【1分でわかる】司馬師:司馬懿の長子、皇帝廃立と魏後期掌握の生涯【徹底解説】

司馬師

1分でわかる忙しい人のための司馬師の紹介

司馬師(しばし)、字は子元(しげん)、出身は河内温県、生没年(208~255年)
魏の大黒幕・司馬懿の長男として生まれ、冷静と豪胆を武器に後期魏の実権を掌握。
高平陵の変では弟の司馬昭が眠れぬ夜を過ごす中、本人は熟睡するという胆力を発揮し、曹爽一派を一掃した。
父の死後は大将軍として軍政を統べ、東興の戦いで敗れつつも責任を自ら負う懐の深さを見せ、合肥新城では敵を消耗させて大勝。
皇帝廃立の強硬策は毌丘儉・文欽の乱を招くも、巧みな作戦で鎮圧。
反乱平定直後、持病悪化で47歳にて死去。のち晋景帝、さらに世宗景皇帝として追尊された。

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司馬師を徹底解説!魏後期を制した冷静な策士の生涯

高平陵の変と兄弟の対比

魏の重臣・司馬懿と張春華の長男として誕生。幼い頃から理知的で、眉間に皺を寄せながらも冷静に相手の裏を読む癖があったらしい。
魏景初年間に散騎常侍に任ぜられ、中護軍へ昇進。人材登用では功績を無視して知人を推すことを嫌い、官吏の任免にも私情を挟まないという、ある意味“身内にも冷たい”スタイルを徹底していた。

転機は嘉平元年(249年)正月の高平陵の変。
父・司馬懿がクーデター計画を司馬師と司馬昭に打ち明けたその夜、弟の司馬昭は「兄さん、これ…マジで明日やるの?もし失敗したら俺たち首じゃ済まないよ…」と不安で一睡もできず。
対する司馬師は「うん、やるよ。じゃ、おやすみ」と布団に入り、いつも通り熟睡。豪胆というより、もはや図太い。
事前に密かに3千の死士を養成し、決行当日は司馬門を制圧、洛陽の中枢を押さえ、曹爽らを詰ませた。功により長平郷侯、食邑千戸を授かり、ほどなく衛将軍に昇進。

魏の政局は、この瞬間から司馬一族の色に染まり始める。

司馬懿死後の政権掌握

嘉平三年(251年)、魏の実質的支配者だった司馬懿が死去。後を継いだのは、長男の司馬師。
新たに撫軍大将軍となり、軍事・政治の両権を掌握する。
名目上の君主はあくまで魏帝だが、その玉座の背後には司馬師の影が常に揺れていた。朝廷の議論では最後の決定権をほぼ独占し、諸将や文官はその顔色をうかがう日々が続く。

冷静沈着な彼だが、時に非情な決断も辞さなかった。この頃、魏の軍政は完全に「司馬式マネジメント」に塗り替えられ、忠誠よりも実力を重んじる風潮が広がる。もちろん、能力のない者には容赦がないため、朝廷にはピリついた空気が漂った。

東興の戦いと敗北の責任

嘉平四年正月癸卯(252年1月30日)、司馬師は大将軍に昇進すると、呉が築いたばかりの堤防を叩き壊す遠征を決定した。
作戦会議で諸葛誕が出した案は「三路同時進撃で敵を牽制しつつ、精鋭部隊で一気に堤防を奪取」というもの。軽快で迅速な動きを狙った戦略だった。

だが、実際に動かしたのは司馬師だ。
彼は三路進撃の形は保ったものの、主力七万を率いて浮橋を架けるという重厚かつ時間のかかる作戦に変えてしまった。
その間に呉の諸葛恪は守備を固め、地形と堤防を活かした鉄壁の防御を敷く。魏軍は渡河だけで体力を消耗し、持久戦に引きずり込まれた。

やがて戦況は悪化し、魏軍は敗北。洛陽に敗戦の報が届くと、朝廷では諸葛誕、毌丘儉、胡遵ら前線将軍の処分論が沸騰した。
「全員降格」「いや罷免だ」と声が飛び交う、負け戦後の恒例儀式である。

しかし司馬師は一転、「これは私が公休(諸葛誕)の意見を軽んじた結果だ。諸将に罪はない」と断言。
ここでいう「軽んじた」とは、単に採用しなかったのではなく、策の核心「迅速攻略の要」を理解せず、形だけ真似て失敗したという自己反省を含んでいた。
結局、監軍だった弟・司馬昭の肩書きだけを軽く削り、他は配置換え程度で済ませた。

敗戦の責任を自ら認めたこの対応は、当時として極めて異例だった。
戦には負けたが、この一件で将兵の間に「この大将軍は部下を守る」という信頼が広まり、軍の結束はむしろ強まったのである。

合肥新城の戦いと戦略的忍耐

嘉平五年(253年)五月、呉の太傅・諸葛恪が二十万の大軍で合肥新城を包囲した。
洛陽の朝廷では地図を囲んで大騒ぎ。「次は淮水だ」「いや泗水だ」と憶測合戦が始まり、水路の要所すべてに兵を置く案まで飛び出す。
そんなことをすれば兵は薄くなり、敵を迎える前に自滅するのは目に見えている。

司馬師は冷ややかに切り捨てた。「諸葛恪は権力を握ったばかりで、一発の大手柄が欲しいだけだ。狙いは合肥新城一本」。
港や河口はいくつもあり、全てを守るのは愚策だと断言した。

そこで司馬師は、叔父の司馬孚を派遣し、二十万の軍を指揮させて合肥新城の防衛にあたらせる。
さらに鎮東将軍の毌丘儉と揚州刺史の文欽らが「今こそ出撃を」と願い出たが、司馬師はこれを退けた。
「敵は軽装で奥深くに入り、退路もない。今は高い城壁を築き、じわじわと兵の鋭気を削ることだ」。

そのまま数か月が経ち、呉軍は疲弊し、死傷は半数近くに達する。
司馬師は満を持して命令を下す。文欽に精鋭で退路を断たせ、毌丘儉らに後方から圧力をかけさせる二段構えだ。
退却を余儀なくされた諸葛恪は撤退戦で大敗し、一万以上の首を魏軍にもたらす結果となった。

この戦いで司馬師は、功を焦る誘惑を退け、あえて動かない道を選んだ。
勝機は待つ者にしか訪れない。それを自ら証明した戦いだった。

皇帝廃立と反発の火種

嘉平六年(254年)二月。洛陽の片隅で、政治ごっこの密談が始まっていた。
中書令の李豊と光祿大夫の張緝らが「司馬師を引きずり下ろそう」と相談する。
新しい大将軍には太常・夏侯玄の名が挙がったが、当人はその場にすらいない。
「俺、そんなこと言ってないけど?」と心の中で叫んでいたかもしれない。
計画はあっけなくバレ、一族もろとも処刑、夏侯玄もまとめて失脚する羽目になった。

この一件で司馬師の猜疑心はレベルアップし、今度は皇帝・曹芳に向けられる。
年を重ねても政務は二の次、後宮に入り浸り、学問は放り投げ。
儒者を侮辱し、優人と酒と色にまみれ、諫言した清商令の令狐景や清商丞の龐熙は処罰。
極めつけは、郭太后が母を亡くした際にも礼を欠いたことだ。

司馬師はこれらを“罪状リスト”として郭太后に上奏する。
「霍光にならって、曹芳を廃すべし」。
こうして同年九月、曹芳は高貴郷公に降格され、東海王曹霖の子・曹髦が玉座に座った。

ただ、この出来事は地方の有力武将たちにこういう印象を残した。
「皇帝ですら、司馬師がやめろと言えば終わる」。
毌丘儉や文欽の胸の奥で、まだ小さかった火がこの瞬間にくすぶり始めたのである。

毌丘儉・文欽の乱と鎮圧戦

正元二年(255年)正月、東の鎮東将軍・毌丘儉と揚州刺史・文欽は洛陽からの噂を聞きつけた。
「司馬師が皇帝を勝手に取り替えたらしいぞ」。
二人の頭に浮かんだのは怒り半分、恐れ半分、その末に兵を挙げるという無謀な選択だった。

彼らは自分たちの四人の息子を人質として東呉へ送り、呉の皇帝「孫亮」に「仲良くしましょう」とアピールする。
だが、肝心の呉は冷ややかで、援軍はほぼゼロ。
それでも二人は淮河を渡り、寿春から西へ進軍するが、洛陽にも許昌にも手が届かず、項県で足止めされてしまう。

その間、司馬師は冷静に包囲網を描いていた。
監軍の王基に命じて南頓で正面を押さえ、諸葛誕には豫州軍で寿春を攻めさせる。
さらに胡遵には青州・徐州の兵を率いて譙県と現代の商丘の間に布陣させ、敵の退路を断つ。

自らは主力を率いて汝陽に陣を構え、鄧艾には泰山の兵一万余を率いて楽嘉に進ませた。
この鄧艾軍、わざと弱々しく見せかけるのが任務である。
「おや、あそこなら勝てそうだ」と思わせれば勝ち、案の定、毌丘儉は文欽に「行け!」と出撃を命じた。

その瞬間を待っていた司馬師は大軍の騎兵を動かし、背後から文欽軍を急襲。
文欽は大敗し、毌丘儉は項県でその報を聞くと、城を捨てて逃走する。
慎県まで走ったところで河辺の草むらに身を潜めたが、地元民に見つかり、矢を浴びて最期を迎えた。
文欽は命からがら呉へ逃げ込み、魏に残った毌丘氏・文氏の一族は、ことごとく司馬師によって誅殺された。

病没と死後の追尊

閏正月、文欽の子・文鴦が奇襲をかけ、司馬師の陣営を混乱させた。
この時、司馬師の体はすでに限界に近かった。
もともと目に腫瘍があり、膿が流れ出るほど悪化していたが、戦場での衝撃と緊張で症状は一気に悪化。
ついには眼球が飛び出すほどの状態となり、病は急速に彼を蝕んでいった。

辛亥日(3月23日)、許昌で病没。享年47。
曹髦は素服で弔い、諡号を「舞陽忠武侯」とした。
その後、弟の司馬昭が晋王に封ぜられると「晋景王」と追尊され、さらに甥の司馬炎が即位すると「世宗景皇帝」と追号された。

司馬師は、魏末期から西晋成立への道筋は、彼の存在抜きには語れない。 乱世の駆け引きの中で彼が選び続けたのは、常に「勝つための手」だったが、その手は同時に自らの寿命も削り取っていたのである。

参考文献

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