張衛:陽平関で曹操を撤退寸前まで追い込んだ張魯の弟

一般武官2

張衛の生涯:張魯の弟として現れ、陽平関で戦い仙人伝説を残した男

張魯の弟・張衛と漢中での立場

張衛(ちょうえい)、字は公則(こうそく)、沛国豊県の出身、生没年は不明。
後漢末の漢中を支配した張魯の弟で、祖父は五斗米道を開いた張陵、父はその教えを継いだ張衡である。
張衡の死後は兄の張魯が教団を受け継いでおり、張衛も五斗米道を継いできた家に生まれた。

五斗米道は後に天師道と呼ばれるようになり、張魯の代には益州や漢中で多くの信者を抱える勢力へ成長していた。
そんな一族の中にいた張衛だが、平時に何をしていたのかはほとんど記録が残っていない。兄は漢中の支配者、弟は史書の隅で待機中という、なかなか出番の回ってこない立場だった。

ところが建安二十年(215年)、曹操が漢中へ侵攻すると、その張衛がいきなり表へ出てくる。
曹操軍が迫ると、兄の張魯は漢中を挙げて降伏しようとした。ところが弟の張衛は反対し、数万の兵を率いて陽平関へ立て籠もった。

兄は降伏へ進み、弟は徹底抗戦へ進んだ。
しかも張衛が選んだ相手は曹操軍である。ようやく史書の表舞台へ出てきたと思えば、いきなり険しい道を選んでいた。

陽平関で曹操を撤退寸前まで追い込む

張衛は数万の兵を率いて陽平関を固め、曹操軍を迎え撃った。

本伝では、曹操が張衛を攻め破り、そのまま蜀へ入ったと簡潔に記されている。
ところが別の記録を見ると、張衛はそれほど簡単に敗れたわけではなかった。

『魏名臣奏』に収められた董昭の上表によれば、曹操は涼州従事や武都から降伏した者たちから、張魯は攻めやすく、陽平関の南北の山も離れているため守り切れないと聞かされていた。
ところが張衛が守る陽平関まで来てみると、話がまるで違う。
曹操は「他人の見積もりは、思い通りになることが少ない」と嘆いたという。

曹操軍は陽平関周辺の山上に築かれた張衛側の陣を攻撃したものの、なかなか落とすことができず、多くの兵が死傷した。
さすがの曹操も意気消沈し、山を遮断して撤退することを決める。
そして夏侯惇と許褚に命じ、山上にいる兵を呼び戻させた。天下の曹操でも、張衛の防備を正面から崩すことはできなかった。

ところが前軍がまだ戻らないうちに、妙なことが起こる。
夜道で迷った曹操軍の兵が、よりによって張衛の陣へ入り込んでしまったのである。
普通なら迷子になった側が困るところだが、なぜか張衛軍のほうが退散した。

後方にいた辛毗と劉曄は、官軍がすでに張衛側の重要な陣を占拠し、敵兵も逃げていると夏侯惇と許褚へ知らせた。
二人はすぐには信じなかった。そりゃそうである。さっきまで攻めても落ちなかった張衛の陣が、撤退を始めた途端に落ちましたと言われても、何の冗談だという話になる。
そこで夏侯惇が自ら前方へ出て確認し、曹操のもとへ戻って状況を報告した。曹操は再び軍を進め、今度こそ陽平関の攻略へ動いた。

楊曁の上表にも、張衛との戦いに苦しんだ曹操軍の様子が記されている。
曹操は十万の軍勢を率いて自ら現地で指揮し、住民の麦を軍糧として利用したが、地形があまりにも険しく、精鋭の兵や猛将をそろえていても十分に力を発揮できなかった。
張衛軍と三日間対峙した末、曹操はとうとう撤退を決断した。

このとき曹操は「三十年かけて築いてきた軍勢を、ここで一度に失ってしまってよいものか」と語り、これ以上の攻撃を避けようとしたという。
張衛は数万の兵で陽平関を守り、十万の曹操軍を三日間食い止め、曹操本人に撤退を決断させるところまで追い込んだ。
ところが撤退が決まった後になって張衛側の守備が崩れ、正面から攻め続けても突破できなかった陽平関を攻略されることになる。

一方、『世語』には異なる経過が記されている。
こちらでは張魯が五官掾を曹操のもとへ送り、すでに降伏しようとしていたが、張衛だけはこれに従わなかった。
張衛は山を横切るように陽平城を築いて抵抗し、曹操軍の前進を阻み、ついには軍糧まで尽きさせて撤退寸前まで追い込んだという。

これに対して西曹掾で東郡出身の郭諶は、張魯はすでに降伏しており、使者がまだ戻っていないだけで、従っていないのは張衛だけなのだから攻撃できると主張した。
さらに、ここまで深く入り込んだ以上、進めば必ず勝てるが、退けば危険だとして撤退に反対する。
もっとも曹操は、この意見を疑っていた。勝てると言われて本当に勝てるなら、最初から張衛の守る陽平関を落としている。

そしてその夜、曹操がどうにもできなかった張衛の陣へ数千頭の野生の鹿が突入し、勝手に陣営を破壊し始めた。
さらに高祚らが張衛軍と偶然遭遇し、兵を集めるため太鼓や角笛を盛んに鳴らした。

これを聞いた張衛は、曹操の大軍が攻め込んできたと思って恐れ、そのまま降伏したという。
正面から十万の曹操軍を食い止め、撤退まで決断させた張衛だったが、最後に防衛線を崩したのは曹操の猛攻ではなく、迷い込んだ敵兵と数千頭の野生の鹿だった。

昭義将軍となった張衛と仙人伝説

陽平関の戦い以後の張衛については、史料によって結末がきれいに分かれている。
逃走した、曹操へ降伏した、曹操軍に斬られたという記録がある一方、『漢天師世家』では張衛の人生はまだ終わっていない。

『漢天師世家』によれば、張衛はその後も生き延び、昭義将軍となった。
ところがせっかく将軍まで上りながら、今度は官職を捨てて道を学び始め、最後には白昼にそのまま天へ昇り、そのまま仙人となったと記されている。

逃走、降伏、戦死、そして昇天。どれが張衛の最期なのかは史料によって違うが、最後の最後まで行き先だけはずいぶん多い人物だった。

参考文献

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