【1分でわかる】高平陵の変:司馬懿が曹爽を失脚させ魏の実権を握るまで【徹底解説】

会議

1分でわかる忙しい人のための高平陵の変の紹介

高平陵の変(こうへいりょうのへん)は、中国三国時代の魏で249年に発生した政変。
大将軍曹爽と太傅司馬懿の権力争いの末、司馬懿が洛陽を制圧し、曹爽一派を排除・粛清した事件である。
この日を境に曹氏皇帝は傀儡化し、司馬氏が魏の実権を掌握。晋建国への道が開かれた。
皇帝曹芳が陵墓参拝で都を離れたわずかな隙を、老練な司馬懿が見事に突いた電撃作戦だった。

👉 もっと知りたい方は続きをご覧ください

高平陵の変を徹底解説!曹爽失脚から司馬懿政権誕生まで

政変の背景: 曹爽と司馬懿の二頭政治から対立へ

景初三年(239年)、魏の明帝・曹叡が崩じ、八歳の皇太子・曹芳が玉座に据えられた。
その背後に立つのは、大将軍・曹爽と太尉・司馬懿という二本柱であった。
曹爽は名将・曹真の子で、就任当初は年齢も実績も上の司馬懿に対し、猫をかぶったように恭順を装った。
しかし、この「父のように敬う」態度は、やがて権力という甘酒の香りに酔い、仮面の裏から牙をのぞかせることになる。

側近の何晏らが「権力は一度握ったら離すな」と焚きつけると、曹爽はゆっくりと舵を切った。
何晏、鄧颺、李勝、畢軌、丁謐といった面々を重用し、政務の中枢を私物化する。
さらに、司馬懿を太傅に昇格させるという「栄誉の外套」を羽織らせながら、その下に潜ませたのは軍権剥奪という冷たい刃であった。


弟の曹羲と曹訓を禁軍の要職に配置し、一族による武力独占体制を完成させる。
その姿は、玉座の横で皇帝の影を踏みつける舞台役者のようであり、儀仗を僭用し、明帝の愛妾を歌妓として侍らせることで、宮廷の光と視線を独り占めにしていった。
なお、当の皇帝はといえば、行事のたびに「今日も呼ばれただけ」のゲスト枠に座る日々であった。

権力争いの激化:曹爽の専権と司馬懿排除策

曹爽は軍制にも鋭く手を伸ばした。
夏侯玄を征西将軍に任命し、中護軍の席には司馬懿の長子・司馬師を置いた。
一見、名家同士のバランスを取ったように見えるが、その実、駒を配置する将棋の名人さながら、終盤の詰み筋を静かに描いていた。
正始六年(245年)八月、曹爽は中壘営と中堅営を廃止し、その兵を曹羲率いる中領軍に直轄させる。
これにより禁軍の中核はすべて曹一族の支配下となり、司馬懿の軍事的影響力は干上がった井戸のように失われた。

司馬懿は「先帝以来の旧制を破る」と声を上げたが、その響きは宮廷の高い壁に吸い込まれ、返ってきたのは沈黙だけであった。
こうして二頭政治の均衡は崩れ、政治の舞台は曹爽一人の独壇場となった。 司馬懿は表に出ず、時が熟すのを静かに待つだけだった。

司馬懿の隠退と偽病戦術:機会を待つ老獪な策士

司馬懿は、完全に政務の場から締め出され、ただの「飾り物」になっていた。
正始八年(247年)、彼は病を理由に辞職を申し出る。表向きは「老体には政務が重荷」という温厚な引退劇だが、実際は政治の嵐をやり過ごすための計算された退避だった。
表では杖をついて咳き込みながら退場、裏では軍略の地図を畳の下に隠し、次の一手を練っていたのである。

翌年、李勝が荊州刺史に任命され、その赴任前に司馬懿へ別れの挨拶に訪れた。
この時、司馬懿は「重病人役」を全力で演じた。声はかすれ、まぶたは半分閉じ、差し出された粥を口に入れては盛大にこぼす。
あまりの熱演ぶりに、李勝は「これはもう次の冬は越せまい」と確信し、曹爽も警戒を解くことになる。
しかし現実には、その裏で長男・司馬師と共に政変計画を練り、司馬師は三千人もの死士を密かに養っていた。
庭の置物に見えていた老人が、実は刀を研ぎ続けていた。この錯覚こそ、敵を油断させる最高の武器だった。

決行の朝:高平陵参詣を狙ったクーデター開始

正始十年(西暦249年)正月六日、洛陽の空気は鋭い刃物のように張り詰めていた。だが、その冷たさすらも上回る冷徹さを抱えていたのが司馬懿である。
少帝・曹芳が高平陵に参詣するこの日、曹爽兄弟と腹心たちは「儀式に過ぎぬ一日」と信じて随行していたが、実際には数年寝かせた爆弾の導火線が静かに燃えていた。


司馬懿と長男・司馬師、そして密かに育てた三千の死士は、宮内の司馬門に集結。武庫へ進む道すがら曹爽邸の前を通った時、督の厳世が楼上から弩を構えた。
しかし、門人の孫謙が腕を引き、「天下の形勢はまだわからぬ」と制止。たった一つの引き止めで、歴史は別のルートへ進むこととなった。
武庫を制圧した司馬懿は、皇太后郭氏の詔を掲げ洛陽城門を閉鎖、洛水の浮橋を確保。
司徒・高柔を仮大将軍として曹爽軍を接収し、桓範に中領軍を命じるが、息子の説得で辞退。この役は王観に回った。

曹爽の逡巡と降伏:誘降工作と洛水の誓い

城内を掌握した司馬懿は即座に奏上し、太后の名で曹爽兄弟の罷免を命じた。
詔が曹爽の手元に届くと、彼は恐怖と困惑で動けず、皇帝に見せることもできず伊水南岸で宿営。鹿角を作り、屯兵数千で防備を固めるが、決断には踏み切れない。
大司農・桓範は部下の制止を振り切り、魯芝・辛敞・楊綜らと共に出城して曹爽を説得。「皇帝を許昌へ移し、天下に檄を飛ばせ」と迫るが、曹爽は首を縦に振らない。
司馬懿は許允、陳泰、尹大目を次々と送り込み、「兵を退ければ爵位は保つ」と洛水を指して誓う。曹爽は一晩中迷い続け、ついに「権力は失っても侯爵として生きられるなら」と降伏を決断。自ら罷免を請い、罪を認めた。
兄弟は府邸に戻るが、その周囲にはすでに司馬懿の監視が張り付いていた。

密告と粛清:陰謀発覚から一族誅滅へ

正始十年(西暦249年)正月十日、洛陽の空はまだ冬の鋭さを残していたが、曹爽にとってはそれ以上に冷たい報せが舞い込んだ。
親しくしていた宦官・張当が捕らえられたのである。罪状は「宮女の横流し」。だが、取り調べの鉄鎚はその小罪で止まらなかった。
廷尉の拷問台で張当が吐き出したのは、三月に反乱を企てるという曹爽と何晏の名前だった。
司馬懿はここで一つ芝居を打つ。何晏本人に「この事件、君が捜査せよ」と命じたのだ。
何晏は「七家の関与を突き止めました」と胸を張る。しかし司馬懿は静かに、「まだ一軒、残っている」と切り返す。
その一軒とは何晏の家、つまり彼自身だった。部屋の空気が凍り付く中、何晏は即刻逮捕。
さらに桓範も、かつて「司馬懿謀反説」を吹聴した件を証言され、誣告反坐の法で死刑判決。
こうして曹爽、何晏、桓範らは処刑され、三族は根こそぎ滅ぼされた。
ただ一人、曹真の血だけは絶やさぬよう、孫の曹熙が新昌亭侯に封ぜられたが、それはあくまで「戦利品を飾るための保存標本」にすぎなかった。

政変の余波:曹氏衰退と司馬氏の台頭

この政変により、曹爽派は一掃され、曹氏宗室の勢力は急速に衰退。司馬懿は名実ともに魏の最高権力者となった。
かつて曹爽の側近だった魯芝、辛敞、楊綜、王基らも、見事なまでの方向転換で司馬氏政権に取り立てられた。
一方、曹爽を見捨てた負い目から蔣済は病に伏し、憂悶の末に没した。また、この一件が引き金となり、王凌や令狐愚は「曹芳は無能、司馬懿は独裁」と見て兵を挙げるが、これが後の寿春三叛の幕開けとなる。
さらに、夏侯玄が洛陽に召還されたことで、同族の夏侯霸は身の危険を感じ蜀へ亡命。魏の中枢は、確実に司馬氏の色に染まっていった。

後世への影響:晋建国への道と反乱の連鎖

高平陵の変は、単なる政敵排除では終わらなかった。曹爽一派の一掃によって、曹氏宗室は朝廷から骨ごと削ぎ落とされ、その権勢は二度と戻らなかった。
残された皇帝は、名だけの主権者。実権は司馬懿の掌中に収まり、その後は司馬師、司馬昭と血筋のリレーで継承されていく。ここに、晋建国への一本道が敷かれたのである。


もっとも、全員がこの新秩序に黙って従ったわけではない。王凌・令狐愚は「幼帝曹芳を廃し、曹彪を立てる」計画で兵を挙げ、これが寿春三叛の第一幕となった。
さらに、曹爽と縁戚関係にあった夏侯覇は、洛陽召還命令に怯え、郭淮の台頭にも不安を募らせた結果、魏を捨てて蜀漢へと亡命する。
一つの政変が、帝国の血管を伝って各地の反乱・離反を誘発していく様は、まるで血栓が飛び火して全身に梗塞を起こすかのようだった。
こうして魏は静かに、しかし確実に、司馬氏の天下に作り替えられていったのである。

参考文献

  • 『三国志』魏書・曹爽伝
  • 『三国志』魏書・諸夏侯曹伝
  • 『晋書』巻2・宣帝紀
  • 『晋書』巻1・武帝紀
  • 『資治通鑑』魏紀七
  • 裴松之注『三国志』魏末伝・魏略

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました