温恢:曹操が重用した魏の名臣、軍事にも精通した揚州刺史の生涯【すぐわかる要約付き】

温恢
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1分でわかる忙しい人のための温恢の紹介

温恢(おんかい)、字は曼基(まんき)、出身は太原郡祁県、生没年(178年~223年)

後漢末から魏にかけて曹操と曹丕に仕えた官僚である。
15歳で父を亡くすと、残された家財をすべて宗族に分け与え、郷里で高く評価された。
その後、各地の地方官を歴任し、曹操の丞相主簿となった。

軍事に精通していたことから揚州刺史に任命され、曹操は張遼や楽進らにも温恢と相談するよう命じた。
建安二十四年(219年)には関羽による樊城攻撃を予測し、襄陽救援のための軍の召集も見抜いた。
曹丕の即位後は侍中や魏郡太守を務め、黄初四年(223年)に涼州刺史へ任命されたが、赴任途中に病死した。
曹丕はその死を悼み、国家を支える柱石の資質を持つ人物だったと称えた。

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温恢(おんかい)の生涯を徹底解説!曹操に重用された揚州刺史の功績と樊城の戦いを見抜いた先見性と最期

15歳で父を失った温恢、家財を一日で分け与える

温恢は太原郡祁県の出身で、父の温恕は後漢の涿郡太守を務めていたが、温恢が15歳のときに亡くなった。
温恢は父の遺体を故郷へ送り届け、葬儀を済ませた。

父が残した財産はかなりのもので、温恢は「こんな乱世に、財産を貯め込んでどうするんだ」と言い出した。そして一日ですべての財産を親族に分け与え、生活に困っている者たちを救った。

この行動は郷里で評判となり、人々は温恢を前漢の郇越になぞらえた。
郇越も同じ太原の出身で、字を臣仲といい、相続した財産を親族に分け与えた人物だった。
温恢は財産をなくして名声を手に入れたのだとしたら、なかなか計算が高い人物であった。

各地の地方官を歴任し、曹操の配下で揚州刺史に就任

温恢は孝廉に推挙され、廩丘長に任命された。
その後は鄢陵県令、広川県令、彭城相、魯国相と、次から次へと地方官を歴任した。
どこへ行っても仕事ぶりは評判がよく、赴任先が変わるたびに評価を積み重ねていった。なかなか出世の止まらない男である。

やがて曹操のもとで丞相主簿となり、その有能さを買われて側近として重用された。
曹操としては手元に置いておきたい人材だったが、温恢は軍事にも詳しい。そこで重要拠点である揚州の刺史に任命することにした。

曹操は温恢に「本当は君をそばに置いておきたい。しかし、揚州の仕事の方が重要だ。『尚書』にも優れた臣下がいれば政務はうまくいくとあるし、蔣済を君の治中にしてはどうだろうか」と語った。

こうして丹楊太守だった蔣済は揚州へ戻され、温恢を補佐する治中となった。
さらに曹操は、揚州方面に駐屯していた張遼や楽進らに対し、「温恢は軍事に精通している。軍を動かすときも、動かさないときも、必ず彼と相談しろ」と命じた。

後に名将と呼ばれる張遼や楽進でさえ、温恢に話を通さなければならない。
曹操は揚州の軍事すべてを彼に任せるほど信頼していた。

孫礼の死罪を免れさせる

温恢が丞相主簿を務めていたころ、孫礼(孫禮)という人物がいた。
孫礼は仕官する前、地方の動乱によって母親と離れ離れになっていたが、同郡の馬台という男が母親を救い出し、親子を再会させてくれた。
孫礼は感激のあまり、自分の財産をすべて馬台に贈っている。

ところが、その恩人の馬台が事件に巻き込まれ、死刑になることが決まった。
このとき孫礼は司空軍謀掾という役職に就いていたが、恩人を見殺しにはできず、職権を利用して馬台をこっそり脱獄させた。

恩人を助けたが、脱獄を手助けしたことで孫礼自身が犯罪者にジョブチェンジした。
犯罪者となった孫礼は逃亡せずに、温恢のもとへ出頭し、自分が馬台を逃がしたと正直に白状した。

温恢は事情を聞くと、孫礼の行動を恩義に報いるものとして高く評価し、一連の出来事を曹操に報告した。
その結果、孫礼だけでなく、脱獄させた馬台まで死罪を免れることになった。

ちなみに、馬台が死刑になるほどの事件とは何だったのか、詳しいことはわかっていない。

孫権の合肥攻撃よりも関羽の動きを警戒

建安二十四年(219年)、孫権が兵を率いて合肥を攻撃した。
魏の各州は軍を駐屯させて警戒態勢に入ったが、揚州刺史の温恢は、目の前の孫権よりも遠くにいる関羽の方を気にしていた。

温恢は兗州刺史の裴潜に「こっちにも敵はいるが、それほど心配する必要はない。問題は曹仁の方だ。
今は川が増水しているうえ、曹仁の軍勢は孤立していて、遠方からの攻撃にも十分な備えがない。そこへ勇猛な関羽が精鋭を率いて攻めてきたら、とんでもないことになるぞ」と語った。

孫権が攻めてきているのに、温恢の頭の中では関羽が大暴れしていたのである。

そして実際に、関羽は増水した川の水勢を利用して樊城を攻撃し、曹仁の軍勢を窮地に追い込んだ。

襄陽の危機を察知し、裴潜に出陣を急がせる

関羽が樊城を攻撃すると、曹操は兗州刺史の裴潜や豫州刺史の呂貢らに出陣を命じた。
しかし、緊急召集ではなかったため、裴潜らは特に急ぐこともなく、のんびり出発の準備を進めていた。

その様子を見た温恢は、裴潜にこっそり耳打ちした。
「これは襄陽方面が相当まずいことになっているぞ。曹操様が緊急召集にしなかったのは、遠方の軍勢を驚かせないためだろう。
一両日中には必ず秘密の命令が届いて、もっと急げと催促されるはずだ。張遼たちにも召集がかかるだろうな」と説明した。

さらに温恢は「張遼たちは曹操様との付き合いが長いから、命令の裏にある意図までわかっている。
後から呼ばれた連中が君より先に到着したら、先に命令を受けた君は何をしていたんだという話になるぞ」と警告した。

裴潜はここで「やべぇ」と気づき、輜重を置いて軍を軽装に改め、大急ぎで出発した。
すると間もなく、温恢の予言どおり進軍を急がせる秘密の命令が届き、張遼らにも相次いで召集がかかった。

裴潜は温恢のおかげで、戦場に着く前から叱られるという情けない事態を回避できたのである。

涼州刺史の赴任途中に病死

曹丕が皇帝に即位すると、温恢は侍中に任命され、その後は魏郡太守となった。
曹操の時代から地方官を渡り歩いてきた温恢だが、皇帝が代わっても転勤生活は終わらなかった。

黄初四年(223年)、涼州刺史の張既が亡くなると、今度は温恢に白羽の矢が立った。
節を授けられ、涼州刺史と護羌校尉を兼任することになったのである。

ところが温恢は、新たな任地へ向かう途中で病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。享年45歳。

温恢の訃報を受けた曹丕は、詔書を出してその死を悼んだ。
「温恢は国家を支える柱石となる資質を持ち、先帝に仕えて功績を挙げ、私にも忠誠を尽くしてくれた。だからこそ遠方の統治を任せたのに、赴任を果たせず亡くなってしまった。実に悲しいことだ」と述べた。

曹丕は温恢の功績に報いるため、息子の温生に関内侯の爵位を与えた。
しかし、その温生まで若くして亡くなり、爵位は途絶えてしまった。

なお、温恢には温恭という息子もおり、こちらは済南太守まで昇進している。

陳寿による温恢の評価

『三国志』の陳寿は、劉馥、司馬朗、梁習、張既、温恢、賈逵の6人をまとめて高く評価している。
後漢末になると、刺史は地方の監察だけでなく、諸郡をまとめて行政まで担当するようになった。
彼らは混乱する情勢を的確に判断し、威厳と恩恵を兼ね備えながら広大な地域を治め、後世に残る功績を挙げたという。

温恢は表面に見えていることより、その裏に何があるのかを考える。
こういう人物は、何も起きていないときには凄さがわかりにくい。
曹操が温恢を重用したのは、そうした目立たない仕事の価値を理解していたからなのだろう。
温恢は自分が英雄になるよりも、英雄たちが余計な失敗をしないようにする方が得意だった。

参考文献

温恢のFAQ

温恢の字(あざな)は?

温恢の字は曼基(まんき)です。

温恢はどんな人物?

揚州刺史を務めた際には、曹操から張遼や楽進らに対して温恢と軍事行動を相談するよう命じられるほど信頼されていました。

温恢の最後はどうなった?

黄初四年(223年)、涼州刺史と護羌校尉に任命されましたが、赴任途中に病死しました。

温恢は誰に仕えた?

曹操と曹丕に仕えました。

温恢にまつわるエピソードは?

15歳で父を亡くした際、家に残された財産を一日ですべて宗族に分け与えた逸話があります。

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