1分でわかる忙しい人のための何進の紹介
何進(かしん)、字は遂高(すいこう)、出身は南陽宛県、生没年(?~189年)
何進は後漢末期の外戚で、 妹が霊帝に入内して皇后(何皇后)となったことで地位を得て、羊の屠殺屋出身から一転して、大将軍・録尚書事にまで昇り、慎侯に封じられた。黄巾の乱では大将軍として洛陽防衛を担い、政界の中心人物となった。
しかし、霊帝の跡取りをめぐり、宦官勢力・蹇碩との抗争に巻き込まれ、蹇碩を誅殺して一時的に軍権を掌握するも、優柔不断な姿勢が宦官全体を粛清するまでに至らなかった。さらに袁紹の勧めで地方の有力武将たちを都に呼び寄せたことで、董卓入京を招く原因を作り、自身は宦官に殺害された。
彼の死後、外戚何氏の勢力は急速に衰退し、代わって董卓が権力を掌握した。これは後漢の傀儡化と三国時代の混乱の始まりを告げる転換点であった。
何進を徹底解説!優柔不断が呼んだ宦官の反撃と董卓の台頭
外戚としての出世と地位の確立
何進は南陽宛県の屠羊戸、すなわち羊を屠って肉を扱う家に生まれた。身分は卑しかったが、同父異母の妹が後宮に入り貴人となり、霊帝の寵愛を受けたことで、一族は大きく栄達の道を歩むこととなった。
この後ろ盾によって、何進は郎中・虎賁中郎将・潁川太守などの官職を歴任し、宮廷内での地位を徐々に固めていった。
熹平四年(175年)、天下が干ばつに見舞われた際には、朝廷の祈雨儀式に参加したことが碑文にも記録されている。
さらに光和三年(180年)、妹が正式に皇后となると、彼は侍中・将作大匠・河南尹といった要職に任じられ、外戚として中央政界に確固たる地位を築いた。
黄巾の乱と大将軍就任
中平元年(184年)、黄巾の乱が勃発すると、何進は大将軍に任じられ、都亭に駐屯して兵を整え、洛陽を守る役を担った。張角の部下・馬元義の謀反を未然に破った功績で慎侯に封じられた。
翌中平二年(185年)、恩師である太尉楊賜が没した際には葬儀に参列し、師への礼を尽くした。さらに中平五年(188年)、洛陽に兵災が訪れるとの予言を受け、大将軍司馬許涼・假司馬伍宕の建議を容れて霊帝に奏上し、平楽観で四方の州郡兵による大規模な閲兵を実施することとなった。
この計画は皇帝の許しを得て四方の兵を率いる重任を担う。
肉屋の出からすれば、まさに夢のような「出世物語」であった。
蹇碩との対立と宦官排斥の計画
何皇后が大皇子の劉辯を、王美人が二皇子の劉協を生んだ。霊帝は「長子より弟にしよう」と言い出し、しかも病で寝込むと、小黄門の蹇碩に劉協を託し、西園八校尉を設けて大将軍何進の軍権を分割した。
ここで蹇碩は「よし、何進を消して劉協を立てれば俺がトップだ」と何進を除く方向へ舵を切る。
中平六年(189年)、蹇碩は宦官仲間と相談して「涼州の辺章と韓遂を討つため」と称し、何進を地方に追いやろうとした。
だが何進も完全に鈍感ではない。袁紹を徐州と兗州に派遣して兵を集めさせ、時間稼ぎに入った。
ちょうどその最中に霊帝が崩御する。
そんな矢先に霊帝が崩御。蹇碩は「今こそ」と宮中に呼び込んで殺す計画を立てたが、 司馬の潘隱が目配せで危険を知らせたため、何進は病と称して入らず、計画は頓挫する。
結果、劉辯が即位し、何皇后は皇太后として臨朝、何進は太傅の袁隗とともに輔政し、録尚書事を務めることになった。
何進は、天下が宦官を憎む風潮と、蹇碩が自らを害そうとした事実を背景に、まず蹇碩を除く決意を固める。
袁紹は何進の側近・張津を通して「この機に宦官を一網打尽にすべし」と勧め、何進はこれを容れる。 同時に汝南袁氏の名望を頼み、袁紹・袁術を厚遇し、逄紀・何顒・荀攸・鄭泰らの才士を近侍させて参謀団を整えた。
一方の蹇碩も黙ってはいない。趙忠・宋典に書簡を送り、「宮門を閉じて、何進を即刻捕らえて首を斬ろう」と再度勝負に出た。 しかし何進と同郷の中常侍の郭勝が裏切り、その策を退けて書簡をそのまま何進に伝えてしいまう。
こうして宦官側の策は失敗に終わり、何進は宦官弾圧を正当化する口実を得て、 黄門令に命じて蹇碩を逮捕・処刑し、その掌握していた兵を自らの統制下に収めたのである。
董重・董太后との確執
蹇碩を失脚させた後も、何進は権力闘争に巻き込まれていく。驃騎将軍・董重は、何進と双璧をなす勢力として台頭し、宦官たちは我先にとその側近に取り入っていた。
そんな中、朝政への介入を狙っていたのが董太皇太后(霊帝の母)である。
董太皇太后は朝政に干渉しようとしたが、現皇帝・劉辯の母の何太后がことごとく阻止したため、両者の関係は悪化する。 董太皇太后はついに「お前が威張れるのも、兄の何進のおかげだろ!董重に命じて、何進の首を取らせるなんて容易いものだ」と罵ってしまう。
これが致命的だった。
何太后はすぐに兄・何進に密告し、中平六年(189年)五月、何進は三公(太尉・司徒・司空)と連名で上奏し、董太皇太后が前中常侍夏惲らを使って州郡と結託し、財宝を蓄積していると非難した。 そして「蕃后は京師に留まれない」という漢家の慣例を理由に、董太皇太后を封地へ戻すよう求めた。奏上は認められた。
さらに何進は兵を起こし、董重の邸宅を包囲して捕らえ、免官のうえ獄に下した。董重はついに自殺に追い込まれた。
翌六月、董太皇太后は憂慮と恐怖の末に急死した。『資治通鑑』は憂怖による急死と記すが、『後漢書』は民間の噂として、何太后が謀殺したと伝えている。
この一連の事件は、宮廷の権力闘争が激化していくことを象徴するものであった。
※霊帝の父(劉萇)はもともと、河間王で後漢王室の一支系である河間劉氏の一人。
董氏はこの劉萇に嫁ぎ、後に霊帝となる劉宏を産みました。
つまり、董氏は「藩王の妻」であり、皇帝の母となったことで「皇太后」に昇格した。
漢の時代、 藩王の妻(王后)や側室は、中央(後漢時代は洛陽)に留まる理由が乏しいと見なされていた。
優柔不断な決断と外兵召集
蹇碩を倒し、董重を始末しても、何進の戦いは終わらない。
次の敵は、朝廷を蝕む宦官たちだった。
袁紹は何進に対し、皇帝の喪中を好機として兵変を起こし、一挙に宦官を掃討すべきだと進言した。しかし何進はまず何太后に話を通そうとする。「宦官を全員辞めさせ、代わりに三署郎を任命するのはどうか」と持ちかけるが、何太后は「先例がない。却下です」と首を横に振った。
次に何進は、特に勝手気ままに振る舞う宦官だけを誅殺する策を提案したが、舞陽君や弟の何苗が何太后のもとに入って諫め、彼女もこれを支持しなかった。何進自身も宦官を長年敬い恐れていたために、手を下せずにいた。
痺れを切らした袁紹は、次なる策を示す。
「地方から兵を呼び寄せ、宮中を包囲して、皇太后を脅せばいい」
何進はこの策に頷いたが、彼の側近である主簿の陳琳、侍御史の鄭泰、尚書の盧植らは揃って反対した。
「これは小さな火に油を注ぐようなもの。やがて火事では済まず、大乱へと発展するだろう」
しかし、その声は何進の耳に届くことはなかった。
やがて、命令が下り、前将軍・董卓、京へ進軍させ、王匡と鮑信には泰山で募兵を命じ、東郡太守の橋瑁は成皋に駐屯。丁原には孟津で火を放たせた。「宦官誅滅」の大義のもと、各地から兵が動き始めた。
それでも、皇太后は譲らなかった。弟の何苗が「今の何家の地位は、宦官の支えがあってこそ。和解すべきだ」と諫めがが、もはや言葉では止められないところまで来ていた。
この優柔不断の果てに開かれた扉から、董卓という災厄が入り込む。何進は決めきれなかった代償を、洛陽はまもなく血で払うことになる。
宦官の反撃と何進の死
何進は日ごとに宦官の誅殺に対して迷いを募らせていった。袁紹はこれを見て再び進言し、何進は彼を司隸校尉に任じて節を仮授し、専権を与えた。さらに従事中郎の王允を河南尹に任じた。袁紹は董卓の入京を促し、董卓自身も平楽観に駐屯する意を示したため、何太后は恐れて全ての中常侍と小黄門を罷免するところまで追い込まれた。
罷免された宦官たちは、のこのこと何進に泣きつきに来る。何進は「封地へ帰れ」と優しく追い返すだけだった。 宦官を徹底的に潰す一歩は踏み出せない。優柔不断の悪癖が、最後まで彼を縛っていた。 袁紹は「一網打尽」を再び迫ったが、何進は首を横に振った。 結局、袁紹が勝手に命令を偽造して宦官の家族を捕らえ、州郡官吏に宦官の家族を捕らえさせる。 宦官たちは大いに恐れ、張讓は関係者を通じて太后に取り次ぎ、宦官たちは再び宮中に戻ることを許された。
中平六年(189年)八月、何進は長楽宮で太后に宦官誅殺を訴えた。その会話を耳にした宦官たちは「全員殺す気だ」と悟り、張讓・段珪・畢嵐らは殿門に潜み、太后の召見を装って何進を呼び戻させた。 疑いを持たなかった何進は殿内に入った瞬間、張讓が現れ「恩を忘れた裏切り者」と罵り、尚方監・渠穆の剣が振り下ろされ、首が落ちた。
宦官たちはすぐに詔を偽造し、樊陵を司隸校尉、許相を河南尹に任命。尚書らが不審を抱いて理由を問うと、黄門が血まみれの首級を投げつけ、「何進は謀反を企て、すでに誅された」と叫んだ。こうして外戚の頂点に立った男は、まさに宮中の暗黒に呑まれて消えたのである。
何進死後の混乱と董卓の台頭
何進が宦官に殺害されると、宮中は大混乱に陥った。 部曲の呉匡と張璋は袁術らと共に皇宮へ突入し、何進の仇討ちを叫んだが、その刃の先にあるものは秩序ではなく、さらなる混沌だった。 宦官の張讓は少帝劉辯と陳留王劉協を連れて逃走し玉座は空席となってしまう。
盧植によって何太后は救い出され、袁紹と太傅袁隗は「詔」を偽って、宦官派の樊陵・許相を誅殺した。 さらに袁氏らと何苗は北宮に攻め入り、宦官たちを容赦なく斬殺する。
だが、呉匡らは日頃から何苗が何進と協調しなかったことを恨み、董旻と共に何苗を殺害した。 これによって外戚何氏は一気に力を失い、宦官の時代もまた終焉を迎えた。
しかし、権力の空白は新たな災厄を招いた。 前将軍の董卓が兵を率いて彼は洛陽に入り、皇帝を見つけ出し、「保護」の名のもとに朝廷を掌握したのである。 これ以降、漢朝の皇帝は董卓の傀儡と化し、王朝は事実上崩壊の道を歩み始めた。ここから群雄割拠の時代が幕を開け、三国時代への流れが決定的となった。
参考文献
- 参考URL:何進 – Wikipedia
- 《後漢書・何進伝》
- 《資治通鑑》巻五十九
何進のFAQ
何進の字(あざな)は?
何進の字は遂高(すいこう)です。
何進はどんな人物?
屠羊戸出身から妹の入宮を契機に大将軍まで昇りつめた外戚で、宦官を恐れながらも排斥を目指しましたが、優柔不断な性格で決断を誤り、政争に敗れました。
何進の最後はどうなった?
中平六年(189年)、長楽宮において宦官張讓・段珪らに暗殺され、渠穆に斬首されました。
何進は誰に仕えた?
後漢第12代皇帝霊帝に仕え、その死後は少帝劉辯の輔政を担いました。
何進にまつわるエピソードは?
宦官粛清を決断できず、外兵召集に踏み切った結果、董卓の入京を招き、後漢崩壊の遠因を作ったと評されています。
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