1分でわかる忙しい人のための馬超の紹介
馬超(ばちょう)、字は孟起(もうき)、出身は右扶風茂陵、生没年(176年~222年)
後漢の名将・馬援の後裔で、涼州の有力者である馬騰の子として育った武将である。
若くして一万余の兵を率い、郭援との戦いでは足に矢を受けながら戦い続け、早くから武勇を示した。
父・馬騰が入朝するとその軍勢を継承し、建安十六年(211年)には韓遂ら関中諸将とともに曹操へ反旗を翻した。
潼関では曹操の渡河を急襲して危機に追い込み、曹操から強く警戒されたが、賈詡の離間策によって韓遂との連携を崩されて敗北した。
その後は隴上で再起して冀城を奪ったものの、楊阜や姜叙らの反撃で妻子と拠点を失い、張魯のいる漢中へ逃れた。
建安十九年(214年)には張魯のもとを離れて劉備へ帰順し、成都攻略を後押しした。
劉備のもとでは左将軍、驃騎将軍、涼州牧となり、斄郷侯に封じられるなど重用された。
しかし曹操への挙兵によって一族二百余人の大半を失っており、章武二年(222年)の臨終には、生き残った従弟の馬岱を劉備に託して世を去った。
馬超の生涯を徹底解説!関中での挙兵から張魯・劉備への帰順、一族を失った最期まで
出自と若き日の馬超
馬超は熹平五年(176年)、右扶風茂陵に生まれた。
字は孟起で、後漢の伏波将軍・馬援の後裔にあたる。
祖父は桓帝の時代に天水郡蘭干県の県尉を務めたが、失官すると隴西に留まり、羌族と暮らすようになった。そして現地の羌族女性との間に生まれたのが、馬超の父・馬騰である。
父の馬騰は涼州で反乱が起きると討伐する側へ滑り込み、軍司馬、偏将軍、征西将軍と昇進していった。
初平三年(192年)には韓遂と長安へ進み、征西将軍として郿に駐屯したかと思えば、今度は長安を攻撃して敗れ、何事もなかったように涼州へ戻っている。
馬騰と韓遂は義兄弟となり、しばらくは仲良くやっていたが、その義兄弟はやがて互いの軍勢をぶつけ合うところまで立派に腐った。
馬騰が韓遂を攻めると韓遂も兵を集めて反撃し、ついには馬騰の妻子まで殺害する。義兄弟から妻子殺害まで、ずいぶん遠くまで来てしまった。
さすがに兄弟喧嘩と呼べる範囲を突破したため、司隷校尉の鍾繇と涼州牧の韋端が両者の間に入り、この殺し合いを仲裁した。
若き馬超もこの抗争に参加しており、韓遂配下の閻行と直接ぶつかることになる。
『魏略』によれば、若き馬超は韓遂配下の閻行と戦った。
閻行が馬超を矛で突いたところ、その矛が折れてしまう。普通ならここで武器を失うところだが、閻行は折れた矛を握り直し、そのまま馬超の首を殴って危うく殺しかけたという。
馬超は若い頃から勇健で知られていたが、この戦いでは死の寸前まで追い込まれている。
郭援討伐で武名を上げ、父・馬騰の軍を継承
建安七年(202年)、袁尚は河東太守の郭援、并州刺史の高幹、さらに南匈奴の単于まで動かし、平陽を攻めて関中の諸将もまとめて自分の側へ引き込もうとした。
これに対して司隷校尉の鍾繇は張既を送り込み、馬騰ら関中諸将に利害を説いて味方につける。馬騰もこれに応じ、息子の馬超に一万余の兵を持たせて鍾繇の軍へ放り込んだ。
馬超は司隷校尉の督軍従事となり、平陽で郭援、高幹らと激突した。
戦いの最中には飛んできた矢を足に受けたが、負傷した足を袋で包むと、その状態のまま戦闘を続行して郭援軍を大破する。
さらに馬超配下の龐徳が郭援の首を斬り、高幹と南匈奴の単于もそろって降伏した。
一万余の兵を預けられた馬超は、足を負傷しながら敵軍を叩き潰し、配下の龐徳は敵将の首まで取るという戦果を残した。この戦功によって馬超は徐州刺史に任命され、のちに諫議大夫となった。
曹操が司空であったころ召し出そうとされたが、馬超はこれに応じなかった。
その後、父の馬騰と韓遂はまたしても関係が悪化する。再び殺し合いへ向かうが、馬騰のほうが朝廷へ入ることを願い出た。
建安十三年(208年)、馬騰は衛尉となり、馬超の弟である馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉となって、一族とともに鄴へ移った。
ところが馬超だけは関中に残り、偏将軍に任命されて都亭侯に封じられ、父の軍勢まで丸ごと引き継ぐ。父と弟たちが鄴へ移ったあと、関中には兵を持った馬超が残されたのである。
父を捨て韓遂を父と呼ぶ、反曹連合の結成
建安十六年(211年)、曹操は司隷校尉の鍾繇と夏侯淵に、漢中の張魯を討つため関中を通って進軍するよう命じた。
ところが馬超ら関西の諸将には、どうにも張魯だけを討ちに行く軍勢には見えなかった。曹操配下の高柔や衛覬も事前に、関中へ軍を入れれば韓遂や馬超らが警戒し、反乱を起こす危険があると指摘していた。
そして曹操軍が動くと、予想通りに警戒した馬超も軍勢を率いて対抗する側へ回った。
馬超は韓遂と連合し、楊秋、李堪、成宜らとも結んで潼関へ進軍する。
曹操としては張魯を討つため関中を通りたかっただけなのに、その途中で反曹連合を育てることになった。漢中へ着く前から、ずいぶん大きな寄り道である。
馬超は韓遂と連合するにあたり、血縁関係まで交渉材料にしていた。
「以前、鍾司隷は私に将軍を討つよう命じた。関東の人間はもう信用できない。今、私は父を捨てて将軍を父とする。将軍も子を捨てて私を子としてほしい」と韓遂に語ったのである。
実父の馬騰はまだ生きており、父を失ったから韓遂を父と呼んだのではない。
馬騰が生きている状態で父を捨て、かつて馬騰と殺し合い、その妻子まで殺した韓遂を新しい父にした。
もっとも、韓遂の配下が全員この挙兵に乗り気だったわけではない。
閻行は以前から韓遂に曹操への帰順を勧め、自らの父を朝廷へ送ったうえで、韓遂にも子を送って帰順の意思を示すよう求めていた。
しかし韓遂は「諸将が相談もしていないのに考えを同じくしている。天意のようなものだ」と答え、帰順ではなく馬超らとともに挙兵する道を選んだ。
こうして馬超、韓遂に侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋らが加わり、合わせて十の勢力が曹操に反旗を翻した。
兵力は十万に達し、河水や潼関に陣営を構える。
さらに百頃の氐王・千万や興国の氐王・阿貴まで呼応し、反曹操の動きは関中から周辺の氐族へ広がっていった。
馬超らが兵を挙げると、弘農や左馮翊の郡県も次々と呼応した。
一方、藍田の劉雄鳴は従わなかったため馬超に撃破され、そのまま曹操のもとへ逃走する。
そして関西では数万家の住民が子午谷を通って漢中へ逃れ、諸将が一斉に兵を挙げた関中からは大量の住民まで逃げ出していった。
さらに馬超は京兆の賈洪を脅して華陰へ連れて行き、反乱の露布まで書かせた。露布とは政権の公式SNS投稿のようなものである。
賈洪は拒むことができず、やむを得ず馬超のために文章を作る。
ところが東方にいた司隷校尉の鍾繇がそれを読むと、「これは賈洪が作ったものだ」とあっさり見抜いた。無理やり書かせたところで、鍾繇には普通に賈洪の文章だった。
曹操は曹仁を潼関へ派遣し、馬超らへの備えを固めた。
さらに関西の兵は精悍であるとして、不用意に出撃して戦ってはならないと諸将に命じる。
曹操軍の進軍を警戒して結ばれた反曹連合は十万まで膨れ上がり、いよいよ曹操軍を迎え撃とうとしていた。
潼関で曹操を窮地に追い込む
建安十六年(211年)七月、曹操は自ら軍を率いて西へ進み、潼関に到着した。
その西には馬超らが十万の軍勢を並べて待っていたため、曹操も正面から殴り合う気にはならず、徐晃と朱霊に四千の兵を与えて蒲阪津から黄河を渡らせた。
徐晃らは河西に陣営を築き、曹操本隊を向こう岸へ渡すための足場を作った。
この動きに対し、馬超は韓遂へ「渭水の北で敵を防ぐべきだ。二十日も経たないうちに河東の兵糧は尽き、曹操は必ず退却する」と主張した。
ところが韓遂は「敵を渡らせ、河中で追い詰めるほうが痛快ではないか」と却下する。
曹操は後に馬超の策を知ると、「馬児が死ななければ、私は葬られる土地さえなくなる」と語った。
八月、曹操は潼関から黄河を北へ渡り、まず軍勢を次々と北岸へ送った。
曹操自身は許褚ら百余騎とともに南岸へ残って後方を守っていたが、馬超はそこを見逃さず、歩兵と騎兵一万余を率いて曹操本人へ突っ込んだ。
百余騎の曹操に一万余の馬超軍が殺到し、矢まで猛烈に降り注いだため、曹操は黄河の岸辺で孤立して死の危機に陥った。
ここで曹操を回収したのが許褚だった。
許褚は曹操を船へ乗せると、左手で馬の鞍を掲げて飛んでくる矢を防ぎ、右手では船を漕いで黄河を渡る。
馬超軍はその最中も攻撃を続け、ついには船の漕ぎ手まで矢を受けて死亡したが、許褚は曹操を守りながら渡河を続けた。
そこに校尉の丁斐が牛や馬を解き放つと、今度は馬超軍の兵士たちがそちらを奪おうとして隊列を崩した。
曹操を目前まで追い詰めていたところへ牛馬が走り出し、兵がそちらへ流れた隙に曹操は黄河を渡り切る。
馬超は一万余の兵で曹操本人を捕まえかけたが、許褚に船で運ばれ、最後は牛馬にも邪魔されて逃げられた。
曹操が一時行方不明になったため、諸将はその安否を心配していた。
やがて曹操が無事に戻ると諸将は悲喜こもごもとなったが、曹操は大笑いして「今日はあの小賊にもう少しで困った目に遭わされるところだった」と語った。
馬超に殺されかけた直後だけに、ずいぶん景気のいい負け惜しみである。
曹操軍が黄河を渡った後、馬超らは渭口へ退き、今度は渭水を頼りに陣を構えた。
曹操が黄河沿いに甬道を築きながら南下して渭水を渡ろうとすると、馬超らは夜ごとその陣営を襲撃する。
それでも曹操は渭水を渡って陣営を築き、両軍は渭南で再び向かい合うことになった。
曹操の離間策にはまり、反曹連合が崩壊
建安十六年(211年)九月、馬超らは渭南で曹操軍と対峙し、たびたび戦いを挑んだが、曹操は応じなかった。
正面から殴り合いたい馬超に対し、曹操は徹底して付き合わない。
その後、馬超らは土地の割譲と人質の差し出しを条件に講和を申し入れた。
曹操が賈詡に相談すると、賈詡はその要求をいったん受け入れるよう進言した。
曹操が理由を尋ねると、返ってきた答えは「離間させるのです」。
十の勢力を集めた反曹連合を正面から殴るのではなく、まず仲間同士で疑わせることになった。
講和をめぐる会談では、曹操が韓遂、馬超と単騎で顔を合わせた。
『許褚伝』によれば、この時の馬超は自らの武勇を頼み、その場で曹操へ突進して捕らえようと考えていた。
ところが曹操のそばには護衛の男がいる。馬超が「曹公には虎侯という者がいると聞いているが、どこにいるのか」と尋ねると、曹操は隣にいた許褚を指した。
許褚は目を怒らせて馬超をにらみつけ、馬超は結局手を出さなかった。
曹操を捕らえるところまで考えていた馬超だが、虎侯の所在を確認したところで計画は終了。
許褚は武器を振るうこともなく、ひとにらみで曹操捕獲を中止させた。
その後、曹操は韓遂と二人で馬に乗ったまま会談した。
韓遂の父と曹操は同じ年に孝廉へ推挙され、曹操と韓遂自身にも若い頃からの交流があった。
そのため二人は目の前で戦争をしているのに軍事の話をせず、都にいた頃の昔話をして、手を打って笑い合った。韓遂の後ろには閻行がおり、曹操はその閻行に「孝行することを忘れるな」とまで声をかけている。
会談を終えた韓遂が戻ってくると、馬超らは「曹公は何を言ったのか」と尋ねた。
韓遂の答えは「何もない」。
敵の総大将と二人で昔話をしながら笑って帰ってきた男から「何もない」と言われ、馬超らは韓遂を疑い始めた。
そこへ曹操から韓遂宛ての手紙が届いた。
馬超らがその手紙を見ると、ところどころに曹操がわざと改変した箇所があり、それが韓遂自身の手で直されたように見えた。
先ほどまで「何もない」と言っていた韓遂である。馬超らの目には、いよいよ何かあるように見えてきた。
こうして馬超と韓遂らの間に亀裂が入ると、ようやく曹操は軍を進めて決戦に出た。
最初に軽装の兵を出して戦わせ、その後から精鋭の騎兵を投入して馬超らを挟撃する。
馬超らは大敗し、成宜や李堪らが戦死した。
韓遂と馬超は涼州へ逃れ、楊秋は安定へ逃走。
十万まで膨れ上がった反曹連合は、曹操の離間策によって内部からあっさりと崩壊した。
処刑された馬騰ら一族
馬超らを破った曹操は、そのまま安定まで追撃した。
ところが北方では蘇伯らが河間で反乱を起こし、曹操は軍を東へ戻すことになる。
潼関では勝ったものの、馬超まできれいに片づけて帰れるほど暇ではなかった。
この撤退を前に、楊阜は曹操へ「馬超には韓信や英布のような勇があり、羌や胡の心を得ている。大軍が帰還するのであれば、厳重に備えなければ隴上の諸郡は国家のものではなくなる」と警告した。
十万の反曹連合は離間策で崩れたが、馬超本人はまだ羌や胡の支持を得ており、隴右から消えてくれる気配はなかった。
潼関で敗れた馬超本人は生き延びたが、その反乱の代償は鄴にいた家族へ及んだ。
建安十七年(212年)、馬超が捨てた父の馬騰と弟の馬休、馬鉄らが処刑され、馬氏の一族も誅殺された。
冀城を奪い勢力を盛り返す
建安十七年(212年)正月、潼関で敗れた馬超は諸戎の首領たちを率い、隴上でさっそく兵を挙げ直した。
すると各地が次々と呼応し、漢陽郡の郡治である冀県を除いて隴上の郡県が馬超になびいていく。
上邽でも任養らが馬超を迎え入れたため、涼州別駕の閻温は涼州刺史・韋康が守る冀城へ入った。曹操に大敗した翌年とは思えない戻りの早さである。
馬超は残った冀城を包囲し、そこへ張魯が援軍として派遣した楊昂まで加わった。
追い詰められた冀城では、閻温が救援を求める役目を引き受け、夜間に城を抜け出して包囲を突破する。
夏侯淵のもとを目指したものの馬超軍に足取りを追われ、顕親で捕らえられてしまった。
捕らえた閻温を殺す前に、馬超はもう一仕事させようとした。
閻温を城下へ連れて行き、「東方から救援軍が来ないと城内の者たちに告げれば命を助ける」と迫ったのである。
閻温もいったんは承知したように見せた。ところが城を見上げるなり「大軍は三日もすれば到着する。みな頑張れ」と真逆のことを叫び、冀城の心を折るはずだった馬超が自分で城内を励ます結果になった。
馬超は怒って「お前は命が惜しくないのか」と責めたが、それでも閻温をすぐには殺さなかった。
今度は「城内の旧知の中に、私と意を同じくする者はいないか」と尋ねて懐柔を続ける。
しかし閻温は答えず、さらに責められると「主君に仕える者には死はあっても二心はない。あなたは年長者の口から不義の言葉を引き出そうというのか」と言い返した。絶望を叫ばせるのにも、内通者を聞き出すのにも失敗し、馬超はついに閻温を殺した。
冀城の包囲が激しくなると城内は飢え、官吏や住民にも被害が広がった。
もともと仁愛のある人物だった韋康は人々が傷つくことを憐れみ、馬超との和睦を考える。
趙昂はこれに反対したが聞き入れられず、帰宅して妻の王異に事情を話した。
王異も降伏には反対し、「主君には諫言する臣下がおり、大夫には自ら判断して事を行う道義があります。救援軍が関隴へ到着しないと、どうして分かるのでしょうか。ともに励んで最後まで大功を立て、節義を守って死ぬべきであり、従ってはなりません」と趙昂を励ました。
しかし趙昂が戻った時には、韋康はすでに馬超と和睦していた。
建安十七年(212年)八月、こうして冀城は馬超へ降伏した。
ところが馬超は和睦の約束に背いて韋康を殺害し、楊阜の従弟である楊岳も捕らえる。
さらに冀城を拠点としてその兵衆を併合し、征西将軍・領并州牧・督涼州軍事を自称した。
遅れて夏侯淵が冀城の救援へ向かったが、今度は馬超が城から約二百里も進んで迎撃した。
さらに汧県の氐まで馬超に呼応したため、救援に来た夏侯淵のほうが軍を退くことになる。
百頃の氐王・千万も馬超に呼応して興国で反乱を起こし、潼関で曹操に叩き出された馬超は、一年ほどで隴右に再び大勢力を築くまでに勢力を盛り返した。
ただし、韋康を殺せばその旧臣まで素直に馬超の臣下になるという話ではなかった。
馬超は趙昂を自分のために働かせようとしたが、完全には信用せず、その嫡子・趙月を南鄭で人質にした。
それでも楊阜は韋康の死を悲しみ、姜叙、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、武都の李俊、王霊らと結んで馬超討伐を計画する。しかも冀城の中にいる趙衢と梁寛まで、この計画に加わっていた。
息子の趙月を馬超に握られている趙昂にとって、反乱への参加はその命まで危険にさらす選択だった。
それでも趙昂らは馬超への反撃に動き始める。冀城を奪って隴右で勢力を盛り返した馬超だったが、その足元ではすでに韋康の旧臣たちによる反乱計画が進んでいた。
冀城を喪失し張魯へ逃亡
建安十七年(212年)、楊阜と姜叙が鹵城で反旗を翻すと、馬超はこれを鎮圧するため冀城を離れた。
ところが馬超と敵対する計画に加わっていた趙衢と梁寛は、その留守に冀城の門を閉ざし、城内に残されていた馬超の妻子をことごとく殺して、その首まで晒した。
反乱を潰しに出た馬超は、戻ってみれば城も家族もなくなっていた。
馬超は鹵城を攻撃したものの陥落させることができず、冀城にも戻れなくなったため、そのまま歴城を攻略して姜叙の母とその子を捕らえた。
ところが捕虜になった姜叙の母は命乞いを始めるどころか、馬超の罪状を読み上げ始めた。
「お前は父に背いた不孝者であり、韋康を殺した凶悪な賊である。天地がどうしてお前を長く許すだろうか。それなのに早く死なず、人に顔向けできるというのか」と容赦なく罵倒した。
怒った馬超は姜叙の母とその子を殺した。
楊阜との戦いも激しく、楊阜の兄弟七人が戦死し、楊阜自身も複数の傷を負った。
馬超はそこまで相手に損害を与えても冀城を奪い返すことができず、涼州に留まることもできなくなった。
最終的に馬超は従弟の馬岱や部将の龐徳らとともに漢中へ逃れ、張魯のもとへ転がり込んだ。
張魯を頼るが再起に失敗、漢中を離れる
漢中へ転がり込んだ馬超は張魯から重用され、都講祭酒となった。
張魯はさらに自分の娘を馬超へ嫁がせようとしたが、「自分の親を愛することのできない者が、どうして他人を愛することができましょうか」と諫める者が現れ、婚姻は取りやめになった。
馬超が曹操に反旗を翻す以前、馬超の妻の弟である董種は三輔に留まっており、その後漢中へ入って馬超と合流した。
正月元日になると、董種は馬超に長寿を祝う言葉を述べた。
すると馬超は自分で蒔いた種なのに「一族百人が同じ日に死んだというのに、今ここで二人が祝い合うというのか」と胸を叩いて血を吐き嘆いた。
漢中に移っても涼州を諦めたわけではなく、馬超は張魯に何度も兵を貸すよう求めた。
建安十九年(214年)にはようやく兵を借り、趙昂らが立て籠もる祁山を包囲する。
姜叙らが救援を求めると、夏侯淵は祁山から曹操のいる鄴まで往復四千里もあるため、命令を待っていては間に合わないと判断した。
そこで曹操からの指令を待たずに軍を動かし、陳倉の狭道を通って祁山へ向かう。
さらに張郃を先行させ、馬超のもとへ迫らせた。
馬超も羌・氐の兵数千人を率いて渭水まで進み、張郃を迎えた。
ところが両軍は交戦することなく、馬超のほうが撤退した。
何度も頼んで張魯から兵を借りたものの、肝心の涼州奪還は戦う前に終了した。
なお趙昂の子で、馬超の人質となっていた趙月については、『列女伝』にこの時殺されたとの記録がある。
馬超はその後も失った勢力を取り戻すことができなかった。
涼州へ戻れないまま、今度は張魯配下の楊白らが馬超を害そうとする。
とうとう漢中にも居場所がなくなり、建安十九年(214年)、馬超は武都から氐族の居住地域へ逃れた。
涼州から漢中へ逃げてきた馬超は、今度は漢中から劉備のいる益州へ向かうことになる。
劉備への帰順で成都を震撼させる
この頃、劉備は益州牧の劉璋を成都に包囲していた。
張魯のもとを離れた馬超はそのことを知ると、今度は劉備へ密かに書状を送り、帰順を申し出た。劉備もこれを受け入れ、馬超を迎えるために人を派遣した。
馬超がやって来ると知った劉備は、「私は益州を得た」と喜んだ。
劉備はまず人を送って馬超を留めると、密かに兵を与えてから成都へ向かわせた。
潼関で曹操と激戦を繰り広げ、隴上でも大勢力を築いた馬超が、今度は兵を率いて成都の北に現れた。
この登場には成都の城内も震え上がり、馬超が到着してから十日にも満たないうちに劉璋は劉備へ降伏した。
益州平定後、劉備は馬超を平西将軍に任命して臨沮を督させ、それまで有していた前都亭侯の爵位もそのまま維持した。
各地を転々としていた馬超も、ようやく劉備のもとで腰を落ち着けることになった。
関羽・張飛に殺されかけた馬超、その逸話の真相
『山陽公載記』には、劉備に帰順した馬超が危うく関羽と張飛に殺されかけたという逸話がある。
馬超は劉備から手厚く扱われたことで距離感まで縮めてしまい、劉備と話す際にしばしば玄徳という字で呼ぶようになった。
これを聞いた関羽は礼儀を注意するどころか、馬超を殺すよう劉備に求めた。
さすがに劉備は、窮地に陥って自分を頼ってきた人物を、字で呼ばれたくらいで殺せば天下に示しがつかないとして拒否した。
すると張飛が、殺すのではなく礼を分からせればいいと提案する。
馬超の呼び方を直すため、ずいぶん物騒な面々が動き始めた。
翌日の宴席に馬超が呼ばれると、関羽と張飛は刀を持ったまま立ち、席にも座らなかった。
馬超もさすがにびびって、それ以後は劉備を玄徳と呼ばなくなった。
さらに翌日には「自分が敗れた理由が分かった。主君の字を呼んだため、危うく関羽と張飛に殺されるところだった」と嘆き、それからは劉備を敬うようになったという。
もっとも、この逸話について裴松之は全面的に否定している。
そもそも馬超は窮地に陥って劉備を頼り、その爵位を受けた立場である。それなのに劉備を字で呼ぶほど傲慢に振る舞うこと自体がおかしいと指摘した。
さらに、本当に馬超が劉備を字で呼んでいたのなら、馬超自身はそれを礼にかなわない行為だとは思っていなかったはずだとも論じている。
しかも馬超は、関羽が自分を殺すよう求めた会話を聞いていない。
翌日の宴席で見たのは、関羽と張飛が刀を持って立っている姿だけである。
それだけで、なぜ馬超が「劉備を字で呼んだから殺されかけた」と原因まで理解できたのか。裴松之は、この点でも話の筋が通らないと批判した。
さらに話の内容以前に、関羽の居場所まで合っていなかった。
劉備が益州へ入った際、関羽は荊州を守っており、益州には来ていない。
実際に関羽は馬超が帰順したと聞くと、諸葛亮へ書簡を送り、馬超という人物が誰に匹敵するのか尋ねている。
つまり『山陽公載記』では、荊州にいるはずの関羽が張飛と一緒に馬超の前で刀を持って立ち、しかも馬超は聞いてもいない殺害計画の理由まで正確に察したことになる。
裴松之はこうした矛盾を挙げたうえで、袁暐や楽資らの記録についても、このような筋の通らない虚偽の話が数え切れないほどあるとして厳しく批判した。
彭羕を告発した馬超と劉備政権での立場
劉備が益州牧を兼任すると、諸葛亮は股肱、法正は謀主とされ、関羽・張飛・馬超は「爪牙」として名を連ねた。
許靖・麋竺・簡雍は賓友とされ、劉備は劉璋の旧臣を含む人材を顕職に置き、それぞれの能力を用いた。
こうして馬超も劉備のもとで重く用いられたが、他国から帰順した身だけに、常に自分の立場を危ぶんでいた。
そこへやって来たのが、遠方へ出されることになって劉備への不満を抱えていた彭羕だった。
馬超は彭羕に、「あなたは才能に優れ、主公からも非常に重く遇されている。孔明や孝直らと肩を並べて進む人物だと思っていたのに、どうして外の小郡を任され、人々の期待を裏切ることになったのか」と尋ねた。
すると彭羕は劉備について、「あの老兵は道理に外れている。これ以上何を言うことがあるのか」と、馬超の前で普通に罵り始めた。
しかも彭羕はそこで止まらず、「あなたが外を担当し、私が内を担当すれば、天下を平定することなど難しくない」と馬超に持ちかけた。
他国から帰順して自分の立場を常に気にしていた馬超にとって、ずいぶん困る相談相手がやって来たものである。馬超は大いに驚いたものの、その場では黙ったまま何も答えなかった。
そして彭羕が帰ると、馬超はその発言をすべて上表した。
彭羕は馬超を仲間に誘ったつもりだったが、その馬超からそのまま告発され、捕らえられて担当官へ引き渡された。
彭羕は獄中から諸葛亮へ書簡を送り、馬超との会話について弁明した。
自分が言った「外」とは馬超に北方の曹操を討たせることであり、「内」とは自分が劉備に従って益州で働くことを意味しており、反逆を企てたものではないと説明した。
しかし彭羕は処刑され、三十七歳で死んだ。
漢中争奪戦で張飛とともに曹洪軍と対峙
建安二十二年(217年)、法正は劉備に漢中攻略を進言する。
曹操は張魯を降して漢中を平定したにもかかわらず、その勢いで巴や蜀へ攻め込むことなく、夏侯淵と張郃を残して北へ帰っていた。法正はここに目をつけ、曹操には国内へ急いで戻らなければならない事情があり、しかも残された夏侯淵や張郃の力量なら劉備軍の将帥には及ばないと見た。
曹操は北へ戻り、漢中の守備には夏侯淵や張郃が残された。法正からすれば、これほど取りに行きやすい漢中もなかった。
劉備もこの策を受け入れて諸将を率い、漢中へ進軍。そのうち張飛、馬超、呉蘭らは下弁に駐屯し、曹操側では都護将軍の曹洪が迎え撃つことになる。
建安二十三年(218年)春、曹洪が呉蘭を攻撃しようとすると、張飛は固山に陣取り、曹洪軍の後方を断つ構えを見せた。
これで曹洪も迂闊には動けないと思いきや、曹休は張飛の声勢が大きすぎることに気づく。本当に退路を断つつもりなら、伏兵を潜ませて相手に悟られないよう動くはずであり、先に大々的に騒いでいる時点で後方を断つことなどできないと読んだ。
そこで曹休は、張飛らの兵が集まり切る前に呉蘭を叩くよう曹洪へ進言。
曹洪もこれに従って呉蘭へ攻め込み、その軍を撃破して呉蘭を斬った。曹洪の退路を脅かしたはずの張飛は、派手に構えたせいで曹休に手の内を読まれ、先に味方を潰される結果となった。
同年三月には張飛と馬超も撤退しており、下弁方面から曹洪軍を崩すことはできなかった。
劉備の漢中攻略の序盤に加わった馬超も、ここでは一度退くことになった。
驃騎将軍・馬超の最期と遺言、残された一族の行方
建安二十四年(219年)七月、劉備が漢中王になると、馬超は左将軍に任じられ、仮節を受けた。
各地を転々としていた馬超だったが、劉備のもとではそのまま地位を上げていった。
章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位すると、馬超は驃騎将軍へ昇進し、涼州牧を兼任して斄郷侯に封じられた。
任命の辞令では、曹操父子が罪を重ね、天下の人々が漢室への回帰を望み、氐や羌も服従しているとしたうえで、馬超は北方での信義と名声が明らかであり、その武威も広く知られていると評価された。
劉備は馬超に虎のような威勢を振るって広大な地域を監督し、民の苦しみを明らかにするよう命じた。
さらに朝廷の教化を宣べ、近くの者を慈しみ、遠方の者を救い、賞罰を慎重に行うことで漢王朝の福を盛んにし、天下の期待に応えるよう求めている。
しかし章武二年(222年)、馬超は死を前にして劉備へ上疏した。
子の馬承がいたにもかかわらず、そこで馬超が名指しで託したのは、一族の祭祀を継ぐ従弟の馬岱だった。
馬超は「私の一族二百余人は孟徳によってほとんど誅殺され、従弟の馬岱だけが残っています。祖先の祭祀を継ぐ者として、陛下に深くお託しします。ほかに申し上げることはありません」と述べた。
同年、馬超は四十七歳で死去した。
死後は威侯と諡され、子の馬承が爵位を継いだ。従弟の馬岱も平北将軍にまで昇り、陳倉侯に封じられ、馬超の娘は劉備の子である安平王・劉理の妻となった。
一方、馬超が張魯のもとを離れて蜀へ向かった際、側室の董氏とその子の馬秋は漢中に残されていた。
建安二十年(215年)、曹操が漢中へ進軍して張魯を降伏させると、二人は曹操の手に渡った。曹操は董氏を閻圃に与え、馬秋については張魯へ引き渡した。
張魯は引き渡された馬秋を自ら殺害している。
馬超の血統は子の馬承や娘へ続き、従弟の馬岱も蜀に仕えた一方、漢中に残された董氏と馬秋はこのような結末を迎えた。
陳寿や楊戯らが残した馬超への評価
『三國志』の陳寿は、「戎を頼みとして武勇を恃んだため、一族を滅ぼすことになった。惜しいことである。しかし窮地に陥りながら安泰へ至ることができたのは、まだましではなかったか」と評している。
曹操に仕えた荀彧は、関中には十数人の将帥がおり、互いに統一することができない中で、「ただ韓遂と馬超が最も強い」と評した。
周瑜も北方がまだ安定していない理由として、馬超と韓遂が関西に存在していることを挙げ、曹操にとって後患になると見ていた。曹操と戦う前から、馬超は韓遂と並んで放っておくには面倒な勢力だった。
蜀郡太守の王商は「勇敢ではあるが仁がなく、利益を見れば義を考えない」と評し、頼るべき相手にはできないと述べた。
楊阜も「馬超は強いが義がない」と評し、父に背き、君主に反逆し、州の長官を殺害したとして厳しく非難している。
蜀の楊戯も『季漢輔臣賛』で、馬超が三秦で兵を挙げ、河水や潼関を押さえ、連衡や合従によって勢力を築いたことを記している。
その一方で、敵に隙を突かれて家族を失い、軍も滅び、道に背いて徳に反した末に劉備を頼ったと評した。最終的に仕えた蜀でも、昔の失敗まできっちり書き残されている。
孫盛も馬超が父を見捨てたことを取り上げ、その行為を酷薄で残忍なものとして批判した。
馬超の強さを疑う者は少なかった。遠く離れた周瑜もその存在を警戒し、曹操をあと一歩まで追い詰め、それでも最後まで付きまとったのは、父と一族を犠牲にしたという評価だった。
乱世を生き残るだけなら、馬超は成功したのかもしれない。
それでも陳寿が述べたように、その生涯を振り返った末に残ったのは、「惜しい」という言葉だった。
参考文献
- 三國志 : 蜀書六 : 馬超傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書二 : 先主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十 : 彭羕傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十五 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書一 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書八二 : 張魯傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十 : 荀彧傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十 : 賈詡傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十三 : 王朗傳子名肅 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十三 : 鍾繇傳子名毓 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十五 : 張旣傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十八二 : 許褚傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十四 : 高柔傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書九 : 周瑜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書 : 紀 : 孝獻帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷065 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷066 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷067 – 维基文库,自由的图书馆
- 馬超 – 维基百科,自由的百科全书
馬超のFAQ
馬超の字(あざな)は?
馬超の字は孟起(もうき)です。
右扶風茂陵を本貫とし、後漢の名将・馬援の後裔にあたります。
馬超はどんな人物?
馬超は武勇に優れ、羌や胡からも支持を得た武将です。
一方で、父が曹操のもとにいる中で挙兵するなど、その行動には厳しい批判も残されています。
馬超の最後はどうなった?
章武元年(221年)、馬超は驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼任して斄郷侯に封じられました。
翌年の章武二年(222年)に四十七歳で死去し、死後は威侯と諡されています。
馬超は誰に仕えた?
馬超は父・馬騰の軍勢を継承し、韓遂ら関中の諸将とともに曹操へ反旗を翻しました。
その後は漢中の張魯を頼り、建安十九年(214年)に張魯のもとを離れて劉備へ帰順しています。
以後は劉備に仕え、蜀の武将として生涯を終えました。
馬超にまつわるエピソードは?
若い頃の馬超は、韓遂配下の閻行との戦いで危うく命を落としかけました。
閻行が馬超を矛で突いたところ矛が折れたため、その折れた矛を使って馬超の首を攻撃し、危うく殺すところまで追い詰めています。
後に武勇で名を知られる馬超にも、若い頃には閻行に殺されかけた記録が残されています。
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