【1分でわかる】陳寿の生涯と三国志の誕生:史家としての功績と評価【徹底解説】

陳寿

1分でわかる忙しい人のための陳寿の紹介

陳寿(ちんじゅ)、字は承祚(しょうそ)、出身は巴西郡安漢県、生没年(233~297年)
蜀漢から西晋にかけて活躍した歴史家で、『三国志』の著者として知られる。若くして譙周に学び、史書の教養を深める一方、蜀漢では権力者黄皓に屈せず、何度も左遷された。
蜀の滅亡後は晋に仕え、張華の推薦で佐著作郎などを歴任し、『蜀相諸葛亮集』の提出を契機に官途を進める。
やがて三国それぞれの歴史を編纂した『三国志』六十五篇を完成。
だがその筆致は公平を旨とする一方で、父が馬謖に連座した経緯から諸葛亮父子に厳しい記述を残すなど、私情の影も垣間見える。
死後、『三国志』は范頵の請願により採録され、後世に広く読まれる歴史書として評価された。

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陳寿を徹底解説!『三国志』を書いた男の光と影

陳寿の原点:譙周の薫陶と若き日の学び

陳寿は、蜀の巴西郡安漢県で生まれた。若い頃から勉学に励み、地元の碩学・譙周に師事したことが彼の人生を大きく左右することになる。譙周は『春秋』や『漢書』に通じた大知識人であり、その教えを受けること自体が選ばれた者の証だった。

当時の同門には、李密や文立といった才人たちが名を連ね、陳寿はその中でも特に「子游・子夏」に喩えられるほど、卓越した才能を持っていたと伝わる。これは単なる誉め言葉ではない。子游も子夏も、孔子の高弟として知られ、学識と指導力を兼ね備えた存在である。つまり、将来を約束された秀才という評価だった。

陳寿は『尚書』『春秋』『漢書』『史記』といった史書を徹底的に読み込み、知識を積み重ねていった。その姿勢は徹底しており、知識をため込むことが目的ではなく、いかに活用するかを意識していたことが後の仕事に繋がっていく。

だが、この時点では彼はまだ一介の書生にすぎない。才知はあれど、世の中にどう受け入れられるかは別の話である。学問の力が政治の場で通用するとは限らないことを、彼自身、後々思い知ることになる。

黄皓に屈さず:蜀漢官僚時代の苦悩と挫折

若くして学識を備えた陳寿は、やがて蜀の政府で観閣令史という職を得る。これは国の記録や文書に携わる重要な役職で、彼の才能を活かすにはうってつけの場だった。
しかし、そこには一つの難関が待っていた。名を黄皓という、当時の蜀漢政権で絶大な権力を握っていた宦官の存在である。

黄皓は皇帝を取り巻き、政治を私物化する存在だった。多くの役人は彼の機嫌を取り、出世や安泰を買っていたが、陳寿は全くと言っていいほど尻尾を振らなかった。いや、むしろ真っ向から無視して職務に励む。だが、そんな正義感が通じるほど、当時の官界は甘くなかった。

当然のように、黄皓の逆鱗に触れた陳寿は、何度も譴責を受け、職を追われる事態に陥る。能力があっても、政治の風向きに背を向ければ、組織の中で居場所を失う。それが現実だった。

だが彼は屈しなかった。賄賂も忖度も拒み、自らの信念を曲げることなく蜀漢という国の終わりを見届ける。挫折とも見えるこの経験こそが、後の『三国志』に通じる「私情を排した記録」の根底を支えていたのかもしれない。

蜀の滅亡と仕官の転機:張華との出会い

景耀六年(263年)、蜀が滅亡する。
黄皓に嫌われ、閑職をたらい回しにされていた陳寿にとって、これはむしろ仕切り直しの好機だったかもしれない。
政権交代に伴い、人生もリセットされる。そんな都合のいい物語が、現実に起きた。

泰始四年(268年)三月、晋の皇帝「司馬炎」が華林園で蜀の元臣下たちを集めて宴を開いた。
「使える人材はいないか」と問うたその場で、羅憲が名を挙げたのが、常忌、杜軫、寿良、高軌、呂雅、許国、費恭(費禕の子)・諸葛京(諸葛亮の孫)、陳裕、そして陳寿(ちんじゅ)の十人である。
全員が後に晋で登用され、それぞれ名を成していく。

そして、この声を拾ったのが、晋の司空・張華である。
彼は陳寿の筆力を高く評価し、「これは国の記録を任せられる人物だ」と、孝廉に推挙。佐著作郎に任じ、さらに地方官の陽平令にも抜擢した。

かくして、蜀の片隅で”使いづらい男”だった陳寿が、晋では”使いどころのある逸材”となる。必要なのは才能より、理解者だと教えてくれる展開である。

諸葛亮集と著作郎の任官:筆が道を開いた瞬間

晋に仕えた陳寿は、ひとつの”勝負原稿”を仕上げる。
その名も『蜀相諸葛亮集』。あの諸葛亮の遺文を収集・編纂し、朝廷に提出したのだ。
内容は、政策の草案から君主への進言、軍事戦略にいたるまで、知略まみれの仕事文書集。

この一冊が高く評価され、陳寿は正式に著作郎に任命される。
文書作成と歴史記録のプロ。ようやく「書くこと」が職業として認められた瞬間だった。

内容もさることながら、このタイミングで「諸葛亮」という名を使ったのが上手い。
蜀の亡霊ではなく、文化的遺産としての再評価。これはもう、名士の再就職支援制度。

蜀で不遇を囲った筆が、晋の宮廷でようやく切っ先を持った。
一介の元官吏が、諸葛亮の”編纂者”という肩書を得る。この経歴の効力は絶大だった。

史書への野心:『三国志』という壮大な挑戦

官僚生活の裏で、陳寿は着々と”本命”に取りかかっていた。
魏・呉・蜀、それぞれの歴史をまとめた『三国志』全65篇。
これは単なる記録ではない。歴史を”誰が、どう描くか”という力の闘いでもあった。

司馬遷の『史記』、班固の『漢書』を意識しつつ、時代の乱れと人間の業をどう残すか。
ただでさえ前例のない三国並立の時代、その編纂はパズルというより、爆弾処理に近い。

陳寿は魏から記し、呉を経て、蜀で締める構成を選んだ。これには政治的配慮も見え隠れするが、それ以上に筆者としての冷静な距離感がある。
故郷の蜀を最後に持ってくるあたり、どこか”照れ”のようなものさえ漂う。

しかもこの記録、内容がドライで簡潔。人情も涙もない。だがそこがいい。
余計な演出を排した筆致が、かえって人間のリアルな矛盾を浮かび上がらせる。
脚色よりも事実を、賞賛よりも検証を。そういう信念が行間から滲んでくる。

中立性を問われた筆先:批判と私怨のあいだ

『三国志』のなかで不在が目立つ人物がいる。
曹丕の寵臣だった丁儀・丁暠兄弟だ。政治の中枢にいたにもかかわらず、陳寿は彼らに一行たりとも伝記を割かなかった。

この”無視”は当時から波紋を呼び、「子孫に賄賂を要求したが断られた腹いせ」だの、「立伝を請われたが断ってやった」だの、尾ひれのついた噂が飛び交う。
実際には兄弟ともに処刑され、子孫も不明。ゆえに裏付けのない話ではあるが、「なぜ書かれなかったのか」という疑問だけは今も尾を引いている。

もう一つ、筆先の”私情”を疑われたのが、諸葛亮とその息子・諸葛瞻への評価だ。
蜀の英雄・諸葛亮に対して、「戦略家ではなく、用兵には才がない」とバッサリ。
その息子・瞻には「書道は得意だが中身がない」と、まるで能書家止まりの扱い。

ただこれには、陳寿自身の家庭事情が絡んでくる。彼の父は馬謖の配下で、諸葛亮に連座して髪刑(髪を剃る刑罰)にされた過去がある。
さらに、諸葛瞻にも軽く見られていた節がある。

個人的因縁と公的記録。その線引きが曖昧なまま、文字は残された。
公平を旨としたはずの筆致が、時に冷酷さや執念深さとして映ってしまうのは、こうした背景を知ってしまった読者の業かもしれない。

官途の暗礁:荀勗の妨害と長広太守の辞退

晋の重臣・張華は、陳寿を中書郎に推挙しようとしていた。
だが、ここで横槍を入れたのが政敵・荀勗である。

理由は二説あり、一つは張華への嫉妬のとばっちり、もう一つは『三国志』の内容が気に食わなかったからという。
どちらにせよ、荀勗は吏部に圧力をかけ、陳寿には中枢ではなく地方官の「長広太守」という閑職が宛がわれた。

陳寿はこの人事に対して「母が高齢なので辞退したい」と表向きは丁寧に断ったが、実際は荀勗の陰湿な介入を見抜いていた可能性がある。

しかし、この冷遇に終わらず、後に杜預が荊州に赴任する際に改めて司馬炎に陳寿を推薦。
これによって、陳寿は御史治書に任命され、再び中央に返り咲く。

母を葬る場所で降格:母の葬儀と譙周の予言

陳寿の母は「死んだら洛陽に葬ってくれ」と言い残した。息子としては当然、最期の願いを叶えたかった。
彼はその通りに洛陽へ墓を立て、故郷の巴西には戻さなかった。

ところがこれが火種になる。「なぜ地元に帰葬しなかったのか」と批判が噴出し、不孝者のレッテルを貼られてまさかの降格。
現代人からすれば「親の意志に従ったのに?」と思うが、当時の儒教的価値観では”郷土回帰こそ孝”という見方が根強かった。

この件を思い出すたび、陳寿の頭をよぎったのは、かつて譙周が語った言葉だろう。
「お前は才で名を立てるが、必ずや誹りと挫折にも遭う。それは不幸ではない。むしろ慎み深くあれ」

実際に彼は二度も職を追われ、そのたびに静かに耐えた。そして、後年には太子中庶子に任命されるが、ついに職を辞退し、赴任することはなかった。

仲間たちとの確執:友情と裏切りの狭間

王崇、壽良、李密、陳寿、李驤、杜烈という六人は、梁州・益州の若き俊才として共に洛陽へ入った。
彼らは一時代を担う文士の卵として、都でも名を知られる存在となっていく。

当初は互いに尊重し合い、友情を深めていた。特に壽良・李密・陳寿・李驤・杜烈の五人は親密な関係だったが、やがてその絆に綻びが生じる。
政治的立場や名誉欲が絡み、徐々に疎遠となり、最終的には中傷の応酬にまで発展してしまった。

なかでも陳寿・壽良・李驤の三人は互いを誹謗し合い、その激しさは周囲も引かせるほどだった。
この争いに対して、李密はあくまで中立の立場を貫き、それぞれの功罪を公平に評して厳しく批判した。

ただ一人、王崇だけがこの泥仕合から距離を保ち続けた。
その穏やかな人柄と分け隔てのない対応により、五人全員との友情を最後まで保ち通した。

人間関係は時として剣よりも鋭い。
だが、その中にあって一貫して”人”であろうとした王崇の姿が、かえって浮き彫りになるのだった。

『益部耆舊伝』と地方史への情熱

巴の記録だけでは弱い。
漢の記録だけでも物足りない。
それが陳寿の正直な感想だった。

だから彼は、一つにまとめた。
巴と漢、二つの地域を統合して、ひとまとまりの地方史として再構成する。
散らばった記憶を編み直すことで、後世に伝わる力を持たせたかったのだ。

その試みが『益部耆舊伝』、全十篇である。
この労作を散騎常侍・文立が朝廷に上奏し、晋の武帝・司馬炎はすぐにそれを評価。
地元の逸材たちを記録した地味な一書が、皇帝に賞賛される結果を生んだ。

都で名を上げるために必要だったのは、才覚でも献策でもなかった。
地方の歴史を、まとめて持っていくことだった。

『古国志』と歴史への情熱:死してなお残る筆の力

陳寿は晩年、もう一冊の大部な歴史書に取り組んでいた。
『古国志』、全五十篇。失われた国々の記録を掘り起こし、風化しかけた歴史を繋ぎ直す作業だった。

なぜ古国なのか。中央の視線が向かない、忘れられた存在。
それこそ陳寿が追い求めた”記すべきもの”だったのだろう。

そして元康七年(297年)、陳寿は六十五歳でこの世を去る。
だが彼の筆は死ななかった。梁州大中正の范頵が、晋の皇帝に上奏したのだ。
「この『三国志』は、戒めに満ち、教訓に富み、風俗の是正にも資する」と。

この請願によって『三国志』は正式に採録され、後世に残されることとなる。
書いた本人が知らぬところで、その仕事は”国家の記録”として定着していった。

文が残るとは、こういうことだ。命より長く、思いより深く、読む者を導き続ける。
陳寿の筆は、確かにそういう筆だった。

後世の評価:公平な筆と時に厳しい舌

夏侯湛は、自身も『魏書』を著した歴史家だった。
だが陳寿の『三国志』を読むや否や、その原稿を破り捨てて筆を置いた。
「これには勝てない」と。

張華もまた、陳寿に「本朝の史書も彼に任せるべきだ」と高く評価した。
唐代に至っては、房玄齢らが「班固・司馬遷の後を継ぐ者」とまで称している。

一方、そんな絶賛の陰で、批判の火種もくすぶっていた。
丁儀・丁暠兄弟に立伝しなかった件では、「賄賂を求めて断られた腹いせだ」との噂が流れる。
諸葛亮父子への記述もまた、「父の仇を恨んだ筆だ」と言われた。

もちろん、それらの中傷が事実とは限らない。
だが、陳寿の文章が鋭く、時に痛烈だったのは間違いない。
彼の筆は、称賛と同じだけの反発も呼び込んだ。まるで鏡のように。

それでも、彼の史書は読み継がれた。削られ、写され、論じられ、千年を越えて今も生きている。
毒にも薬にもなる文章を残せる者が、いったいどれだけいるだろうか。

参考文献

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