楊任(ようじん):陽平関で曹操軍の夜襲に斬られた張魯配下の武将

一般武官2

楊任(ようじん)とは?張魯配下として陽平関に臨み、曹操軍の夜襲で戦死する

楊任(ようじん)、字は不明、生年や出身地も分かっていない。
後漢末、漢中を支配した張魯に仕えた武将である。

建安二十年(215年)秋七月、曹操は張魯を討つため陽平関まで進軍した。
張魯は弟の張衛と楊昂、楊任を陽平関の守備に送り、曹操軍を迎え撃たせる。張衛は数万の兵で関を守り、十万の曹操軍を三日間も食い止めた。

攻めても落とせない曹操は、ついに撤退を決断する。
曹操本人を帰らせるところまで来たのだから、張魯軍としてはもう少しだけ頑張ればよかった。

ところが曹操が帰ろうとしたところで、張魯軍の守備が崩れた。
曹操はこの機会を逃さず、高祚らを密かに送り込み、険しい地形を利用して夜襲を仕掛ける。正面から三日攻めても落ちなかった陽平関は、曹操が諦めた後になって落ちた。

張魯軍は大敗し、楊任もこの戦いで曹操軍に斬られた。
曹操軍はさらに張衛を攻撃し、張衛らは夜のうちに逃走。張魯も軍勢が崩れると巴中へ逃れた。

参考文献

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