【1分でわかる】司馬昭の生涯:蜀を滅ぼし晋の礎を築いた実力者の実像【徹底解説】

司馬昭

1分でわかる忙しい人のための司馬昭の紹介

司馬昭(しばしょう)、字は子上(しじょう)、出身は河内郡温県、生没年(211~265年)
魏の実権を牛耳った司馬懿の次男にして、後に晋王朝を築く司馬炎の父。すなわち「皇帝にはならなかった創業者」である。
若き日は蜀征討に副将として従軍、夜襲にも動じない胆力を見せた。父・兄の死後は朝廷を支配し、弑逆によって名実ともに実権を掌握する。
263年には鍾会・鄧艾らを率い、ついに蜀漢を滅亡させる大戦果を挙げ、三国統一の道を現実にした。
その死後、息子・司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国。生涯帝位につかずとも、彼こそが晋の”設計者”であった。

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司馬昭を徹底解説!皇帝に届かなかった男の”支配”

司馬家の次男坊としての出発と最初の蜀戦線

司馬昭は、司馬懿の次男として211年に生まれた。兄の司馬師が後継ぎとして確立していたため、彼自身は政治的にも軍事的にも”控え”の位置にいたが、239年、新城郷侯に封じられ、やがて散騎常侍に任命される。
244年、曹魏の重臣・曹爽が蜀への遠征を決定すると、司馬昭は征蜀将軍として夏侯玄の副将に任命される。この戦役は後に「興勢の戦い」と呼ばれる。

しかし、蜀の将軍・王平が魏軍陣営を夜襲するという事態が発生。王平は司馬昭の陣を襲撃したが、司馬昭は動じることなく寝床から出ず、結果として王平は退却した。この行動が胆力と見るか無警戒と見るかは分かれるが、少なくとも命拾いしたのは確かである。


その後、蜀の軍勢が費禕を前線に据えて防備を固めると、司馬昭は夏侯玄に「進軍しても交戦できず、攻めても成功しない。いったん撤退し、後日に備えるべきだ」と進言する。父・司馬懿からの手紙でも同様の意見が届いており、最終的に遠征軍は撤退を決定した。

だが、戦果がないままの帰還は評価されず、司馬昭はその後、議郎へと左遷されてしまう。撤退を正しく判断したにもかかわらず、若き日の彼にはまだ政治的な信用がなかった。ここが司馬昭の軍歴の始まりであり、魏の政軍中枢に本格的に関わる前段階である。

高平陵の変:司馬懿と共に曹爽を粛清

249年、後漢の政権中枢を揺るがす「高平陵の変」が起こる。主導したのは父・司馬懿。かつての盟友・曹爽を排除し、魏の政権構造を塗り替える一手だった。
この計画、実行の前夜になってようやく司馬昭に伝えられた。しかも様子を間者に見張らせる徹底ぶり。父としては息子の反応すら信用できなかったのだろう。案の定、司馬昭は眠れなかった。

兄・司馬師には事前に根回しされていたが、弟には報せがなかった。この構図は、当時の司馬家における”本命”と”控え”の差を如実に示している。

翌日、司馬懿は軍を動かし、曹爽の勢力を瞬時に制圧。曹爽は降伏を試みるが、一族もろとも処刑された。この粛清により、魏の実権は名実ともに司馬懿の手に落ちた。
司馬昭は、まだ政治の前線に立っていたわけではない。だが、この政変の”現場”に立ち会ったことで、以後の権力継承への道が静かに開きはじめる。

西方戦線と内乱対応:軍司令官としての司馬昭

高平陵の政変後、司馬昭は軍事現場でも頭角を現していく。まず、曲城の戦いでは安西将軍に任じられ、西方で勢いを増す蜀軍の動向に対処する。
このとき対峙したのは、蜀の辣腕・姜維。彼が麹(曲)で軍を展開すると、司馬昭は駱谷方面から軍を差し向け、間接的に圧力をかけた。結果、姜維は南鄭に撤退。彼の別動隊を率いていた句安も降伏し、魏軍にとっては十分な成果となった。

その後も、司馬昭は軍事面での責任を拡大していく。安東将軍・持節として許昌を守備し、さらに251年の王凌の乱では、父・司馬懿とともに淮北方面の軍を統括。寿春での軍事行動を成功させ、政局を安定させた。
この功績によって、封邑は増加、名実ともに魏の中枢に食い込むポジションとなっていく。軍務においても、徐々に「兄の陰にいた人」から「政権を支える主柱」へと移行する転換期だった。

皇帝廃立に関与:曹芳から曹髦へ

254年、蜀の姜維が隴西に現れたという報せが届く。司馬昭は征西将軍として長安へと派遣されたが、実のところこのときの”戦争”は戦わずして終わっている。
というのも、姜維の進軍は陽動で、実際には戦闘らしい戦闘も起きなかった。代わりに起きたのが、もう一つの”政変”だった。

新平郡で発生した羌族の叛乱を鎮圧した功績を手土産に、司馬昭は新城郷侯の地位を回復。さらに、兄・司馬師の皇帝・曹芳の廃位劇にも関与していく。表向きは”朝廷の意思”ということになっていたが、実際には司馬家の意向が強く働いた結果である。

その後、新たに擁立された皇帝・曹髦のもと、司馬昭は高都県侯へ昇進し、二千戸の加封を受けた。ついに”皇帝人事”という最高度の権力操作にまで手を染め始めたわけだ。
魏の君主は、もはや天命ではなく”司馬家の採用通知”で決まる時代に突入していた。

兄・司馬師の死と政権掌握の始まり

毌丘儉と文欽が挙兵した255年、兄・司馬師は討伐軍を率いて出撃。その間、司馬昭は中領軍を兼ね、都・洛陽の守備を任された。政変の火消し役として、弟は都を預かる形となった。
だが、戦いが終わると急報が入る。兄が許昌で重病に倒れたというのだ。司馬昭は急ぎ許昌へ向かい、兄の枕元で衛将軍への任命を受ける。

その直後、兄・司馬師は死去。すると皇帝・曹髦は、まだ十三歳の若さながら、反撃に出た。表向きには「司馬昭に許昌駐留を命じ、傅嘏(ふか)に大軍を率いて帰還させる」という名目だったが、実質的には政権の奪回を狙ったクーデター未遂である。

ところがここで司馬昭が上手だった。傅嘏と鐘会の進言を受け入れ、自ら兵を率いて洛陽に帰還。曹髦の目論見は潰えた。政変が起こされる前に、政変を完了させたのだ。

大将軍としての地位確立と九錫授与

政権を手中に収めた司馬昭は、次々と重職を手に入れていく。まずは大将軍、その上で侍中、さらには録尚書事といった官職を兼ね、まさに「官職のフルアーマー状態」である。
このときすでに、彼の命令は皇帝の詔と変わらない重みを持っていた。

そして何より象徴的だったのが、剣履上殿・不解佩・不脱履の三大特権である。平たく言えば「剣を差したまま宮殿に入り、靴も脱がなくてよい」というものだ。
これは”礼儀を無視していい”という意味ではなく、”君主と同格”という黙示だった。ついに司馬昭は、実質的に”皇帝未満・天子以上”の位置に到達したのだ。

さらに260年代には、高都県公に封じられ、領地は700里にも及んだ。そこへ加わるのが「九錫」である。これは天子が重臣に下す最高の恩典で、青銅の器から車馬、衣服、楽隊に至るまでフルセットが贈られる儀式的な”王者の前段階”だった。
これで司馬昭の立場は完全に固まった。名も権も、すでに魏の上にある。

諸葛誕の乱を平定:魏史最大級の反乱戦

256年、司馬昭の本気が世に知れ渡る戦いが始まった。
反旗を翻したのは、鎮東大将軍・諸葛誕。地盤の寿春に立てこもり、魏に真っ向から反逆したのである。司馬昭は自ら軍を率い、皇帝・曹髦も形式上は”共に討伐”という形で大義名分を整えた。

ところが、この内乱に乗じて呉もしゃしゃり出てくる。援軍として文欽、全懌、唐咨らが率いる十数万の大軍が寿春に突入。諸葛誕の十八万と合流し、籠城戦の構えを取る。対する魏軍は二十六万。人数では不利だが、司馬昭は焦らない。

彼はまず、包囲網を整える前に敵軍が突入してしまったことを逆手に取り、内部の消耗を誘導した。
「さらに援軍は来るぞ、もうちょい我慢すれば大丈夫」そんな嘘情報を流して希望を抱かせ、敵に無駄に兵糧を食わせる。
さらに精神攻撃として、降伏者を厚遇する姿勢を強調。すると案の定、諸葛誕の部下がぞろぞろ寝返りを始める。

内部の疑心暗鬼はピークに達し、とうとう諸葛誕は味方の文欽を自ら手にかける。だがその息子・文鴦と文虎はすぐに司馬昭に投降。今度は彼らを使って城の周囲で「降伏すれば許されるぞ」とアピール。
城内の兵士たちもついに弓を構えたまま矢を放たず、無言の「もうやる気ない」サインを出し始めた。

「よし、今だ」。そう判断した司馬昭は総攻撃を命令。魏軍は寿春へ突入し、ついに胡奮が諸葛誕を討ち取って乱は平定された。
敵の総兵力は三十万超。西方では蜀漢の脅威が依然として残る中、司馬昭はこれを真正面から撃破。まさに”少数で大軍を制す”の実演である。

戦後、彼は相国に推されたが、辞退。
だがこの時点で、名実ともに”魏を支配する者”として、誰もが彼の存在を無視できなくなっていた。

曹髦の討伐計画と弑逆事件

「司馬昭の心、路人皆知也」とは、司馬昭の野心は、通行人すら知っているという意味である。
誰が見ても「この男、いずれ魏を乗っ取る」と思っていた。
この言葉を残したのは、当時の皇帝・曹髦である。

260年、曹髦は臣下として権力を握る司馬昭に対し、ついに反旗を翻した。
操り人形のままで終わることを良しとせず、彼は自ら武装して立ち上がった。

とはいえ、同行したのは宮中の役人や侍従を含むおよそ三百人にすぎず、戦力としては極めて頼りなかった。
それでも自ら先頭に立った事実は、彼の覚悟と絶望を物語っている。

しかし、計画は事前に漏れていた。
司馬昭はすぐに軍を動かし、洛陽の東止車門で曹髦の一団を包囲した。
この場で中護軍の賈充が指揮を執り、部下の成済に命じて曹髦を戈で刺殺させた。
皇帝はその場で命を落とし、魏における前代未聞の弑逆が現実のものとなった。

司馬昭もさすがに皇帝殺しはまずいと思い、すぐにその成済を一族ごと処刑した。
命令を下したのは自分であるにもかかわらず、「暴走した部下の罪」として切り捨て、弑逆の汚名から逃れようとしたのである。

その後、あらかじめ用意していたかのように、従順な皇族・曹奐を新たな皇帝として即位させた。
名目上の体制は維持されたものの、魏の実権は完全に司馬昭の手に渡っていた。

この事件は単なる政争ではなく、明確な主君殺しである。
曹魏という王朝は、ここに至ってその正統性を根底から失った。

対蜀征伐を決行

260年に曹髦を弑逆した司馬昭は、政権掌握の正統性を取り戻す必要に迫られていた。
そこで彼が次に選んだのが、長年の宿敵である蜀漢への侵攻だった。

263年、魏は大規模な三方向侵攻作戦を展開する。
中路に鍾会、西路に鄧艾、東路に諸葛緒を配置し、漢中から蜀の心臓部を突く構えを取った。
蜀側は姜維が迎撃に立ち、名勝「剣閣」を盾にして鍾会とにらみ合いを続ける。
しかしこの膠着を破ったのは、鄧艾の思い切った行動だった。

鄧艾は険しい山道で知られる「陰平道」を踏破し、奇襲によって蜀の防衛線を突破。
綿竹で諸葛亮の子・諸葛瞻を破り、そのまま成都に迫る。
蜀の皇帝・劉禅はこれ以上の抵抗を断念し、降伏を選んだ。
ここに、蜀漢は完全に滅亡した。

司馬昭にとって、この戦役は単なる対外戦争ではなく、内政的にも極めて重要だった。
弑逆という負のイメージを帳消しにし、勝利によって実績と正統性を補強するという意味があったからである。
そしてその狙いは、完全に成功した。

反対派粛清と鄧艾・鍾会の処理

263年の蜀征服で最大の功績を挙げたのは鄧艾だった。
誰もが不可能と思った陰平道越えを成功させ、成都を落とし、劉禅を降伏させたのは紛れもなく彼である。
しかし、その直後に彼は「専断行動」や「傲慢な振る舞い」を理由に告発され、司馬昭の命で逮捕される。
護送中、現地の兵により殺害され、その最期はあまりにあっけなかった。
司馬昭が殺害を直接命じたわけではないが、結果的には功臣を消すという形になった。

さらに、蜀降伏後に成都を占拠した鍾会は、姜維と結託して反乱を画策した。
だがこれは準備不足と情報漏洩により失敗。鍾会と姜維はともに討たれ、動乱は短期間で終息した。

こうして司馬昭は、蜀征服の過程で台頭した有力武将たちを徹底的に排除し、
自らの政権にとって危険となる芽を早期に摘み取った。
軍功を立てた者が自立し、反旗を翻す前に手を打つという冷徹な判断だった。
この一連の処理により、司馬政権の基盤は盤石なものとなっていく。

晋王への昇進と「帝」同然の待遇

蜀を滅ぼして数ヶ月後の264年、司馬昭は魏の皇帝・曹奐から正式に「晋王」に封じられた。
同時に、名誉と権威の象徴とされる「九錫」も改めて授けられ、形式上は王でありながら、その待遇は皇帝そのものであった。

具体的には、十二旒の冕冠、天子の車服、天の神々への郊祀を行う権限など、
本来は天子だけが持つべき特権を次々に与えられていた。
その姿はすでに「魏の臣」ではなく、「魏を超える存在」となっていた。

同じ時期、魏の象徴でもあった魏の初代皇帝曹丕の妃「郭太后」が死去している。
これにより、魏王朝の精神的支柱も失われ、政権としての寿命は尽きかけていた。

司馬昭は皇帝の位こそ受けなかったが、魏の全機構は彼を中心に回っていた。
もはや「帝」ではないことのほうが不自然に見えるほどであった。

死と文帝への追尊:西晋の礎として

265年、司馬昭はその生涯を閉じた。
魏を滅ぼすことなく逝ったが、彼の路線はすでに不可逆の段階にあった。

その翌年、息子の司馬炎が魏の禅譲を受けて「晋」を建国し、初代皇帝として即位する。
これにより、三国時代は魏・蜀に続き、魏を継ぐ西晋の時代へと移った。

司馬昭は「文帝」として追尊され、廟号は「太祖」。
自らは帝位に就かなかったものの、王朝創設者としての位置は確固たるものとなった。

評価の二面性:弑君の悪名と治世の功績

司馬昭という人物は、常に両極端な評価を受けてきた。
一方では、皇帝・曹髦を弑殺した「逆臣」として歴史に名を刻み、他方では、三国の一角・蜀漢を滅ぼした「功臣」として、その実力と政治手腕を評価されている。

特に「司馬昭の心、路人皆知也」という言葉は、その野心と裏表のない政治姿勢を象徴する台詞として、後世にまで強い印象を残した。
この言葉はもはや諺となり、誰の目にも明らかな野望や意図を表す常套句として使われている。

後の晋王朝の基盤を築いた功績は確かであり、その後の安定政権に大きく貢献したのも事実である。
だが、弑君という行為の重大さは時代を超えて非難されてきた。

英雄か、悪党か。
司馬昭という存在は、いまなお評価の分かれる歴史上の問題児であり、
だからこそ語り継がれ続ける人物なのである。

参考文献

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