1分でわかる忙しい人のための臧覇の紹介
臧覇(ぞうは)、字は宣高(せんこう)、出身は兗州泰山郡華県(現在の山東省費県方城鎮)
生没年(164~231年)
後漢末から三国時代の初期にかけて活躍した武将であり、曹操に仕えたことで知られる。若くして父を救うために太守を殺害し、その剛胆さで名を馳せた。初めは陶謙や呂布に属し、のちに曹操に降るが、その後は青州を中心に軍政を担い、官渡の戦いでは曹操の背後を守る役割を果たした。
また、孫権との戦いでは逢龍や舒城で数々の戦功を挙げた。曹操・曹丕・曹叡の三代に仕え、最終的には行太尉として祠祭に参与するなど高官にまで昇った。死後は威侯と諡され、その功績は魏の安定に大きく寄与したとされている。
臧覇を徹底解説!後漢末の地方豪族から曹操配下の名将へ
18歳で太守を斬る:臧覇、暴政に抗して立つ
父・臧戒は法に忠実すぎて、太守の“気分ひとつ”で囚人にされる羽目になった。
十八歳の臧覇は「あの野郎、父は悪くないだろ」と十数人の食客を率い、百人超の役人を蹴散らし、太守本人を斬って父を奪還。
平時なら死刑まっしぐらだが、乱世ではこれが“孝行息子の満点回答”だった。
この日から臧覇は、村の噂話ではなく戦乱の舞台に立つ人間になったのである。
独立軍閥として台頭:開陽の割拠と呂布との接近
黄巾賊討伐のため、臧覇は陶謙の麾下で騎都尉に任じられた。
「募兵しろ」と言われれば、本当に兵を集めてしまうのがこの男。しかも集めた兵は手放さない。
やがて徐州兵を収編し、孫観・尹礼・呉敦・昌豨らと共に開陽へ駐屯、堂々たる独立勢力を築き上げた。
建安二年(197年)、琅邪国相・蕭建を破って莒城を奪取。
だが、蕭建と仲良くしたかった呂布にとっては面白くない話で、すぐに報復軍がやって来る。
臧覇は城に籠もり、矢と意地で耐え抜いた。呂布も「これは骨が折れる」と悟り、やがて和解。
奇妙なことに、両者はそのまま同盟関係になり、後の大きな転機へとつながっていく。
呂布敗死と曹操との出会い:絶体絶命からの逆転劇
建安三年(198年)、曹操が下邳城を包囲し、呂布を攻撃。臧覇は盟友として兵を率き、必死に救援に向かった。
しかし城門は開かず、やがて冬、下邳は陥落。呂布は捕らえられ、白門楼でその首がさらされる。
臧覇は兵を散らして逃げたが、結局は曹操軍に捕まり、形だけの“次はお前だ”コースへ並ばされた。
ところが曹操は、臧覇を見た瞬間に眉を上げ、「こんな東方の猛犬を、ここで埋めるのは惜しい」とでも言うように笑った。
処刑ではなく招降。しかも旧部隊の孫観・呉敦・尹礼・孫康まで呼び戻せと命じられ、全員で再編成。
そのまま琅邪国相に任じられ、青・徐二州の軍政を一手に握る。昨日まで首の皮一枚だった男が、一夜で東方の番犬に変わったのである。
義を貫くか、命令を守るか:劉備に語った「仁義の選択」
建安四年(199年)、兗州で徐翕と毛暉が叛乱を起こし、失敗して臧覇のもとへ逃げ込んだ。
曹操はすぐさま劉備を使者に立て、「二人の首を送れ」と臧覇に命じる。
普通なら命令一択だが、臧覇は顔色ひとつ変えず、こう切り出した。
「私が一方を保てたのは、人を義で遇したからだ。命を助けられた恩を受けておいて、今日裏切れば、それは仁義を捨てることになる。
主公(曹操)の恩を忘れるつもりはないが、仁義を無くして生き延びても、結局は使い捨てられるだけだ」
劉備はこの言葉をそのまま曹操に伝えた。すると曹操は小さくため息をつき、「これは古人の徳を今に行うものだ」と笑い、逆に徐翕・毛暉を郡守に任じた。
命令違反が昇進につながる——こんな逆転が許されるのも、戦乱の世と臧覇の顔の広さあってこそだった。
官渡の影の功労者:東方戦線を支えた男
建安五年(200年)、中原では曹操と袁紹が官渡でにらみ合い。
精兵を率いて袁紹の東方領地をかき回し、敵の腹に小石を詰めるような嫌がらせを続けた。
袁紹はたまらず長子・袁譚を青州へ送り込む。
しかし袁譚軍は、臧覇の兵のしつこさに足を取られ、前にも進めず後ろにも下がれず、東方で泥遊びをする羽目になる。
官渡の勝利は正面の槍と矢だけで決まったと思われがちだ。
だがその実、舞台裏で敵の靴紐を結び目だらけにしていたのは臧覇だった。
表に出ることなく戦局を傾ける、その陰湿さと執念こそ、乱世で生き残る才能の一つだった。
曹操の信任:子弟を都へ送れと願い出た理由
建安十年(205年)、南皮で袁譚を破った直後、臧覇ら東州諸将は「家族や子弟を鄴に送りたい」と曹操に願い出た。
理由は単純、忠誠の証として人質を差し出すという古来のやり方だ。
しかし曹操は首を横に振り、「昔、蕭何が子弟を差し出しても漢高祖は拒まなかった。耿純が家を焼いても光武帝はその気持ちだけ受け取った。
忠義を示すのに、人質や焼け跡は要らぬ」とさらりと言ってのけた。
武を競う場では容赦なく試す曹操も、心を試す場では意外に手放しだ。
臧覇にとって、この“差し出し不要”の一言こそ、何千の兵よりも重い信任状だった。
討伐の連続:昌豨・黄巾残党との戦い
建安十一年(206年)、臧覇は于禁と組み、昌豨の反乱を討つ。
昌豨はもともと黄巾の乱のときは、臧覇の部下だったが、臧覇は容赦なく刈り取った。
続いて夏侯淵と共に、黄巾残党・徐和らを討伐。
彼らは往年の大乱の残り火で、地方を荒らし続けていたが、臧覇の進軍は炎が広がる前に火元へ踏み込み、勢いを根こそぎ削ぎ落とすような速さだった。
功績により徐州刺史へ昇進。
戦場での嗅覚と対応の速さは、華やかな名将たちの陰で地味に積み重なっていく。
だがその地味さこそ、臧覇が生き残るための最高の武器でもあった。
武周事件:恩と法のはざまで揺れる人情
沛国の下邳令・武周は、臧覇にとって「礼を知る役人」の見本みたいな存在だった。
だからこそ、暇さえあればその家に顔を出していた。
ところがある日、武周の部下がやらかした。
役人の世界では、部下の不始末は上司の首を取る絶好のチャンス。案の定、武周は責任を問われて牢へ。
普通なら失脚した者に近づけば、自分の足元まで巻き込まれる可能性があるから、みな距離を取る。
だが臧覇は逆走した。「友が沈んだ船なら、なおさら漕ぎ寄せて引き上げるべきだろう?」とでも言うように、以前よりも頻繁に牢を訪れたのだ。
乱世で義理を貫くなんて、無防備に戦場を突っ切るようなもの。だが臧覇にとっては、それが本当の武勇だった。
孫権との攻防:逢龍・夾石での連戦連勝
建安十四年(209年)、臧覇は曹操軍に加わって孫権討伐へ。
まずは先陣として居巢を攻略し、巢湖まで進軍する。だが張遼が陳蘭討伐に向かうと、臧覇は皖へ転進、呉の韓当を迎え撃つ役を任された。
韓当は逢龍で臧覇を止めようと兵をぶつけるが、あっさり撃退される。
ならばと夾石に回り込み進路を塞ぐも、これも突破される。二度も門前払いを食らった韓当は、増援どころではなくなった。
その頃、孫権は数万の兵を率いて舒口に上陸し、堂々と船を並べて見せつける。
しかし偵察から「臧覇が舒城にいる」と聞いた瞬間、潮が引くように撤退を開始。
臧覇は夜の闇を縫って百余里を追撃し、夜明けには前後から挟み撃ちにする。
船に乗る暇もなく、水に飛び込む呉兵が相次ぎ、川面はうめき声と波紋で満ちた。
こうして孫権は陳蘭救援を断念、張遼は悠々と陳蘭を討ち果たした。
濡須口の豪雨:臧覇が張遼を説き伏せた夜
建安二十一年(216年)、臧覇は張遼とともに前鋒として濡須口へ進軍した。
しかし到着するや否や、空が裂けるような豪雨に見舞われ、江の水位はみるみる上がっていく。
川面には孫権軍の船がゆっくりと近づき、兵士たちの顔には「これ、もう無理では」という色が濃くなった。
張遼の口からも退却の二文字が出かかったその瞬間、臧覇が制した。
「曹公は人の過ちを責めて見捨てる人ではない。ここで退けば、我らが勝手に背を向けたことになる。」
雨の轟音の中でも、その声ははっきりと響いた。
翌朝、曹操から本隊撤収の命令が届く。
張遼は臧覇の言葉をそのまま伝え、曹操は「まさにその通り」と深く頷き、臧覇を揚威将軍に任じ、節を授けた。
やがて曹操は孫権を打ち破れず撤軍するが、後に孫権が降伏の意を示すと、臧覇は夏侯惇らと共に居巢の守りにつくことになる。
濡須口の大雨は、臧覇にとってただの天候ではなかった。
それは信義と臆病、その境界線を見極める試練の雨だったのである。
半独立勢力から曹丕の側近へ:洞浦の勝利と中央転任
黄初年間、曹丕が王位に就いたとき、臧覇はすでに青州で群雄の一角を占めていた。
地方豪族から出発し、鎮東将軍となり、武安郷侯の爵位を得て青州諸軍を指揮する。これは一地方の英雄が、魏の中枢に迫る階段を一段ずつ踏みしめた証だった。
やがて曹丕が帝位に昇ると開陽侯に封ぜられ、さらに良成侯へと転封される。名も地位も、ついに「一介の郷士」から「国家の柱石」へと変わった。
黄初3年(222年)から翌4年(223年)にかけて、臧覇は曹休とともに呉討伐に加わり、洞浦で呉の将・呂範を破る。
敵の船団が焼け落ちる様を見て、兵たちは口々に「やはり臧覇は戦場の獣だ」と囁いた。
この勝利で、青州の英雄は魏の全軍にその名を轟かせる。
だがその後、臧覇は曹仁の命を受け、快速船500艘と1万の兵を率いて徐陵の呉軍を急襲。
これを打ち破ったものの、全琮・徐盛の追撃を受け、先鋒の尹礼を失うという痛手を被った。
武勲が積み上がれば上がるほど、中央はその力を手元に置きたがる。
曹丕は臧覇を呼び寄せ、執金吾とし、特進の位を与えた。表向きは栄転だが、実質的には兵権を預けた半独立の立場に終止符を打つ人事だった。
それでも曹丕は軍事の大事があれば必ず臧覇を呼び、意見を求めた。
剣を置いた将軍は、今や宮廷の奥で戦略を練る参謀となったが、その眼光だけは、若き日の泰山の猛き姿を失っていなかった。
最晩年の栄光と死後の評価
魏明帝が即位し、太和年間に入ると、臧覇は再び都の中心に呼び戻された。
太和四年八月、行太尉として中岳を祭る大儀を任される。特牛を供え、壇上に立つその姿は、泰山の山中で父を救い太守を斬った十八歳の青年とは別人のようだった。
しかしその胸の奥では、戦場を駆けた日々の熱がまだ燻っていた。儀礼や政務の場にあっても、彼は最後まで魏のために働き、そして静かにその役目を終える。
死後、諡は威侯。その功績は子孫にも受け継がれ、三人の息子が列侯となり、一人は関内侯を賜る。長子・臧艾は青州刺史、少府に昇り恭侯と諡され、臧舜は晋朝で散騎常侍に任じられた。
戦乱に生まれ、剣を杖として世を渡り、最後は冠と印綬を手に天を仰いだ臧覇。その一生は、激動の時代を泳ぎ切った将の物語だった。
参考文献
- 参考URL:臧覇 – Wikipedia
- 《三國志·魏書18·臧覇伝》
- 《三國志·魏書7·呂布伝》
- 《後漢書·列傳65·呂布伝》
- 《三國志·魏明帝紀》
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