張純:烏桓を率いて幽州で反乱し、北方を荒らした安定王【すぐわかる要約付き】

一般武官

1分でわかる忙しい人のための張純の紹介

張純(ちょうじゅん)、字は不明、出身は漁陽郡、生没年(?~189年)

張純は後漢末に張挙や烏桓の丘力居らと結んで反乱を起こした人物である。
漁陽の有力な張氏の一族に生まれ、かつて中山相を務めていた。

中平四年(187年)、涼州の反乱を討伐するために徴発された烏桓騎兵の指揮を希望したが、張温に認められず、公孫瓚が選ばれた。
これに不満を抱いた張純は、軍糧不足などで烏桓騎兵が離反したことを機に、張挙を誘って挙兵した。

反乱軍は十万余に膨れ上がり、張挙が天子を称する一方、張純は「弥天将軍・安定王」を自称した。
幽州・冀州などを荒らしたが、中平五年(188年)には公孫瓚に石門で敗北した。

その後、幽州牧の劉虞が異民族への懐柔策を進めると、反乱軍は次第に崩壊した。
中平六年(189年)、張純は食客の王政に殺害され、その首は劉虞のもとへ届けられた。

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張純の生涯を徹底解説!張温への不満から張挙・丘力居と挙兵、劉虞の懐柔策で勢力を失った最期

張純の出自と反乱のきっかけ

張純は漁陽郡の出身で、地元の有力な張氏の一族だった。
かつて中山太守を務めており、『後漢紀』では中山相とも記されている。

中平四年(187年)、車騎将軍の張温が涼州の反乱軍を討伐することになると、朝廷は幽州から烏桓突騎三千人を徴発した。
張純は自分にその指揮を任せてほしいと申し出たが、張温は認めず、涿令の公孫瓚に指揮を任せた。
これが張純には相当気に入らなかった。

そのころ、徴発された烏桓騎兵たちは、給料や現物支給の食料すら満足に貰えず、さっさと本拠地へ帰ってしまった。
そこで張純は、この状況を利用して反乱を起こそうと考え、同じ漁陽郡出身の前泰山太守・張挙を誘った。

張純は「今、烏桓はすでに朝廷に背き、反乱を望んでいる。涼州でも反乱が起きているが、朝廷は鎮圧できていない。さらに洛陽では、一人の女性が頭を二つ持つ子を産んだ。これは漢の命運が尽き、天下に二人の君主が現れる兆しである。あなたが私とともに烏桓の兵を率いて挙兵すれば、大業を成し遂げられるだろう」と説いた。

『後漢紀』では、張純が張挙を説得した際の様子がさらに詳しく記されている。
張純は「烏桓は何度も徴発されて死者を出し、もはや朝廷の命令には耐えられず、みな反乱を望んでいる。国家のやることがこの有様なのは、漢の命運が衰えている証拠だ。今、天下で反乱を起こしている連中は小僧ばかりなのだから、英雄が立ち上がれば誰にも止められない。私が烏桓を率い、あなたを君主として奉じようと思うが、どうだろうか」と持ちかけた。

張挙は「漢の命運が尽きるとしても、その後を継ぐべき人物がいるだろう。私などが君主になってよいのだろうか」とためらった。
すると張純は「天下という獲物が逃げ出せば、知恵のある者が捕まえるものだ。心配することはない」と説得した。

こうして張挙もその気になり、二人は烏桓を率いて反乱を起こした。
すると張純の旧知の人々も喜んで彼のもとへ集まり、その勢力は十万余にまで膨れ上がったという。

張挙・丘力居と反乱、弥天将軍・安定王を自称する

中平四年(187年)、張純は張挙や烏桓の有力者である丘力居らと手を組み、ついに反乱を起こした。
反乱軍は薊を襲撃して城郭を焼き払い、住民を捕らえて略奪を行った。

さらに右北平太守の劉政や、護烏桓校尉、遼東太守らを殺害した。
『後漢書』霊帝紀では、護烏桓校尉を公綦稠、遼東太守を楊終と記している。
『後漢書』劉虞伝では、護烏桓校尉を箕稠、遼東太守を陽終と記している。

こうして張純らの反乱軍は、遼西郡の肥如に駐屯し、張挙は自ら天子を称し、張純も「弥天将軍・安定王」を名乗った。
弥天とは天を覆うほどという意味で、反乱を起こしている真っ最中なのに、もう一つの肩書は安定王である。

二人は各州郡へ文書を送り、張挙が後漢に代わって皇帝になると宣言する。
それだけではなく、霊帝には皇帝の位を譲るよう要求し、朝廷の公卿たちにも張挙を新たな皇帝として迎えるよう命じた。

張純は烏桓の峭王らに歩兵と騎兵五万を率いさせ、青州・冀州へ侵攻させた。
反乱軍は清河・平原を攻め破り、役人や住民を殺害するなど、各地へ被害を広げていった。

公孫瓚に敗北と丘力居の反撃

中平五年(188年)九月、朝廷は中郎将の孟益に騎都尉の公孫瓚を率いさせ、張純らの討伐に向かわせた。

公孫瓚は張純らと石門で激突し、反乱軍を大破した。
敗れた張純らは妻子まで捨てて塞外へ逃走し、公孫瓚は反乱軍に捕らえられていた人々を奪還すると、そのまま追撃を続けた。

ところが公孫瓚は勢いに乗って敵地へ深く入りすぎ、後方からの支援を受けられなくなってしまう。
そこを丘力居らに反撃され、今度は公孫瓚のほうが遼西の管子城で包囲された。

しかも、この包囲は二百余日も続いた。
公孫瓚軍は食糧が尽きると馬を食べ、馬まで食べ尽くすと、とうとう弩や盾を煮て飢えをしのぐほど追い詰められた。
さすがに弩や盾を煮ても腹の足しにはならず、公孫瓚は兵士たちと別れ、それぞれ分散して脱出することになった。

さらに雨や雪にも苦しめられ、谷や穴に落ちる者まで続出し、兵士の十人に五、六人が死亡したという。
ただし丘力居らにも公孫瓚を追撃する余裕はなく、こちらも食糧不足に苦しみ、遠く柳城まで退いた。

劉虞の懐柔策と張純の最期

中平五年(188年)、朝廷は北方の異民族から厚い信頼を集めていた劉虞を幽州牧に任命し、張純らの反乱を収束させることにした。

薊へ赴任した劉虞は、まず駐屯軍を整理・縮小し、大軍を動かして討伐するのではなく、恩徳と信義によって反乱軍を帰順させようとした。
烏桓の峭王らにも使者を送り、降伏すれば寛大に受け入れると伝えた。

その一方で、張純と張挙の首には懸賞金をかけた。
すると丘力居らは劉虞の威信を慕って帰順し、後ろ盾を失った張純と張挙はさらに逃亡を続けた。
残された反乱軍も次々と降伏するか解散し、反乱は急速に勢いを失っていった。

そして中平六年(189年)三月、逃亡を続けていた張純は食客の王政に殺害され、その首を劉虞のもとへ届けられた。
張温に指揮官として選ばれなかったことに不満を抱き、十万余の反乱軍を率いるまでになった張純だったが、最後は自分の食客に首を取られて反乱を終えることになった。
一方、張挙がその後どうなったのかは記録に残っていない。

黄巾の乱がようやく収まりかけたと思ったら、今度は涼州で反乱が起こり、それを鎮圧するために幽州から烏桓の兵を集めたところ、給料未払いとイラついた張純のせいで新たな反乱が起こり、幽州から青州・冀州まで被害が広がってしまった。
山火事の延焼を防ぐために周辺を先に焼いたら、その火まで燃え広がって周りが全部焼けたような話で、当時の後漢がどれほど大変だったのかよくわかる。

参考文献

張純のFAQ

張純の字(あざな)は?

字は不明です。

張純はどんな人物?

後漢末に漁陽郡で反乱を起こした人物です。

張純の最後はどうなった?

中平六年(189年)三月、食客の王政に殺害されました。
王政は張純の首を幽州牧の劉虞へ届けています。

張純は誰に仕えた?

反乱を起こす以前は後漢の官僚で、中山相を務めていました。
その後は張挙を天子に擁立し、自ら弥天将軍・安定王を称しました。

張純にまつわるエピソードは?

張純は張挙に反乱を持ちかけた際、洛陽で頭を二つ持つ子が生まれたことを、後漢の命運が尽き、天下に二人の君主が現れる兆しだと主張しました。
そして張挙を説得し、ともに反乱を起こしました。

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