1分でわかる忙しい人のための鍾会の紹介
鍾会(しょうかい)、字は士季(しき)、出身は潁川郡長社県、生没年(225~264年)
魏の知将にして怪物。鍾会は、あらゆる意味で”例外”だった。
四書五経を子供のうちに暗記し、玄学にも通じ、軍事では蜀を滅ぼし、政治では司馬家の懐に入り込み、やがて牙を剥く。
見事なまでの戦略眼と行動力を持ちながら、その行き着いた先は反乱、そして謀反未遂による無惨な死。
讃えられ、恐れられ、嫌われ、そして利用された。その生涯は、魏という国家の縮図そのものだ。
鍾会を徹底解説!天才は魏に牙を剥き、蜀に沈む
幼少からの英才教育と異母兄との関係
鍾会が生まれた時、父・鍾繇はすでに七十代。その遅い子として、妾の張昌蒲に生まれた鍾会は、まるで後継者プログラムを叩き込まれるかのように、英才教育を受けた。
『孝経』『論語』は当たり前、『易経』『礼記』まで13歳で暗誦し尽くす少年。勉強のしすぎでハードディスクが飛びそうだ。
兄・鍾毓はすでに功を成していたが、弟・鍾会もまた異母という立場ながら頭角を現し、家内に複雑な緊張感を生んだ可能性もある。
母が妾だったこと、兄と父が正妻側という微妙な関係性も、鍾会の「負けるわけにはいかない」精神を煽った背景にあったのかもしれない。
その後の猜疑心、猜測、そして政治的野心に、この家庭環境が何らかの影を落としていたとしても不思議ではない。
知略と弁舌を武器に政界へ
「王弼と並ぶ若き才子」。この肩書きだけで、もう鍾会のスペックが非常識なのは明らかだ。
20歳前後で哲学オタクの最高峰・王弼と同格に見なされるなんて、現代でいえば東大主席がハーバードにも内定している感じ。しかも夜な夜な玄学と名理学を読みふける”寝ない才能”。
読書を”嗜み”ではなく”戦場”に変えた男、それが鍾会である。
鍾会は、いわゆる理詰めの議論が得意なだけではなく、「どんな話でも自分の土俵に持ち込む」話術に長けていた。
彼の論法は、敵を圧倒するというより、論理で相手の”逃げ道”を全て塞ぐような粘着質な知性。
まるでブラックホールのように、話のすべてを自分の重力に引き込んでいく。
司馬師や傅嘏など、当時の権力者たちに重用されていくのも当然の流れだった。
だがその一方で、彼の”有能すぎる若者”ぶりは、同僚たちにとって「付き合いにくい天才」でもあった。
いくら才気にあふれていても、「あいつ、頭はいいけど空気は読めないよね」と囁かれるのは、時代が変わっても不変の真理。
鍾会の台頭は、政界に新たな軋轢を生み出す予兆でもあった。
高平陵の変:政争の只中で出世を果たす
正始五年(244年)、鍾会は秘書郎として魏の官僚キャリアを踏み出す。
続く尚書郎、中書侍郎と、まるでエレベーターのようにスムーズな出世ルートを駆け上がった。
この時代、内閣の要職は政争の温床だったが、鍾会はむしろその混沌を燃料にしていた節がある。
嘉平元年(249年)、高平陵の変が勃発した際には、皇帝・曹芳のそばに侍りながら、権力の風向きを正確に読み、司馬師に付き従い軍略にも関与。
「政治の才」と「戦の勘」、その両方を兼ね備えた珍しい若手として、周囲からの評価は一段と高まる。
兄・鍾毓と異なる道を歩む弟
夏侯玄が失脚する255年、兄・鍾毓は廷尉として冷徹に法を執行する立場を担い、泣きながらも夏侯玄に死を宣告する。
一方、弟・鍾会はその裏で夏侯玄との接近を試みるも、夏侯玄からは一蹴される。この兄弟の対照は、鍾家の中でも義と利、情と策を体現するような構図を見せつけた。
この時期、鍾会は黄門侍郎として皇帝・曹髦に仕えていた。
司馬師が病死した後、傅嘏とともに司馬昭を推し上げ、大将軍への道を整えたのも鍾会の計略による。
「文は陳思王(曹植)の如く、武は太祖(曹操)に類す」と曹髦を評価し、その後も彼は曹髦の側近として宮廷の講宴に参加、王沈や裴秀らとともに”綽名組”を形成していた。
皇帝と知識人たちが夏朝の少康と漢の高祖について語り合う知的サロンに身を置きながら、鍾会は着々と宮廷内での存在感を高めていく。
法をもって職務を全うする兄に対し、弟は弁舌と人脈で政界の階段を駆け上がっていったのだった。
策謀家としての頭角
257年、諸葛誕が寿春で挙兵し、魏に対する大規模な反乱が起きる。
鍾会は司馬昭に従い、この反乱鎮圧戦に加わる。ここで彼は、一介の文官にとどまらない策謀家としての資質を見せつけた。
東呉から派遣された援軍の将・全懌に対し、鍾会は見事な離間策を展開。
その結果、全懌は投降し、諸葛誕の軍は内部分裂を起こし、魏軍は寿春を陥落させる。功績は明白だった。
勝利後、朝廷は鍾会を太僕に任命しようとするが、本人はこれを辞退。
かわりに大将軍府の中郎、さらに記室として機密文書を扱う立場に収まる。軍功を盾に政中枢への影響力をじわじわ拡大するこの動きは、彼の冷徹な計算の産物だった。
名士としての才能、弁舌、そして謀略。鍾会は、もはや”賢い若者”ではなく、魏の中枢を動かす一角となっていた。
策謀家としての頭角
257年、鍾会は喪服姿で政局を読む。生母・張昌蒲の死に際しては「妾」ではなく「命婦」として伝を残し、皇帝・曹髦の詔で盛大な弔いも執り行われた。
が、喪に服していても耳は政界にあり。諸葛誕が司空に任じられると聞くや「絶対に断る」と即断、司馬昭のもとに駆け込んだ。が、時すでに遅し。
予想通り諸葛誕は反旗を翻す。鍾会の予言、大当たり。
ここからは鍾会の見せ場。大将軍司馬昭に従い寿春に出陣すると、知略を駆使して東呉の将・全懌を離反させる。
「敵の中に敵を作れ」が彼の持論か。分裂した城内はもはや瓦解寸前、あっけなく寿春陥落。
朝廷は太僕に推挙するも、鍾会はきっぱり辞退。
代わりに中郎として大将軍府の記室を担うことに。軍事の書記官と聞くと地味だが、ここが彼の権力構築のスタートラインだった。
その功績により「陳侯」として封じられるも、こちらも辞退を繰り返す。
仕方なく曹髦が詔で「この人、謙虚すぎィ!」と褒めたたえる始末。
だが、それはあくまで「貰ってないフリ」を演じる技巧であり、舞台の袖では次の出番を虎視眈々と狙っていたのである。
権力の中枢へ、司隷校尉としての鍾会
景元元年(261年)末、鍾会は王祥の後任として司隷校尉に就任。いわば「帝都の警察トップ」にして「人事と粛清の実行人」だ。
このポスト、実務は地味だが影響力は抜群。罪人に死を与え、忠臣には昇進を与える。つまり鍾会の”好き嫌い”が、そのまま生死に直結する時代が始まった。
代表的な”粛清案件”が、名士・嵇康の処刑である。思想が異端視されたとか、人格が傲慢だったとか諸説あるが、真因は鍾会が訪問した際に無視されたことへの遺恨という説が根強い。
名士のメンツと策士のプライドが正面衝突すれば、結果は処刑あるのみ。清談どころか命すら軽く吹き飛ぶのが、この時代のリアルだった。
一方で、かつて王経の喪に服して投獄されていた向雄を、鍾会は獄中から引き抜き、自らの部下に登用した。
恩義を忘れず、利用価値がある者は即採用。この冷徹な合理性こそが、彼をただの策士ではなく”実務家の怪物”に仕立てていった。
西征の主将に抜擢された理由
景元三年(262年)、鍾会は「鎮西将軍」として関中全域の軍事を掌握し、十八万の兵を率いて蜀を討伐するという超大型プロジェクトの総司令に任命された。
これが単なる抜擢でないのは、彼がそれまで積み重ねてきた知略と人脈の結晶だったからだ。
とくに司馬師との初対面は伝説的だ。中書令・虞松が奏表を書いたものの、司馬師を満足させられず苦慮していた。そこに現れた鍾会が、たった五文字を手直ししただけで司馬師は大喜び。「これは只者ではない」と、ただちに注目される存在となった。
さらに司馬師と直接対面する際、「あの男は博識で明察、無所不通だ」と虞松から脅された鍾会は、十日間の籠城モードに突入。
準備万端で司馬師に挑み、一日中語り合った結果、彼の口からは「これはまさに王佐の才である」との賛辞が飛び出した。
裴松之はこの逸話を眉唾だと切り捨てるが、それでもこのとき鍾会が”言葉の力”でキャリアの扉をこじ開けたのは間違いない。
三路進軍の先鋒、蜀漢征伐の道
景元四年(263年)、ついに鍾会にとっての”大舞台”がやってくる。
司馬昭の号令のもと、魏は十八万の兵を三手に分けて蜀を攻める作戦を立てる。そのうちの十余万を預けられたのが鍾会。いわばメインである。
ルートは斜谷・駱谷・子午谷と三つも用意した、本気の攻勢で、まずは漢中の陽平関をガツンと突破。蜀軍が「え、そこもう突破されたの?」と目を白黒させる中、鍾会は平然と次のステップへ進む。
そして次にやったのが、同じ魏軍の諸葛緒を”吸収合併”する荒技。命令系統をムシして「その兵、うちで預かりますね」と、企業買収みたいなことを戦場で実行する。
こうして十八万の大軍は、実質ひとりの指揮下に入った。鍾会ワンマンショーの開幕である。
その合間に彼は、諸葛亮と蔣琬の墓を訪ねるが、もちろんこれは誠意でも感傷でもない。
「ほら見ろ、あんたらの後継者は今やこのオレに征服されてるぞ」
という、声なきマウント行為だ。征服者ってのは、相手の墓前でもドヤ顔できる奴のことを言う。
姜維との駆け引き、そして投降
蜀漢最後の砦・剣閣を守るのは姜維。かつての諸葛亮の後継者であり、北伐を繰り返してきた男が、今は山の要塞で踏ん張っている。
鍾会はこれを正面から攻め落とそうとはせず、あくまで包囲と説得で締めつける”攻めない圧力”戦術を採用した。追い詰められた獣ほど厄介なものはないと分かっているあたり、さすが計算高い。
だが、そんな攻防の裏で予想外の展開が起きる。鄧艾が大軍を率いて別ルートから強行突破、なんと成都に雪崩れ込み、劉禅を電撃降伏させてしまったのである。
最前線の姜維としては、「え、終わったの?」と肩透かしを食らった形だが、鍾会はこの瞬間を逃さない。「もうお前に戦う理由はないだろ」とばかりに説得を重ね、ついに姜維を投降させる。
このとき、鍾会は姜維と連名で蔣斌に書状を送り、蜀の降兵を穏便に扱うよう要請。これがただの温情ならまだしも、姜維を味方につけると同時に、自身の新たな”蜀での立ち位置”を整える布石でもあった。
外交と軍略を併せ持つ策士。その手腕は、山中での静かな一手にこそ表れている。
功績と栄誉の絶頂、だがその裏で
蜀を滅ぼした功労者として、鍾会はまさに名実ともに絶頂のときを迎える。司徒に任命され、自身は陳侯、子どもには関内侯の爵位が与えられた。三公の一角、そして軍事の最高指揮官。名実ともに「魏の顔」になった男、名刺の肩書きだけでA4用紙が埋まりそうな勢いである。
しかしその裏で、彼は着々と次の一手を仕込んでいた。標的は、あの”成都の功臣”こと鄧艾。鍾会は司馬昭に密書を送りつけ、「あの人、調子に乗って反乱起こしそうです」と、いかにも正義のふりしてチクったのだ。
司馬昭はすぐさま鍾会に逮捕命令を託す。先手を打った監軍・衛瓘が鄧艾の兵に司馬昭の命令を読み上げると、兵士たちは全員あっさり武器を捨て、鄧艾を囚車にぶち込んだ。さっきまでの英雄が、数分で囚人にクラスチェンジである。
しかし司馬昭も鍾会を完全に信用していたわけではない。念のため、鍾会の裏切りに備えて中護軍・賈充に兵を率いさせ、斜谷経由で楽城に駐屯。自らも十万の兵を引き連れて長安に陣取った。
つまり、鍾会は魏の英雄・鄧艾を排除したことで主役になったが、その瞬間から”次の標的”としてマークされ始めていたわけである。栄光の頂点に立ちながら、その足元はすでに崩れ始めていた。
叛逆への道と姜維との共謀と、最期の三日間
魏元帝景元五年(264年)正月十六日、鍾会は成都の蜀漢朝堂にて、魏の護軍、郡守、牙門騎督以上の武官と、蜀の旧臣たちを一堂に集めた。名目は「郭太后の葬儀」。だがその実、始まりは政変である。鍾会は太后の遺詔を掲げ、「司馬昭を討つ」と宣言。儀礼の場は一転、クーデターの舞台と化した。
鍾会はその場で全ての武官を拘束し、城内に幽閉した。「軍を完全に掌握した」と自信を深めた彼は、天下の主導権を狙って動き出す。構想は大きく二つ。一つは姜維に蜀兵を率いさせ斜谷を突破、長安を制圧し、鍾会本軍は洛陽を目指すという全面進軍案。もう一つは蜀地に留まり、自立政権を築くという地域独立路線。いずれも魏中央を揺るがす野心的な青写真だった。
だが、彼の目論見は早々に瓦解する。城内に閉じ込められた将軍・胡烈は食事の差し入れを装い、外にいる息子と連絡。軍の動揺を誘発する。『晋書』には異説もあり、監軍の衛瓘が病を装って城外に出て、諸軍と密かに連携を図ったともいう。
そして正月十八日、事態は急変する。城外の魏軍が突如として侵入、成都の府邸は混乱の渦に包まれた。兵士たちは一斉に反乱を起こし、鍾会と姜維は対応もままならぬまま討たれた。巻き添えとなった蜀の旧臣たちの名には、黄崇、張翼、譙秀らが並ぶ。
鍾会、享年四十。その知略と弁舌で政界と戦場を渡り歩いた男の最後は、わずか三日間の幻想だった。完璧に見えた計画は、味方すら信じ切れなかったことで瓦解し、知将の末路は誰からも救われない孤独な死で幕を閉じた。
評価と余波:賢人か策士か
鍾会の死は、政界と士人のあいだで大きな議論を呼んだ。賢才として惜しまれる声と、危険な策士として断罪する声が入り交じる中、評価は一様ではなかった。司馬昭はその非凡な才を認めつつも、「謀略に溺れ、自ら墓穴を掘った男」と結論づけていたという。
兄・鍾毓は生前から弟の野心に警戒を強めており、「火種を抱えているような男」と評していたと伝わる。一方で、その教養と人柄を惜しむ者もいた。向雄は鍾会の恩を忘れず、死後に喪服を着て弔意を示そうとしたが、「反逆者を悼むとは何事か」と非難を受け、弁明を迫られる騒動となった。
また、鍾会と激しく対立していた荀勖は、生前から彼を「机上の空論に酔う人物」と評し、死後もその影響力を払拭すべく、鍾会の名を政治の場から遠ざけた。互いに才を認め合いながらも、決して交わらなかった両者の因縁は、魏末の政治史に残る遺恨ともいえる。
最終的に鍾会は「野心に溺れた叛逆者」として処理されたが、同時に「時代が生んだ天才」として、密かに評価し続ける者も少なくなかった。その名は抹消されても、その議論は決して尽きることがなかった。
参考文献
- 参考URL:鍾会 – Wikipedia
- 陳寿『三國志』魏書・鍾会伝
- 裴松之注『三國志集解』
- 房玄齡等『晋書』鍾会伝
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