使われたのが、高さ8尺の棒を地面に垂直に立て、太陽の光によってできる影の長さを測る方法である。
太陽の位置が高ければ影は短くなり、低ければ影は長くなる。この関係を利用することで、太陽の高さを計算しようとしたのである。
冬至には、8尺の棒に対して影の長さを1丈3尺とし、太陽の高さを約4万2658里、太陽が真上にある地点から地中までの距離を約6万9320里と算出した。
一方、春分と秋分には影の長さを5尺3寸9分とし、太陽の高さを約6万7502里、太陽が真上にある地点から地中までの距離を約4万5479里と求めている。
また、太陽だけでなく、観測者の目と棒の位置関係を利用して、北極星付近の星の高さや、天の北極までの距離を求める方法も記されている。
このように、王蕃が示した天球の大きさに関する数値は、後世にも受け継がれ、天体の位置や距離を計算する際の基礎として利用されていたのである。
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