簡雍:劉備に付き従い、劉璋を降伏させた自由奔放な立役者【すぐわかる要約付き】

簡雍
簡雍

1分でわかる忙しい人のための簡雍の紹介

簡雍(かんよう)、字は憲和(けんわ)、出身は涿郡、生没年(?~?)

若い頃から劉備と旧知の仲で、その後も劉備に従って各地を奔走した古参の臣である。
劉備が荊州にいた頃には糜竺・孫乾とともに従事中郎を務め、使者として各地を往来した。

建安十九年(214年)の成都包囲では劉璋への説得を任され、劉璋は簡雍と同じ車に乗って城外へ出て劉備に降伏した。
その後は昭徳将軍となり、糜竺に次ぎ、孫乾と同等の待遇を受けた。
細かな礼儀にこだわらない自由奔放な人物で、劉備の前でもくつろいだ姿勢を崩さず、禁酒令をめぐって機知に富んだ発言をした逸話も残されている。

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簡雍の生涯を徹底解説!劉備との長い親交から成都開城の説得、自由奔放な逸話まで

劉備と若い頃から親交を結び、各地を転戦

簡雍は涿郡の出身で、若い頃から劉備と旧知の仲であった。
中平元年(184年)に黄巾の乱が起こると、簡雍も関羽や張飛らとともに劉備に従い、校尉の鄒靖のもとで黄巾討伐に参加した。
それからも簡雍は劉備に付き従い、各地を転々とする劉備と長い放浪生活をともにしている。

ちなみに簡雍は、もともと耿という姓だったとも伝わっている。
幽州では「耿」を「簡」と発音していたため、その音に合わせて簡を名乗るようになったという。

劉備が荊州へ移ると、簡雍は糜竺・孫乾とともに従事中郎となった。
この頃は談客として仕え、その話術を買われて使者となり、劉備のために各地を往来していた。

気に入られた結果、劉璋を降伏させる役まで回ってくる

建安十六年(211年)、劉備が劉璋を助けるため益州へ入ると、簡雍もこれに同行した。
このとき簡雍は劉璋と対面しているが、よほど話が合ったのか、劉璋から大いに気に入られている。

ところが翌年、劉備と劉璋は決裂した。
それから戦いが続き、建安十九年(214年)には劉備が成都を包囲する。そして劉璋に降伏を勧めるため、城内へ送り込まれたのが簡雍だった。

「悪いようにしませんから」と言ったのかは分からないが、簡雍の説得を受けた劉璋は降伏を決め、簡雍と同じ車に乗って成都を出ると、そのまま劉備のもとへ向かった。

成都が平定されると昭徳将軍に任命され、その待遇は糜竺に次ぎ、孫乾と同等だった。

細かな礼儀にこだわらず、自由に振る舞った簡雍

簡雍は細かい礼儀など気にしない、かなり自由な男だった。
劉備と同席しているときでさえ、きちんと座ろうともせず、足を投げ出して寄りかかり、自分が一番楽な姿勢でくつろいでいた。

これでも劉備の前では多少遠慮していたようで、諸葛亮以下の臣下が相手になるとさらにひどい。
一人で長椅子を丸ごと占領すると、枕に頭を乗せて寝転がり、そのままの姿勢で話をしていた。

相手が諸葛亮だろうと起き上がる気はない。
劉備の古くからの友人という立場は、どうやら寝ながら話しても許されるほど強かったらしい。

禁酒令の処罰を機知で覆した簡雍

あるとき旱魃が起こり、酒造りが禁止され、違反した者には刑罰が科されることになった。
そんな中、役人が民家を捜索して酒造りの道具を見つけると、実際に酒を造っていなくても、道具を持っている以上は酒を造ろうとしていたとして、同じように処罰しようという話になった。

その頃、簡雍が劉備と出かけていると、道を歩いている男女を見かけた。
すると簡雍は「あの二人はこれから淫行しようとしています。どうして捕らえないのですか」と劉備に言った。

劉備が「どうしてそんなことが分かるのだ」と尋ねると、簡雍は「あの二人はそのための道具を持っています。酒造りの道具を持っていた者と同じでしょう」と答えた。

これを聞いた劉備は大笑いし、酒造りの道具を持っていた者を罪に問わなかった。
簡雍の機知に富んだ言動は、いつもこのような調子だったという。

簡雍の評価

『三国志』の陳寿は、糜竺・孫乾・簡雍・伊籍について、「いずれも悠然とした風格を持って議論し、世に礼遇された」と評している。

禁酒令の逸話を最後に、簡雍がその後どのような活躍をしたのかは伝わっていない。

世の中には、ただ隣に座っているだけで意味が生まれる人間がいる。
簡雍は、まさにその典型だった。

劉備が各地を流浪していた頃から、「まぁ次があるさ」と簡雍は変わらずそのそばにいた。

やがて劉備が一国の主となっても、その距離は変わらなかった。
そんな簡雍の存在が、劉備にとってありがたかっただろう。

参考文献

簡雍のFAQ

簡雍の字(あざな)は?

字は憲和(けんわ)です。
また、本来は耿姓で、幽州では「耿」を「簡」と発音したため簡姓に変わったという異説があります。

簡雍はどんな人物?

細かな礼儀にはこだわらず、機知に富んだ言動でも知られています。

簡雍の最後はどうなった?

簡雍の没年や最期については、今回の資料には記録されていません。

簡雍は誰に仕えた?

若い頃から劉備と親交があり、その後も劉備に付き従いました。
荊州では従事中郎を務め、益州平定後には昭徳将軍に任命されています。

簡雍にまつわるエピソードは?

旱魃による禁酒令の際、酒造りの道具を持っていただけの民を処罰しようとする意見に対し、男女が淫らな行為のための道具を持っているから捕らえるべきだと皮肉を述べました。
その意図を理解した劉備は大笑いし、酒造りの道具を持っていた者を赦しました。

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