1分でわかる忙しい人のための賈詡の紹介
賈詡(かく)、字は文和(ぶんわ)、出身は武威郡姑臧県、生没年(147年~223年)
後漢末から魏にかけて活動した参謀で、董卓配下の牛輔、李傕、段煨、張繡のもとを経て曹操に仕え、曹丕の時代には太尉に至る。
董卓と牛輔の死後、軍を解散して逃げようとする李傕らに長安攻略を勧める。
その後は朝廷で人事を担い、李傕と郭汜の内紛では献帝の脱出や大臣の保護に力を尽くす。
張繡の参謀となってからは、曹操軍への追撃の勝敗を予測し、袁紹からの誘いを退けて曹操への帰順を実現させた。
曹操のもとでは官渡で決断を促し、韓遂・馬超との戦いでは離間策を進言している。
曹丕の後継者争いでも助言する一方、自分が疑われることを避けるため、私的な交際や名門との婚姻を控えた。
曹丕の即位後も性急な征討を諫め、七十七歳で生涯を終える。
賈詡(かく)の生涯を徹底解説!董卓配下から張繡・曹操の軍師へ、離間の計で活躍し曹丕の太尉として迎えた最期まで
賈詡の出生と、その才を見抜いた閻忠
賈詡は147年、武威郡姑臧県、現在の甘粛省武威市に生まれた。
字は文和で、父は軽騎将軍の賈龔。祖先には前漢の長沙王太傅・賈誼がおり、賈氏は代々武威に住む儒学の名門だった。
こう書くと、幼いころから周囲に期待され、将来を約束された人物のように見える。
ところが実際には、若いころの賈詡は世間にほとんど名を知られていなかった。家柄が立派でも、本人まで自動的に有名になるほど、世の中そこまで親切にはできていない。
そんな賈詡の才を見抜いたのが、漢陽の閻忠である。
閻忠だけは賈詡を並外れた人物と認め、「張良や陳平のような非凡な才がある」と評している。
まだ何者でもない若者を捕まえて、張良や陳平を持ち出すのだから、ずいぶん思い切った評価である。
後に賈詡が群雄の命運を左右する献策を次々と繰り出すことを考えれば、閻忠はかなり早い段階で当たりを引いていたことになる。
もっとも、この時点では賈詡本人すら、自分が後漢末の混乱にここまで深く関わるとは思っていなかっただろう。
段熲の外孫を名乗り、氐の反乱軍から生還
賈詡は孝廉に推挙されて郎となったものの、病気になったため官を辞し、故郷へ帰ることになった。
ところが西へ向かう途中、汧で氐の反乱軍に遭遇し、同行していた数十人とまとめて捕まってしまう。
官職を辞めて帰宅しているだけなのに、後漢末という時代は、退職して家に帰るだけでも難易度が高い。
そこで賈詡は突然、「私は段公の外孫だ。自分だけ別に扱ってくれれば、家の者が必ず高い身代金を払う」と言い出した。
段公とは当時の太尉・段熲である。長く辺境の将軍を務め、西方で威名をとどろかせていた人物である。
もちろん、賈詡は段熲の外孫ではない。完全に嘘である。
しかし、どうせ殺されるのであれば、先祖代々の系譜を大切にして死亡するか、知らない太尉を祖父にして生き残るか。
賈詡は迷わず後者を選んだ。
「殺すのは少し待った方がいい。この男、本当に段熲の親族だったら面倒なことになる」
氐の反乱軍が実際にこう相談したかは分からないが、とにかく賈詡の狙いは当たった。彼らはその言葉を信じ、賈詡には手を下さず、盟約まで結んで送り出したのである。
そして同行していた数十人は全員殺され、賈詡だけが生還した。
凄まじい話である。周囲が次々に殺されていく状況で、存在しない親戚を一人増やしただけで帰宅に成功している。
後に賈詡は、戦場でも政争でも、その場の状況を見て最も生き残れそうな道を選び続けることになる。
生きて帰れるかどうかである。
そして帰った。
董卓から李傕らの配下に
董卓が洛陽に入ると、賈詡は太尉掾から平津都尉となり、さらに討虜校尉へ昇進した。
所属していたのは、陝に駐屯する中郎将・牛輔の軍である。牛輔は董卓の娘婿で、賈詡も董卓側の一員として李傕・郭汜・張済らとともに、討伐に来た孫堅を破っている。
ところが、董卓が死に、その後を追うように牛輔まで死んだ。
会社でいえば社長と直属の上司が続けていなくなったようなものだが、こちらは再就職先を探せば済むという話ではない。敗残兵なのである。
しかも司徒の王允は董卓の残党の処分を進めていたため、李傕・郭汜・張済らは、自分たちもそのうち捕らえられるのではないかと恐れ始めた。
李傕・郭汜・張済らが、そこで考えたのが、軍を解散し、それぞれ人目を避けながら故郷へ逃げ帰るという方法だった。
しかし賈詡は、その普通の考え方を止めた。
兵を手放して逃げるほうが危険だというのである。
「長安では、涼州出身者を皆殺しにしようという話が出ていると聞く。兵を捨てて一人で逃げれば、亭長一人にさえ捕らえられてしまう」
逃げれば助かるどころか、逃げた瞬間に弱くなる。
ならばどうするのか。賈詡が出した答えは、軍を解散するのではなく、さらに兵を集めて長安へ攻め込むことだった。
「軍を率いて西へ進み、行く先々で兵を集め、董公の仇を討つために長安を攻めるべきだ。成功すれば、朝廷を奉じて天下を征討できる。失敗したとしても、逃げるのはそれからで遅くない」
逃げたいと言っている人間に対して、「その前に首都を攻めましょう」と言っている。
発想がだいぶおかしい。
しかも成功した場合の話が、単に助かるでは終わらない。朝廷を奉じて天下を征討するところまで一気に話が大きくなっている。逃亡計画だったはずなのに、数行後には天下の話をしている。
それでも李傕らは、この進言を受け入れた。
李傕・郭汜・樊稠・張済らは帰郷を取りやめ、兵を集めて長安へ攻め寄せる。そして守っていた王允を破って殺害し、ともに長安を守っていた呂布も関東へ逃亡した。
こっそり故郷へ帰ろうとしていたが、賈詡の一言で軍を集め、長安を攻め、王允を殺し、呂布を追い出すところまで話が進んだ。
尚書僕射を辞退し、朝廷の人事を担う
長安攻略後、賈詡は左馮翊に任じられた。
李傕らはさらに、長安攻めを勧めた功績に報いるため、賈詡を列侯に封じようとした。
ところが賈詡はこれを固く断った。
理由は、「命を助けるために考えた策にすぎない。功績と呼べるものではない」というものだった。
続いて尚書僕射への任命も持ち上がったが、これも賈詡は辞退した。
今度の理由は、その地位に必要な信望が自分にはないというものだった。
「尚書僕射は官人たちの上に立ち、天下から期待を寄せられる立場だ。私は以前から広く信望を集めてきたわけではなく、その地位に就いても人々は納得しない。
私自身は名誉や利益に目がくらんで引き受けられたとしても、それでは朝廷のためにならない」
長安攻撃を勧めるときには、逃げるくらいなら攻めればいいという大胆な話をしていた男が、自分の昇進になると急に社会的信用を気にし始める。
しかし、ここで言っていることは冷静で、賈詡は自分の評判まで含めて、自分を見ていた。
その後、賈詡は改めて尚書に任じられると、こちらは引き受け、人材の選抜を担当した。
『魏書』によれば、以前から名望のあった人物を多く選び、尚書令や尚書僕射に据えている。そして、この人選は世間からも評価された。
自分には信望が足りないと言って尚書僕射を断った男が、そのあと他人を尚書僕射に選んでいる。
自分が座るのは断るが、誰を座らせるかは自分が決める。なかなか妙な位置に収まったものだが、人選そのものは評価されたのだから、少なくとも見る目はあったことになる。
賈詡は人事だけでなく、朝廷の問題を正し、支えるためにも力を尽くした。
李傕らは賈詡を親しく頼りにする一方で、その言葉を聞くと気を引き締めてもいたという。
『献帝紀』によれば、李傕・郭汜・樊稠は互いに対立し、何度も争いを起こしかけた。
そのたびに賈詡が筋道を立てて非を指摘すると、彼らもその言葉にはある程度耳を傾けた。
長安を攻めるよう勧めたのも賈詡なら、その長安で李傕たちが暴れすぎないよう止めるのも賈詡である。
火をつける側と消す側を同じ人間がやっているようなものだった。
その後、賈詡は母が亡くなったため官を辞した。
のちに光禄大夫に任じられ、再び朝廷に仕えることになる。
李傕・郭汜の内紛と、献帝の保護
長安を占領した当初こそ協力していた李傕と郭汜だったが、その関係は長く続かなかった。
せっかく長安を手に入れたのに、やがて互いを疑うようになり、今度は仲間同士で戦い始めたのである。
当然ながら、そんな連中が長安周辺で戦えば、困るのはそこに住んでいる人々である。
関中は戦いで荒れ果て、賈詡も民衆を苦しめる二人を非難した。李傕と郭汜も表向きはその言葉に耳を傾けたものの、争いそのものは収まらなかった。
話を聞くことと、言うことを聞くことは別である。
『献帝紀』によれば、李傕らはさらに、献帝を自分たちの陣営へ移そうと考え、そのことを賈詡に相談した。
これに対して賈詡は、「それは天子を脅す行為だ。道義に反する」と止めている。
しかし李傕は聞かなかった。
それなら最初から相談しなくてもよさそうなものだが、相談とは賛成してもらいたい時に使う言葉である。
そんな状況を見ていた張繡は、賈詡に「こんな所には長くいられない。あなたはなぜ逃げないのか」と尋ねた。
ところが賈詡は、「私は国から恩を受けている。それに背いて去ることはできない。あなたは行けばよいが、私は残る」と答えた。
何が何でも逃げる男ではない。
逃げるべき時には逃げ、生き残るためなら嘘もつく。しかし残る理由があると思えば、逃げられる状況でも残る。そのあたりが、単なる保身だけでは賈詡を説明しきれないところである。
その後、李傕は賈詡を宣義将軍に任じるよう求めた。
一方で郭汜との戦いを有利にするため、羌・胡の兵数千人を呼び集め、皇帝が所有する絹織物まで与えている。
しかも、それだけでは足りなかった。
李傕は報酬として、宮中の女性たちまで与えると約束した。
『献帝紀』によれば、これを聞いた羌・胡の兵たちは何度も宮門をのぞき込み、「天子はこの中にいるのか。李将軍がくれると言った宮中の美女は、どこにいる」と口にしていたという。
さすがに献帝も不安になり、賈詡に対策を求めた。
そこで賈詡は羌・胡の首領たちをひそかに招き、酒食でもてなしたうえで、爵位と貴重な財宝を与えると約束する。
すると首領たちは、そろって兵を引き揚げ、これによって李傕は、その分だけ兵力を失った。
やがて李傕と郭汜が和解すると、献帝は洛陽へ向けて長安を出ることになった。
賈詡は献帝の脱出を助けるとともに、大臣たちを李傕の手から守っている。
しかし、長安を出ればそれですべて終わりというわけでもなかった。
『献帝紀』によれば、東へ向かう献帝を李傕が追撃し、献帝側の軍は敗れている。
このとき李傕は、以前から快く思っていなかった司徒の趙温、太常の王偉、衛尉の周忠、司隷の栄邵を殺そうとした。
混乱に乗じて、ついでに気に入らない大臣まで処分しようとしたわけである。
すると賈詡は、「この人々はみな天子に仕える大臣だ。それを殺してよいのか」と諫めた。
李傕はこの言葉を聞き、殺害を思いとどまっている。
長安攻撃を勧めて李傕たちを都へ呼び戻したのも賈詡なら、その李傕から皇帝や大臣を守っているのも賈詡である。
ここでも、自分で面倒な連中を長安へ連れてきておいて、その後は面倒を起こすたびに止めて回っている。
そして献帝が長安を脱出した後、賈詡は印綬を返上した。
段煨を頼るも、張繡の参謀となる
李傕のもとを離れ、賈詡が頼ったのは、華陰に駐屯する同郷の将軍・段煨だった。
『典略』によれば、段煨は現地で農業を振興し、略奪を行わず、献帝が東へ帰る際にも不足していた物資を届けている。
段煨は賈詡を手厚く迎えたが、内心では警戒していた。
すでに名声のあった賈詡は兵たちからも期待を寄せられており、自分の地位を奪われるのではないかと恐れたのである。
歓迎されているのに、歓迎している本人が一番困っていた。
賈詡もそれを感じ取り、南陽にいた張繡とひそかに連絡を取った。
張繡から迎えの使者が来ると、そのもとへ移ることを決める。
出発の際、ある人が「段煨はあれほど大切にしてくれているのに、なぜ去るのか」と尋ねた。
賈詡は、「段煨は疑い深く、私を警戒している。いくら手厚く扱われても安心はできず、長くいれば危害を加えられる」と答えた。
一方、妻子は段煨のもとに残した。
賈詡は、自分が去れば段煨は安心し、さらに自分を通じて張繡とのつながりも得られるため、かえって家族を大切にすると読んでいた。
実際に張繡のもとへ移ると、張繡は賈詡に対し、子や孫が父祖に接するように敬意を払った。
段煨も見込みどおり、残された家族を大切にした。
全部そのまま当たっていた。
張繡の参謀となった賈詡は、劉表と手を結ぶよう勧めている。
『傅子』によれば、賈詡自身も南へ赴いて劉表に会い、客人として迎えられた。
ただし、賈詡の劉表に対する評価は厳しかった。
「平和な世なら三公を務められる人物だが、情勢の変化を見抜けず、疑ってばかりで決断できない。大きなことは成し遂げられない」と評している。
張繡の曹操との戦いと、二度の追撃の勝敗を読む
張繡は一度曹操に降伏したが、曹操が張繡の叔母を自分のものとし、さらに張繡を殺そうとしたため、反旗を翻した。
この宛城での戦いで曹操は、配下の典韋、長男の曹昂、甥の曹安民を失っている。
降伏させたはずなのに、そこから一族と重臣を失う大惨事へ発展した。曹操もなかなか余計なことをしている。
その後も曹操は張繡への攻撃を繰り返したが、あるとき軍を引き揚げ始めた。
これを見た張繡は追撃しようとするが、賈詡は「追ってはいけない。追えば必ず負ける」と止めた。
しかし張繡は聞かなかった。
せっかく参謀が「必ず負ける」とまで言っているのに追いかけ、曹操軍に追いついて戦い、そのまま本当に大敗した。
敗れて戻ってきた張繡に対し、賈詡は今度はまったく逆のことを言い出した。
「急いでもう一度追いなさい。今度は必ず勝てる」
「え、さっき負けたんですけど」
張繡もさすがに混乱し、「あなたの言葉に従わず、こんな結果になってしまった。すでに負けた兵で、どうしてまた追えるのか」と謝りながら問い返した。
それでも賈詡は、「戦況が変わった。今すぐ行けば、こちらが有利になる」と答えた。
張繡は今度こそ言うことを聞き、散り散りになった兵を集めて再び追撃に出る。そして激しく戦った末、今度は賈詡の言葉どおり勝利して帰還した。
張繡は、なぜ二度とも勝敗を言い当てられたのかと尋ねた。
「精鋭を率いて退却する敵を追ったときには、必ず負けると言った。ところが、敗残兵で勝ったばかりの敵を攻めるときには、必ず勝てると言った。なぜ正反対の判断が両方とも当たったのか」
賈詡は「簡単なことだ」と答えた。
張繡からすれば簡単ではないから聞いているのだが、賈詡にとっては簡単だったらしい。
まず一度目の追撃について、賈詡は「将軍は戦上手だが、曹公には及ばない」と説明した。
曹操が退却を始めたばかりなら、自ら後方に残って追撃に備えるはずであり、こちらの兵が精鋭でも、指揮する将の力量で曹操には及ばない。さらに曹操軍もまだ十分に戦えるため、追えば必ず負けると読んだのである。
一方、二度目は事情が違った。
賈詡は、曹操が張繡との戦いで大きな失策もなく、まだ余力があるのに退却したことから、支配地で何かが起きたに違いないと考えた。
そして張繡を一度破れば、曹操自身は身軽な軍を率いて帰路を急ぎ、後方の守りを配下の将に任せるはずだと読んだ。
その将たちは勇敢ではあっても張繡には及ばない。だから今度は、こちらが敗残兵であっても勝てるというわけである。
張繡はこの説明を聞き、賈詡の判断に納得した。素直な男である。
袁紹の誘いを断り、曹操への帰順に導く
曹操と袁紹が官渡で対決する情勢になると、袁紹は張繡を味方に引き入れようと使者を送った。
賈詡にも書状を送り、協力を求めている。張繡はこの誘いに応じるつもりだった。
ところが賈詡は、張繡の目の前で使者に言い放った。
「袁紹に伝えてほしい。自分の兄弟とさえ折り合えないのに、天下の優れた人物を受け入れられるのか」
これから味方になるかもしれない相手の使者を前にして、その主君を真正面から批判している。張繡も「どうしてそこまで言うのか」と驚き、恐れた。
使者が帰った後、張繡はひそかに賈詡へ、「こうなった以上、どこに従えばよいのか」と尋ねた。
袁紹への道は、たった今、賈詡自身がかなり勢いよく閉じたばかりである。
そこで賈詡が勧めたのが、曹操だった。
張繡は当然、「袁紹は強く、曹操は弱い。しかも我々は曹操と敵対してきたのに、どうして従えるのか」と問い返した。
賈詡は、それこそ曹操に従うべき理由だと答えた。
まず、曹操は天子を奉じて天下に命令を出している。これが第一の理由である。
第二に、強大な袁紹のもとへ少数の兵を連れて加わっても、何万人も兵を抱えている袁紹からすれば、張繡の軍勢など誤差みたいなものである。
ところが兵力の少ない曹操なら大戦力になる。だったら、その他大勢として混ざるより、「来てくれて助かった」と言ってくれる方へ行った方がいいというのである。
そして三つ目が、張繡にとって一番気になる問題だった。
張繡は曹操に反旗を翻し、その戦いで曹操の長男・曹昂や典韋まで死なせている。普通なら、できれば二度と顔を合わせたくない相手である。
しかし賈詡は、「天下を治めようとする者なら、個人的な恨みを捨て、自分の徳を広く天下に示そうとする」と読んだ。
つまり、曹操は恨んでいるからこそ、逆に張繡を受け入れる可能性があるというのである。
強い袁紹ではなく弱い曹操。
しかも、以前に殺し合った相手で、普通なら避けそうな条件を、賈詡は全部ひっくり返して帰順する理由にした。
張繡はこの助言に従い、軍勢を率いて曹操に帰順した。
曹操にとっても、袁紹と張繡の両方を同時に敵へ回す事態を避けられたことになる。
曹操は賈詡を喜んで迎え、その手を取って「私が天下から信頼され、重んじられるようにしてくれたのは、あなたである」と述べた。
曹操は賈詡を執金吾に任じるよう上表し、都亭侯に封じ、さらに冀州牧へ進めた。
ただし、その冀州はまだ袁紹の支配下にある。
役職はもらった。土地は敵が持っている。
そのため賈詡は赴任せず、曹操のもとにとどまり、司空である曹操の軍事に参与することになった。
官渡の決断を促す
建安五年(200年)、曹操と袁紹は官渡で激突した。
ところが袁紹の大軍に包囲され、曹操軍は兵糧まで尽きかける。いくら曹操でも飯がなければ戦えないので、ここで賈詡に打開策を尋ねた。
すると賈詡は、曹操には袁紹を上回る強みが四つあると答えた。
「あなたは物事を見抜く力でも、勇気でも、人材の使い方でも、好機を捉えて決断する力でも袁紹に勝っている。
それなのに半年たっても決着しないのは、万全を求めすぎているからだ。機会を捉えて決断すれば、短期間で勝負を決められる」
曹操は「よい」と応じた。
その後、袁紹の謀臣だった許攸が曹操に降り、烏巣に置かれた兵糧を襲うよう勧めた。
突然敵陣からやって来た男の話だけに、曹操の側近たちは疑ったが、荀攸と賈詡はこの策を採るよう勧めている。
曹操は二人の進言に従い、自ら五千の兵を率いて烏巣を急襲した。
袁紹軍の兵糧を焼き払い、淳于瓊らを破ったことで戦況は大きく傾き、袁紹軍は大敗する。
やがて河北も平定され、曹操自身が冀州牧を兼ねることになる。
これに伴い、賈詡は太中大夫へ転任した。
赤壁前の進軍を諫める
建安十三年(208年)、曹操は荊州を破ると、その勢いのまま長江を下り、江東へ進もうとした。
官渡では「さっさと決断しろ」と言った賈詡だったが、今度は逆に「ちょっと待て」と進軍を止めている。
賈詡は、「以前は袁氏を破り、今また漢水以南を手に入れた。威名は遠くまで届き、軍勢も大きくなっている。
旧楚の豊かな土地を利用して官吏と兵士を養い、民が安心して暮らし、仕事に励めるようにすれば、軍を疲れさせなくても江東を従わせられる」と勧めた。
せっかく荊州という大きな土地を手に入れたのだから、いったん腰を据えて食わせるものを食わせ、働かせるものを働かせ、こちらの体力を増やせばいい。
わざわざ長江を越えて殴り込みに行かなくても、相手の方から苦しくなるという考えだった。
しかし曹操はこの進言を採用せず、そのまま東へ進軍した。
そして赤壁で敗れ、期待した成果を得ることはできなかった。
ここで「ほら見ろ、賈詡の言ったとおりではないか」で終わりそうな話なのだが、裴松之は終わらせない。
当時は韓遂・馬超らが関中でこちらの隙をうかがっており、しかも荊州には劉備と孫権までいる。
そんな状態で荊州に腰を据え、「威勢と恩徳を見せていれば、そのうち江東も従うだろう」と待っていても、孫権が感動して降伏してくるわけではない。
しかも、劉表が残した船も船乗りも使え、曹操にも勢いがあった。
相手がまだ混乱している荊州平定直後こそ、攻めるなら今だろうというのである。
では赤壁で実際に負けたのはどうするのか。
そこは、疫病で軍が弱ったうえに南風が火攻めを助けたのであって、進軍した判断そのものが間違っていたわけではないとする。
さらに赤壁の敗戦後、曹操が江陵の守りを任せた曹仁も、周瑜らの攻撃を受けて建安十四年(209年)には撤退している。
荊州に腰を据えて江東が従うのを待つどころか、待っている間にその荊州を削られている。
それでもまだ終わらない。今度は張魯を平定した後の蜀まで持ち出してくる。
当時の蜀は大きく動揺しており、劉曄は「今なら攻め取れる」と勧めたが、曹操は動かず、後になって機会を逃したことを悔やんだ。
要するに、相手が混乱し、こちらに勢いがあるなら、その時に攻めるべきだったという理屈である。
蜀では攻めなかったことを失敗とするのに、荊州では攻めるなと言った賈詡を正しいことにするのはおかしい。
ここまで来ると、賈詡の策を検討しているというより、何としてでも賈詡を正解にしたくない人の文章に見えてくる。
韓遂・馬超を分裂させる離間策
建安十六年(211年)、曹操は潼関で馬超・韓遂らと対峙した。
馬超らの軍勢は十万に及び、曹操が黄河を渡る際には、馬超が一万余の兵で曹操本人を追撃している。曹操は許褚に助けられ、さらに丁斐が牛馬を放った隙に、どうにか黄河を渡り切った。
曹操自身も後に「あの小賊にもう少しで困った目に遭わされるところだった」と、死にかけた話なのに負け惜しみのように笑っている。
その後、両軍は渭南で対峙したが、馬超らが何度「戦おうよ」と誘っても、曹操は「いやです」とばかりに誘いに乗らない。
やがて馬超らは、土地の割譲と子を人質に出すことを条件に和睦を申し入れる。
曹操が賈詡に相談すると、賈詡はまず、その要求を受け入れるふりをするよう勧めた。
さらに曹操が勝つための策を尋ねると、「彼らを仲たがいさせればよい」と答えた。
講和をめぐる会談では、曹操が韓遂と二人で馬に乗ったまま話をした。
韓遂の父と曹操は同じ年に孝廉へ推挙され、曹操と韓遂自身にも若いころから交流があったため、二人は戦争中なのに軍事の話をせず、都にいたころの昔話をして、手を打って笑い合った。
会談を終えた韓遂が戻ると、馬超らは「曹公は何を言ったのか」と尋ねた。
ところが韓遂の答えは「何もない」だった。普通に考えて敵の総大将と二人で笑って帰ってきて、何もないわけがない。
さらに追撃で、曹操から韓遂宛ての手紙まで届いた。
手紙には曹操がわざと改変した箇所があり、馬超らが見ると、まるで韓遂自身が都合の悪い部分を書き直したように見えた。
こうして馬超と韓遂らの間に亀裂が入ると、曹操はようやく決戦に出た。
まず軽装の兵を出して戦わせ、その後から精鋭の騎兵を投入して挟撃する。
馬超らは大敗し、成宜や李堪らが戦死した。
韓遂と馬超は涼州へ逃れ、楊秋は安定へ逃走。十万まで膨れ上がった反曹連合は、賈詡の離間策によって内部から崩れていった。
曹操の後継者争いに曹丕を推す
曹丕が五官将を務めていたころ、弟の臨菑侯・曹植も才能と名声を高めていた。
それぞれに支持者がつき、曹丕をどかして曹植を後継者にしようという話まで出ていた。
困った曹丕は使者を送り、自分の立場を守るにはどうすればよいかと賈詡に尋ねた。
すると賈詡は、「徳を高め、度量を広げ、質素な士人としてなすべきことを自ら実践し、朝から晩まで怠らず励み、子としての道に背かない。それだけでよい」と答えた。
派閥工作をしろでも、曹植の悪口を流せでもない。
ちゃんとしろ、という話である。曹丕はこの助言に従い、いっそう自分を厳しく律するようになった。
一方、曹操も後継者を誰にするか悩んでいた。
そこで人払いまでして、賈詡に意見を求めたのだが、賈詡は黙ったまま何も答えない。
曹操が「話しかけているのに、なぜ答えないのか」と尋ねると、賈詡は「ちょうど考えていることがあり、すぐに答えられませんでした」と返した。
では何を考えていたのかと聞かれ、「袁本初と劉景升の父子のことを考えていました」と答える。
袁紹と劉表は、ともに年長の子を退けて年少の子を立てようとし、死後に息子たちの対立を招いていた。
曹操はその意味を察して大笑いした。
建安二十二年(217年)、曹丕は正式に後継者へ立てられる。
賈詡は曹植を否定せず、曹丕を持ち上げることもなく、袁紹と劉表の名前だけで後継者争いの話を終わらせた。
そんな賈詡自身も、曹操のもとではかなり慎重に振る舞っていた。
自分は曹操の古参ではなく、それでいて妙に知恵が回る。主君から見れば便利ではあるが、あまり自由に動かれると少し怖い部類の人間である。
そのため賈詡は、公務を離れると家にこもり、私的な交際をほとんど持たなかった。
息子や娘の結婚でも名門との縁組を避け、余計な人脈まで作らないようにしている。
こうした振る舞いもあって、天下で知略を論じる人々は賈詡を高く評価した。
呉・蜀への征討を諫める
黄初元年(220年)、曹丕が即位すると、賈詡は太尉に任じられた。
爵位も魏寿郷侯へ進み、食邑は三百戸を加えられて合計八百戸となる。さらに、そのうち二百戸を分けて末子の賈訪が列侯に封じられ、長子の賈穆も駙馬都尉に任じられた。
『魏略』によれば、曹丕は、賈詡がかつて曹操に袁紹・劉表父子の例を出して後継者問題へ釘を刺したことを知っていた。
その時は名前を二つ出しただけだったが、曹丕にしてみれば自分を後継者へ押し上げた恩人みたいなもので、即位すると真っ先に高位へ引っ張り上げている。
皇帝になった曹丕は、さっそく天下統一を始めたくなった。
そこで賈詡に、「命令に従わない者を討って天下を統一したい。呉と蜀では、どちらを先に攻めるべきか」と尋ねる。
ところが賈詡の答えは、どちらでもなかった。
「敵を攻め取るには軍事上の判断が大切ですが、国の基礎を築くには、徳によって人々を導くことが大切です。
陛下は時運に応じて禅譲を受け、天下を治める立場となりました。徳をもって人々を安んじ、相手の情勢が変わるのを待てば、平定は難しくありません」
曹丕は「呉と蜀のどちらから殴るか」と聞いたのに、賈詡は「まず落ち着きましょう」と答えている。
さらに賈詡は、呉と蜀を簡単に料理できると思わない方がいいと説明した。
「呉と蜀は小国ですが、険しい山や川に守られています。
劉備には優れた才があり、諸葛亮は国を治めることに長け、孫権は実情と見せかけを見分け、陸遜は戦況を読むことができます。
彼らは険しい場所や重要な拠点を押さえ、川や湖では船を使って動けるので、どちらも短期間で攻略できる相手ではありません。
戦いでは、勝てる条件を整えてから兵を動かし、敵の力や将の能力を見極めます。そうするからこそ、計画に誤りがなくなるのです。
私が群臣の力量を考えるに、劉備や孫権に対抗できる者はいません。陛下の威勢をもって攻めても、確実に勝てる状況だとは思えません。」
皇帝になったばかりの曹丕に向かって、「小さく見えても劉備と諸葛亮、孫権と陸遜といった猛犬が四匹いるし、
こちらには劉備や孫権と張り合える奴がいません」と言っている。
賈詡は最後に、舜が盾と斧を手にして舞い、有苗を服従させたという故事まで持ち出した。
武力で攻める前に徳を示して相手を従わせた例であり、「今は徳による政治を先にし、軍事を後にすべきだと考えます」と結んでいる。
しかし、曹丕は聞かず江陵で戦いを起こした。
そして多くの兵士を失い、黄初四年(223年)三月、最初の呉への征討は失敗に終わった。
同じ黄初四年六月甲申日(223年8月11日)、賈詡は七十七歳で死去した。
粛侯と諡され、長子の賈穆が爵位を継いでいる。
賈穆は郡の太守を歴任し、その死後は子の賈模が爵位を継承した。
『世語』によれば、賈模は晋の恵帝の時代に散騎常侍・護軍将軍を務め、賈模の子の賈胤、その弟の賈龕、従弟の賈疋も高官となり、晋で名を知られている。
賈詡への評価と、裴松之の厳しい批判
賈詡の才を早くから見抜いた閻忠は、張良・陳平に匹敵する非凡な知恵があると評した。
曹操も張繡を帰順させた賈詡に感謝し、知略を論じる人々からも高く評価されている。
『三国志』の陳寿も、荀彧・荀攸・賈詡の三人をまとめて高く評価した。
とくに荀攸と賈詡については、計略にほとんど誤りがなく、情勢の変化にも対応できる人物として、張良・陳平に次ぐのではないかと称賛している。賈詡にとっては、かなり景気のいい評価である。
ところが、この評価と賈詡を荀彧・荀攸と同じ伝に入れたことに文句をつけたのが裴松之だった。
列伝とは似た性質の人物をまとめるものであり、張良と陳平は同類ではないものの、漢の謀臣といえば結局この二人なので、同じ伝に収めるのももっともだという。
しかし魏には、賈詡と同類の人物がほかにもいる。
それなのに程昱・郭嘉ではなく、荀彧・荀攸と並べたのはおかしいと批判した。
さらに荀攸と賈詡を「夜光の珠と灯芯」にたとえている。
どちらも周囲を照らす点では同じでも、その本質は違うだろというのである。
そして最も激しく責めたのが、李傕らに長安攻略を勧めた一件だった。
世の中を良くするのは難しいのに、乱のきっかけは簡単に生まれ、一度始まればその害が何世代にも及ぶことがあると論じている。
董卓がようやく討たれ、これで少しは世の中もマシになるかと思ったところへ、賈詡が李傕らに「長安へ攻め込みましょう」と言った。
その一言から再び大混乱が始まり、国家は疲弊し、民衆まで巻き添えになる。
せっかく消えかけた火に、賈詡がガソリンをぶちまけたようなものである。
そのため賈詡の罪はきわめて大きく、古来これほどひどい乱のきっかけを作った例はないとまで断じられた。
『荀勗別伝』によれば、晋で司徒の地位が空いた際、武帝・司馬炎が荀勗に適任者を尋ねた。
荀勗は「三公は人々が仰ぎ見る地位であり、ふさわしくない者を置いてはならない。かつて魏の文帝が賈詡を三公に任じた際には、孫権に笑われた」と答えている。
つまり孫権も、賈詡を三公に据えるほどの人物とは見ていなかったことになる。
賈詡の知略は、国を救うこともあれば、人を救うこともあり、逆に世の中をひどく壊すこともあった。
単純に名軍師とも悪人とも言い切れない。
彼の行いが正しかったかどうかはともかく、生き残るために出した答えだけは、何度も外さなかった。
参考文献
- 三國志 : 魏書十 : 賈詡傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書一 : 武帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢紀 : 後漢孝獻皇帝紀二卷第二十七 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書八二 : 張繡傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第九 王沈 荀顗 荀勗 馮紞 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:賈詡 – Wikipedia
賈詡のFAQ
賈詡の字(あざな)は?
字は文和(ぶんわ)です。
賈詡はどんな人物?
戦況や人間関係を見極め、状況に応じた策を立てた人物です。
自分が疑われることにも注意し、私的な交際や名門との婚姻を避けています。
賈詡の最後はどうなった?
曹丕の時代に太尉となり、黄初四年(223年)、七十七歳で亡くなりました。
粛侯と諡され、長子の賈穆が爵位を継ぎました。
賈詡は誰に仕えた?
董卓配下の牛輔の軍に属し、その後は李傕のもとで朝廷の官職を務めました。
段煨を頼った後、張繡の参謀となり、張繡とともに曹操へ帰順しました。
曹操の死後は曹丕に仕えています。
賈詡にまつわるエピソードは?
氐の反乱軍に捕らえられた際、実際には血縁のない段熲の外孫だと名乗り、その威名を利用して生還しました。
また、曹操から後継者について尋ねられたときには、袁紹・劉表父子のことを考えていたと答え、曹丕を後継者とする判断を後押ししました。
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