1分でわかる忙しい人のための蹇碩の紹介
蹇碩(けんせき)、字は不詳、出身は不明、生没年(?~189年)
蹇碩は後漢末の宦官で、漢霊帝に信任された人物である。中平五年(188年)に上軍校尉となり、西園軍元帥として袁紹や曹操ら八校尉を統率した。軍事的才能を評価されつつも、外戚の何進との対立を恐れて宦官たちと結託し、政治に深く介入した。
霊帝が病没する直前には、皇子の劉協を託されるほどの信任を受けた。霊帝死後、何進を先に誅殺して劉協を擁立しようとしたが、部下に計画を漏らされ失敗した。その後、劉辯即位後も権力維持を図ったが、宦官仲間の裏切りにより何進に計画が伝わり、誅殺された。
叔父の蹇圖は、曹操が洛陽北部尉だった頃に宵禁違反で棒殺されている。史家の范曄は「蹇碩は壮健で武略に優れていた」と評している。
蹇碩を徹底解説!霊帝に信任された宦官と大将軍何進との政争の行方
宦官としての台頭と西園軍の統率
中平五年(188年)、蹇碩は上軍校尉に任命された。彼は壮健で武略に優れていたため、漢霊帝から特別に信任され、西園軍元帥に抜擢されたのである。
この西園軍の設立の背景には、霊帝の病が重くなったため、宦官である蹇碩に劉協の補佐を託し、何進の軍権を分割する目的があった。
このとき、蹇碩の指揮下には袁紹や曹操ら八校尉があり、彼は司隷校尉以下の官職を監督するという極めて大きな権限を掌握していた。
※総称して、西園八校尉といい、蹇碩・袁紹・曹操の他に、淳于瓊・趙融・馮芳・夏牟・鮑鴻がいる。
蹇碩は大将軍何進の排除を考え、宦官仲間と協議し、霊帝に奏上して何進を西方へ派遣し、辺章や韓遂を討伐させるよう勧めた。この進言は容れられ、蹇碩は一時的に外戚勢力の影響を遠ざけることに成功した。
何進との対立と劉協擁立計画
中平六年(189年)、漢霊帝が病に倒れたとき、皇子の劉協は蹇碩に託された。これは霊帝が蹇碩を厚く信任していた証拠である。
霊帝の崩御後、蹇碩は外戚の大将軍何進を先に誅殺し、そのうえで劉協(後の献帝)を天子に立てようと計画した。
しかし、この計画は蹇碩の部下である司馬・潘隱によって阻止された。潘隱は何進と旧交があったため、目配せで計画を伝え、事前に警戒を促したのである。
その結果、蹇碩の企ては発覚し、実行に移される前に失敗に終わった。こうして劉辯(少帝)が即位することとなり、蹇碩の望んだ劉協擁立は実現しなかった。
失脚と最期
霊帝が死んで、劉辯が皇帝に座ったとき、蹇碩はまだ自分の立場を守れると思っていた。西園軍の元帥であり、宦官の中でも格上のままだった。だが欲をかいたのが運の尽きである。
彼は中常侍の趙忠や郭勝らと書簡を交わし、何進兄弟を消そうとした。
しかし、同じ宦官の郭勝が裏切った。理由は単純で、郭勝は同郡出身のよしみで何進に恩義を感じていたためだった。蹇碩の計画は何進に筒抜けになり、これで勝負は決まった。2度も救われる何進の友好関係も捨てたものではない。
さて、何進は黄門を送り込んで、蹇碩を始末した。いくら武略があっても、寝返り一つで終わるのが宮廷の掟である。蹇碩の兵はすべて何進の指揮下に収まり、彼の野望は泡と消えた。
この裏切りによって計画は発覚し、何進は即座に行動を起こした。彼は黄門を派遣し、蹇碩を捕えて誅殺したのである。
蹇碩の兵士たちはその後すべて何進の指揮下に移され、蹇碩が築いた西園軍における権勢は完全に失われた。こうして蹇碩は189年、政争の中で最期を迎えることとなった。
一族と逸話
『曹瞞伝』によれば、蹇碩の叔父である蹇圖は、洛陽北部尉であった曹操により棒殺されたと記されている。理由は宵禁違反であり、この事件は曹操の苛烈さを示す逸話として伝えられている。
また、『後漢書』の編纂者范曄は、蹇碩を「壮健で武略に優れた人物」と評している。しかし、その武略を政治闘争に活かすことはできず、結局は宦官勢力の内部対立と外戚との対立の狭間で命を落としたのである。
参考文献
- 参考URL:蹇碩 – Wikipedia
- 《後漢書·巻六十九·蹇何列伝第五十九》范曄著
- 《曹瞞伝》
蹇碩のFAQ
蹇碩の字(あざな)は?
蹇碩の字は史料に記載がなく、不詳です。
蹇碩はどんな人物?
蹇碩は体格が壮健で武略に優れていたとされています。
蹇碩の最後はどうなった?
189年に何進によって誅殺されました。
蹇碩は誰に仕えた?
蹇碩は後漢の第12代皇帝である漢霊帝に仕えました。
蹇碩にまつわるエピソードは?
霊帝は臨終に際し、皇子の劉協を蹇碩に託すほど信任していました。しかし、その信任を背景にした政争は失敗し、逆に蹇碩の命を縮める結果となりました。
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