韓遂:七十余歳まで戦った涼州軍閥の最期【すぐわかる要約付き】

韓遂
韓遂

1分でわかる忙しい人のための韓遂の紹介

韓遂(かんすい)、字は文約(ぶんやく)、出身は金城郡、生没年(145年以前~215年)。
もとの姓名は韓約で、中平元年(184年)の涼州反乱で人質にされたことをきっかけに反乱軍へ加わり、やがて自らも大勢力を率いるようになった。

馬騰や馬超とともに朝廷や曹操と戦い、建安十六年(211年)の潼関の戦いでは曹操の離間策によって敗北した。
それでも七十歳を超えるまで勢力を保ち、建安二十年(215年)、金城方面へ逃れた末に西平・金城の諸将に殺され、首を曹操へ送られた。

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韓遂の生涯を徹底解説!人質から首領になり、朝廷に逆らい続けた不屈の男

金城郡の官吏から洛陽へ、何進に宦官の一掃を進言

韓遂は金城郡の出身で、もとの姓名を韓約、字を文約といった。
若いころは金城太守・殷華のもとで官吏を務め、殷華が亡くなると辺工・江英らとともに碑を建て、その功績を石に刻んでいる。

その後、韓約は命を受けて洛陽へ向かった。
すると大将軍の何進は以前から韓約の名を聞いており、金城からやって来た一介の官吏をわざわざ呼び出して直接会っている。

せっかく大将軍との面会まで用意された韓約だったが、そこで出した話が宦官の一掃だった。
しかも何進の妹は、宦官の助力によって后妃となった人物である。その兄を捕まえて、いきなり宦官をまとめて消せと迫るのだから、洛陽まで来て選んだ話題としてはだいぶ攻めている。

当然ながら何進はこの進言を受け入れなかった。
すると韓約は「こいつはダメだ、いずれ敗れる」と判断して、さっさと涼州へ帰還した。

人質から涼州反乱軍の中心人物へ

中平元年(184年)、涼州で羌族の北宮伯玉が反乱を起こし、西の果てが通常通り燃え始めた。
そこへ運悪く巻き込まれたのが、当時涼州従事を務めていた韓約である。涼州督軍従事の辺允とともに捕らえられ、そのまま人質として北宮伯玉一行に連れ去られた。

もちろん北宮伯玉も「もういいよ」となかなか二人を帰してくれない。
殺されるのを避けるため、韓約と辺允は反乱軍へ加わり、気がつけば北宮伯玉の軍師まで務める。昨日まで朝廷側の役人だった二人が、今日は反乱軍の作戦を考えていた。

しかも二人はそのまま反乱軍の中心へ入り込み、護羌校尉の泠徵、金城太守の陳懿まで攻め殺した。
朝廷もこれには万戸侯という懸賞を出して二人を追い始める。そこで辺允は辺章、韓約は韓遂へと改名した。

董卓・皇甫嵩ら朝廷軍と涼州で激突

中平二年(185年)、韓遂らの反乱を鎮圧するため、朝廷は董卓を中郎将とし、左車騎将軍の皇甫嵩を副将として涼州へ送り込んだ。
ところが皇甫嵩は何度か討伐に出ても成果を挙げられなかった。

すると宦官の張譲・趙忠らが「何回やっても勝てないし、金ばっかり使ってるじゃないか」と皇甫嵩を讒言する。
その結果、皇甫嵩は免職されてしまう。朝廷が身内で揉めている間にも、辺章・韓遂の勢力はさらに膨らんでいった。

今度は司空の張温を車騎将軍とし、假節を与えて討伐軍の総大将に据えた。
副将には執金吾の袁滂、さらに董卓を破虜将軍、周慎を蕩寇将軍として、その指揮下に入れる。

張温軍は諸郡から歩兵・騎兵あわせて十余万をかき集め、美陽に駐屯して園陵を守った。
これに対して辺章・韓遂も美陽へ進軍し、十万を超える朝廷軍を相手にしながら、一時は張温や董卓らを劣勢に追い込んでいる。

流星を不吉と見て撤退、追撃した周慎を逆に破る

同年十一月、空に長さ十余丈にも及ぶ流星が現れ、その光景に韓遂・辺章の軍馬まで驚いた。
二人も「これはどう考えても縁起が悪い」と受け取ったらしく、さっさと金城へ退くことにした。

その動きを見た董卓は好機と判断し、翌日には右扶風の鮑鴻らと兵を合わせて攻撃を仕掛ける。
韓遂・辺章軍はここで大敗し、数千人を斬られながら楡中へと逃げ込んだ。

張温はさらに周慎へ三万人を与え、そのまま敗走する韓遂らを追わせた。
ここで参軍事の孫堅が「城の中には大した食糧もない。こちらが一万人で補給路を切るから、周慎が主力で退路を塞げば終わりだ」と進言する。

ところが周慎は、このなかなか分かりやすい作戦を採用せず、そのまま楡中城を包囲した。
すると韓遂・辺章は葵園へ兵を分け、今度は逆に周慎軍の補給路を遮断する。包囲していたつもりが、いつの間にか自分たちの飯が届かなくなっていた。

これでは戦いどころではなく、周慎は戦車や輜重まで捨てて撤退することになった。
美陽では董卓に敗れた韓遂らだったが、追ってきた朝廷軍には補給線を突いて逆襲し、周慎を退けている。

辺章・北宮伯玉らを殺し十万の軍勢を掌握

中平三年(186年)春、韓遂はここまで行動をともにしていた辺章、北宮伯玉、李文侯をまとめて殺害した。
昨日の仲間は今日の敵。こうして反乱軍の主導権を握った韓遂は、十余万もの兵を率いて隴西へ進出する。

翌中平四年(187年)、涼州刺史の耿鄙が「そろそろ韓遂を何とかしよう」と討伐に乗り出したが、どうにもならなかった。
それどころか隴西太守の李参まで朝廷に反旗を翻して韓遂と結び、最後には討伐する側だった耿鄙のほうが殺されてしまう。

さらに耿鄙の司馬だった馬騰まで反乱に加わり、漢陽出身の王国は「合衆将軍」を名乗った。
韓遂らはこの王国を盟主に担ぎ上げ、その指揮のもとで三輔へ侵攻し、各地を略奪して回った。

人質として反乱軍に引き込まれた韓遂だったが、それからわずか数年で、十万を超える兵を動かすまでになっていた。

陳倉を八十日余り包囲するも、敗北から内部分裂へ

中平五年(188年)、韓遂らはそのまま陳倉へ進み、王国を中心とする軍勢で城を包囲した。
これに対して朝廷は左将軍の皇甫嵩と前将軍の董卓を送り込み、それぞれ二万の兵を率いて討伐に当たらせた。

王国軍は冬から翌春まで八十日余りも陳倉を攻め続けたが、これだけ粘っても城は落ちなかった。

やがて王国軍が撤退を始めると、皇甫嵩はすかさず追撃に出ようとした。
董卓は「追い詰めた敵は死に物狂いで向かってくるから、やめたほうがいい」と反対したが、皇甫嵩は「いや、もう疲れ切ってるし、やる気もない」と判断してそのまま攻撃に踏み切った。

結果は皇甫嵩の読み勝ちで、王国軍は追撃を受けて大敗した。
そして負けた責任を問われた王国は、韓遂らによって盟主の座から引きずり下ろされる。

韓遂らは今度は、かつて信都令を務めていた閻忠を捕らえ、「次はお前が盟主だ」と新たな指導者に据えようとした。
しかし閻忠はこれを恥じ、憤りのあまり病死した。

こうして新しい盟主までいなくなり、反乱軍の中では主導権争いが激しくなっていく。
そのうち仲間同士で殺し合うようになり、配下の兵も次々と離れ、涼州の反乱勢力は大きくまとまりを失っていった。

馬騰・韓遂連合軍、長平観で李傕軍に敗北

董卓が政権を握っていたころ、韓遂と馬騰は董卓との関係を保っていた。
初平三年(192年)に董卓が殺されると、二人は軍勢を率いて長安へ向かい、韓遂は鎮西将軍、馬騰は征西将軍に任命された。韓遂はその後、金城へ戻っている。

興平元年(194年)三月、韓遂は再び馬騰と手を組んで兵を挙げ、長安へ進軍した。
これを迎え撃ったのが、李傕のもとにいた郭汜・樊稠らである。

両軍は長平観で激突したが、韓遂・馬騰軍は大敗し、一万余人を斬られた。
味方していた左中郎将の劉範や前益州刺史の种劭も戦死し、韓遂と馬騰は涼州へ退却した。

樊稠はそのまま逃げる韓遂を陳倉まで追撃した。
すると韓遂は同じ涼州出身であることを持ち出し、「今回争ったのは別にお前が嫌いだからではない。朝廷をめぐる事情でこうなっただけだし、また会うこともあるだろう」と話し合いを求めた。

樊稠もこれに応じ、ついさっきまで殺し合っていた二人は馬を寄せ、腕を重ねるほど近い距離で長々と語り合ってから別れた。
戦場では敵でも、話が済めば普通に別れる。このあたりの切り替えの早さが韓遂の特徴である。

ところが、この会談があとで樊稠の命取りになる。
韓遂と親しく話していたことで、樊稠は密かに通じているのではないかと李傕に疑われ、のちに殺害されることになった。

馬騰との義兄弟関係が崩れ、関中で対立

長平観で敗れた韓遂と馬騰は涼州へ戻り、興平二年(195年)には李傕らと講和した。
韓遂は安羌将軍、馬騰は安狄将軍に任命され、その後も関中の有力勢力として活動を続けた。

曹操が河北で戦っていたころには、関中まで荒れると面倒なので鍾繇を長安へ送り、韓遂や馬騰との関係を整えようとした。
二人も曹操側と一定の関係を結び、建安七年(202年)には韓遂が征西将軍、馬騰が征南将軍となり、ともに開府を許されている。

建安十三年(208年)、長年の同盟関係にあった馬騰と韓遂の間に、ついに決定的な亀裂が走る。
もともと二人は異姓兄弟の契りまで結んでいたが、涼州で育った血は敵を探し、互いの部曲同士がいざこざを起こし、それが拡大して本人たちの私怨へと変わっていった。
義兄弟の契りもあっさり形骸化し、韓遂はついに馬騰の妻子を殺害するという最悪の一手を打つ。この時点で両者は完全な仇敵となり、関中は再び血の嵐に包まれた。

曹操はこの混乱を見逃さず、鍾繇と韋端を派遣して二人の仲裁に当たらせた。
馬騰は前将軍に昇進して假節を与えられ、槐里侯に封じられて槐里へ移った。

さらに張既から軍勢を手放して朝廷へ入るよう勧められると、馬騰は一度ためらったものの、自らの年齢も考えてこれを受け入れた。
そして建安十三年(208年)の年末、鄴へ赴くことになる。

馬超から「父」と仰がれ、反曹連合を結成

建安十六年(211年)、曹操は司隷校尉の鍾繇と夏侯淵に、漢中の張魯を討つため関中を通って進軍するよう命じた。
ところが関中の諸将からすれば、曹操軍が大軍を連れて家の前を通る時点で十分に怖い。「張魯を殴りに行くだけです」と言われても信用できず、韓遂や馬超らは一斉に反発した。

韓遂の配下では、閻行が以前から「もう曹操に降ったほうがいい」と帰順を勧めていた。
自分の父を朝廷へ送り、さらに韓遂にも子を人質として差し出すよう求めるなど、かなり本気で曹操との和平を進めようとしていた。

しかし韓遂は聞かなかった。
しかも関中の諸将が示し合わせたわけでもないのに、みんな揃って曹操に反発している。韓遂はこれを見て「これはもう天意だろう」と考え、降伏するどころか反対方向へ全力疾走し、挙兵を選んだ。

そして、ここで手を組んだ相手が馬超である。
馬超は韓遂に対し、「鍾繇は以前、私に将軍を討てと言ってきた。もう関東の連中は信用できない。だから私は実の父を捨てて、あなたを父と思う。あなたも自分の子を捨てて、私を息子と思ってくれ」と申し出た。
実父の馬騰はこの時まだ生きている。それでも馬超は、父と殺し合った男を新しい父に指名した。

こうして韓遂と馬超は反曹操で手を結び、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋らも加わった。
合わせて十の勢力が曹操に反旗を翻し、その兵力は十万に達する。

さらに百頃の氐王・千万、興国の氐王・阿貴らまで呼応し、反曹操の火は関中から周辺の氐族へと広がっていった。
馬騰と義兄弟になり、その妻子を殺しているのに、その息子から父と呼ばれる。韓遂はまたしても、どうしてこうなったのか説明しづらい巨大連合軍の中心に立っていた。

曹操との旧交が、馬超の疑念を招く

建安十六年(211年)九月、韓遂・馬超らは渭南で曹操軍と対峙していた。
関西軍は何度も戦いを挑んだが、曹操はまともに付き合わず、やがて韓遂らは土地の割譲と人質の差し出しを条件に講和を申し入れた。

曹操はこの申し出をどう料理するか賈詡に相談する。
賈詡の答えは簡単で、「とりあえず受け入れて、そのあと仲違いさせればいい」というものだった。

その講和交渉で、韓遂は曹操と馬上で直接会談することになった。
ところが曹操は韓遂の父と同じ年に孝廉へ推挙され、韓遂本人とも昔から付き合いがある。戦場で再会した敵将同士なのに、話題は軍事ではなく都にいたころの昔話へ流れ、二人は手を打って笑い合った。

韓遂の後ろには閻行が控えていたが、曹操はその閻行にまで「孝行することを忘れるな」と声をかけている。
戦争の真っ最中なのに、韓遂との会談だけ親戚の集まりみたいな空気になっていた。

そして韓遂が戻ってくると、当然ながら馬超らは「曹操と何を話していた」と問いただした。
これに韓遂は「何もない」と答える。あれだけ長々と話して笑い合っておいて、何もないは少々無理がある。

敵軍の総大将と楽しそうに昔話をして戻ってきたうえ、その内容を尋ねられて「何も話していない」と答えたのだから、馬超らが韓遂を見る目も変わってくる。
こうして賈詡が仕掛けた離間は、韓遂自身の受け答えまで利用する形で、じわじわと効き始めていった。

離間策にはまり、連合が崩壊

曹操は韓遂と馬超らの疑念をさらに膨らませるため、数日後に韓遂へ一通の書簡を送った。
しかも普通の手紙ではなく、わざと書き直しや塗り消しを入れ、まるで韓遂が都合の悪い部分を後から消したように見える細工までしていた。

当然、これを見た馬超らの疑いはさらに深くなり、韓遂が裏で曹操と通じているのではないかという疑念が連合軍の中へ広がっていった。

こうして韓遂と馬超らの間に亀裂が入ると、曹操はようやく決戦に出た。
まず軽装の兵をぶつけ、その後から精鋭の騎兵を投入して関西軍を挟撃する。仲間割れしたところへ本隊を叩き込むという、賈詡の離間策がそのまま戦場で形になった。

韓遂・馬超らは大敗し、成宜や李堪らが戦死した。
韓遂と馬超は涼州へ、楊秋は安定へ逃れ、十万の兵を集めた反曹操連合は曹操に正面から叩き潰される前に、まず内側から崩されていった。

夏侯淵の追撃を逃れ、七十余歳で迎えた最期

潼関で曹操に敗れた後も、韓遂はそのまま勢力を失ったわけではなかった。
建安十九年(214年)には顕親に駐屯し、なお多くの兵を率いて抵抗を続けていた。

このころ馬超は張魯から兵を借りて北へ進み、祁山を包囲した。
救援に向かった夏侯淵は張郃に歩騎五千を率いさせて先行させ、馬超を敗走させると、続いて顕親にいる韓遂へ狙いを変えた。

韓遂は夏侯淵が迫っていることを察して逃走したが、夏侯淵は略陽城まで追撃し、その距離を三十余里まで詰めた。
しかし韓遂軍には長離の羌族が多く加わっていたため、夏侯淵は本人を追いかけるより、帰ってこなければならない理由を作ることにした。

夏侯淵は長離の羌族の集落を襲い、その家族を狙った。
これでは逃げ続けるわけにもいかず、韓遂が軍を返してくると、夏侯淵はそこを迎え撃って韓遂軍を大破した。

それでも韓遂は生き延び、建安二十年(215年)には金城の羌族のもとへ逃れ、郭憲を頼った。
しかし今度は西平・金城の諸将である麴演・蔣石・陽逵・田楽らに殺害され、その首を曹操へ送られている。

一方、『典略』では韓遂は病死し、その後に首を斬られたと記されている。
同書によれば、韓遂が兵を率いて反乱を続けた期間は実に三十二年。七十余歳になるまで涼州で戦い続けた男の長すぎる反乱人生は、ようやくここで終わった。

韓遂の評価

曹操は閻行への書簡で韓遂について、「文約(韓遂)のやることを見ると、笑ってしまう。これまで何度も手紙を送り、言うべきことは何もかも伝えてきた。それなのに、こんなことをいつまで我慢できようか」と述べている。
韓遂の行動に対する、曹操の呆れと苛立ちがそのまま表れた言葉である。

荀彧は関中の情勢について、「十数人の将帥がいるものの、互いにまとまっておらず、その中では韓遂と馬騰が最も強い」と曹操に説明している。
さらに両者には恩徳を示して懐柔し、曹操が山東を平定するまで動かさないようにすべきだと進言しており、韓遂が関中で無視できない勢力だったことがうかがえる。

韓遂は人質として反乱軍に加わったはずなのに、その後の人生を見るとなぜか戦う相手が途切れない。
仲間だった者と争い、昨日まで敵だった者と手を組み、そこからまた新しい敵を作る。三十二年にわたって反乱を続けた韓遂は、とにかく敵に困らない人生だった。

ほかの人物も見てみる→人物一覧

参考文献

韓遂のFAQ

韓遂の字(あざな)は?

韓遂の字は文約です。もとの姓名は韓約でした。

韓遂はどんな人物?

涼州の反乱で人質にされた後、反乱軍の中心人物となり、七十歳を超えるまで涼州・関中で勢力を保った人物です。

韓遂の最後はどうなった?

建安二十年(215年)、金城方面へ逃れた後、西平・金城の諸将に殺害され、首を曹操へ送られました。一説では病死後に首を斬られたともいいます。

韓遂は誰に仕えた?

もとは後漢の涼州従事でしたが、北宮伯玉の反乱軍に加わり、のちに独自勢力を率いる軍閥となりました。

韓遂にまつわるエピソードは?

建安十六年(211年)、馬超から「父」と仰がれ、ともに曹操へ反旗を翻しました。

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