楊昂の生涯:馬超を援助して韋康を殺し、張衛と陽平関で曹操に抵抗する
張魯配下の武将・楊昂と馬超への援軍
楊昂(ようこう)は後漢末の武将で、漢中を支配した張魯の配下である。
生没年も出身地も字も分からず、詳しい経歴はほとんど残っていない。
建安十八年(213年)、急に張魯の大将として馬超への援軍で登場する。
この頃、偏将軍の馬超は諸戎の首領たちを率いて隴上へ進出し、隴右の勢力を次々と取り込んでいた。
張魯もこの馬超を支援することにして、楊昂を援軍として派遣する。 馬超と楊昂らの軍勢は一万余に達し、周辺が次々と馬超へなびく中、抵抗を続ける冀城へ押し寄せた。
冀城を守っていた涼州刺史の韋康も、ついに耐え切れなくなって馬超へ降伏した。
これで一件落着とはならない。馬超は入城すると楊昂に命じ、降伏したばかりの韋康と冀城の太守を殺害させた。
こうして冀城まで手に入れた馬超だったが、その勢力は長続きしなかった。
涼州別駕の楊阜らが兵を挙げて反撃すると、馬超は涼州から追い出され、最後は漢中へ逃れて張魯を頼ることになった。
楊昂・楊帛・楊白は同一人物なのか
劉備が葭萌関から引き返して益州牧の劉璋を攻めると、中郎将の霍峻が城の守備を任された。
すると張魯は部将の楊帛を送り、霍峻をこちらへ引き込もうと降伏を勧めたが、あっさり拒否されている。
一方、張魯のもとへ逃れてきた馬超は、再び涼州を取り戻そうと何度も兵を求めたが、こちらもうまくいかなかった。
それどころか今度は張魯配下の楊白らから命まで狙われ、建安十九年(214年)、武都から氐族の地へ逃走。そのまま蜀へ向かい、劉備を頼ることになった。
ここまでなら楊帛と楊白という別々の話を紹介しているように見えるが、『資治通鑑』巻六十七では話が変わる。
楊帛や楊白に当たる人物まで、すべて楊昂の名前で記されているのである。
この記述に従えば、冀城では馬超の援軍として戦った楊昂が、今度は霍峻へ降伏を勧め、最後には馬超本人を害そうとしたことになる。
助けに来たと思えば、最後は命を狙う側へ回ったことになる。
陽平関で張衛とともに曹操軍へ抵抗
建安二十年(215年)秋七月、曹操が張魯を討つため漢中に進軍して来る。
張魯の弟の張衛と楊昂、楊任は陽平関に籠り、二人は山を横切るように十余里にわたって城を築いた。
曹操は陽平関を攻めたものの攻略できず、いったん軍を退いた。
これを見た張魯軍も警戒を緩める。ところがその夜、曹操軍の前軍が道に迷い、よりによって張衛の陣営へ入り込んでしまった。
攻めても落ちなかった陽平関が、道に迷った曹操軍の侵入をきっかけに崩れ、張衛らは敗退した。
曹操もこの知らせを受けると、高祚らを送り返して攻撃させ、そのまま陽平関を攻略した。
そして楊昂については、この陽平関の戦いを最後に史書から記録が途絶える。
参考文献
- 三國志 : 魏書八二 : 張魯傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書一 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書六 : 馬超傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十五 : 楊阜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十一 : 霍峻傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷067 – 维基文库,自由的图书馆
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