曹髦:司馬昭の専権に抗い、甘露の変で散った若き皇帝の悲劇【すぐわかる要約付き】

曹髦

1分でわかる忙しい人のための曹髦の紹介

曹髦(そうぼう)、字は彥士(げんし)、出身は曹魏皇族、生没年(241~260年)

曹髦は曹丕の孫として生まれ、若くして高貴郷公に封じられ、のちに司馬師の政変を経て魏の皇帝となった。 即位時は十三歳であり実権は司馬師にあり、司馬師死後も司馬昭に握られた。 成長すると曹髦は専権を深く憂え、自身の置かれた状況を潜龍詩で示した。 甘露五年(260年)に王沈、王経、王業を召して決起を宣言し、自ら宮人を率いて司馬昭討伐に向かったが、南闕下で賈充が指示した成済に刺殺され二十歳で崩じた。 死後は悖逆とされ民礼で葬送されたが、百姓はこれを悲しみ涙したと記される。 曹髦は詩文や書画にも優れ、短い生涯の中で強い気概と文化的才能を示した皇帝であった。

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曹髦の生涯を徹底解説!高貴郷公から即位と司馬師・司馬昭に翻弄された魏の四代目皇帝

曹髦の出自と即位

曹髦は文皇帝曹丕の孫で、曹霖の子として生まれた曹魏宗室の一人である。正始五年(244年)には郯県高貴郷公に封じられ、若いころから学問を好み、早くから才能を示していたとされる。

正始五年(254年)、司馬師は皇帝・曹芳を廃し、新たな皇帝を立てる段取りに入った。当初は彭城王曹据(曹操の子)を推す考えだったが、郭太后がここで待ったをかける。曹据は自分の夫の叔父にあたり、礼の上でよろしくないという、もっともらいい理由で強く反対したのである。

郭太后はさらに、皇統を絶やすわけにはいかないとして、文帝曹丕の孫である曹髦こそが明帝曹叡の後を継ぐにふさわしいと主張した。皇帝・曹芳を廃しておいて、血筋の話になると急に理屈が通ってしまう。

司馬師は太后の意見を受け、群臣を集めて太后の令を示し、協議の末に曹髦を明帝の後を継ぐ皇帝とすることを決定した。曹髦は太后から印綬を受けて即位し、元号は正元に改められる。このとき十三歳。才気はあっても、状況を選ぶ権利だけは、まだ与えられていなかった。

司馬師・司馬昭の専権強化

曹髦が即位したのち、司馬師は彼の資質を探ろうと鍾会に質問を投げかけた。すると鍾会は、文才は陳思王曹植に並び、武略は太祖曹操に匹敵すると持ち上げ、かなり良い評価を与えている。これが真心からの賛辞なのか、それとも当たり障りないヨイショなのかは、天のみぞ知る。

その後、毌丘倹文欽の乱が発生し、司馬師が出征したものの、途中の許昌で重病となった。兼中領軍の弟・司馬昭が見舞いに駆けつけたが、司馬師はそのまま許昌で死去していまう。曹髦は詔を出し、司馬昭を許昌の鎮守に任じたうえで、傅嘏には主力軍を率いて洛陽へ戻るよう命じた。

ところが傅嘏と鍾会は相談し、「どう考えても主力軍を握るのは司馬昭だよね」と結論づける。傅嘏がその内容を正式に上表すると、曹髦もそれを受け入れ、司馬昭が軍を率いて帰還することとなった。こうして帰ってきた司馬昭に対し、曹髦は大将軍に任じ、侍中を加え、都督中外諸軍、録尚書事を授ける。もはや名実ともに政権は司馬昭の手中にあった。

剣を履いたまま宮中に出入りできる「剣履上殿」の特権も許されたが、司馬昭はこれを辞退したという。が、辞退したところで権力の中身が減るわけではない。さらに諸葛誕の乱の際には、曹髦と郭太后をまるごと同行させ、皇帝を常に自分の視界に入れておくという徹底ぶり。こうして曹髦は政治的に、いや物理的にも縛られることとなり、司馬昭の専権はもはや磐石となった。

潜龍詩

四年春正月、寧陵県の井戸の中に二匹の黄龍が現れたという。『漢晋春秋』によれば、当時の人々はこれを吉祥、つまりおめでたい兆しと受け取った。だが、曹髦の反応はちょっと違っていた。

「龍というのは、本来、君主の徳を象徴するもの。なのに空にも昇らず、地にも現れず、井戸に出てくるだけって……これ、むしろ不吉なのでは?」と、至って冷静に分析する。そしてその心境を表すため、「潜龍の詩」を自ら作った。龍が潜むとは、すなわち時を得ず、志を果たせぬ己の姿。詩にかこつけて、皇帝としての無力感をにじませたわけである。

ところがこの詩を読んだ司馬昭は、面白くなかった。いや、面白いはずがない。この「井戸の龍」はどう見ても、誰かのせいで自由を奪われた象徴である。言葉を用いた静かな抵抗、あるいは皇帝らしい最後の抗議が「潜龍」だった。

甘露の変 前夜の密議

甘露五年(260年)、曹髦はもはや黙っていられなかった。専権を極めつつある司馬昭のもとで、皇帝という肩書きだけを残され、どんどん空気になっていく現実。
さすがに限界だった。そこで曹髦は、侍中王沈、尚書王経、散騎常侍王業の三人を呼び出し、憤りをあらわにこう言った。「司馬昭の野心なんて、通りすがりの人間でも知っておる。黙って頭を垂れて生きていくなんて耐えられぬ。今日こそ、朕が立ち上がるのだ。」

これを聞いた王経は、昔の話を引き合いに出して必死に止めた。魯の昭公が権臣の季氏を討とうとして失敗し、逆に国を失ったという話である。今の状況もそれにそっくりで、もう権力はすっかり司馬家のもの。都も地方もその言いなりになっていて、宮中には兵も武器もろくにない。こんな状態で無理に動けば、火に油を注ぐどころか、火の中に飛び込むようなものだと警告した。

だが曹髦は聞かなかった。懐から詔令の板を取り出して地面に叩きつけ、「もう決めたことだ。たとえ死ぬことになっても恐れはせぬ。いや、もしかしたら勝てるかもしれぬ」と言い切った。その姿はまるで、自分自身を鼓舞しているようでもあった。

こうして曹髦は、止めようとする者たちを振り切り、自ら討伐に出る覚悟を固めた。道理も勝算も見えない戦いに、それでも挑まずにはいられなかったのだ。

王経の説得は失敗に終わり、王沈と王業はそそくさと司馬昭に密告し、あちら側の準備は万端となった

甘露の変での曹髦の最期

甘露五年(260年)五月、曹髦は覚悟を決め、側近や従者ら数百人を率いて鬨の声を上げ、宮中から討伐に打って出た。しかも自ら剣を握り、なんと皇帝本人が先頭を歩くという本気の出陣である。無謀とも、勇敢ともつかぬ姿だが、それが彼の選んだやり方だった。

一行はまず東止車門で司馬昭の弟・司馬伷と鉢合わせになるが、曹髦の側近たちが強く叱責すると、司馬伷の兵はあっさり動揺し、そのまま散ってしまった。奇襲でもなく、脅しでもなく、ただ怒鳴っただけで散る兵たちという、なんとも情けないが、曹髦にとっては幸先のよい滑り出しだった。

勢いそのままに南闕下へ進軍すると、今度は中護軍・賈充の率いる兵が立ちはだかる。曹髦はなおも剣を振るい、後ろを振り返ることなく前へ進もうとした。

このとき、太子舎人の成済が焦って賈充に「どうすればいいですか」と指示を仰ぐと、賈充は冷たく言い放つ。「お前たちをここまで食わせてきたのは、この日のためだ。迷うな」 このセリフ、将来にわたって使い道がなさそうなほど冷酷である。

その言葉に背中を押された成済は、曹髦に突進して剣を突き立てた。刃は背中まで貫通し、曹髦はその場で倒れ、崩じた。わずか十三歳で即位した少年皇帝が、自ら剣を取り、そして刺し貫かれて終わる。あまりにも非情な幕切れである。

この報を聞いた司馬昭は「え、皇帝を殺しちゃったの?」と驚き、地に倒れて「天下は私をどう言うだろう」とつぶやいたという。いや、それを気にする余裕があるなら止めておけという話だが、こういう場面に限って人は妙に自意識過剰になる。太傅の司馬孚は駆けつけ、曹髦の遺体にすがって号泣した。

成済誅殺と魏のその後

曹髦が命を落としたのち、司馬昭はさっそく郭太后の名義で詔を出した。その内容は、「今回の件は皇帝の反乱である」と断じるもので、さらに前漢の昌邑王(武帝の子・劉髆)の例を引き、「皇帝の資格は剥奪、葬儀も庶人扱いで」と命じた。形式の整え方としては手慣れたものだが、内容は冷酷そのものである。

葬儀は洛陽の西北、瀍涧で執り行われたが、儀仗もなく、葬列もわずか。かつて「天子」と呼ばれた者の最後がこれである。昨日まで皇帝、今日から無名の屍という、あまりにも落差が激しすぎて、現場に集まった民の中には涙を流す者もいたという。

だが、いくら権力で押さえ込もうとしても、世論というのは思ったよりしぶとい。庶人扱いの処置には批判が噴出し、二十日もしないうちに司馬昭は対応を転換。今度は「成済が勝手にやったことだ」として、責任をすべて彼一人に押しつけた。そうして成済とその一族を大罪人として処刑し、「ケリはついた」としたのである。

その後、皇位が空席になってしまったため、司馬昭は曹魏宗室の一人・曹奐(曹操の孫、曹宇の子)を新たな皇帝として擁立した。これで「曹魏王朝」としての体面は一応保たれたが、実際の政治はすべて司馬昭のもとに集約されていった。形式だけは残して中身は空っぽ、そんな看板だけの王朝が出来上がった。

曹髦の才能と評価

曹髦は政争の渦中にあって苦しい立場に置かれていたが、その一方で詩や芸術に関しては非凡な才能を示していたと記録されている。まるで政治がダメだったぶん、内面に全振りしてしまったかのような、そんな文系型の皇帝である。

太極東堂にて群臣を招いての宴の席では、ただの飲み会では終わらなかった。曹髦は侍中の荀顗、尚書の崔贊・袁亮・鍾毓、中書令の虞松らとともに、礼典について熱い議論を交わしている。話題はなんと、夏の少康と漢の高祖(劉邦)の功績比較という高尚なもの。群臣が「やっぱ高祖でしょ」と言う中、曹髦は「徳の面では少康の方が上だ」と主張。翌日にはさらに議論を深め、最終的には群臣たちが納得したという。討論番組でも開けそうな弁舌のキレである。

『三国志』の陳寿は、曹髦について「幼い頃から才知に優れ、学問を好み、言葉を磨くことを尊んだ」と評価し、その風雅な姿勢は祖父・文帝曹丕に通じると評している。つまり、魏の王家に流れる「文化の血」は確かに彼にも受け継がれていた。

しかしその一方で、軽率で性急、そして怒りに任せて突っ走る性格があだとなり、自ら大きな災いを招いたとも書かれている。頭は切れる、心も熱い、だがブレーキがない。そんな曹髦の人生は、まるで未完成の詩のように唐突に終わってしまった。

参考文献

曹髦のFAQ

曹髦の字(あざな)は?

曹髦の字は彥士(げんし)です。

曹髦はどんな人物?

詩文と書画に優れ、気概の強い人物でした。専権を嫌い、自ら討伐に出ようとする強い意志を持っていました。

曹髦の最後はどうなった?

甘露五年に自ら司馬昭討伐へ出陣し、成済に刺されて崩じました。

曹髦は誰に仕えた?

曹魏の皇帝でしたが、実権は司馬師と司馬昭が握っていました。

曹髦にまつわるエピソードは?

潜龍詩を作り自身の境遇を暗示したこと、自ら出陣して討伐を試みたことが代表的な出来事です。

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