【1分でわかる】毌丘倹:高句麗を討ち文欽と乱を起こした魏の将軍【徹底解説】

毌丘倹

1分でわかる忙しい人のための毌丘倹の紹介

毌丘倹(かんきゅうけん)、字は仲恭(ちゅうきょう)、出身は河東郡聞喜県、生没年(226~255年)
若くして朝廷に仕え、明帝曹叡の信任を得て出世し、やがて高句麗遠征を成功させて魏の東北経営を確立した。
一方で、後年は司馬師の専横に抗して挙兵したが敗北し、最期は民に射殺されるという非業の死を遂げた。毌丘倹の生涯は、武勲と悲劇が交錯した魏後期を象徴している。

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毌丘倹の生涯を徹底解説!高句麗遠征の栄光と文欽と反乱を企てるが最後は非業の死を遂げる

早年と朝廷での台頭

黄初年間(220~226年)、毌丘倹は父・毌丘興の死去により爵位を継ぎ、高陽郷侯となった。
その後、魏文帝曹丕の下で平原侯文学掾に任じられ、続いて尚書郎・羽林監を務める。
尚書郎は中央の中枢、羽林監は禁軍を統率する職であり、若くして要職を歴任したことがわかる。

太和年間(227~233年)、曹叡が即位すると、毌丘倹はさらに信任を受けた。
洛陽典農に任じられた際には、宮殿増築を中止するよう上奏し、財政を憂う姿勢が評価された。
その結果、荊州刺史に昇進し、地方統治を任されることとなった。

幽州刺史としての任命と公孫淵討伐

明帝青龍三年(235年)、毌丘倹は幽州刺史に任じられ、度遼将軍・使持節・護烏丸校尉を兼ねた。
景初元年(237年)、彼は自らを燕王と称した公孫淵を討伐するために出陣したが、この戦いでは敗北を喫する。
しかし翌年、司馬懿と連携して再び公孫淵を攻撃し、ついに平定に成功した。
この功績により毌丘倹は安邑侯に封じられ、将軍としての名声を高めた。

高句麗征討と丸都の攻略

正始七年(246年)、毌丘倹は歩騎一万を率いて玄菟から出陣し、高句麗討伐を開始した。
最初の戦場は沸流水と梁口であり、魏軍は二度にわたり高句麗軍を大破し、号称二万のうち一万八千余りを斬った。
高句麗王・東川王は妻や千余騎を伴い、南沃沮へと逃走した。

毌丘倹はさらに丸都を攻略し、城内の官民数千人を殺戮した。
その後いったん退却したが、まもなく再度攻撃を仕掛け、東川王を買溝へと追いやった。
毌丘倹は丸都一帯に駐屯し、玄菟太守・王頎に沃沮への追撃を命じた。

王頎は軍を進めて竹嶺で東川王の残兵を壊滅させ、さらに北沃沮を越えて肅慎の国境にまで到達した。
一方、楽浪太守・劉茂と帯方太守・弓遵も別働隊を率い、かつて高句麗に従っていた濊貊の種族を討伐した。
彼らは不耐の濊侯を降伏させ、後漢初期に廃された臨屯郡の旧地を再び魏の版図に組み込んだ。

魏軍はこの過程で沃沮の邑落を破り、さらに三千余人を斬った。
東川王は部下の守りによって一隊の魏軍を撃退し、姿を隠すことに成功したが、国力は大きく損なわれた。

毌丘倹らは自ら戦功を石碑に刻み、凱旋した。
わざわざ自分で碑を建てて功績を残すあたり、後世へのアピールは万全である。
実際、この戦いは魏の東北経営を決定づけ、毌丘倹の軍歴を象徴する一戦となった。

百済の侵攻と魏軍の対応

正始七年(246年)、毌丘倹が高句麗を討伐していた同じ時期、百済の古爾王が楽浪郡・帯方郡を急襲した。
楽浪太守・劉茂と帯方太守・弓遵が応戦して百済軍を撃退したが、弓遵は戦死した。
魏の東北辺境は、このように複数の敵勢力から同時に圧迫を受けていたのである。

鎮南将軍から合肥防衛戦へ

嘉平年間(249~253年)、毌丘倹は左将軍・豫州刺史を歴任し、やがて鎮南将軍に昇進した。
嘉平四年(252年)、鎮東将軍・諸葛誕と防区を交代し、毌丘倹は揚州都督・鎮東将軍を兼ねることとなる。
この任地は呉と接する最前線であり、国境を直接防衛する重任であった。

嘉平五年(253年)、呉の諸葛恪が十万とも称される大軍を率いて合肥新城を包囲した。
合肥は長江流域を押さえる要衝であり、ここを失えば魏南部の防衛線が崩壊しかねない。
毌丘倹は文欽・司馬孚と力を合わせて守備にあたり、籠城戦を巧みに指揮した。

魏軍は堅固な城を盾に持ちこたえ、やがて呉軍は兵糧の欠乏から退却した。
この勝利によって毌丘倹は、単なる辺境防衛の将ではなく、帝国の防衛を支える柱石として評価を高めたのである。

文欽と共に反乱を企図

正始十年(249年)、高平陵の変によって曹爽が司馬懿に誅殺されると、旧曹爽派の文欽は大きな不安を抱いた。
その後、正元元年(254年)には、毌丘倹の友人であった夏侯玄と李豊が司馬師によって処刑される。
毌丘倹も自らの身に危険が及ぶことを恐れるようになった。

さらに子の毌丘甸が「司馬師に屈せず立つべし」と勧めたことで、ついに決意を固める。
正元二年(255年)正月、毌丘倹は文欽と共に寿春で挙兵し、司馬師討伐を掲げた。
四人の息子を呉に人質として送り、外援を得ようとするなど、反乱の準備は本格的であった。
しかし淮南の兵士の多くは家族を北方に残しており、士気は高まらなかった。

反乱の崩壊と毌丘倹の最期

正元二年(255年)、司馬師は自ら軍を率いて南下した。
諸葛誕・胡遵・王基を要所に配置して退路を断ち、さらに兗州刺史・鄧艾を泰山から楽嘉に進ませ、兵を弱く見せかけて誘いを仕掛けた。
これは毌丘倹・文欽をおびき出すための周到な計略であった。

文欽はこれに乗せられて軍を率いて出撃し、魏軍の待ち伏せに遭って大敗を喫した。
その報を聞いた毌丘倹は寿春を守りきれぬと悟り、城を棄てて夜陰に乗じて逃走した。
慎県に至る頃には従者も散り、毌丘倹は弟・毌丘秀と孫・毌丘重と共に草むらへ身を潜めた。

しかし間もなく平民の張属に発見され、射殺された。
その首は洛陽へ送られ、張属はこの功績により侯に封じられた。
毌丘秀・毌丘重・文欽は東呉に逃れ、残った兵はすべて魏に降伏することとなった。
反乱はこうして完全に潰え、毌丘倹の生涯もまた非業の最期を迎えたのである。

毌丘倹の死後と評価

毌丘倹の反乱後、一族は三族皆誅に処され、その家は断絶した。
ただし西晋が呉を滅ぼしたのち、遺族は中原に帰還し、毌丘宗・毌丘奥父子は晋の官僚として復帰している。
完全に絶えたわけではなく、時代が移れば再び立ち上がったのである。

史家の評価は割れている。
陳寿は「才識はあったが志が大きすぎ、宗族を滅ぼした」と厳しく批判し、習鑿歯は「忠臣として義に殉じた」と擁護した。
要するに、野心家と見るか、忠臣と見るかで毌丘倹の姿はまるで変わる。

功績と悲劇が極端に同居するその人生は、まさに魏後期を象徴するものだった。
毌丘倹は成功と失敗の両方で名を残した、数少ない将軍の一人である。

参考文献

毌丘倹のFAQ

毌丘倹の字(あざな)は?

毌丘倹の字は仲恭(ちゅうきょう)です。

毌丘倹はどんな人物?

辺境を切り拓き、高句麗遠征で大功を立てた将軍です。
一方で司馬氏に抗して反乱を起こし、悲劇的な最期を遂げました。

毌丘倹の最後はどうなった?

正元二年(255年)、文欽と寿春で挙兵しましたが敗北。
逃亡中に平民の張属に射殺され、その首は洛陽に送られました。

毌丘倹は誰に仕えた?

魏の曹叡・曹芳ら歴代皇帝に仕え、魏の将軍として活躍しました。

毌丘倹にまつわる逸話は?

占い師の管輅が毌丘家の墓を見て「二年以内に一族が滅ぶ」と予言したという話があります。
この予言は後に現実となりました。

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